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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2011年12月31日土曜日

ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』 その1


書名: 『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』
THE SHOCK DOCTRINE  THE RISE OF DISASTER CAPITALISM
著者: NAOMIM KLEIN
訳者: 幾島幸子・村上由見子
出版社:岩波書店

Copyright ©2007 by Nomi Klein
First published 2007 by Metropolitan Books,
This Japanese edition published 2011 by Iwanami Shoten,Publishers,Tokyo
by arrangement with Naomi Klein
2011年9月8日第1刷発行

ショック・ドクトリンとは、
「惨事便乗型資本主義 = 大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」
を示す用語であり、2007年にカナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クラインさんがその実態を告発した書の名であります。

始めに二つの研究があった。

一つは経済政策における
シカゴ大学経済学者ミルトン・フリードマンが提唱した『純粋な自由放任主義』である。それは、あらゆる規制や保護、たとえば『社会保障制度』『公的医療制度』『社会福祉』『労働者保護制度』など取っ払って、すべてを市場に委ねるという『完璧な市場原理主義』の研究であった。
1940年代のアメリカは、大恐慌そして大戦によって疲弊した大多数の『労働者階級』の国民が、共産主義化また社会主義化することを防ぐために、建国のテーゼというべき自由主義から一転、富の再分配と社会保障を経済施策として実施した。
またアメリカ国外では、南米、アフリカ、中東、アジア地域から植民地解放によって新しい国が次々に誕生し、それらの国々では、それまでの自然資源の輸出依存から国内指向型の産業振興・育成への転換(開発主義)、そして国内産業保護施策が図られた。
広大なフロンティアを前にして、規制や保護という障壁のために富を自由に支配できない企業家や資本家達は、そして自分たちの『ユートピア』を目論む『純粋な自由放任主義』の研究に近づき投資した。
しかし、急進的な学者でさえも研究の限界を感じていた。
『まったくの《白紙状態》の上に自分たちの望むとおりの経済政策の枠組みを丸ごと、完全な形で実現するという贅沢を手にすることはできない。』

そしてもう一つ、それはおぞましい研究であった。
1950年代にカナダ、マギル大学附属アラン記念研究所の精神科医ユーイン・キャメロンが行った『洗脳』の人体実験である。表向きは、病的な精神を破壊して、健全な精神を再構築するというものであった。
キャメロンはCIAからの潤沢な援助を受けた。そして精神疾患で訪れた患者を人体実験に使用し、そして研究を続けた。
キャメロンの『洗脳』、その第1段階は『脳の白紙状態化』である。
人は、学習や経験によって脳に知識や人格(思考・行動様式(パターニング))が形成される。その人格を極限的なショック、ストレスを与え続ける事によって破壊(脱行動様式(デパターニング))し、退行させることによって、『脳を白紙状態化』するのである。
そして『白紙状態化』が十分に達成された段階で『精神誘導』、自分たちに都合の良い偽りの行動様式を擦り込んでいくのである。
この研究の成果は、CIAに大きな恩恵をもたらした。それは身柄を拘束した者から情報を引き出す、或いは従順な道具にするための『拷問』手法の確立である。この『拷問』手法はマニュアル化され、現在、世界のあらゆる強制収容施設で実践されているという。
そして表向きの洗脳については、被験者のその後の経過から、『精神誘導』は全く効果がないと結論づけられた。そして身体的・精神的不調を与えられた生存者は今も苦しみながら生きているという。

そして二つの研究成果が結実した時、『ショック・ドクトリン』が誕生した。
アメリカ政府とグローバル企業は、戦争、津波やハリケーンなどの自然災害、政変などの危機につけこんで、あるいはそれを意識的に招いて、人びとがショックと茫然自失から目覚める前に、およそ不可能と思われた過激な経済改革を強行した。

ミルトン・フリードマンはその著書『資本主義と自由』の中で、世界の自由市場経済の基本ルールを示している。
--------
第一に、各国政府は利益の蓄積にとって障害となる規則や規制をすべて撤廃しなければならない。(規制緩和)
第二に、政府が所有する資産で企業が利益を上げられるものはすべて民間に売却しなければらない。(民営化)
第三に、公的プログラムにあてはまる予算は大幅に削減しなければならない。(社会支出削減)
さらには具体的な提言として
①税金は低く抑え、収入に関わりなく均一に課税する
②企業は世界のどこでも自社製品を販売する自由が与えられるべきであり、政府は自国の産業や所有権を保護しようとしてはならない
③労働力を含め、すべての価格は市場の決定に委ねるべきであり、最低賃金は定めてはならない
④医療、郵政、教育、年金さらには国立公園までも民営化すべき
を挙げている
----------以上、本書 上巻、第1部第2章78頁から引用


ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』日本語訳本は、今年9月に刊行されました。『THE SHOCK DOCTRINE   The Rise of Disaster Capitalism』が刊行されて4年が経過しています。
私は、この大書の上巻を12月26日、加古川市立図書館で借り受けました。そして漸く第一部まで読み終えました。
序章:ブランク・イズ・ビューティフル -30年にわたる消去作業と世界の改変-
第一部 ふたりのショック博士 -研究と開発
第1章:ショック博士の拷問実験室
      -ユーイン・キャメロン、CIA、そして人間の心を消去し、作り替えるための
       狂気じみた探究-
第2章:もう一人のショック博士
      -ミルトン・フリーマンと自由放任実験室の探究-

世界のこの10年を振り返ってみて、もっとも強い印象を残したものは、
2001.9.11に端を発したアメリカ主導によるイラク戦争、そしてアフガニスタン侵攻、いわゆる『テロとの戦い』『(米国主導の)正義の戦い』です。
そしてアメリカがこのテロとの戦いに費やしたコストの総計は10年で3兆2280億ドル。(ニューズウィーク9.11号)
この数字は翻って見れば、アメリカの一部のグローバル企業(軍需企業、軍関連の維持・管理企業、軍の生活全般をカバーする様々な企業)に大いなる潤いを与えたと読むこともできます。

そして、日本もその渦中にあるFTA(米国主導の自由貿易協定)。アメリカが突き上げる要求は、まさにミルトン・フリードマンが提唱した『世界の自由市場経済の基本ルール』そのものです。
アメリカを突き動かすグローバル企業や資本が、もはや広大なフロンティアでなくなった、地上の有限なる市場に『自由』という統一ルールを敷いて、その寡占をもくろんでいる、と考察することができます。

日本は今年、『大震災』と『原発事故』を経験しました。さらには日本企業の凋落と、そして社会倫理の瓦解を目の辺りにしています。そして私たち国民全体が『ショック』と『虚脱』から抜け出さずぬ間に、政権与党である民主党と野田政権は、国民をないがしろにした施策、大企業や資本家優遇施策を矢継ぎ早に断行しようとしています。

私たちは、現在の世界経済の本流であるグローバル化に乗り遅れてはいけない。しかし、為す術なく流されてはいけないし、溺れることがあってはなりません。
と同時に、私たちはこの国土の上で学び、働き、糧を得て生きています。その生活は第一に守り続けなければならない、そう思います。

また、様々な『ショック』が私たちを襲ったとしても、私たちはアイデンティティを、学び得た主義・主張を、そして良心を放棄してはならない、と思います。


『わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません』
(旧約聖書 ダニエル書3章17~18節)
現実は必ずしも自分の望んだようにはいかない。けれども、たとえ"そうでなくとも"神を信じて歩む。ままならない結果、悩みや悲しみの中に隠されている神様の心を探りながら歩む。それが、「良い木」として生きることではないでしょうか。と聖書は語りかけてくれます。

この『神』の部分を、『自分の良心』と読み替えれば、より心にすーっと染み込むと思います。

2011年12月26日月曜日

サンタが家にやって来た ♪


『さぁ あなたからメリークリスマス 私からメリークリスマス
サンタクロース イズ カミング トゥー タウン』

仕事から帰り、夕食を摂ってコタツで寝転んでいると、『ピンポン』と玄関のチャイムが鳴りました。妻と耕太郎が出て、玄関を開けますと、ワーという歓声と『耕太郎!』という若い呼び声が聞こえます。
私も玄関に顔を出し、玄関の外を見ますと、サンタの格好をした幾人かの少年の姿が見えました。
誰がいるのかよく見ようと眼鏡を外すと
誰かの声が『おっちゃん、眼鏡外した』と叫びます。
おっちゃんの眼鏡は読書用で、ちょっと離れるともう見えないのです、よく言う老眼なのです。それで眼鏡を外したわけです。ですが、外は暗くてやっぱり一人ひとりを特定することはできませんでした。

耕太郎はいそいそと外着に着替えて外に出、集団に加わって、『次は雄大っちや』と行ってしまいました。

暫くして耕太郎が帰ってきました。
あの集団は?と尋ねると
野村君が言い出しっぺで、昨日今日と3年生の仲間の家を次々に訪ね歩いているとのこと。阿弥陀は制覇し、今日は北浜を巡っているとのことでした。
まるでハロウィンの楽しみのようです。仮装して、家々を訪ね歩いて。。。
でも彼らはお菓子をねだるわけではなく、ただ寒空の下で、温かい笑顔を届けてくれたのです。

彼らのこころねは、本物のサンタクロースですね。
笑顔になれる贈り物、有り難うございます。

2011年12月24日土曜日

ビバ、クリスマス!


『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』
-ルカによる福音書2章11節-

お早うございます。そしてメリークリスマス!
いよいよ明日はクリスマスです。
6時頃外に出ますと、東の地平線から洩れ広がる明けの光で、天上の星々は空に溶けていました。静かな朝です。町の家々の屋根は霜で覆われています。まるでチョコレートケーキにパウダーシュガーをまぶしたよう、天もお祝いをしているのでしょうか。

クリスマスイブ の今夜、町々の教会ではクリスマス礼拝が執り行われます。
私は20年ほど前から子どもたちがまだ幼かった時代まで、よく家族でクリスマス礼拝に参加し、厳かな、でもとても心躍るクリスマスを楽しみました。

1995年12月24日(日) 、私は後母教会となった基督兄弟団西播磨めぐみ教会のクリスマス礼拝にて、鵜飼牧師の導きにより洗礼を授かりました。

キリスト教との出会い、というか聖書に初めて触れたのは、今から遡ること35年前、友達(イチャさんです)から譲り受けたコンパクトな聖書(福音書が納められていました。ミッション・スクールで配布されたものです)です。目次には『この様な心の時には、この御言葉を』という案内がありました。
私は、この案内で救われたことがあります。
20歳の冬でした。その日、その日も私は、金沢、片町のとある居酒屋で騒いでました。店に飾ってあった紙傘を開いて、即興の傘踊りに興じていたのです。
そして数日後、自宅に電話を入れると、その日、姉の1歳に満たない一人子が亡くなったことを知らされました。忸怩たる思いに押しつぶされ、一人で夜の町をあてもなく歩きました。そして、何度目かの電話ボックスから姉に電話をいれ、謝りました。
落ち着いてから寮の自室に戻り、友人から譲り受けた聖書を開きました。そして『悲しみ』についての案内で次の御言葉に出会いました。

『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです』
-マタイによる福音書5章4節-

この御言葉に出会うまでは、聖書は、1960年代に作られ公開されたハリウッドのスペクタル映画、『天地創造』『十戒』『ベンハー』が描く、まさに壮大なスケールの絵物語として楽しんでいました。そう、『空想物語』として読んでいたのです。
でも、このマタイ伝の御言葉に出会い、本当に心が慰められれました。そして、それからは聖書は私の道しるべとなりました。

クリスマスには特に美しい物語が沢山あります。そして今日も今夜も素敵な物語が沢山紡ぎ出される事と思います。

どうか素敵な事柄に出会えますように
ビバ、クリスマス!

2011年12月23日金曜日

私たちの『希望』


福音館童話集『きょうの世界昔話』から
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むかしむかし、ギリシアの神ゼウスは、巨人のプロメテウスを呼んで言いつけました。
「ねんどで、我々と同じ姿をした生き物を作れ。わしが息を吹き込んで、命を与えてやろう」
プロメテウスが言いつけ通りの生き物を作ると、ゼウスはそれに命を吹き込んで人間と名付けました。
次にゼウスは、プロメテウスにこんな命令をしました。
「人間に生きていく為の、知恵を授けてやれ。ただし、火を使う事を教えるな。火は、我々神々だけの力。人間に火を使う事を教えると、我々の手におえなくなるかもしれんからな」
こうしてプロメテウスは、人間に家や道具を作る事、穀物や家畜を育てる事、言葉や文字を使う事などを教えました。
しかし火がなくては、物を焼く事も煮る事も出来ません。
いつも寒さに震え、真っ暗な夜は動物たちに襲われる恐怖におびえていました。
そこでプロメテウスはゼウスの言いつけにそむいて、人間に火を与える事を決心しました。
プロメテウスは弟のエピメテウスを呼ぶと、こう言いました。
「おれは人間たちを、とても愛している。
だから人間たちに、火を与えるつもりだ。
だがそれは、ゼウスの怒りにふれる事。
おれはゼウスに、ほろぼされるだろう。
だからお前が、おれの代わりに人間を見守ってやってくれ」
プロメテウスはそう言うと、太陽から盗み出した火を人間に与えたのです。
そして怒ったゼウスに山につながれて、ワシに食い散らされてしまいました。

間もなくゼウスは、職人の神へパイストスに命じて、この世で一番美しいパンドラを作らせると、エピメテウスのところへ連れて行かせました。
人間に火をもたらした罰に送り込まれたともいえるパンドラには、神々からさまざまな贈り物をさずけられていました。
美の女神 アフロディーテからは美しさを、アポロンからは音楽と癒しの力を、そして何よりゼウスは、パンドラに好奇心を与えていたのでした。
エピメテウスはパンドラの美しさに心を奪われると、パンドラを自分の妻にしました。
エピメテウスの家には、プロメテウスが残していった黄金の箱がありました。
黄金の箱は、病気、盗み、ねたみ、憎しみ、悪だくみなど、この世のあらゆる悪が閉じ込められていて、それらが人間の世界に行かないようにしていたのです。
プロメテウスはエピメテウスに、
「この箱だけは、決して開けてはならない」
と、言っておいたのですが、パンドラはこの美しい箱を見るなり、中にはきっと素晴らしい宝物が入っていると違いないと思いました。
そこで夫に箱を開けて欲しいと頼みましたが、エピメテウスは兄との約束で、決して首を縦に振りません。
するとパンドラは、
「あなたが箱を開けてくださらなければ、わたしは死んでしまいます」
と、言い出したのです。
そこでエピメテウスは仕方なく、兄との約束を破って箱を開けてしまいました。
そのとたん、箱の中からは病気、盗み、ねたみ、憎しみ、悪だくみなどのあらゆる悪が、人間の世界に飛び散ったのです。
エピメテウスがあわててふたを閉めますと、中から弱々しい声がしました。
「わたしも、外へ出してください・・・」
「お前は、誰なの?」
パンドラが尋ねると、
「わたしは、希望です」
と、中から声が返ってきました。
実はプロメテウスが、もしもの為に箱に忍び込ませておいたのです。
こうして人間たちは、たとえどんなひどい目にあっても、希望を持つ様になったのです。
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出典:http://hukumusume.com/douwa/pc/world/03/17.htm

21世紀最初の10年は、まさにパンドラの箱が開かれた様なものでした。
アメリカ同時多発テロから始まった正義の武力対立(民族主義、宗教教義主義等々)
無慈悲な市場原理主義、野放図な金融市場が引き起こす経済不安
大規模自然災害の襲来(地震、台風、熱波、かんばつ)
そして暴走した原子力の火
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/21%E4%B8%96%E7%B4%80

これらの禍は、私たち人の愚かな行為、
『主義主張の押し売り』
『際限なき消費欲望、膨張欲望』
『負の遺産(借金、公害、責任)の先送り』
そして『自らへの過信』
が招いたものです。

そして世界に解き放たれた、
『悪意』『暴力』『偽善』『保身』そして
『妬み』『憎しみ』『悲しみ』『餓え』を元の箱に収め戻すためには、
何世紀という時間を要するでしょう。

しかし、私たちにはプロメテウスが与えてくれた
『火を扱う力』、創造し、創意工夫し、自らを進歩させる力
『希望』、夢を見、憧れを持って、今日を歩み明日に挑む力
があります。

2012年が、
私たち人が、この世界で
『どの様に生きてゆくべきか』また『どの様な役割を果たすべきか』を再考し、
この世界の幸せ、そして私たち人の幸せのための、新たな一歩を踏み出すファーストイヤーとならん事、信じたいと思います。



2011年12月22日木曜日

魅了され続ける映画『ジョルスン物語』


私の記憶で、初めて涙した映画は高峰秀子さん主演『二十四の瞳』でした。ホント幼い頃です。断片的ですが、戦地から帰還した教え子達との同窓会のシーンが印象に残っています。

十代の前半はマカロニウエスタンにはまり、後半はSFです。そして19歳、金沢の映画館で観た『ジョルスン物語』のリバイバル上映。もう感動して大泣きしました。ロマンス、そして音楽劇のこの映画にすっかり魅了されました。そしてそれは現在進行形なのです。
主人公アル・ジョルスンは実在の人物で、アメリカの第二次大戦前後のブロードウェーの大スター、そして初の商業トーキー映画を撮った映画スターであります。

