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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年1月9日金曜日

鳥谷選手の阪神残留が決まったようです・・・

今ストーブリーグで、阪神ファンにとってようやくホッとできるニュースでした。
鳥谷選手がいなければ、阪神のセンターラインは最悪です。昨年中堅手で活躍した大和選手を遊撃手へコンバートという話もありましたが、これでは昨年までのセンターラインが崩壊です。
まぁこれで守備陣の不安は解消します。
今年阪神は球団創設80周年だそうですが、ようやく昨年レベルの体制は保てそうですね。
でも黒田選手が戻る広島が脅威です。阪神はとかく力のある投手に弱い。
誰がそんな打ち破ってくれるのか?
昨年夏以降に復活を遂げた福留選手に期待です。
今年は外野手のリーダーとした名実共に活躍して欲しい、そう期待します。

まぁちょっと気が早いですが、阪神のオーダーを考えて見たいと思います。
1番 中堅手 大和
2番 二塁手 上本
3番 遊撃手 鳥谷
4番 一塁手 ゴメス
5番 左翼手 マートン
6番 右翼手 福留
7番 三塁手 西岡
8番 捕手 梅野
9番 投手 先発(メッセンジャー、能見、藤浪、岩田、岩貞)
んん・・・やっぱり昨年と代わり映えしませんね・・・
野手では、上本選手と梅野選手が一年間コンスタントに活躍してくれることを期待します。
投手は・・・三番手、四番手、そしてもう一人、彗星の如く活躍してくれる選手が出てくれる事を期待します。

2015年1月8日木曜日

日本語ワープロソフト一太郎

この季節になると、毎年ジャストシステムから一太郎バージョンアップの案内が届きます。一太郎とは、パソコン黎明期からの日本語ワープロ・ソフトウェアの雄です。
今年は、初代一太郎の発売から30周年を迎えるそうです。
そして近日、25代目となる一太郎2015が発売されます。

一太郎には日本語の変換率が優れている日本語入力システム(IME)ATOKが添付します。現在のATOKは一太郎から分離されWindowsのフロントエンドプロセッサーとしてすべてのソフトウェアの日本語入力システムとして利用できますが、何よりも一太郎との親和性が高いのです。また、一太郎には種々の辞書ソフトが添付します。これら一太郎、ATOK、そして辞書ソフトがスムーズに連動し、語彙の用法に詰まること無く、とてもスムーズに文書を作成していく事ができるのです。

私の一太郎との出会いですが、1990年代の始めに会社で使い始めたDOS版の一太郎です。それまではNECの専用ワークステーションで動く「LANWORD」を使っていましたが、どちらも、操作コマンドが煩雑で、また日本語の変換が非常に悪いために、始めに紙に下書きしてから、清書として印刷するためにのみ使っていたように思います。
そしてWindowsパソコンが発売されるようになりますと、MS-Word+Lotus123のバンドルモデルが主流でしたので必然、ワープロはMS-Wordを使うようになり、一太郎とは疎遠になりました。
でもWS-WordやWindowsに添付されているIMEは、日本語の変換率も操作性も悪く、IMEのみATOKを利用しました。そして使い続けるうちに、そのソフトウェアの進化の素晴らしさを体感し、すっかりファンとなりました。
ビジネスから離れ・・・、ほそぼそとパソコンを利用するようになってから・・・
徒然にブログを書くようになって・・・、再び一太郎に回帰しました。

今ではもう、この一太郎、ATOK、辞書ソフトの魔法のような文書作成トライアングルソフトウェアは私の必須の道具となっています。
そうそうにバージョンアップすることは叶いませんが、今使用しているバーションで、私は十分ありがたく思っています。
案内の冊子に、一太郎の年譜が掲載されていました。2010年に、ソフトウェアとして初めて「情報処理技術遺産」に認定されたとありました。
遅ればせではありますが、おめでとうございます、を贈ります。