ジョルスンを演じたのはラリー・パークス、そして歌唱部はジュルスン本人が吹き替えをしてます。それは本当に吹き替えとは思えない見事さで、1947年のアカデミー賞録音賞に輝いていることからも分かります。このラリー・パークスは悲劇の俳優で、ハリウッドの赤狩りに罪無く飲み込まれ映画界から追放されました。

私の一番のお気に入り、というかもっとも高潮する場面が、ジョルスンが父のたっての願いで『Anniversary Song』を歌う場面です。
ジョルスンは妻ジュリーの願いを受けてスターの座を引退し、隠遁生活に入ります。そして生き甲斐である『歌う事』を封印します。ですが、両親の結婚記念日のパーティーで父から幼い時に一緒に歌った『Anniversary Song』を請われ、歌います。その歌は愛する夫婦が結婚式で初めてダンスを踊った時のように、見つめ合い、しっとりと、また情熱的な愛を讃歌します。ですが、それはジョルスンの『歌う事』の封印という寂しさで成り立つ脆い幸せであることをジュリーに気付かせ、そしてラスト、ジュリーはジョルスンのもとを去ります。

映画『ジョルスン物語』のシーンから

私、昨年歌いました

『ジュルスン物語』は、素晴らしい歌と、そしてミュージカルの素晴らしさ、ロマンスの切なさを満喫できる、とても最上に素敵な映画です。

私はこの映画にであった10年後、VHSのレンタルビデオで再開を果たしました。そして、今から数年前DVDを購入し、今、この映画は私の宝物となっています。

p.s.
今日、Facebookを開くと、なんと学生時代の友人からコンタクトがありました。驚きと同時に嬉しく、暫しチャットで昔話に花を咲かせました。
金沢での学生時代、ホント阿呆な事ばかりし、大酒をかっ食らい、毎日がびっくり箱の様な生活でしたが、映画にだけは真摯でした。毎週末、アルバイトして稼いだ金で映画を観に行きました。ホント朝から晩まで映画館で過ごしていました。帰りは毎度足はなく2時間ほど掛けて夜の道を寮まで歩いて帰ってました。青春でした。

2011年12月19日月曜日

北の独裁者死亡報道を受けて


年の瀬が迫った今日、『北朝鮮の金正日総書記急死』のニュースが飛び込んできました。
というか、いつもならまだ夕刊が届くことのない午後3時半頃に夕刊が入ってました。
エエッ号外か、と不信に思いましたが夕刊でした。でも何か意図的なものを感じました。

今年、アメリカを中心とする自由主義国家から悪の枢軸と呼ばれた独裁者、またテロ首謀者が次々と死亡しました。
5月2日 オサマ・ビンラディン(アルカイダ指導者) 米国軍特殊部隊が殺害
10月20日 カダフィ大佐(リビア独裁者) 自国民反体制部隊が殺害
そして北朝鮮の独裁者が今日死亡しました。金正日総書記は国内の指導視察途上の汽車中で『心筋梗塞にて急死』という発表です。

金正日総書記は以前から心臓病疾患者であることは知られていましが、あらゆる成人病疾患者だったのですね。
しかし、数日前から北朝鮮で総書記の次に有名な、高圧的な女性アナウンサーがテレビから姿を消すなど、不穏な空気は漂っていました。もしかしたら、女性アナウンサー失跡の前後に北朝鮮で大きな第一の転換(粛正等々)があったのでは、と想像してしまいます。

1980年代のユーゴスラビア紛争の後、次の火種は極東『北朝鮮』と、当時の未来学者は予言しました。ですがあれから30年、ソ連は今はなく、中国は今だ共産党一党独裁国家とはいえ外貨資本や自由貿易の恩恵の寵児となっています。『北朝鮮』が導火線となって旧東西諸国の政治対立、武力対立が起こることは現実的でないと思います。

しかし北朝鮮は、『誘拐』『麻薬』『偽札』そして『核爆弾』とブラックマーケットで活躍する、犯罪を国家が首謀する国です。その国のかたちが壊れれば、犯罪はもはや規律がなくなり、希望のない『パンドラの箱』が解き放たれる、ということになりかねません。

日本は、東アジアの国々と協力し、万一の動乱発生の監視と抑制、そして北朝鮮民への人道支援等々、これこそ綿密な『想定』と『アクションプラン』を早急に協議し実行すべきと思います。

2011年12月17日土曜日

可哀想な首相、野田佳彦


昨夜は夜、テレビを見ませんでした。
そして今朝の新聞を見て、唖然としました。

『首相、原発事故収束を宣言』
『冷温停止状態を確認』

彼は、強いリーダーを演じてみたかったのですね。
思えば9月、民主党の代表に選ばれてそのまま一国の首相の椅子を与えられ、辻説法で鍛えた雄弁さで自身を『ドジョウ』と喩えられた。
それが、鉢呂元経済産業相の『放射能つけちゃうぞ』発言・失言? 以後、ぶら下がり取材に一切応えず、国会答弁も下を向いてルビの振られた原稿を棒読むばかり。。。
だけれど、外遊先ではいつもにこやかな笑顔を振りまき、原発事故問題、TPP問題、消費税問題然り、国内で議論もなにも出来ていない状況で、どうどうと国際公約をなさってしまう。

そしていまや日本第3の都市となった大阪で台頭する橋下徹氏率いる維新の会の威勢や、はたまた海の向こうで三年前にリベラルの旗手として立ったオバマ米大統領の『イラク戦争終結宣言』に調子を合わせようとされたのでしょうか。

もう、私たちは『サラリーマン総理』はいならいです。『自己都合総理』はいらないです。
本当に国民の信任を得て、国民の期待と責任を併せ持って、任期を命がけで全うできるリーダーを求めます。
そうしなければ、日本は内部崩壊します。

2011年12月16日金曜日

サンタクロースっているんでしょうか?


「Secret」
小さな女の子、スーザンは寂しそうな笑顔で話します。
「私、サンタの秘密知っているの・・・
(ほんとうはね)サンタはいないんだよ」

映画『34丁目の奇跡』(原題:MIRACLE ON 34TH STREET )は、小さな女の子、スーザンの寂しい告白から始まります。
スーザンは、大好きなママから
「サンタはいない」
と教えられますが、スーザンをとても大切にしてくれるママの恋人ブライアン、そしてサンタを自認する愛溢れる老人クリス・クリンドルとの出会いによって、
「Believe」
サンタクロースを信じる事ができるようになり、そしてとても素敵な夢が叶います。

サンタクロースは本当にいるのでしょうか?

『サンタクロースっているんでしょうか?-子どもの質問に応えて-』(偕成社)という本があります。
1897年9月21日、8歳の女の子からの切なる願いを受けたニューヨーク・サン新聞が、『社説』で応えた文章に、美しいクリスマスのイラストが添えられています。

特に感銘を受けた文章を抜粋します。
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そうです、バージニア。サンタクロースがいるというのは、けっしてうそではありません。この世の中に、愛や人への思いやりや、真心があるのと同じように、サンタクロースも確かにいるのです。
あなたにも、分かっているでしょう。世界に満ちあふれている愛や真心こそ、あなたの毎日の生活を、美しく、楽しくしているものなのだということを。
もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中は、どんなに暗く、淋しい事でしょう!
あなたのような可愛らしい子どものいない世界が、考えられないのと同じように、サンタクロースのいない世界なんて、想像も出来ません。
サンタクロースがいなければ、人生の苦しみを和らげてくれる、子どもらしい信頼も、詩も、ロマンスもなくなってしまうでしょうし、私たち人間の味わう喜びは、ただ目に見えるもの、手で触るもの、感じるものだけになってしまうでしょう。
また、子ども時代に世界に満ちあふれている光も、消えてしまうでしょう。
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私もこの問いかけにハッキリと答える事が出来ます。
『サンタクロースはいます』
愛する人がいて、その事に感謝し、愛する人に真心をプレゼントする。
『ありがとう』の一言でいいのです。
その時、私たちがサンタクロースなのです。
愛を贈る人、贈られる人、そして愛に満たされる人、すべての人の中にサンタクロースはいるのです。そして、いつでも誰でも、サンタクロースになれる、私はそう信じています。

『信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです』
(新約聖書ヘブル人への手紙11.1)
私の信仰の根幹となる御言葉です。


※映画『34丁目の奇跡』(原題:MIRACLE ON 34TH STREET )

1947年アメリカ作品で、その後度々リメイクされています。私は1994年にリメイクされた、名監督であり名優であるリチャード・アッテンボロー主演の本作を映画館で観ました。
アメリカの一ドル紙幣に記された"In God We Trust"「我々は神を信じる」は、アメリカの信仰の根幹です。この映画では、同様に目には見えなくても愛で満たしてくれる存在、サンタクロースを『私たちは信じる』と高らかに謳い上げます。
クリスマスシーズンのニューヨークの風景はとても美しいです。その美しい風景の中で繰り広げられるファンタスティックな物語を、クリスマスの夜、家族で一緒にビデオ鑑賞されては如何でしょうか。きっと、家族みんながサンタクロースの愛情一杯の贈り物で満たされることでしょう。

2011年12月11日日曜日

皆既月食を観ていて、首痛めました。。。


お早うございます。
今日は6時起床、外に出ますと、まだまだ暗い空の北西、低い空に満月が美しく輝いていました。

昨夜は皆既月食を観てました。
21時過ぎに一度天上を見上げますと、月の東端の光が揺らいで見えました。食が始まったようです。
そして22時40分頃から半分以上食が進んだ月を見上げていました。皆既月食になるまでずーっと。。。
二階の南向きのベランダに出て、天上を見上げると月は真上にありました。コンパクトカメラを上に突きだして、その姿勢で待つ事30分。。。
レレ。。。私はアホですね、皆既日食のように光がフッと消えて月が空に消えるものと思っていまして、横でいっしょに観ていたさくらが、
『お父さん、もうなってるんとちゃうん』に対して
『いや、まだや』と月が朱に暗く染まってもその無理な姿勢を続けていました。
そしてもう首が痛くて我慢できなるなり、月にお別れを云って、寝ました。

朝刊、朝日新聞の一面に、青い光に照らされた通天閣と頭上の月が皆既月食になるまでの多露光写真が掲載されていました。

何故に皆既月食で『朱に暗く染まる月』が観られるかというと、
①満月期の月が地球の影にすっぽりと収まってしまう現象が皆既月食です。
②でも地球の大気が凸レンズの役目をし、太陽の光は地球の大気で屈折、影の部分に弱い光が届きます。
③光のスペクトルで波長が長く減衰しにくい赤の光が、大気を抜けて月に届き、月を朱く染めるのです。
※参照 国立天文台ページ
http://naojcamp.nao.ac.jp/phenomena/20101221/color.html

朝から天文のお勉強をしました。
『聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥』ということわざがありますが、私の解釈はこうです。
『知らない事を知る事は素晴らしい。しかし、知らない事をそのままにするのはもったいない事だ。』です。(翻っていえば『恥も外聞もない』のです)私の信じる言葉です。

次回の皆既月食は、2014年ということです。三年後、また美しい天文ショーが観られる事を期待します。

2011年12月7日水曜日

三日酔い。。。


お早うございます。
今日は、ほんとよく冷えますね。この冬初めて冷気の帳を感じます。
でも背中と足さえしっかり保温すれば、この程度の寒さ、気持ちがシャンとして良いです。

昨日は、職場について体を動かし始めて、異変?に気付きました。そう、まだ酔いが残っていたのです。でもそれは『酔いの感覚』でした。仕事には全く支障なかったですよ、ねチームメイトの皆さん。。。
昼休憩の時に、マックスバリューで毎日選ぶ弁当とそして尾道らーめんを食しました。一気に平らげると、お腹が落ち着き、そして私の『三日酔い』は終わりました。

実は昔も同じことがありました。25、6歳の頃だと思います。
私には大阪で一軒だけ馴染みの店があります。『スナック東』です。23歳の頃、先輩に連れて行ってもらってから大阪滞在中はホント三日に一日はいってました。業界人が多く訪れ、そうNEC、富士通、IBMの人が集ってました。それから当時関テレが近くにありましたので、関テレの人も来ていたそうですが、私は会った事ありません。
ある夜も仕事を終えた後、『スナック東』で飲んで歌ってました。私は水割りが好きではなく、ロックもしくはそのまま飲んでいました。痛飲、それが私の飲み方でした。その日は3時過ぎまで飲んでから店を後にし、近くの定宿『ホテル関西』で仮眠。そして朝、出社しました。当時は心斎橋にオフィスがありました。
9時頃、スッキリした気持ちで仕事を始めかけたのですが、胃の中のアルコールがまだ分解されていなかったようで、10時頃になると顔は真っ赤になりろれつが回らなくなりました。回りの同僚やら後輩が笑っています。私にとって良かったのは『鬼の先輩』が朝から外出していた事です。もうどうしようもなく、酔いが醒めるまで、非常階段で寝てました。

ま、こんな私ですが『三日酔い』は珍しい出来事です。うん、まだ若いと喜ぶべきか、『寄る年波には勝てぬ』と悲観すべきか。。。いやいや、どちゃでもいいことやんかと笑い飛ばすのが一番ですね。

2011年12月5日月曜日

『さくらカレー』と『エーデルワイス』


昨日は、耕太郎、妻そして私が祝会で家を空けていたため、さくらがカレーを作っていました。
朝、というか9時過ぎに寝間から抜け出し、からからの喉を潤すために台所に行って水やら牛乳やら一杯飲んで。。。暫くすると無性に腹が空きました。私の酔い覚めの合図は空腹を憶えた時なのです。
そして一皿取りだし、炊飯ジャーからご飯を少なめに盛って、『さくらカレー』をたっぷりとかけてペロリと食べました。ううう旨い!そしてお代わりしました。

それからテレビをつけて、NHK-BSアーカイブス『ヨーロッパアルプストレッキング紀行 幻の花エーデルワイスを探して ~オーストリアアルプス~』を寝転んで観てました。
斉藤由貴さんを自然写真家小口和利さんがエスコートしながら、オーストリアの国花であり私たちにとってもとてもなじみ深い歌『エーデルワイス』(ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の挿入歌)で讃えられる花、『エーデルワイス』に出会うため、美しいオーストリアアルプスの名所をトレッキングします。
斉藤由貴さんて、お幾つになっても(といってもまだまだお若いのですが)とても可愛い女優さんですね。休憩中また宿泊のホテルで、小型のスケッチブックに様々な画材で心に留まった風景を描いて一文を添える。その絵、その一文がまた良いのです、とてもホッとするのです。。。
そしてスルツェナウ氷河のトレッキングで『エーデルワイス』に出会います。
『エーデルワイス』、気高い白、という意だそうですが、岩の斜面に小さな花を咲かせていました。本当に小さな花、ですが花弁はベルベットの様にふっくらとして色は白く、雄しべは星のかたちをして、『王冠と白いマントを着けた小さな王様』でした。
その花と出会った斉藤由貴さんが、何とも言えないホッとした表情を浮かべて、頬に一筋の涙を見せた時、観ていたこちらまでうるうるしてしまいました。
因みに再放送は、6日午前1時5分の様です。今22時55分だから、2時間10分後ですね、頑張れる人、どうぞ観て下さい。

テレビを見終わって暫くしてからパソコンに向かい、夕方近くさくらが帰って来たので、『さくらカレー』大変美味しかったと話しました。それから遅い昼食に『さくらカレー』を今度はご飯も大盛りで食しました。今度は生卵とほうれん草をトッピングしました。
食べてから、さくらに尋ねました。
『さくら、お前イモ、皮むかんで入れたやろ』
『時間がなかったからしかたないやろ(>o<)』
『いやちゃうねん、あのイモのシャクシャクした食感、良かったんや。。。』
いやホント、目から鱗でした。これまでむくのが当然としてましたが、皮の食感と何より皮と身の接触面がほっこりではなくしっとりとして、初めてのおいしさでした。
うん、これはいける、これからは皮付きで全部作ろって思った次第です。

p.s.
それから、昔一度だけトレッキングした事を久々に思い出しました。
新婚旅行でニュージーランド南島のワナカ湖畔に数日滞在した時の事です。
ワナカ・ロブロイ氷河トラックハイキングに参加し、氷河を望む丘に登りました。そこには何と黄色い花が咲き乱れていたのです。空は真っ青でした。本当に美しい景色でした。
【ロブロイ氷河】(1991.3.3やったかな撮影)

 【レイク・ワナカ湖畔】(1991.3.4やったかな撮影)



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NHK-BSアーカイブスのページ
http://www.nhk.or.jp/archives/

自然写真家小口和利さんのフォトギャラリー
http://kazutoshioguchi.com/


Field of Dreams

ハッと眼が醒めると、コタツでした。
それで布団で寝直しましたが、寒い、凍えるほどに寒いのです。
でも、『死んでもいい』と思えるほどの幸福感を憶えていました。。。

昨日は、『鹿島中野球部3年生部員お別れ会』でした。
12時前に鹿島中グラウンドに入り、アップがてらグラウンド周辺を歩きました。
十周しました。一周は私の歩数で516~540歩でした。
歩幅が80㎝くらいとして一周約450メートル、
野球部員達はこの広いグラウンドを『夢を叶える場所』としていたのです。

アップしてすっかりあっぷあっぷになりました。
試合の前に藤原監督のノックを受け、腰痛めました。
そして14時、親子試合の始まりです。
親チームの打順は
一番 三塁手 弘樹の兄ちゃん(現役の球児です。助っ人です)
二番 一塁手 山田先生(元ソフトボール選手です。助っ人?です)
三番 投手  不断さん(元球児、現役の草野球選手です)
四番 遊撃手 福本さん
五番 中堅手 原さん
六番 捕手  魚住さん(天命をしる50歳にして尚、現役の草野球選手です)
七番 二塁手 私(サウスポー)
八番 左翼手 森田さん
九番 右翼手 門野さん

1回裏の守備で、サードゴロやったか、二塁ベースにいた私に低い送球が来てキャッチ、振り向きざまに走り込んできた走者の足にタッチしました。間一髪、セーフでしたが、『俺、やるやんか。。。』と内心ほくそ笑んでました。
ベンチに戻ると皆さんから『ナイス、ファインプレー』と声をかけて頂きました。
原さんからは『絶対逸らすと思ってカバーに入ったのにビックリした』と仰って頂きました。
でもそこまででした。その後は、ゴロは捕れない、フライも捕れない。不断さんは私のエラーの数、数えてました。
そして回を追う毎に腰の鈍痛は増し、両足はそこらじゅうで痛みます。でもグラウンドに立ち続けました。最後の打席、投手はエース雄大です。思いっ切りスイングしました。スイングしてさらに腰痛めました。
そして親子試合は終了しました。温かい光を届けてくれた青空は、あかね空に変わってました。

17時から、現父母会の皆さんが開いて下さったお別れ会に出席しました。
ちょっとした用事で開始ぎりぎりに会場である樹家に入りますと、不断さんから
『(前)会長、遅刻』と云われてしまいました。
そして現会長本多さんのスピーチで祝会は開き、副会長加古さんの音頭で乾杯!しました。
ビールを沢山戴きました。
恒例のビンゴ大会では、最後の一人に残りました。もう最高の気分でした。
司会の大東さんが、これでもかと数字の矢を放ってきますが当たりません。

場が笑いから、しまいにざわつきに変わり始めた時、『1』の矢が飛んできて当たりました。
藤原先生、久下先生のスピーチには、感動して涙がこぼれました。
そして最後、前父母会長としてのお礼のスピーチのころにはすっかり出来上がってました。

二次会は藤原先生、久下先生、山田先生と3年生父母でお好み焼き屋『いいとも』に行きました。
『いいとも』では冷酒を沢山戴きました。そして記憶がなくなりました。。。

今回の私の最大のファインプレーは、今日休みを取っていた事でした。

2011年12月4日日曜日

『星降る夜は♪』


お早うございます。
この数日雨模様でしたので、夜空も曇っていましたが。。。
今朝は美しい夜空と対面しました。ツーンとした寒さではなく、優しくそして澄んだ冷気がとても気持ちよかったです。雲一つない空から、星々が優しい光を放っていました。

こんな素敵な夜空を見上げていますと、

『星降る夜は 部屋のあかり消して
静かに静かに 星のささやき聴こうよ。。。』

南こうせつさんの『星降る夜』が内から聞こえてきます。そしてとても楽しい嬉しい気持ちになります。私にとって、ささやかな、でもとても幸福なひとときなのです。

それから、パソコンでFacebookを開くと
お友達の三角由美子さん(熊本在住のライター兼イベントプロデューサー)のウォール記事が目に入りました。
『バンブープラネタリウム&星空カフェ1日目終了!。。。』
そして幻想的な写真が添えられていました。

『バンブープラネタリウム&星空カフェ』
阿蘇山から西10㎞に位置する西原村で12月3日から31日まで開催される、『夜空』と『バンブープラネタリウム(竹あかり)』を楽しむ1ヶ月間限定カフェで、アートと地域振興を結ぶNPO法人「クリエイティブトリガー」と三角由美子さんが共同プロデュースされたイベントです。
添えられた『バンブープラネタリウム(竹あかり)』の写真ですが、
竹の中の光源から発せられた光が、竹の表面に刻まれた幾何学的な模様から洩れ輝く様は、それぞれの円柱が星座に彩られた一つの宇宙に見え、そしてそれらが立ち並ぶ風景は、荘厳でかつ壮大な空間を連想します。
『行きたい~!』『その空間に身を沈めたい!』なんて思っていも、こんなに時間的空間が狭くなっても、でも実際は播州地方からは遠い遠い阿蘇での出来事、望遠するしかないのです。
ほんとに『夜空の星』なのです。。。ね

『バンブープラネタリウム&星空カフェ』紹介ページ
※幻想的な写真が掲載されています。
http://www.minamiaso-coffee.com/2011/12/with-8610.html

2011年12月3日土曜日

明日は、『鹿島中野球部3年生部員お別れ会』です


お早うございます。
雨音で眼が醒めました、3:30頃でした
暫くボーッとして、それから新聞を取って読んでました。

明日は、『鹿島中野球部3年生部員お別れ会』です。
とうとうこの日を迎えるのか。。。という気持ちです。

昼から親子親睦試合、そして夕方からはお別れ会(食事会)です。
親子大会では、息子耕太郎と是非対戦したい、と思っています。(不断さんが投げさせてくれるかなぁ。。。)
ですが耕太郎には
『お父さん、ストライクはいらへんやろ』と言われてしまう始末
でも
『お父さんのカーブ、身につけたい』とも言ってくれます。
(いつの間に。。。口が上手になったなぁと感心です)

『お父さんのカーブ』
私の吹聴・はったりが殆どですが、その昔、一本松連中で草野球チームを組んでた時に、審判から
『君のカーブ、ありゃ打てん』
『しかし、ストライク入ったらやけどな』
といわれた一級品?です。
キャッチャーのボテには
『マエダー!カーブ丸わかりや、投げる時、口が『へ』になってる』
それでも打たれなかったのですから、やっぱり一級品?だったのです、ねボーさん。

夕方からのお別れ会では
現会長の本多さんから、前会長としての挨拶を依頼されましたが
浮かれて、ボヤ~として、もしくは酔っ払って思考が飛んでしまっている可能性がありますので、ここで述べたいと思います。

英祐、幸伍、凌、孝鯛、帆岳、真己、悠介、大成、拓樹、雄大そして耕太郎へ
『君たちを見続けてきた三年間は、とても幸せでした。
まずは、ありがとうの言葉を贈ります。

私は、中学の時、剣道部員でした。
当時の顧問は、いまでも大切な恩師であり
仲間は、いまでも大切な心の友です。

君たちも、この三年間で
君たちが思う以上の大切な宝を得ました。
それは人であり、また経験です。
感謝して、そして糧として、
それぞれの道を
『夢』『希望』『憧れ』を抱いて歩んで下さい。

そして、
頼もしい君たちへと成長して下さい。』

2011年11月30日水曜日

『・・・』


空を見上げていますと、
『あっ、流れ星!』

エェッ!、一条の流れは天空の裾に消える事無く、長いラインを引いて地上に落ちました。ワォ。。。
注視していると、また長い光が流れて、今度は近くの山裾に到達、炸裂しました。
急いで家に入って家族に話そうとしましたが、家族は団らんの最中。テレビはドラマを映しています。

もう一度外に出て、空を見上げると、幾機のヘリコプターが高い空を飛んでいました。報道のヘリコプターでしょう。

また家に入り、テレビのチャンネルを替えると、家が破壊される瞬間の映像が映りました。家の後方から光が到達したかと思うと、内部から炸裂しました。驚愕です。。。
別の映像が映りました。外国でしょうか、邸宅の内部、大きなプールの向こうに高いガラス張りの壁があります。向こうから光が到達、ガラスは飛散し、光はプールに激突、水柱が立ちました。室内はもうメチャクチャです。プールには人がいました。惨たらしい光景が目に入りそうになった瞬間、目を閉じました。。。

そして。。。
眼が醒めました。リアルな夢でした。

2011年11月29日火曜日

いのち短し、恋せよ乙女


先日、
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「交際している異性はいない」という未婚者が男女ともに過去最高(1987年調査以来)であることが2011年11月25日、国立社会保障・人口問題研究所の「第14回出生動向基本調査・独身者調査」でわかった。この調査は、2010年6月1日時点の事実について全国の男女(18歳~50歳)に対しておこなわれ、1万0581票の有効回答に基づくもの。
調査結果によると、「交際している異性はいない」という未婚者は男性で61.4%、女性で49.5%であり、前回調査(2005年)から男性で9.2ポイント、女性で4.8ポイント上昇している。さらにこのうち、約半数(男性27.6%、女性22.6%)が「とくに異性との交際を望んでいない」と答えている。

第14回出生動向基本調査
http://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou14_s/doukou14_s.asp
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というニュースを読みましたが、
いや、いかんなぁ、もったいないなぁ、と思いました。
特に「とくに異性との交際を望んでいない」では、人は枯れてしまいます。。。

ちょっとこじつけかもしれませんが、
人は、夢や希望、そして憧れが今日を歩み明日に挑む原動力になるのだと思うのです。
恋は、『夢』『希望』そして『憧れ』です。
また恋は、『喜び』をもたらすだけでなく『苦しみ』や『悲しみ』ももたらしますが、それは感情の豊かさをもたらし、思考の思慮深さをもたらしてもくれます。
恋をしなきゃ、いっぱい恋しなきゃならんと思うのです。

恋に億劫、恋下手と思っている乙女、若人に
『ゴンドラの歌』を贈ります。
私の大好きな俳優であり詩人、森繁久彌さんの歌声で聴いて下さい。

森繁久彌、ゴンドラの歌


ゴンドラの歌
作詞 吉井勇
作曲 中山晋平

いのち短し 恋せよ乙女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

いのち短し 恋せよ乙女
いざ手をとりて 彼の舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰も 来ぬものを

いのち短し 恋せよ乙女
波に漂う 舟の様に
君が柔手を 我が肩に
ここには人目も 無いものを

いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを

因みに、森繁さんは、一番と四番の歌詞を歌われています。
若葉の頃は、瑞々しい色香を放つ頃は、ひとときですよ、さぁ恋をして輝いて。。。

p.s.
この『ゴンドラの歌』、この度全詩を読んで、初めて、ああ逢瀬の甘美な喜びを綴った詩なのだな、という事を知りました。

2011年11月27日日曜日

4回目のおはなしの会、感想


お早うございます。
5時頃外に出ると、あれレレ・・・星が見えません。
目がどうにかしたのかなぁ、などとボーッと空を見上げていますと、うっすらと星の光が届きました。何か雲ではなく、空一面に膜が張っている様でした。

昨日は図書館で絵本を2冊朗読してきました。
床に座り込んで子どもたちと車座になって本を読みました。
私の本読みは長い。。。からでしょうね、2冊目では小さな男の子がうつむいて寝入ってしまいました。これには苦笑でした。。。
トモアキ君もいました。私の右隣に座って聴いていてくれていました。
でもホント、天井が高くて広い空間で伸びやかに声を出すのは気持ちの良いものです。

次回は2月4日です。さてさて、それまでに楽しい物語、探し求めたいと思います。

~今回読んだ絵本~
1冊目は、N・バトワースさん作『ゆきのふるよる』

2冊目は、C・ウィルクスハウスさん作『クリスマスのおくりもの』


2011年11月25日金曜日

『情報』を金儲けの道具にするな!


朝日新聞朝刊3面下の新刊広告に
自民党国会議員河野太郎氏の『原発と日本はこうなる』(定価1260円)があった。

キャッチコピーには
『南に進むべきか、そこに住み続けるべきか』
『国会議員しか知り得ない2030年の真実!』
『原発マフィアによる陰謀の全貌、そして原発再開をストップする手段がすべてここに書かれている!!』
そして
『全日本人必読の書』

このおっさんは馬鹿だ、と怒りを感じた。気持ちの良い朝が台無しとなった。
まぁキャッチコピーはこのおっさんのせいではないにしろだ。

もし、この本に書かれてある内容が真実で、さらには国会議員しか知り得ない『情報』としたならば、真摯に国民に公開すべきだ。それは国会議員の責務であり、税金で活動している公僕の務めである。
書かれた文書を、PDF化してご自分のホームページから閲覧できるようにすればいい。そうすれば誰もが、それこそ『全日本人』がパソコンやスマホで読む事が出来る。
もし私心で名誉が欲しければ、国会議員を辞めて一般国民に戻ってから、プライベートな時間を使って書かれればよろしい。そして幾らでもお好きなプライスを付けて。。。

『南に進むべきか、そこに住み続けるべきか』
SF作家筒井康隆氏の『霊長類南へ』という小説を思い出した。
中国人民解放軍が誤って核ミサイルの発射ボタンを押した事から核戦争が勃発、北半球が核に汚染され人類は暴徒となって南下する、というようなストーリーだ。
今回の場合、これは『福島の原発事故』をさしているのだろう。
このチャッチコピー、まさに他人事なのである。
『福島』が、そして『日本』が『世界』が直面している危機はSFではないのである。

『情報』を金儲けの道具にするな!

2011年11月23日水曜日

『完全無欠のコンシェルジュ』


少し前ですが、11月5日土曜日にテレビで
三谷幸喜最新映画『ステキな金縛り』公開記念のスペシャルドラマ
『ステキな隠し撮り~完全無欠のコンシェルジュ~』が放送されました。
映画でも主役である深津絵里さんが、少しずれてる一生懸命な新米コンシェルジュを愉快に熱演されていました。

『コンシェルジュは、宿泊客のあらゆる要望に応えなければならない』
『決してNOは言わない』
という先輩からの教えを嫌々ながらも守って
そして、竹内結子、浅野忠信、草なぎ剛、中井貴一そして西田敏行演じる、わがままで一癖も二癖もある宿泊客の要望に応えていくという、ライトな笑い満載のコメディでした。

この『コンシェルジュ』
docomoの『iコンシェル』サービスで身近な単語となりました。
元々は『アパートの管理人』という意味しかなかったようですが、現在は、広く様々な施設で同種のサービスを担う人をさすようになってきました。

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10月オープンした書店で働きだし、はや二ヶ月となります。
最初のひとつきは目まぐるしいだけで、あっという間に過ぎてしまいました。
毎日、腰の痛み足の痛みとも格闘、そして積み残しの反省ばかりで先がどうなるか不安だらけでした。
最近漸く仕事のリズムに慣れてきました。リズムには慣れてきましたが
フッとした油断からの作業ミスや軽率な受け答えを自覚するようにもなりました。
今、仕事の『恐さ』感じてます。

業務は半人前
応対も半人前
センスは目方も振れぬ程。。。
という私ですが、
はきはきとして目の美しいチームメイト達に支えられています。本当に感謝です。

自身に、何が出来るか、ではなく、何をしなければ、と問うたとき
『気持ちの良い空間を作りたい』
『お客様を気持ちよく迎え、そして送りたい』
『お客様の依頼に最善を尽くしたい』
まるで
『完全無欠のコンシェルジュ』
を目指しているようにもとれますが、ハハそれは高望みなので、そうではなく
ただ、後悔したくない、それだけなのです。

この仕事は、
・適応力
・瞬発力
・好奇心
・想像力
そして体力が求められる、或いは育まれる仕事だと感じています。
チーム内で最年長となる私は、想像力と好奇心は旺盛なのですが、いかせんその他の能力はすでに下降曲線を突っ走っています。

ですが毎日を迎えるのが新鮮です。
これが、『一期一会』を待ち望む気持ちなのか、と思います。


p.s.
『おはようございます』
出勤時の挨拶です。最近漸く慣れました。
ですが、おかしな使い方だとは思っています。
以前、データセンターでDBシステム運用管理者の仕事をしていた時も『おはようございます』が出勤時の挨拶でした。ですが、私は頑として時間にあった挨拶に固執しました。
頑冥、協調性のなさ、私に付いて回った代名詞であります。
しかし、だいぶん解れてきたように思います。
これは昨年から今年にかけて鹿島中野球部の活動を追い、少年達の成長に感化されたからだと思います。

2011年11月22日火曜日

お酒が恋しい季節となりました。


私、お酒が大好きです。
ですが、最近は殆ど呑みません
呑まなければ呑めなくなるのです

昔はよく飲みました。ですが、時間をかけてじっくりと沢山飲む事が出来ません。
酒に関しては『先行逃げ切り型』だったのです。
新人社員で入った社員寮では
親睦会と称した飲み会がよく行われました。
私はそこで少々名前を覚えて頂きました
早飲み競争で勝ったのです。
後日、寮の酒豪の先輩とビール大瓶の早飲み競争をして
16秒で勝利しました。
竹嶋からの便りでは、
今も先輩と酒を酌み交わしていて私の名前がでる時
先輩は当時の事を面白く悔しがって下さるとの事
偲んで頂ける有り難さを覚えます。

また仕事のチームでも、よく飲み会がありました。
入社三年目の頃だったと思いますが
私、仕事の方がさっぱりでしたので、こういう催しの幹事によく任命されました。
ある飲み会で、
その日は私、チームの頭目である上司に少々腹を立てていました。
後輩と先に入り、
上司や先輩諸氏が来られる前に一人で一升瓶を空け
皆さんが来られたときにはすっかり出来上がっていて
それから会が終わるまで上司に無礼を働き続けたそうです。
その日は、会が閉まった後、先輩と後輩に肩を担がれ
ビジネスホテルに担ぎ込まれてバタンキューでした。

いまでも悪い事をしたなぁ、という思い出もあります。
同期入社の姉御肌の友人が入社四年目で退職した時の送別会の出来事です。
先輩諸氏に混じって竹嶋と私、参加しました。
場所は北、ナビオの東にあった(今もあるのかなぁ)小洒落たワインバーです。
先輩諸氏と一緒という事で気が大きくなり、竹嶋と私、次々とワインを注文しました。
12本目までは覚えています。
ワインバーというところはグラスが空にならないと下げてくれないのです。
先輩諸氏はグラスからちょっと口に含む程度で、テーブルには黒色、レッド、ピンク、琥珀、白等々の液体が入ったグラスが溢れています。
竹嶋は自分のグラスで戯れています。
私は『もったいない精神』と『調子乗り精神』が全開し
次々とテーブルの上のグラスを空にしていきました。
竹嶋と私、すっかり当日の主役を忘れて騒いでました。
店を出るとき、
竹嶋は何かものを壊したのでしょうか
店からレッドカードを突き付けられました。
私はというと、ハハ、覚えていません。
当日の主役からは後年になっても、手紙等で微笑みともイヤミともつかぬ一文が添えられていました。

こんなお酒の飲めぬ私でも、冬になると酒が恋しくなります。
昨夜の様なしーんと冷え込んだ夜などはなおさらです。。。

おはなし会担当日が近づいてきました


お早うございます。
ひぃー!寒いっ、ですね

寝ぼけ眼で、5時頃外に出ますと、満天の空から星が降ってきました
ハッと息を呑みました、何だろう、一気に眼が醒めました
きっと、
天空で繰り広げられる悠久の営み
その神々しさに感激したからだと思います。

寒空の下で暫し天上を眺めていました。
西にオリオン座が見えます。
そして東、北極星がひときわ輝いています。
頭上から東に光が流れました。


今日は休日、
26日のおはなし会で読む本の選定と
朗読練習に勤しみたいと思います。

映画『いちご白書』が観たい!


70年代のアメリカン・ニューシネマをモチーフとした歌があります。
大塚博堂『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』
そして
荒井由実、バンバン『いちご白書をもう一度』です。
どちらも好きな歌で十代の頃よく歌ってました。

当時は、エセ蛮カラで
髪を伸ばして髭伸ばし、汚いジーパン履いて下駄履いて、フォークギター片手に闊歩してました。
恥ずかしかったのは下駄の歯が折れたときです。前ならまぁなんとか歩けましたが、後ろは駄目です、そんときゃぁ裸足でした。
70年フォークに夢中でした、しかしギター演奏はさっぱりでした。。。
でも少し上達した時期もありました。
19歳の頃、同じ学生寮で長渕剛のコピーがめっちゃめちゃ上手い富山出身の友達に幾つかの曲の演奏を教えてもらいました。
そして
『順子』、『巡恋歌』弾けるようになりました。

また道を外してしまいました、ゴメンなさい。。。

『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』は
ダスティン・ホフマン主演の
『ジョンとメリー』、そして『卒業』のシーンに重ねて
中年にかかり始めた男の、若い頃の恋人を今も慕う切なさが歌われています。
でも当時は、詩の意味などまったく分かっていませんでした。
それでも、大塚博堂の声に痺れてました。

***

作詞 藤 公之介 作曲 大塚博堂

テレビの 名画劇場で
「ジョンとメリー」を 観たよ
ダスティン・ホフマンが 主演の
行きずりの恋の お話しさ

まるであの日の 二人みたいで
胸が熱くなって 仕方が なかった

君にもう二人も 子供がいるなんて
僕の回りだけ 時の流れが 遅すぎる


君と一緒に観に行った
「卒業」を 覚えているかい
花嫁を奪って逃げる
ラスト・シーンが 心に染みたね

なのにあの日 僕は教会で
君を 遠くから 眺めてるだけだった

君にもう二人も 子供がいるなんて
僕の回りだけ 時の流れが 遅すぎる

ダスティン・ホフマンになれなかったよ
ダスティン・ホフマンになれなかったよ

ダスティン・ホフマンになれなかったよ
***

『いちご白書をもう一度』は
60から70年にかけての学生闘争を取り上げた映画『いちご白書』。
この映画の主人公を真似て闘士を気取っていた男、彼女もいて学生生活をエンジョイしてましたが就職が決まると、働きマンに変わります。
そして数年後、街角の破れかけた映画ポスターを見て、当時の事を思い出す。

***

作詞・作曲 荒井由実

いつか君と行った 映画がまた来る
授業を抜け出して 二人で出かけた
哀しい場面では涙ぐんでた
素直な横顔が 今も恋しい

雨に破れかけた 街角のポスターに
過ぎ去った昔が  鮮やかに甦る

君を観るだろうか 「いちご白書」を
二人だけのメモリー どこかでもう一度


僕は無精ヒゲと 髪を伸ばして
学生集会へも 時々出かけた

就職が決まって 髪を切ってきた時
もう若くないさと 君に言い訳したね

君を観るだろうか 「いちご白書」を
二人だけのメモリー どこかでもう一度

二人だけのメモリー どこかでもう一度
***

二つの歌共に、別れた彼女を思い出す歌でもあるわけですが
『いちご白書をもう一度』はカラッとしてます。
作ったのが女性、ユーミンであったからだと思います。
そう思うと、男は粘着力がありますね、恥ずかしながら。。。


そうそう、大ニュース
映画『いちご白書』がリバイバル上映されることになりました。
日本での初公開から40年振りとなる上映だそうです。
またこの映画はDVD化されていない、幻の映画なのです。
私、まだ一度も観た事がありません。
是非観たい、と思っています。

『いちご白書』公式サイト

関西(観に行ける劇場)では

大阪・テアトル梅田(MBSの近所ロフトの地下だそうです)
平成23年12月10日(土)から公開

テアトル梅田ウェブサイト

神戸アートビレッジセンター・KAVC(JR神戸駅西1㎞)
こちらはウェブサイトに公開の記載がなかったのでメールで問い合わせしたところ
『今のところ上映予定はございますが、上映時期については未定』との返事

KAVCウェブサイト

観るなら近いKAVC、でも上映予定を再三チェックするのは邪魔臭いし、
12月、大阪に出かけようかなぁ。。。
観終わった後、久し振りに梅田で一杯やりますか。。。

2011年11月21日月曜日

『ガラスの腹、鉄の腹』


昨日の事です。
腹ぺこ状態で仕事から帰ってきたら、妻と娘が買い物で外出中、
台所のテーブルの上に、タッパに入った作り置きのハンバーグがあったので、一つをぱくりとつまみ食いしました。

暫くして二人が帰ってきたので、
『腹減ってたんで、つまみ食いした』と悪態をつくと
妻から
『お父さん、あれまだ生焼きやで、大丈夫』と言われ
娘からは
『お父さんのこっちゃから、何食べても大丈夫や』と言われてしまいました。。。

あれから30時間経ちますが、お腹大丈夫です

そういえば、昔こういう事がありました。
二十歳の頃、隣に住む富山出身の友達のお母さんから、かまぼこの詰め合わせを貰いました。いやぁ、デパートの贈答品売り場でしか見た事のない上等な品でした。
いっぺんに食べてしまうのはもったいないんで、数切れずつ切って、また箱に戻していました。

数日後、
『おぉ!、海老が入っている(赤い点々があった)』
と喜び
また数日後、
『わぁ、海苔も入っている(緑の点々もあった)』
と喜びました
そして、その数日後
『エぇっ、毛が生えている。。。』
それがカビである事に気付きました。
他のまだ手付かずだったかまぼこも全滅でした
結局、捨てる羽目になりました。

季節は梅雨、部屋には冷蔵庫などのという上等な品はありませんでした。
でも、お腹大丈夫でした。

でも、このお腹完全に壊した事があります。
あれは27,8歳の頃です。
仕事が終わると、仲間と毎日のように京橋や北、兎我野町辺りで呑みました。
当時の私は、
いいあんばいになってくると(酔いかけです)
辛いもの、たとえばわさびの盛り、
爪楊枝の先を前歯でさじにして
それをすくい、酒を呑んでいました。
ある日、居酒屋でいつものようにいいあんばいになってきました。
でもわさび盛りがありません。
それで、小皿に醤油を垂らし、七味を振りかけて
それを舐めながら一杯やろうと思ったのでしょうが
蓋が外れて中身が全部小皿に落ちました。
それにまた醤油を垂らし、七味の練りができました。
後輩の奥田君が、それを下げてもらおうとしたのですが、
私はそれを制して、
ニカッとして、それをスプーンにすくいました。
賢い奥田君はヤバイと思ったのでしょう
トイレに逃げました。
他の後輩に
『食べっ』というと
『食べられない』との一同からの返事
『食べられる』とぱくりと口に放り込みました。。。

翌日は休日で、ボテの英検について行き
姫路近辺のどこかの学校の駐車場で待っていますと突然に、
来ました、七転八倒の苦しみが。。。
それから2日間、上からも下からも何も出ず
また何も食べられず
ひたすらトイレで過ごしました
『死ぬ』と思いました。

私の腹はガラスでしょうか、鉄なのでしょうか
今もって分かりません。

2011年11月19日土曜日

私の大好きなクリスマスのしらべ、見つけました!


お早うございます。

iTunesで音楽を検索、視聴していたら
Joemy Wilsonさんの GiftsⅢ~Christmas Music from Around the World~がダウンロードできることを見つけました。

Joemy Wilsonさんは、アイルランドの民族楽器ダルシマー奏者、アメリカのNew Haven, Connecticut出身とWikipediaに書かれていました。
ダルシマー、素朴な西洋琴、そのピンと張られた糸を木琴の様にスティックで打ち鳴らすと、天女が舞い踊るような心弾む音色が響きます。
また、出身が”New Haven”、いやぁ本当に天女の音色でした。

GiftsⅢ~Christmas Music from Around the World~(CD)は、約20年余前、JR大阪駅の中央口から西口のホーム下一階にできた商業施設内のインポート雑貨店(いろんな不思議なアイテムが揃っていました。会社からの帰り、よくその店に寄って楽しい時間を過ごしたものです、今はもう無いです。)で購入したものです。

ずっと大好きなアルバムで、特にクリスマスに聴くと心が弾みます。
昨年、YouTubeにアップした絵本『ポーラ・エクスプレス』の挿入曲として使用させて頂きました。

Joemy Wilsonさんのクリスマス・ベルの様な心弾む音楽をこれらも楽しみたいと思います。

2011年11月17日木曜日

TPPについての短い考察


いまや国論を二分するTPP参加の是非。
TPPは『黒船』
開放すれば日本の産業、経済、金融、そして医療システムは崩壊する、と陣を張れば
否『箱船』
今後の世界経済の軸となるAPEC自由貿易圏に入り、その成長を取り込まなければ日本の将来は無いと陣を張る

TPP(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership、環太平洋戦略的経済連携協定)
2006年発足時の目的は、世界経済の中で小国であるシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4か国が提携によって、その中での影響力を高めることであった、とあります。
しかし、これからの成長が見込まれる環太平洋経済圏で盟主にならんとして米国が参入したことにより、米国主導での、巨大な自由経済域、市場経済域の構築へと目的が移っているように思います。

TPPの先には、
FTAAP(Free Trade Area of Asia-Pacific、アジア太平洋自由貿易圏)があります。
環太平洋地域のEUもどきです。

TPPに参加しなければ、それが始動した後の加盟には高いハードルが課せられるでしょうし、参加しなければ、パーティーにも招待されず、情報も一切入ってこない。日本が経済の活力を外需に求める限りTPP参加は必須といえるでしょう。

大切な事は二つです。
一つは
TPP或いはその先のFTTAPの詳細なルール作りはこれから始まるということです。
経済域を無法な自由競争域にしないこと、
そして米国を幹とするツリー構造ではなく、各二国間それぞれが共存共栄の強固な線を結ぶスター構造を構築すること、
参加各国の議決権を平等にすること、
です。
自国への利益誘導に走るのではなく、互いの、地域の共存共栄を目指す、という指針でのルール作りです。

二つ目は
国内の既存産業、既存システムは各国固有のものであります。それは政治、宗教、文化と同様に不可侵です。(当然ながら、良いものへと改修もしくは一新されなければなりませんが)
『保護』などと非難される筋合いのものではないのです。
すべてが『フリー』となれば、『国のかたち』がなくなってしまいます。どの国もそんなことは望んではいないでしょう。

『黒船』か『箱船』かという論議はナンセンスです。
日本として必要ならば参加しなければならない。そして、各国と協力し最善なシステムを作ることに努力することです。機会は一度しかありません。

そして今、日本が本当に向き合わなければならない事は

真の豊かな国、強固な国作りです。
それは、
・多様な価値観・生きる目標を与える教育
・そして、多様な人生が歩める、仕事ができる土壌
を求め耕す事だと思います。
『空洞化』を見過ごすのではなく、
芯の芯まで中身がしっかりと詰まった国作り、そして多くの国民がこの国で生まれて良かったと信じられる国に立ち返る事だと思います。

2011年11月16日水曜日

今生きているうちから、大切にしたい事


お早うございます。
昨日から冬の到来を告げる寒波に日本中が包まれましたね、今朝も寒いです。

一昨日伯父が亡くなり、昨夜は仕事を終えた後、通夜(はもう終わっていましたが)に顔を出しました。伯父とは久しぶりの再会、享年97歳とは思えぬ綺麗な顔でした。思わず、『おっちゃんお久し振りです、でもおっちゃん男前やったんやな』と思わず笑顔で語りかけていました。今日は告別式、最後のお別れです。

昨日、寝る前にパソコンを開くと、安川さんから昔の上司が亡くなった、という訃報が届きました。亡くなられたのは12日で、すでにお見送りも済まれたようです。
主任に昇格したときの所属部の部長でした。筋肉質で目鼻立ちがハッキリとした男前、そして人情家でした。

昨年12月、同期入社であった同年のアネキ肌の友人が逝きました。
半年間手紙の遣り取りをし、完治を本人も私も信じていましたが、叶いませんでした。
当時の喪失感は本当に深かったです。

私もいつか逝くし、またこれからも大切な人を見送るでしょう。
これは自然です。
ですが、それぞれの人との思い出、記憶、絆は永遠だとも思うのです。
だからこそ、今生きているうちから、大切にしたい、そう思います。

2011年11月15日火曜日

『勘弁してくれ~!!!!』な真夜中の出来事


寝ていると

低い唸り声で眼が醒めました。恐ろしい声です
声の所在は妻でした。

思わず近づいて、
『起きー!』と叫び
額を叩いて起こしました。
『なんか怖い夢でもみたんか』と聞くと
蒼白な顔で
『殺される夢を見た』
まだ醒めやらぬ顔と声で答え
そしてまた深い眠りに戻っていきました

時計を見ると二時前です
寝ていて、こんな恐ろしい経験は2度目です
昔新人社員の頃、社員寮の二人部屋に住んでいた頃
同室者の『ガチガチ』というこの世のものとは思えない
歯軋りに飛び起きて以来です。

妻はその後、すーすーと寝息をたてて寝てしまいましたが
残された私は
恐ろしい声が耳に残り暫く眠れませんでした。

今日は若干寝不足です。。。

『ややこしい夢見るな~!!!』
『めっちゃめちゃ、怖かったやんけ』
『勘弁してくれ~!!!!』

寒気が流れ込んできます


お早うございます。
今日はよく冷えていますね、寒いです。

5時に外にでますと、夜空には薄い雲が北から南へ流れていました。
寒気が流れ込んでるんだなぁ、と実感しました。

夜空から降り注がれる灯り、月明かりや星の瞬きですが、本当に優しい光ですね
今朝もまた、暫し空を見上げていました。。。
(すっかり体が冷えてしまいました、寒いです)

2011年11月14日月曜日

『心なりけり』


お早うございます。
週末のトレカ大会を終えました。昨日は、途中で持久力が途切れてしまい、後はながら業務となってしまいました。うーん、遺憾です。。。

朝外に出ました。
明けの空に薄く月がありました。空を見上げ目を凝らしていると星の瞬きが見えました。
吐く息が白かったです。
冷たく澄んだ空気を吸い込むと心が洗われました。
高杉晋作の時世の下『住みなすものは心なりけり』の『心なりけり』が浮かびました。
そうですね、昨日の遺憾を思い煩うこと無く、
スッキリとした心で、チームのみんなと協力して、お客様をお迎えする
『心』を整えて
今日一日を過ごしたいと思います。

2011年11月12日土曜日

絵本を二冊買いました。

こんばんは、

仕事を終えた後、
絵本『つみきのいえ』買いました。

それと、リサイクル本コーナーで、
『こぐまのムースとねずみのロゼッタ』に出会いました。
この物語は、以前に読んだ記憶があります。

26日のおはなし会に丁度良いかな、と思い
500円で購入しました。

ラッキー!

2011年11月11日金曜日

絵本『つみきのいえ』感想


仕事を終えた後、単なる本好きの親父に戻って店内をぶらつくことがあります。

書店の入り口右角に『絵本のコーナー』がありまして、
『つみきのいえ』という絵本をしゃがみ読み(立ち読みの変形)しました。
この『つみきのいえ』は、2008年に発表された日本の短編アニメーション映画『つみきのいえ』を絵本にリメイクした作品です。

物語のあらすじです。
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水面に突き出た家に、一人の年老いた男が住んでいます。
男の住む世界は水かさが増え続け、男はこれまでも住まいが水に浸かる度に部屋の上に部屋を作り、その『つみきのいえ』の最上階の部屋に住み続けてきました。

ある日、また部屋に水が浸入してきました。
男は新しい部屋を作り始めますが、大切な大工道具を水に落としてしまいます。
大工道具は数階下の部屋に落ちたようです。
男は潜水服に着替えて、水の中に入り大工道具を取りに降りていきます。

大工道具があった部屋は、
最愛の妻と最後に過ごし、妻の最後を看取った部屋でありました。。。

そして男は、切なくも懐かしい思い出を求めて、階を下っていきます。

娘が嫁いでいった部屋

飼い犬がいなくなった部屋

娘が学校に進んだ部屋

そして

まだ、水に侵されなかった世界
太陽は輝き、草木は萌え、草原の中で
幼い少年は大切な少女と歓喜の中で駆け回ります。
二人は成長し、
大きな木の下で結婚の誓いを交わし
草原の中に小さな家を築きます。

水底の薄明かりの世界で『つみきのいえ』の一番下の部屋
『最初の小さな家』に辿り着いた男は
水底から水面に向かって延びる『つみきのいえ』を見上げます。

『いえ』は、男の大切な人生の積み重ねの記憶でありました。。。

男は、新しい最上階の部屋で穏やかに過ごします。
新たな明日の始まりです。。。
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水彩のタッチで描かれた絵は、とても細やかで穏やかで、そして文字など不要と思える程に多くのメッセージを語りかけてくれました。

読み始めは、『世界の終わり』が描かれた重々しい物語かと思いましたが、

男がアルバムをめくるように記憶を辿り
そして水底から『つみきのいえ』を見上げるシーンに至って
自身の大切な記憶の守り人であるという静かな誇りを、
男は感じているのだろうなと、とても厳粛な気持ちを覚えました。


『人生』って、これまでの経験の積み重ねなんですね。
喜びも悲しみも、すべての経験があって今日がある。
明日の『人生』を喜びを持って迎えられるよう、今日を歩みたいと思います。


p.s.
そうそう、しゃがみ読みして、買わずに棚に戻した本ですが、
やっぱり買おうと思います。手元に置きたい一冊です。

それから、
短編アニメーション映画『つみきのへや』ですが、
絵本とは、また違った深良い印象を覚えました。
こちらも鑑賞、お薦めです。

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※2012年に制作した絵本朗読です

2011年11月2日水曜日

映画『ステキな金縛り』観てきました。


昨日、映画『ステキな金縛り』観てきました。ホント、昭和の爆笑神藤山寛美の新喜劇の様でした。大笑いあり、くすっ笑いあり、また涙誘われるきゅんとした切なさあり、エンドクレジットの直前には、落ち武者亡霊役の西田敏行が観客席に向かって手を振り『有り難うございます』と仰る、いやぁ、スタンディングオベーションしたくなる衝動に駆られました(さすがに映画館内でそれをやるのは不味いという抑制は働きましたが。。。)
観終わって幸福感に満たされました、ホント『ステキなひととき』でした。

2011年10月31日月曜日

第36回鹿島中文化祭 3年劇、本当に楽しみました。有り難うございます。


館内に映画『シンドラーのリスト』メインテーマ曲が流れ、スクリーンにホロコーストの映像が映し出された。
オープニングから胸がグッと熱くなりました。
そして、照明が落とされた館内、観客席の通路にスポットライトが当てられ、ユダヤ人の群衆が、ドイツ兵に追い立てられるシーン、そして物語は始まった。。。

金曜日、鹿島中第36回文化祭、体育館で行われた午前のプログラムを観賞しました。

最初のプログラムは1年生合唱、
軽やかな歌声が館内を巡ります、そして指揮もピアノ伴奏を生徒です。プロ裸足、これが今風なんですね。。。

ふと中三の今は無き大塩中学校の音楽会を思い出しました。
担任は、剣道部の顧問スケゾウ先生、私たち剣道部員に対して『お前ら、叫ぶように歌えェ~!』と送り出され、私は男女が左右に分かれた中央前に位置して、合唱曲『太陽がくれた季節』を叫んで歌いました。
サビの部分『君も今日からは僕等の仲間』と歌うところを『君は』と歌い出してしまい、『あっ、間違えた、君もや!』と叫んで歌い直しましたが、その後はもう完全に舞い上がってしまいました。頭にあるのは『とにかく叫んで歌わなあかん』でした。そして、2番でも同じサビの部分を同じく間違え、同じく歌い直しました。
講堂に詰めた家族達の前から後ろに笑いが広がっていくのが見えました。また舞台に上がったクラスの連中も私が2番を間違えたところでもう誰も歌わず笑っていました。
全てが終わって、1位2位と発表された後、生徒会特別賞として生徒会長兼剣道部主将のボテが『喉が渇いたで賞』を私のクラスに授けてくれました。
スケゾウ先生は、なにも言わずただ笑っていただけ、であったように思います。

話が逸れてしまいました、戻ります。

披露された4曲とも、これまで聴いたことのない?歌と思うのですが、
1組が歌った『旅立ちのとき』は、映画『もののけ姫』の世界感に通じるなぁ、なんてふと思いました。

そしてプログラムは3年劇、

3組の『ゆうたっちょの中学生絵日記』
消極的な少年と中学を卒業したら花火職人の道に進むちょっとやんちゃな少年を中心とした中学3年生時代の物語です。
秀逸だったのは、事件が起こる度に、先に消極的な少年の勇敢な妄想が演じられ、そして辛い現実に戻って話が進むという演出です。そして、少年達の心の叫びを、舞台の袖付近でスポットライトに当てられた少年達が観客席に向かって叫ぶのです。
また、3組は体育大会のクラス対抗で最下位でした。その自慰的な台詞が挿入されていたので、思わずクスッとしました。

合唱でも感じましたが、舞台で演じる事への怖さ、緊張がなく、本当にはじけて楽しく演じている彼らがとても逞しく思いました。

4組の『アウシュビッツの灯火』
前文で書いたように、ホロコーストの時代、人の子の『良心』と『尊厳』を描いた、とてもシリアスで、またメッセージ性の強い舞台でした。
まず、演出が素晴らしかった。冒頭のスポットライトに照らされるシーンは、まるで寒々とした収容所内で刺すようなサーチライトに怯える囚人になった様に思えました。
そして、演じる生徒達の朗々とした潔さです。
ラストシーン、一人のドイツ人将校によってかくまわれ、強制収容所からアウシュビッツのユダヤ人処分場へ送られなかったユダヤ人少女の目前で、その将校が殺され、その将校を殺害した自戒で良心に眼が醒めた別の将校が自分の盾となり殺されます。
少女は、その死によって、自らの命の『尊厳』を取り戻し、銃口を前にしても恐れることなく死に向き合います。
本当に素晴らしい作品、そして演技でした。4組のみんなに感謝です。

1組の『We Are 3-1』
気が抜け、気持ちがばらばらのクラスに、一人の天真爛漫な若い女性教師(藤原先生?)が担任を受け持ちます。
クラスの中にダンスに夢中になっている少女がいます。藤原先生?は彼女の熱中さを見て取り、これぞクラス団結の一助と閃き、文化祭のクラス演目として提案、そして文化祭に向け、ダンスに取り組んでいく中で、クラスがまとまっていく。。。
台詞が、普段の生徒達の日常会話そのままのように自然で、生徒達のちょっとした辛さ、可笑しさを垣間見るようで微笑ましく思えました。

2組の『男でしょ!』
こちらは、昨日まで女子校であった高校が舞台で、新しく数名の男子生徒が入ってくるところから物語が始まります。
2組の演技の見所は、
息の合ったチームプレーです。女子達のペチャクチャ話から調子を合わせた歓声、そのキャピキャピとした演技はとても溌剌としていました。そして、女装した男子の演技、堂に入った演技でわらかしてくれました。
物語は、最初『ひ弱』と揶揄された男子が、料理上手であり、また真面目でとてもクラスの仲間思いである事が分かり、ついには女子を含めて、クラスが一つにまとまっていきます。
男子の演技が、とても『ナヨナヨ』していて、本当に『みんな役者やのぉ~!』と感じ入った次第です。

我が息子、耕太郎も舞台に上がっていたらしいのですが、結局分からず終いです。
彼はどこで何をしていたのやら???

2011年10月30日日曜日

『コンピュータウィルスについて』


最近、衆議院サーバーを標的とした、また防衛産業の機密データが格納されたサーバーを標的とした『サイバー攻撃』のニュースを読むにつれ、日本の防衛・防御に対する意識の低さは、憂慮を越えて危機的状態に陥っていると感じます。

日本の国家、政の中心である国会議事堂内の衆議院サーバーが何ものかに乗っ取られ、また軍事機密、或いは海外との密事が抜き取られた?かもしれない事態であるのに、被害の程度を小出しするだけで、危機を自ら発信するでなく、ひたすら自らの落ち度を隠そうとしているとしか見えないのです。

今回の衆議院サーバー乗っ取り事件では、
悪質なウィルス、マルウェアとして
『キーログ』、『インプラントjpeg』、『ボット』そしてコンピュータ制御システム(OS)の脆弱性が悪用されたようです。

『キーログ』とは
キーボードを打鍵してコンピュータに入力した情報を、平文で全て記録するソフトの総称です。コンピュータでは、例えばサーバーにログインする画面で、利用者ID、パスワードを入力すると、その入力データをOSが受け取り、OSは通信を担うソフトにデータを渡し、ソフトは通信手順・暗号化手順に従ってサーバーに暗号化されたデータを送信します。
OSの脆弱性を突いて『キーログ』が仕組まれると、暗号化される前のキーを打鍵した平文の入力データが全て記録されます。通信機能が合わされば、どこにでも記録を送信します。
先の例で、もしサーバー管理者が管理者権限でサーバーにログインするためにID、パスワードを入力すると、その時点で、サーバーを乗っ取るのに十分な情報が悪意ある者の手に渡るのです。

『インプラントjpeg』とは
見た目は静止画像ファイルです。jpegはパソコンのごく一般的な画像ファイルの形式ですが、『インプラントjpeg』は、jpegの中に別のオブジェクトを格納します。
格納されたオブジェクトが、マルウェア本体であったり、マルウェアを外部から呼び込むスクリプトであったりすると、インプラントを取り出すソフトを実行した時点、或いは画像ファイルを開こう(画面に表示する)とした時点でマルウェアが実行し悪意あるウィルスに感染することになります。

『ボット』とは
コンピュータを遠隔操作するためのロボット兵士ソフトです。マルウェアである『ボット』に感染するとコンピュータは『ボット』に乗っ取られます。
そして、ネットワークを通じて次々に感染したコンピュータは、通称『ボットネット』或いは『ゾンビ・アーミー』と呼ばれ、一つのネットワークが丸ごと乗っ取られることになります。
支配者、通称『ボットハーダー』は、外部から『ボット』を通じて、コンピュータをネットワークを思うがままに操ることが出来ます。

コンピュータ制御システム(OS)の脆弱性の悪用とは
大まかな話です。
例えば、コンピュータに10の機能があるとします。
5は、公開された機能(マニュアルに記された機能)
3は、隠し機能(マニュアルに記されていないシステム運用者、開発者向け機能)
2は、未完の機能(今システムのリリースで完成できなかった未完の機能)
です。
ソフト(プログラム)開発は、開発手順がシステム化され、多くの工程は自動化されているものの、根幹は人の手によります。何百万ステップを超える巨大なソフト、OSには少なからずバグ(プログラムの誤り、脆弱部分)が内包されます。
このプログラムの脆弱部分や、隠し機能或いは未完の機能をコンピュータのバックドア(鍵のない裏口)として、悪意あるソフトは外部と密かに通信します。

この度の衆議院サーバーの乗っ取りを検証してみます。
(但し、あくまでも推測です)

衆議院サーバーなど高度な機密を保持するネットワークシステムは、外部との通信を検閲するファイヤーウォール(防火壁)・コンピュータの内部にあります。表面的には幾十にもセキュリティが掛けられているはずです。

①議員A氏に、支援者と称するXからメールが届きます。画像ファイルが添付されています。
⇒添付された画像ファイルは『インプラントjpeg』、悪意ある者Xからの『トロイの木馬』攻撃です。

②A氏は、添付ファイルをクリックして画像を表示します。
⇒画像ファイルにインプラントされたスクリプトを実行、スクリプトにしたがって、外部からバックドアを通りマルウェア(『キーログ』と『ボット』)をダウンロードし、起動します。

③『ボットハーダーX』は、『ボット』にコンピュータのアドレス帳を利用して全ての宛先に複製を送信する指示を与え、『ボット』はA氏になりすましてメールを送信する。
⇒次々に感染したコンピュータ『ゾンビ・アーミー』となって、Xの支配下に置かれます。

③利用者がキーボードから入力した情報は『キーログ』が全て記録し、Xに記録データを送信します。
⇒Xは、記録データから管理者IDやパスワードなど欲しい情報を取り出します。

④『ボットハーダーX』は、『ボット』を通じて遠隔操作でコンピュータを操作し、機密データを抜き取ります。

以上が推測のストーリーです。このストーリーは、『』のキーワードを元に、姫路ジュンク堂のコンピュータ欄にあったハッカー入門、セキュリティ管理、ウィルス作成等の書籍を立ち読みして得た少ない情報で描いたモノです。
もっと高度なコンピュータやネットワークの知識を持つクラッカー(悪意を持ってコンピュータに侵入し、盗んだり破壊する者の総称)などは、IDやパスワードなどなくても、コンピュータ制御システムの根幹の脆弱性(開発者も気付かない)を突いて侵入し、コンピュータを乗っ取ります。

私たちは、『便利さ』『速さ』『楽しさ』そして『共有』の名の下にインターネットに常時接続されたコンピュータを何の疑念もなく使っています。
もし、悪意ある者が『アプリ』の裏に潜んでいようものなら簡単にコンピュータを乗っ取られてしまうのです。家庭のパソコンもしかりです。

ですから、コンピュータ利用者は、自己責任がついてまわる、という事を肝に銘じてコンピュータを利用しなければいけない事態なのです。
さらには、衆議院サーバーなどの機密性の高い情報を保持するコンピュータは、極論を言えば、現状ではインターネットに、否ローカルネットワークにさえ接続してはいけないのです。
機密性の高い情報は、たとえ不便でも物理的な堅牢な錠前が掛かった金庫部屋にしまい、取り出しは保守員が行う、という手段しかない、と考えます。

また、アメリカの情報機関や国防省が行っている様に、元ハッカーやクラッカーを雇い入れて防御員としての活躍を与える、という方法も有効です。彼らは天才です。IT企業の何万というSEやプログラマーが束で掛かっても彼らに太刀打ちできないでしょう。

もしくは、ネットワークとコンピュータをもっと機能を限定した単純なものに戻すという方法も有効だとも思います。単純さは複雑な思考を受け付けません、抜け道を持たないからです。

等々、等々

そろそろ、セキュリティも発想転換が必要です。

今朝も夢を見ました。。。-季節は『冬』に向かいます-


お早うございます。
雨音で眼が醒めました、穏やかで温かい雨音。。。
まるで早春の雨の様で、つい数日前の冷え込みがウソのようです。
でも、こうして日一日、寒暖を繰り返し季節はゆっくり冬へと移ってゆくのですね。

今朝も夢を見ました。
『ふと気付くと、先ほどまで雨であった外の風景が、雪景色に変わっており、雪は尚も西風に乗って横殴りに降っていた。
全く音のない静寂の世界で。。。』

二十歳の頃、冬休みが終わって金沢に戻る道中、琵琶湖、湖北で雪国との境界を覚えました。
それまで頭上には陽光が降り注いでいました。しかし、天上を南北に二分するかのように重たい灰色の雲が湖北を境に北を支配し、地上にもラインを引いたかのように、その雲の下からくっきりと白い世界が広がっていました。

最近、ある事象に出会うと、その事象に関連性のある大昔の記憶が鮮やかに甦ってきます。年をとったのだな、とつくづく思います。

2011年10月29日土曜日

本日、第29回全日本少年軟式野球大会高砂予選が行われます。

今日は、向島球場で
第29回全日本少年軟式野球大会高砂予選が行われます。

今朝、藤原監督から
『まず、一勝』
というメールを頂きました。

鹿島中野球部のみんなが素晴らしい空の下で溌剌とプレーし、勝利を手にすることを願っています。

おっちゃんは仕事のために観戦は叶いませんが、サユリスト吉永さんの写真アルバムで試合を追随させてもらいます。

頑張れ~!楽しめ~!

こんな夢を見た。-『原子力について』-


こんな夢を見た。
『見慣れた公道を目一杯のスピードで車を走らせている。
私は但ハンドルを必死で操作してるだけ。。。』

お早うございます。
朝、ソフトボールの試合があるさくらを車で学校まで送っていく最中、ふと夢の話を思い出しました。
随分昔、二十歳の頃だと思いますが、友達に借りたオフロードバイクで林道を走り、下り坂の度にアクセルを吹かして、迫り来るカーブを注視するスリルに夢中になった事があります。今思えば、スリルという『快感』は『死』と表裏でありました。
ただ、今朝覚えた夢は、別の理由から見た夢だと思いました。

それは、
26日に加古川ウェルネスパーク図書館で借りた、池澤夏樹著『春を恨んだりはしない』のある一文が強く心に残ったからだと思いました。
『春を恨んだりはしない』は、3.11以降池澤さんが震災を巡って考え記されたエッセイ、コラム集です。

そしてその心に強く残った一文の引用です----------
『7.昔、原発というものがあった
・・・
ディーゼル・エンジンは二十四時間ずっと燃料となる重油を外から供給し続けてやらなくては動かないが、原子炉の方は年に一度の補給だけで熱を出し続けるのだ。言ってみれば、原子炉というのは下りの坂道に置かれた重い車である。必要なのはブレーキだけで、アクセルはいらない。いかにゆっくりと安定した速度で坂道を降りさせるかが問題なのであって、無限の熱源である炉の周囲にあるのはいくつものブレーキである。すべてのブレーキが壊れれば炉は暴走をはじめるだろうし、その場合に燃料を断ってそれを止めるということはできない。
・・・』
以上、引用----------

私たち人類は、20世紀の飛躍的な文明発達をもたらした化石燃料(石油、石炭、天然ガス)の枯渇問題、或いは化石燃料供給国、需要国のパワーバランスの問題、そして無限エネルギーとしての原子力への渇望から原子力発電へと踏み出しました。
しかし、池澤さんが端的に表現されているように、私たちはそれをまったくコントロールできないのです。『完全に止める』ということ、そして『不要物を無毒として破棄する』ということができないのです。
まさに、『無限の力を得る』は『永遠に怯える』或いは『永遠に従う』の表裏だと思います。

私は、奴隷として『生』きたくはないし、また望まない『死』もお断りです。
たとえ貧乏のままでも、豊かな希望、『生』に向かって歩んでいたいし、最後の時は、自身で『死』を受け入れ大いなる存在の一部に帰りたいと思います。

2011年10月28日金曜日

『流れ星』見ました(*^_^*)


お早うございます。

五時に起き、新聞を取りに外に出ますと、空気は澄み、そして満天の星ははっとする程に輝いていました。
暫し空を見上げていますと、一筋の光が天上から東に流れました、『流れ星』です。
嬉しさが込み上げました、今日も何か良いことがありそうです、感謝。

2011年10月27日木曜日

秋空の下で『エデンを遠く離れて』を読みました。


昨日は、秋空の下、野外で読書を楽しみました。

午前中に加古川ウェルネスパーク図書館で、池澤夏樹さんのエッセイ集『エデンを遠く離れて』を借り、そのまま自宅に戻ろうと車に乗り込みましたが、何かしっくりせず、車を降りて、風景に誘われるままにウェルネスパーク内の芝生斜面を下り、広い芝の公園内を歩いて、外れのベンチに腰掛けますと、空が大きく広がって見えました。

暫く両足を前に突き出して、お尻を浅くして座っていますと、強い日差しに顔面が痛熱くなりましたが、時折吹きつける寒風が、瞬時に冷やし、カラッとした心地よさを与えてくれます。
そこで読書をすることにしました。誰もいない広い公園を独り占めするようにして、二時過ぎまでベンチに腰掛けて、『エデンを遠く離れて』を読みました。

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この『エデンを遠く離れて』は、
昨年9月20日に投稿した記事『星空が掻き立てるロマンの話』で、この記事で取り上げた坂井さんの友人と思われる方からコメントを頂き、そこで一読を勧めて頂いた本です。
またコメントには、『亡くなった天文学者について』のエッセイで夏樹さんが取り上げられた鈴木博子さんは、坂井さん、そしてコメントを寄せて下さった方の研究室指導教官の研究の仲間であり、鈴木さんが残した謎『U45379』は、この指導教官が解かれたと書かれていました。

池澤夏樹さんは、若いころに科学を学ばれており、このエッセイの幾つかも科学者の視点から書かれたものがありました。
『亡くなった天文学者について』
『数字だけで1万ページの本』(πと天才数学者スリニヴァサ・マラヌジャンの逸話)
『窓の外は銀河と真空』(宇宙進出の予言)
『板チョコほどのコンピュータ』(パコソンがポピュラーになるまでの、科学学生必須アイテム関数電卓の話)
『我が肉体はミシンにあらず』(臓器移植の話)
『夜明けのミスと原子力発電所』(機械は愚直、そして人は軽率・うっかりさんという警句)
『進化しつくした道具』(人生の一秒の誤差もない時計の話)

その他にも、領土問題、国境問題、人口問題、恐竜絶滅等々、1987~1990に掛けて池澤さんの社会批判眼で書かれたエッセイ全36編が、多角な世界に導いてくれました。

あとがきで、池澤さんは次の様に記されています。
『ぼくたちはひたすら自然から離れる事で、今見るような文明を築いてきた。・・・暮らしを楽にすればするほどエデンは遠くなる。そういう社会批判も少しは混じっているから、このようなタイトルになった。』

『エデンを遠く離れて』が刊行されて、20年が経ちますが、私達の住む世界は、ますます『エデン(楽園)』から程遠い世界・社会へと進んでいます。

何故に、私たちはこの事態を招いたのでしょうか。
それは、池澤さんの表現を借りれば、『人』と『人』の関係です。
『人』は『社会』そして『国』です。関係は『人が作ったシステム、ルール』です。私たちは自分たちが良かれと思って作った『システム、ルール』によって存在を脅かされるに至ったのです。
では『人』と『自然』の関係はどうでしょうか。『自然』は悠久であり、たゆまなく変化します。人知など及びも付かぬ存在です。

この度の自然災害、原子力問題しかり、人が驕り定めた想定を超えた事故は、『人』にはその収拾さえ思うに任せません。
私たちはまず、『素直さ』に立ち戻らなければならない、そう思います。

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ベンチから仰ぎ見る世界は、広大でしかも一時も変化を止めません。人の子が如何にちっぽけで、でも大いなる存在に生かされている、愛されているかを実感します。

書物(Digitalではなく紙のです)を片手に、自然の中に身を置くと、心に安らぎが広がり、そして前向きに生きる気持ちが与えられました。

2011年10月22日土曜日

スティーブ・ジョブスのセンス


1990年代、私はMicrosoftの若きCEOビル・ゲイツのウォッチャーでした。
1993年、日本のWindowsパソコン黎明期(Windows3.1J発売)に当時最高性能のパソコンNEC-Mateを購入、以後日経パソコン、日経ネットワーク、日経ビジネス、日経Windows?等々の雑誌を読みあさっては、新しいハードウェアやソフトウェアの出現にワクワクしたものです。
その中心にあったのがWindowsであり、Microsoftであり、新しいWindowsが発表される度に基調講演で未来を語る希代のセールスマン、ビル・ゲイツその人でした。

私は1996年6月、Windows95の発表に合わせて、千葉・幕張メッセで開催されたWindows World Expo 96 Tokyoを視察しました。名目は、サーバ機で稼働する業務ソフトウェア製品の情報収集だったと思います。しかし本当の目的は、ショーの初日に予定された大ホールでのビル・ゲイツ基調講演を見ることでした。
これに先だって数週間前にラスベガスで開催された本家Windows World Expo 96 で演じられたゲイツ主演のライブが日本でもそのまま上演されました。
司会は、当時日本ヤフーCEOであった孫正義、本当に興奮したのを覚えています。
実は、誰よりも早く会場入りして、一番前の真ん中の席に陣取っていましたところ、係員が来て、前方エリアは招待客の席であるので、後方エリアの一般客席に移るよう促されました。

このショーで、私は運命的なソフトを手にすることになりました。
それは、Corel Photopaintです。静止画(写真)の加工・編集を行うソフトで、カナダに本社のあるCorel社がWindows上で動くDTP(印刷物を作成するソフト群)として開発・販売を始めたソフトです。

当時のDTPといえば、Apple社のMacintoshでしか動かないAdobe社のIllustrator、Photoshop、PageMaker?が市場を席巻していました。そして、これらはとても高額なソフトで、趣味で買えるようなソフトではありませんでした。

Corel社の製品ブースで、Corel社のDTP製品 Corel Draw(Adobe Illustratorに相当)、Photopaint(Adobe Photoshopに相当)等のプレゼンテーションを視聴した後、最後に行われたくじ引きで、なんとPhotopaintが当たったのです。Corel社の椀飯振る舞いでした。

1995年に民生品として世に出たデジタルカメラ初代機CASIO QV-10を持っていましたので、すっかりパソコンによるフォトレタッチにはまってしまいました。その後、Corel Drawを購入、イラストやレイアウトも学びました。
その後、長男が小学生の間の4年間、PTAの会報誌をWindowsDTPで制作し、WindowsDTPで入稿できる印刷所にE_mailで送り、Digital publishingを実践しました。当時まだWindowsDTPが完成されていない時期に、書籍を買いあさって、方法を調べての試みでしたが、仕上がった会報誌を見て、充実感を覚えたことを思い出します。

その反対に、一分野(この場合、DTP)に置いて市場を独占し、またとても閉鎖的に思えたApple(Apple社は、OSもコンピュータ本体も自社のみで販売)が好きではなく、クリエイティブな仕事をされるプロ御用達のAppleパソコンはこれまで使用したことがありません。(ちょっと触れたことはありますが。。。)


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スティーブ・ジョブスが逝去した後、彼を偉大なクリエーター、イノベーター、或いはエンターテイナーとして賞賛する声が止みません。
私もにわか信奉者となって、ジョブスが2005年スタンフォード大学卒業式で行ったスピーチをYouTubeで視聴しました。
そして、スピーチの主旨である3つの提言以外の、ある話にとても興味を引かれました。
それは、彼が入学したリード大学で学費滞納により最終的に退学するまでの半年間、カリグラフィー(西洋書道、美しく文字を装飾する技術)を学んだこと、そしてそれが後のMacintoshで世界で初めて美しい文字・フォントを搭載することに繋がったという話です。

当時、コンピューターは産業界に置いては、効率的なシステムを実現する道具でありました。学術分野においては高速演算装置です。ただ、XEROX社のパルアルト研究所には夢の技術が満載でした。Windowシステムしかり電子ペーパーしかりです。ですが、やはり効率的なシステムの対極にある芸術的な発想が基となった『美しく見せる』という技術の実現に思い至ったのはジョブスをおいて他にはいなかったと思います。

ジョブスのセンスが、その後の、クリエイティブな仕事においてコンピューターを欠かせない道具に押し上げました。
この実現こそが、ジョブスの第一の、そして最大の歴史的功績だと思います。

2011年10月21日金曜日

スマートフォン・クライシス


昔、私達は一本の電話線で繋がる大切な人に、受話器を通して思いを伝えた。。。
15年以前に青春時代を過ごした方ならばこのニュアンスを受け止めてくださるだろう

この15年で電話は進化した。
携帯電話が普及し、次は多機能携帯電話、音楽が聴け、写真が撮れて、メールもできる。お財布としても利用できる。
そしてこの3年余りで劇的に普及しつつあるのがスマートフォンだ。
画面をタッチするだけで、インターネットが利用でき、様々な便利アプリやゲームアプリを利用することができる。

そして電話のある生活スタイルも様変わりした。
電話はもはや人を固定してつなぎ止めるものではなく、移動しながら利用することができる。しかしそれは、耳と口を主に使う道具から、目と頭もフル回転しなければ使えない高度な道具となった。

現在主流となったスマートフォンへの変遷である。

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この1ヶ月で、スマートフォン絡みの問題提起記事に3つ触れた。

一つ目は、
朝日新聞10月5日朝刊36面『[社会]アプリの陰で情報収集』である。

Apple社のiPhone以外のスマートフォンで主流となっているOS『アンドロイド』上で動く、個々のアプリに組み込まれた『アップログ』という隠し機能によって、スマートフォンの端末固有番号、スマートフォンで利用できるすべてのアプリの名前、アプリを利用した時間帯などのデータが1日1回、『アップログ』機能を作成した会社「ミログ」に送信される。
「ミログ」は、『アップログ』機能を組み込んだアプリ開発者にスマートフォン(端末)1台当たり月1円を報酬として支払い、そして受信した個人データから個人の年齢・性別・好きなアプリ等を推定した後、KDDI子会社で携帯電話向け広告を手がける「メディーバ」がスマートフォンの個人利用者毎に最適な広告を配信する。

問題視されているのは、利用者に存在が見えにくいうえ、どんな情報を集めて何に使っているか、わかりにくいこと。利用開始時には、端末の情報を送信して「広告配信の最適化などに利用」するという説明が表示され、拒否もできる。だが、すべてのアプリに関する情報を取得することや、性向の分析に利用されることはわかりにくい。

と記事は結んでいる。

ここで私達が理解しなければならないことは、
アプリは、プログラミング知識とアプリ開発環境がそろえば、だれでも作成でき、そのアプリによって、利用者が意図しないところで、スマートフォン内に保存されている個人データ・重要データを抜き取り、またスマートフォン自体を勝手にコントロール(この場合、データを特定先に送信する)することができる、ということだ。
テレビのニュースで遠隔操作の脅威に触れていたが、遠隔操作の子機とも呼べるアプリをスマートフォンに忍び込ませることによって、遠隔操作でスマートフォンに海外の有料番号に電話を掛けさせて高額な利用料を請求したり、またカメラ機能で盗撮するのである。これはまさに『今ここにある危機』なのである。
そしてもっとも大事は、スマートフォンは電話の進化でなく、パーソナルコンピュータの一形態である、ということだ。スマートフォンの音声通話機能も1つのアプリがその機能を担っていて、個々のスマートフォンは簡単に安易にネットワーク接続できるパーソナルコンピュータであるということである。

そして二つ目は、
『コンピュータウィルスの蔓延、そしてセキュリティの脆弱さ』である。

先に述べた様に、スマートフォンはパーソナルコンピュータの一形態である。
Microsoftの共同創業者であり現会長、そして現在世界でもっとも大金持ちであるビル・ゲイツ氏が16年前に書いた本『THE ROAD AHEAD (邦題:ビル・ゲイツ未来を語る)』で、ウォレットパソコン(財布サイズの手軽なパソコン)としてその出現を予言していた。

パーソナルコンピュータを利用される方であれば、コンピュータウィルスの脅威と、またウィルスを検知し駆除するセキュリティソフトが必須であることはご存じであろう。
セキュリティソフトはウィルス対策以外にも、インターネット上の悪質なサイトのアクセス禁止や、様々な分野の中から管理者(例えば親が)が利用者(例えば子に)に不適切と考える分野のサイトのアクセスを禁止することができる。
但し、ウィルス対策もセキュリティ機能も、侵略の進化と防人の進化がイタチごっこで、100%の安全はあり得ないのが実情である。

では、スマートフォンというパーソナルコンピュータを利用されている方で、セキュリティソフトをインストールされている方はどれくらいおられようか。
大方のスマートフォン利用者は電話の進化系との錯覚からセキュリティを考慮されていないのが現状ではないかと思う。

スマートフォンはさくさく動く。ユーザインターフェース(利用者の使いやすさ)機能に特化しているからである。それ以外の大切な機能は脆弱である。
それに比べて従来型のパーソナルコンピュータは、その起動やアプリケーションの実行に時間が掛かる。それはOS(Windows等)が、ユーザインターフェース機能以外にも、様々なハードウェア制御、ソフトウェア制御、ネットワーク通信制御そしてデータ保全機能、一部のセキュリティ機能を担っているがためである。これだけの機能があってもセキュリティは万全ではないのが実情である。

この様にセキュリティが非常に脆弱なスマートフォンには個人情報が山盛り詰まっている。利用者個人を特定する情報から、電話帳データ(氏名から電話番号、メールアドレス)そして通話・通信履歴、お財布携帯機能を利用しておればクレジットカード情報までが外部にさらされているのである。
この秋、携帯電話(無線通信)会社は、新型携帯電話として8割方スマートフォンをラインナップし、また次世代高速無線通信3.9G(100Mbps以下)で、動画もゲームもインターネットもさくさく使える、をうたい文句にいっそうの普及を図ろうとしている。その広告からはセキュリティの重要さを唱える文言は一文もないのである。

携帯電話(無線通信)会社は、従来型のパーソナルコンピュータで顕在化した問題に対して、なんら対策を講ずることなく、携帯電話利用者を無法地帯に送り込んでしまったのである。

三つ目は、
『スマートフォン利用者が引き起こす接触事故多発』である。

駅のホームで、スマートフォンの画面を見入りながら歩く大人に、児童が蹴飛ばされて怪我を負ったという事件である。いずれ本人が、もしくは巻き添えを食らってホームから落下、等という取り返しがつかない事故、事件に繋がりかねない事態である。

最近、交通法規が改正され、悪質な自転車ドライバーにも法の網が掛かるようになった。近い将来、もしかしたら悪質な歩行者にも法の網が掛かる事態になるかもしれない。

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私達は、『便利だから』、『楽しいから』があらゆる事に優先されるべきでないことを知っている。しかし知ってはいるが、企業もそして個人も『効率さ』『速さ』という『安易さ』『容易さ』で決断し行動する風潮にすっかり毒された感がある。
企業のそれは、人という資産を工場の流れるラインの一装置程度と見なし、ラインが止まれば仕事を奪い、また業績の悪化は即工場閉鎖で、地域の雇用喪失や経済沈下などお構いなしだ。
個人においても、自己中心的で、そのくせに回りとの関係をつなぎ止めておかなければ不安で仕方がないのである。

手のひらにのるスマートフォンは、現在の私達が生きる世界の様々な問題の上に鎮座している。

smartphone、否
a smell of rotten phone
として、問題を喚起すべきではないか、と思う。

2011年10月20日木曜日

『一富士二鷹三茄子 厄除け三兄弟』


お早うございます。
秋祭りも終わり、いよいよ秋が深まってきました。
『天高く馬肥ゆる秋』、
何をするにも、良い季節であります。

一昨日、三体のキャラクターを作りました。
名付けて
『一富士二鷹三茄子 厄除け三兄弟』
です。
さくらと耕太郎が保育園児の頃に作った
鬼のお面をモチーフにデザインしました。


この10月からオープンした書店に勤めていますが、
そこは新刊販売以外に、
リサイクル本販売・買取、
文具販売、
リサイクル映画DVD販売、
TVゲーム機、ゲームソフト販売、
プラモデル・モデルガン販売、
ジグソーパズル販売、
トレーデングカード販売・買取、
そして
トレカ大会
を行っていまして
私は、特に本・文具以外を主に担当
特にトレカ大会は、土日開催で試行錯誤しながら
お客様の協力を頂きながら楽しく運営しています。

トレカ大会、
書店オープンから二週間は、新品トレカを賞品にしていましたが、
今週からは
TVゲーム、プラモデル・モデルガン
そしてトレカ購入で貯まる・使える
ポイントカードのポイントが賞品となります。
そのポイント引換券をデザインし、作成しました。
『一富士二鷹三茄子 厄除け三兄弟』を
この引換券のアクセントに使用しています。
昨日、店長の使用許可を頂きましたので
22日の大会から使用します。

『ポイントカードがトレカになったら面白いなぁ~』
(心の声です。。。)

2011年10月15日土曜日

本宮は明日に延期となりました


お早うございます
昨日は、朝十時頃から雨が降り始め、午後から夜半に掛けてはしっかりと降りました。
昨晩、本宮延期を告げる町内放送がありました
今朝は、通常の土曜日よりも静かです。

娘さくらが今日まで中間考査で、 朝早く駅まで車で送った後、二年ぶりに大塩天満宮の境内に入りました。
昨日の宵宮は、降雨の中、能舞台で獅子舞が披露されたと、さくらがいっていました。
いやいや、あの雨降りの中で、舞子たちは湿気で重く、そして纏わり付く獅子の頭、幕と格闘しながら舞っていたことでしょうね、また雨音で笛、太鼓の音も聞こえ辛かったと思います。

昨日は、朝から一本松連中ボテ宅で、バーベキューで舌鼓してました。
ボテの力作、
雨でもバーベキューが楽しめる様にと
張ってくれた天幕のおかげで、
雨にも濡れず、涼しい風が通る庭で、
昼も遅く二時過ぎまで楽しい時間を過ごしました。
※因みに、写真撮影時、イチャさん居らず写っていません。
一本松連中は、総勢12名で、14日朝は8名が集いました。

私もいくらか甲斐甲斐しく
火を起こそうとしたり、
食材を焼いたり
焼きそばを焼いたり
としたのですが
イチャさんから
『マエダー!
お前はがさつやからジーとしとけー!』
それで温和しく食べ呑んで過ごしてました。
(イチャさん、そしてボテ、ワイらはがさつの三羽がらすやないかェ)

夜の集いには参加せず、
飲み食いしたものの消化に努めました。

今から仕事です。
ちなみに明日もです。
明日は、町に響く、太鼓の音を楽しんで過ごしたいと思います。

2011年10月14日金曜日

祭りの朝


お早うございます
祭りの朝が静かに明けました。
空は雲天、昼頃から雨の予報です


昨夜は、
仕事から帰ってきた後、今年の一本松講頭、谷川君(ボテ)宅に集い、
ご馳走、ビール、酒、そして昔話で盛り上がりました。
昔話・・・
そう、30年前、皆が二十歳そこそこの多感で奔放に生きていた頃の思い出話です。

連中の世話人、中軸とも呼ぶべきイチャさんのセンチな恋物語。。。
学生の頃、
付き合っていた彼女と遠距離恋愛に移行し
そして徐々に疎遠になっていた頃
彼女から1通の手紙が届いた
文面には、スキーに行って大怪我し入院していること、そして
文末に『逢いたい』

イチャさん、その日一緒に遊んでいたボテにその話をすると
ボテは、友達から車を借りてきて、
『今から会いにいこ』
とイチャさんを促し、
クラッチが滑り、ラジオもついていないオンボロスターレットに、ラジカセと毛布を積んで、彼女が入院している名古屋市内の病院に向かいます。

夜遅く、名古屋に着くも、地理もわからず、病院の所在も分からない
迷いに迷って、最後にタクシーの運ちゃんに事情を説明したら
タクシーで病院まで先導してくれたとのこと

そして、病院の駐車場で朝まで二人
毛布に包まって仮眠をとった
ラジカセから流れてくる曲は、
RCサクセッションの名曲スローバラード
『昨日は車の中で寝た
あの子と手を繋いで
市営グラウンドの駐車場
二人で毛布に包まって
・・・』

今朝も、これからボテ宅でおよばれです。
昨夜、ボテ曰く
『明日はバーベキュー、
明日のために、今日は気を吐いて準備した
その力作を見てくれ』
さぁ、今日も感動しにいきましょう!

2011年10月13日木曜日

ラ・ロシュフコーの箴言から『ハングリーであれ、馬鹿であれ』を思う。。。


お早うございます。
今朝は曇り空ですね、そして14、15日は雨の予報。。。
秋祭りは雨中で行う事になりそうです

今朝の朝日新聞、天声人語は、
毎日のコラムを書くうえでの楽屋話から始まり、
ラ・ロシュフコーの箴言を引いて
我才能は?と空想し結ぶ、
とても遊び心溢れるコラムでした。

私にとって天声人語は、新しい出会いの扉ともなっています。
今日は、そう
フランスの文人ラ・ロシュフコーです。
天声人語で引用された箴言は、
『神は自然の中に色々な木を植えたように、
人の中にも色々な才を配した、
だから世界一立派な梨の木も、
ごくありふれた林檎を実らせることはできないし、
最も傑出した才能も、
ほかのごくありふれた才能と同一の結果を産むことはできない
(二宮フサ訳)』

嬉しくなりました。
私の中にも、
まだ見出せていない才能があるのかもしれない、ということをです。

スティーブ・ジョブスが引用した言葉
『ハングリーであれ、馬鹿であれ』は、
求め続けよ、探し続けよ、我の才能を
そして、盲目な程に信じよ、我の才能を
という事ではないかと感じます。

何歳であっても、
『ハングリーであれ、馬鹿であれ』
でありたいと思います。

p.s.
Wikipediaでラ・ロシュフコーを引くと
・1613年9月15日-1680年3月17日
・フランスの貴族
・モラリスト(人間観察から人間の生き方を探求し、箴言などの文章を書き記す)文学者
と紹介されています。

天声人語は、朝日新聞webサイト asahi.comでも読むことができます
http://www.asahi.com/paper/column.html

2011年10月12日水曜日

スティーブ・ジョブスの『伝説のスピーチ』


スティーブ・ジョブスが、2005年6月12日にスタンフォード大学卒業式で行った
『伝説のスピーチ』のビデオと、全文そして日本語訳文です。

《スピーチのビデオ》
スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞 日本語字幕版

《スピーチの日本語訳文》

Steve Jobsのスピーチ、山口訳
私は、この山口さんの訳文が気に入っています。

日本経済新聞web版2011-10-09掲載
「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳
米スタンフォード大卒業式(2005/6/12)
ジョブス氏スピーチ全訳

記事引用-----

亡くなったスティーブ・ジョブズ氏は多くの印象的な言葉を残した。中でも2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、自らの生い立ちや闘病生活を織り交ぜながら、人生観を余すところなく語り、広く感動を集めた。「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」。今も語り継がれるスピーチの全文を、日本語訳と英語原文で紹介する。



世界でもっとも優秀な大学の卒業式に同席できて光栄です。私は大学を卒業したことがありません。実のところ、きょうが人生でもっとも大学卒業に近づいた日です。本日は自分が生きてきた経験から、3つの話をさせてください。たいしたことではない。たった3つです。

まずは、点と点をつなげる、ということです。

私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。

私が生まれる前、生みの母は未婚の大学院生でした。母は決心し、私を養子に出すことにしたのです。母は私を産んだらぜひとも、だれかきちんと大学院を出た人に引き取ってほしいと考え、ある弁護士夫婦との養子縁組が決まったのです。ところが、この夫婦は間際になって女の子をほしいと言いだした。こうして育ての親となった私の両親のところに深夜、電話がかかってきたのです。「思いがけず、養子にできる男の子が生まれたのですが、引き取る気はありますか」と。両親は「もちろん」と答えた。生みの母は、後々、養子縁組の書類にサインするのを拒否したそうです。私の母は大卒ではないし、父に至っては高校も出ていないからです。実の母は、両親が僕を必ず大学に行かせると約束したため、数カ月後にようやくサインに応じたのです。

そして17年後、私は本当に大学に通うことになった。ところが、スタンフォード並みに学費が高い大学に入ってしまったばっかりに、労働者階級の両親は蓄えのすべてを学費に注ぎ込むことになってしまいました。そして半年後、僕はそこまで犠牲を払って大学に通う価値が見いだせなくなってしまったのです。当時は人生で何をしたらいいのか分からなかったし、大学に通ってもやりたいことが見つかるとはとても思えなかった。私は、両親が一生かけて蓄えたお金をひたすら浪費しているだけでした。私は退学を決めました。何とかなると思ったのです。多少は迷いましたが、今振り返ると、自分が人生で下したもっとも正しい判断だったと思います。退学を決めたことで、興味もない授業を受ける必要がなくなった。そして、おもしろそうな授業に潜り込んだのです。

とはいえ、いい話ばかりではなかったです。私は寮の部屋もなく、友達の部屋の床の上で寝起きしました。食べ物を買うために、コカ・コーラの瓶を店に返し、5セントをかき集めたりもしました。温かい食べ物にありつこうと、毎週日曜日は7マイル先にあるクリシュナ寺院に徒歩で通ったものです。

それでも本当に楽しい日々でした。自分の興味の赴くままに潜り込んだ講義で得た知識は、のちにかけがえがないものになりました。たとえば、リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができたました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。

もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。

繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。

2つ目の話は愛と敗北です。

私は若い頃に大好きなことに出合えて幸運でした。共同創業者のウォズニアックとともに私の両親の家のガレージでアップルを創業したのは二十歳のときでした。それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。そして我々の最良の商品、マッキントッシュを発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。自分で立ち上げた会社から、クビを言い渡されるなんて。

実は会社が成長するのにあわせ、一緒に経営できる有能な人材を外部から招いたのです。最初の1年はうまくいっていたのですが、やがてお互いの将来展望に食い違いがでてきたのです。そして最後には決定的な亀裂が生まれてしまった。そのとき、取締役会は彼に味方したのです。それで30歳のとき、私は追い出されたのです。それは周知の事実となりました。私の人生をかけて築いたものが、突然、手中から消えてしまったのです。これは本当にしんどい出来事でした。

1カ月くらいはぼうぜんとしていました。私にバトンを託した先輩の起業家たちを失望させてしまったと落ち込みました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしてしまったことをわびました。公然たる大失敗だったので、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思いました。しかし、ゆっくりと何か希望がわいてきたのです。自分が打ち込んできたことが、やはり大好きだったのです。アップルでのつらい出来事があっても、この一点だけは変わらなかった。会社を追われはしましたが、もう一度挑戦しようと思えるようになったのです。

そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者になるという身軽さにとってかわりました。アップルを離れたことで、私は人生でもっとも創造的な時期を迎えることができたのです。

その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功したアニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。いまや、NeXTで開発した技術はアップルで進むルネサンスの中核となっています。そして、ロレーンとともに最高の家族も築けたのです。

アップルを追われなかったら、今の私は無かったでしょう。非常に苦い薬でしたが、私にはそういうつらい経験が必要だったのでしょう。最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事でも恋愛でも同じです。仕事は人生の一大事です。やりがいを感じることができるただ一つの方法は、すばらしい仕事だと心底思えることをやることです。そして偉大なことをやり抜くただ一つの道は、仕事を愛することでしょう。好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。絶対に、立ち尽くしてはいけません。

3つ目の話は死についてです。

私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。

自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。

1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。

一日中診断結果のことを考えました。その日の午後に生検を受けました。のどから入れられた内視鏡が、胃を通って腸に達しました。膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したと妻がいうのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。

人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。

誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。

あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。

私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。

スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。

ハングリーであれ。愚か者であれ。

ありがとうございました。

※スティーブ・ジョブズ氏が2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチ原稿の翻訳。

(以下原文、同大リリースより)

This is a prepared text of the Commencement address delivered by Steve Jobs, CEO of Apple Computer and of Pixar Animation Studios, on June 12, 2005.

I am honored to be with you today at your commencement from one of the finest universities in the world. I never graduated from college. Truth be told, this is the closest I've ever gotten to a college graduation. Today I want to tell you three stories from my life. That's it. No big deal. Just three stories.

The first story is about connecting the dots.

I dropped out of Reed College after the first 6 months, but then stayed around as a drop-in for another 18 months or so before I really quit. So why did I drop out?

It started before I was born. My biological mother was a young, unwed college graduate student, and she decided to put me up for adoption. She felt very strongly that I should be adopted by college graduates, so everything was all set for me to be adopted at birth by a lawyer and his wife. Except that when I popped out they decided at the last minute that they really wanted a girl. So my parents, who were on a waiting list, got a call in the middle of the night asking: "We have an unexpected baby boy; do you want him?" They said: "Of course." My biological mother later found out that my mother had never graduated from college and that my father had never graduated from high school. She refused to sign the final adoption papers. She only relented a few months later when my parents promised that I would someday go to college.

And 17 years later I did go to college. But I naively chose a college that was almost as expensive as Stanford, and all of my working-class parents' savings were being spent on my college tuition. After six months, I couldn't see the value in it. I had no idea what I wanted to do with my life and no idea how college was going to help me figure it out. And here I was spending all of the money my parents had saved their entire life. So I decided to drop out and trust that it would all work out OK. It was pretty scary at the time, but looking back it was one of the best decisions I ever made. The minute I dropped out I could stop taking the required classes that didn't interest me, and begin dropping in on the ones that looked interesting.

It wasn't all romantic. I didn't have a dorm room, so I slept on the floor in friends' rooms, I returned coke bottles for the 5 ― deposits to buy food with, and I would walk the 7 miles across town every Sunday night to get one good meal a week at the Hare Krishna temple. I loved it. And much of what I stumbled into by following my curiosity and intuition turned out to be priceless later on. Let me give you one example:

Reed College at that time offered perhaps the best calligraphy instruction in the country. Throughout the campus every poster, every label on every drawer, was beautifully hand calligraphed. Because I had dropped out and didn't have to take the normal classes, I decided to take a calligraphy class to learn how to do this. I learned about serif and san serif typefaces, about varying the amount of space between different letter combinations, about what makes great typography great. It was beautiful, historical, artistically subtle in a way that science can't capture, and I found it fascinating.

None of this had even a hope of any practical application in my life. But ten years later, when we were designing the first Macintosh computer, it all came back to me. And we designed it all into the Mac. It was the first computer with beautiful typography. If I had never dropped in on that single course in college, the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts. And since Windows just copied the Mac, it's likely that no personal computer would have them. If I had never dropped out, I would have never dropped in on this calligraphy class, and personal computers might not have the wonderful typography that they do. Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college. But it was very, very clear looking backwards ten years later.

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something ― your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.

My second story is about love and loss.

I was lucky I found what I loved to do early in life. Woz and I started Apple in my parents garage when I was 20. We worked hard, and in 10 years Apple had grown from just the two of us in a garage into a $2 billion company with over 4000 employees. We had just released our finest creation ―the Macintosh― a year earlier, and I had just turned 30. And then I got fired. How can you get fired from a company you started? Well, as Apple grew we hired someone who I thought was very talented to run the company with me, and for the first year or so things went well. But then our visions of the future began to diverge and eventually we had a falling out. When we did, our Board of Directors sided with him. So at 30 I was out. And very publicly out. What had been the focus of my entire adult life was gone, and it was devastating.

I really didn't know what to do for a few months. I felt that I had let the previous generation of entrepreneurs down - that I had dropped the baton as it was being passed to me. I met with David Packard and Bob Noyce and tried to apologize for screwing up so badly. I was a very public failure, and I even thought about running away from the valley. But something slowly began to dawn on me I still loved what I did. The turn of events at Apple had not changed that one bit. I had been rejected, but I was still in love. And so I decided to start over.

I didn't see it then, but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have ever happened to me. The heaviness of being successful was replaced by the lightness of being a beginner again, less sure about everything. It freed me to enter one of the most creative periods of my life.

During the next five years, I started a company named NeXT, another company named Pixar, and fell in love with an amazing woman who would become my wife. Pixar went on to create the worlds first computer animated feature film, Toy Story, and is now the most successful animation studio in the world. In a remarkable turn of events, Apple bought NeXT, I returned to Apple, and the technology we developed at NeXT is at the heart of Apple's current renaissance. And Laurene and I have a wonderful family together.

I'm pretty sure none of this would have happened if I hadn't been fired from Apple. It was awful tasting medicine, but I guess the patient needed it. Sometimes life hits you in the head with a brick. Don't lose faith. I'm convinced that the only thing that kept me going was that I loved what I did. You've got to find what you love. And that is as true for your work as it is for your lovers. Your work is going to fill a large part of your life, and the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work. And the only way to do great work is to love what you do. If you haven't found it yet, keep looking. Don't settle. As with all matters of the heart, you'll know when you find it. And, like any great relationship, it just gets better and better as the years roll on. So keep looking until you find it. Don't settle.

My third story is about death.

When I was 17, I read a quote that went something like: "If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right." It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.

Remembering that I'll be dead soon is the most important tool I've ever encountered to help me make the big choices in life. Because almost everything ― all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.

About a year ago I was diagnosed with cancer. I had a scan at 7:30 in the morning, and it clearly showed a tumor on my pancreas. I didn't even know what a pancreas was. The doctors told me this was almost certainly a type of cancer that is incurable, and that I should expect to live no longer than three to six months. My doctor advised me to go home and get my affairs in order, which is doctor's code for prepare to die. It means to try to tell your kids everything you thought you'd have the next 10 years to tell them in just a few months. It means to make sure everything is buttoned up so that it will be as easy as possible for your family. It means to say your goodbyes.

I lived with that diagnosis all day. Later that evening I had a biopsy, where they stuck an endoscope down my throat, through my stomach and into my intestines, put a needle into my pancreas and got a few cells from the tumor. I was sedated, but my wife, who was there, told me that when they viewed the cells under a microscope the doctors started crying because it turned out to be a very rare form of pancreatic cancer that is curable with surgery. I had the surgery and I'm fine now.

This was the closest I've been to facing death, and I hope it's the closest I get for a few more decades. Having lived through it, I can now say this to you with a bit more certainty than when death was a useful but purely intellectual concept:

No one wants to die. Even people who want to go to heaven don't want to die to get there. And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because Death is very likely the single best invention of Life. It is Life's change agent. It clears out the old to make way for the new. Right now the new is you, but someday not too long from now, you will gradually become the old and be cleared away. Sorry to be so dramatic, but it is quite true.

Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma ―which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

When I was young, there was an amazing publication called The Whole Earth Catalog, which was one of the bibles of my generation. It was created by a fellow named Stewart Brand not far from here in Menlo Park, and he brought it to life with his poetic touch. This was in the late 1960's, before personal computers and desktop publishing, so it was all made with typewriters, scissors, and polaroid cameras. It was sort of like Google in paperback form, 35 years before Google came along: it was idealistic, and overflowing with neat tools and great notions.

Stewart and his team put out several issues of The Whole Earth Catalog, and then when it had run its course, they put out a final issue. It was the mid-1970s, and I was your age. On the back cover of their final issue was a photograph of an early morning country road, the kind you might find yourself hitchhiking on if you were so adventurous. Beneath it were the words: "Stay Hungry. Stay Foolish." It was their farewell message as they signed off. Stay Hungry. Stay Foolish. And I have always wished that for myself. And now, as you graduate to begin anew, I wish that for you.

Stay Hungry. Stay Foolish.

Thank you all very much.

以上記事引用-----

2011年10月5日水曜日

今日10月5日の朝日新聞朝刊で目を引いた記事



今日の朝日新聞朝刊には特に目を引いた記事が三つありました。
【国際】ウォール街でデモ 飛び火
【社会】「原発輸出」で日本に化石賞
【社会】アプリの陰で情報収集

まずは、『ウォール街でデモ 飛び火』から記事抜粋-----

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に、若者らが格差社会や高い失業率に異議を唱えるデモは、フェイスブックなどの力も借りて全米各地に飛び火し、勢いを増している。

抗議が始まったのは、同時多発テロ10年の記念日から間もない9月17日。参加者らによると、8月ごろからネット上で有志による呼びかけが始まり、初日は約1500人が集まった。だがその後は500人前後で推移していた。

潮目が変わったのは9月24日。デモ行進中に公務執行妨害などの容疑で80人が逮捕され、その模様が動画サイトに投稿されてからだ。若者の反発が広がり、参加者は千人規模に膨れた。10月1日にはブルックリン橋をデモ隊が占拠、約700人が逮捕される事態となった。

メディアの注目が高まる中、リベラル派を自任する著名人が続々と現場に駆けつけたり、デモへの共感を表明したりしている。
デモは3週目に突入し、ロサンゼルスやボストンなど各地の都市に飛び火している。米国で、若者のデモがこれほど長引くのは久しぶりのことだ。

不当に富が集中しているとして、大手金融機関を攻撃相手の象徴に掲げる。
「1%の金持ち、99%は貧乏」「富裕層に課税を!貧困層に食べ物の!」。ピザの箱や段ボールに太いペンで殴り書きしたプラカードには、若者たちの怒りの言葉が並ぶ。

ただ「アラブの春」では、長期政権を倒すという分かりやすい目標があったのに比べ、ニューヨークでは誰から何を勝ち取ろうとしているのか、はっきりした目標がない。秩序だった組織や指揮命令系統もできていない。
活動は全米各地に広がっているが、今のところロサンゼルスやシカゴなどの大都市圏に限られている。ニューヨークの参加者らは、無期限の座り込みを訴えているものの、どのような形で決着するのか、誰も説明できない状態だ。

以上抜粋-----

8月末から9月というと、日本では『9.11』と関連づけた『3.11』からの進まぬ震災復興がクローズアップされ、また近年希に見る被害を及ぼした台風12号がニュースの話題を独占しました。
このアメリカで湧き起こった『格差NO』デモの記事を朝刊の一面に見るまでは、全く知る事のない時事でした。『Change!』でアメリカのトップに就いたオバマ大統領は、二期目の大統領戦に早くも「勝ち目が薄い」と劣勢を認め、この四年間の経済対策、雇用対策が全く改善に繋がっていないことを要因と強調しています。
元来保守色の強いアメリカは、今後ますます内政に重きを置き、アメリカ以上に疲弊の底にある日本は、また一つ、かけがえのない『わらの束』を失う事になります。


『「原発輸出」で日本に化石賞』から記事抜粋-----

温暖化対策を話し合う国連気候変動枠組み条約のパナマ作業部会で、国際環境NGOでつくる「気候行動ネットワーク」は3日(日本時間4日)、交渉で最も後ろ向きだった国に皮肉を込めて贈る「化石賞」に日本を選んだ。東京電力福島第一原発事故の収束ができていないのに、途上国への原発輸出を温暖化対策の一つとして認めるよう主張した、という理由だ。

NGOなどによると、2日の非公開会議で、先進国が途上国に技術や資金を援助した事業で温室効果ガスを減らすと、自国の削減量の一部として計上できる「クリーン開発メカニズム(CDM)」の見直し案について議論があった。そこで日本代表団が、原発輸出をCDMの検討対象として残すべきだ、という趣旨の主張をしたという。

NGO側は「事故を起こした原発を途上国に輸出するのは倫理的におかしい」などと批判した。会議では、京都議定書の延長を求める途上国側の発言が相次ぎ、反対の立場の日本への風当たりが強まっている。

以上抜粋-----

スポニチWEB版により詳しい記事がありました。
以下記事抜粋-----

『不名誉…今年すでに3回目!日本に「化石賞」』

中米パナマで開催中の気候変動枠組み条約の特別作業部会で、各国の環境保護団体でつくる「環境行動ネットワーク(CAN)」は3日(日本時間4日)、温暖化交渉で後ろ向きな姿勢をとった国に贈る「化石賞」に日本を選んだ。授賞理由は福島第1原発事故を起こしたにもかかわらず、原発輸出を促すような主張をしたとするもの。日本の受賞は今年すでに3度目。

化石賞は気候変動関連の国際会議の会期中にCANが選定。一度に複数国に対し贈られることもあるが、そのすべてを日本が占めた過去もあるなど、産油国と並んで受賞が多い不名誉な常連となっている。日本の環境NGO/NPO「気候ネットワーク」では「今年3回目の受賞。確実に世界最多だと思います」としている。

共同電によると、今回、授賞理由に挙げられたのは「地球温暖化対策を理由に、原発を輸出しやすい仕組みづくりを求めた」というもの。日本は6月6~17日にドイツ・ボンで開催された作業部会でも同様の理由で2度選ばれている。

二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの削減目標などを規定する「京都議定書」には、先進国が発展途上国などで行った事業に伴う温室効果ガスの削減分を自国の目標達成向けにカウントできる「クリーン開発メカニズム(CDM)」という制度を定めている。原発は発電段階でCO2を排出しないが、事故の危険性や放射性廃棄物などの課題があり、現行のCDM対象からは除外されている。

日本は作業部会で、「途上国で原発を造った場合も、CDMの対象とすべきだ」と求めたという。CANは、「国民に途方もない苦難をもたらした技術を途上国に輸出し、見返りに排出枠を得ようとしている。不適切かつ無責任で、道徳的に誤っている」と、批判した。

野田佳彦首相は原発への依存度を極力下げ、輸出については事故の検証も踏まえて対応すると発言。しかし、政府は事故後も一貫して、交渉で原発推進の意見を示したことになり、首相の方針との整合性が問われそうだ。

細野豪志環境相は会見で、作業部会での日本の主張について「わが国として従来言ってきたことを今回も言ったということだ」と言及。環境省の地球環境局国際連携課国際協力室は「決定基準もよく分からないので気にしてません」と話した。

▽化石賞 気候変動に関する国際会議の会期中、CANが各国の後ろ向きな発言を検証し選ぶ不名誉な賞。基本的に毎日選ぶが、該当者なしの日もあるという。また発言内容に応じ、その日の1位、2位、3位などランク付けした形で発表されることもある。賞の名称は、CO2を排出する化石燃料との意味や、考え方が古いとの意味が込められている。

以上抜粋-----

全く恥ずかしく思いました。あらゆる製造・生産のもととなる資源も無く、御旗の『経済』は既に引き裂かれ、これからは『知』と『良識』の両輪で、世界の中を歩んでいかねばならないというのにです。「化石賞」は日本国に、日本国民に贈られた軽蔑です。海外で繰り返される政治家、官僚の『知』『良識』そして『情勢』『感情』を顧みない一方的な主張が、日本国、日本国民の品性を貶めます。

さらに云えば、9月に野田佳彦首相が行った国連総会一般討論演説の一説
『東京電力福島第1原発事故は着実に収束に向かっている。年内をめどに原子炉の冷温停止状態を達成すべく全力を挙げている。復旧・復興に最優先に取り組み、一日も早く日本の再生を実現する。』

週刊朝日に東京電力福島第1原発幹部社員のインタビューが掲載されていました。
主旨はこうです。
1.破壊された原子炉建屋心臓部は放射線量が高く、内部に侵入できず今もって正確な状況を把握できていない。
2.今事故によってメルトダウンを起こした炉心内の燃料棒の飛散度合いもわからず、また現在行われている冷却手段が正しく機能するかもわからない 。(不確定要素が多すぎる)
3.作業員が入っている原子炉建屋の地下に溜まっている水の水温が低すぎる。ひび割れから地下水が浸入しているものと考えられる。その地下水は汚染されている。まだ作業員が入っていない被害の大きい原子炉建屋の汚染水状況は全くわからない状況であり、この対策は手付かずである。
そして、政府と東京電力本社は税金でもって東京電力を救済するために事実を歪曲している、と結んでいます。

私たちは『3.11』以降の半年をつぶさに見てきて、政府と東京電力が如何に信用できないかを身をもって知りました。二年前に民主党が1955年以降始めて単独で自由民主党から政権を奪取した時、アメリカでは一部で次の様に報道されました。
『日本はようやく一党独裁国家から民主主義国家に移行した』
日本は、一部でしょうが、西欧民主主義国家の政府、マスコミから近年まで中国や北朝鮮と同じ『一党独裁国家』と見なされていたのです。

毎年の如く首相が代わり、答弁がすり替わり、無闇に約束が交わされ、それが履行されない。これでは世界中の人々から信用されないのは当たり前です。

軽率な発言がやり玉にあげられるのを恐れて『ぶら下がり取材』に全く応じず、どんどん日本国民からも遠のく野田首相に一言申すならば、
『まず、正確な事実を自分で理解し判断されて、自分の言葉で自分の意志を、貴方が仕えている日本国民に説明する責任を全うして下さい』

世界中にあらためて発信せずとも、全て筒抜けでです。世界中の人々は見ようと思えばいつでも日本を観る事ができます。
国民に真摯に向きあう政府や首相であれば、世界中の人々は信頼し信用してくれます。


『アプリの陰で情報収集』は別書き込みします。
しかし、こちらも大変な事態です。。。


日清食品カップ麺「まねきのえきそば」で大阪万博の記憶が甦ってきました(なんでやねん。。。)



日清食品カップ麺「まねきのえきそば」を食べました。

10月3日に地域限定で発売された、
「姫路新名物 まねきのえきそば 姫路おでん風味しょうが醤油仕立て」
ちょっと長ったらしい名前です。

乾燥麺に粉末まぶして、お湯を注いで待つこと4分。
仕上げに、ショウガ醤油つゆをたらして、乾燥天ぷらを載せたら出来上がり。

で、食後の感想なのですが、
残念ながら『エ~、これが駅そば???』でした。。。

日清食品カップ麺「まねきのえきそば」は、ノーマルなカップ麺にしょうが風味が付いただけちゃうのん、どこが駅そばやねん、というのが感想です。

本物のJR姫路駅の駅そばは、使い捨て小ぶりのお椀に、麺は歯ごたえのないストレート麺。そして天ぷらは尾っぽだけ立派なエビ天。
でも、つゆが美味い。そうつゆがめちゃめちゃ美味いのです。
JR姫路駅の駅そばは、電車待ちの合間に、小腹に簡単に流し込める、学生の小遣いで食せる三時のおやつみたいな食べ物なのです。

私の駅そば記憶は随分昔のものです。現在はお椀も使い捨てではなく、メニューを増えていると思います。

随分昔、私が子供の頃、姫路の駅前、デパートなどに行くのはちょっとしたお出かけでした。そして、国鉄姫路駅から神戸や大阪に出かけるのはたいそうな旅行でした。(後年、大阪まで通勤していたなんてウソのようです。。。)
そして客車は、四人掛けL字の固い椅子、窓は開き、窓の下に小さなでっぱりの様なテーブル、その下には灰皿がありました。
ホームで駅そばを買って、客車に持ち込み、客車の中で食べるのが楽しみの一つでした。

そうそう、1970年、飾磨に住んでいた頃、子ども会で大阪万博に連れて行ってもらいました。それ以前にも大阪には行ったことはあるのですが、鮮明な記憶があるのがこの時です。

初めて地下鉄に乗りました。大阪(梅田)から万博会場の千里に行くのに乗りました。
御堂筋線のコンコースは、半楕円形のトンネルで、当時テレビで放映していたアメリカSFドラマ「タイムトンネル」?(ちょっと不確かです)の入り口にそっくりで、そこから興奮状態に陥っていたように思います。そして、千里について万博会場に入ると、まさにそこは見たこともない世界でした。

この日、炎天下の中4時間並んで月の石が展示されているアメリカ館に入場しました。並んでいる最中、前の大人の男性が急に寄っかかってきて怖くてのいたら、その人はそのままバタンと倒れてしまいました。熱中症だったのでしょうね、私は大人に囲まれ直接陽にさらされず、また帽子に水筒という出で立ちでしたので大丈夫でした。
でも、この事故の印象が強く、せっかくの月の石の記憶がまったく無いのが残念です。

そして姫路への帰路の記憶。たぶん客車は満席満員だったのでしょうね、最後尾の連結当たりに座って、暗闇に消え去る線路をずっと眺めていました。

「駅そば」から懐かしい思い出に暫し浸ってしまいました。
でも楽しかったなぁ、遙か昔やなぁ。。。

2011年10月4日火曜日

冷やっとする、朝です


お早うございます。
いやっ、寒い! 冷やっとする朝ですね。。。

昨夜、仕事から帰ってきて、食事をとり風呂に入って、9時半頃かな
パソコンを起動して、今日メモしたことを整理していたところ
ぐぐっと急激な寒さを感じました、10時過ぎかな

今、気象庁アメダスの姫路の気温観測データを見ると


昨日夕方から気温が下降し、今朝6時の気温は9℃、昨日が14℃だから5℃も下がっています。寒いはずです。
ちなみに、北海道北部の富良野よりも内陸の占冠観測点では、今朝5時-1.5℃を記録してました。

播州地方では、例年(というか体感ですが)、10月中の秋祭りが終わると、いよいよ冬到来を覚えるのですが、今年は早いです。

みなさん、風邪引かないように気を付けましょう。。。