表現の自由

表現の自由が脅かされる、そんな事態が世界で起こっています。

一つは、昨年11月に起こったアメリカのソニーピクチャーズへのサイバー攻撃です。
12月に公開予定であった新作映画「The Interview」、現北朝鮮最高指導者である金正恩をアメリカのテレビクルーがCIAの命を受けて暗殺するというコメディーだそうですが、この映画の公開を阻止するために、謎のサイバー攻撃集団「Guardians of Peace」がソニーピクチャーズを攻撃し、コンピュータに保管された映画関係者の個人記録やメール記録、機密データ、新作映画データを盗みます。そしてソニーピクチャーズに対して、世界中に公開されたくなければ映画の公開を中止せよ!と迫ったのです。

そして二つめは、昨日フランスはパリの中心街で起こった風刺週刊紙シャルリー・エブド本社へのマシンガンによる襲撃事件です。イスラム圏の宗教指導者を風刺する漫画を紙面に掲載し、それがテロリストの「預言者を侮辱した仇」として標的にされ、警邏の警察官2名を含む12名の貴い命が奪われました。

表現の自由は、民主主義や自由主義を標榜する国家においては、保証される国民の権利です。ですが、権威主義がまかり通る、或いは宗教のある部分を尖鋭的に掲げる原理主義、或いは全体主義を掲げる国家やそれに準ずる組織においては、表現の自由などありません。それもまた世界の有り様なのだと思います。

今から75年前に、希代の映画人チャールズ・スペンサー・チャップリンは「独裁者」というタイトルの映画を撮りました。ヨーロッパ全土を覆うナチズムを、ペンならぬ映画でその本性を世界に訴えました。チャップリンはナチスに命を狙われる危険を承知で、私財を投じ、ヨーロッパの悲劇を、そしてユダヤの民の悲劇を世界に訴え、またヒットラーやムッソリーニという独裁者を酷く扱き下ろしました。
チャップリンは、独裁者批判を、鮮烈に、また命がけで「表現の自由」を行使したのです。

「表現の自由」は、民主主義や自由主義を勝ち得た中で、獲得した人民の権利です。
ですから身体の自由と同様に決して侵害してはならない、侵害されてはならないものです。
ですから、一人の「表現の自由」を認められた者として、今回の蛮行に対して、最大の抗議を表明します。

ですがまた、行き過ぎた「表現の自由」に対しては警報を鳴らします。
「表現の自由」とは、自らの意見や思想・主張を、何者にも束縛を受けずに表現できるという事ですが、ややもすれば他者への攻撃や中傷、また不快感といった暴力の手段と化します。成熟した民主主義や自由主義社会においては、「いたわり」こそ大事です。自らの権利と同じに他者の権利も守らなければならないのです。それが本来の「表現の自由」ではないかと考えます。

体罰について

体罰が社会問題化して久しいですが、また凄惨な事件が起こりました。
若い親が、乳飲み子を殺すという事件です。
泣き止まないから、罰を下す。
しかし、泣くというのは罪ではありません。
罪は、子を泣かす親にあるのだと思います。

私は、体罰を一括りに「駄目だ!」と云うものではありません。
中学の頃、こんなことがありました。
クラブ活動が終わった後も、遅くまで体育館で遊んでいると
一人の先生がやって来て、
「今度見つけたらどつくぞ!」と口頭で叱られました。
そして先生は笑顔で、生徒を体育館から追い出しました。
それでも性懲りも無く、別の日また体育館で遊んでいると
その先生がやって来て、
「一列に並べ!」と号令をかけ、整列した生徒は一人ずつ思いっきりどつかれました。
生徒には大丈夫も弱虫もいましたが、皆歯を食いしばり鉄拳を受けました。
何故、こんなに素直に生徒は罰を受け入れたのでしょうか?
一つは、先生に信頼があったからです。
生徒を叱る一つにしても、その先生にはめりはりがあった。
一度は許し、しかし二度目は無い事を告げていました。
それから、どつくのにも一人として手加減はありません。
殴られる痛みは、そっくり殴る痛みでもあります。
それを何人もの生徒に行うのです。
そして生徒は、殴られても身から出た錆と分かっているのです。
仲間と痛みを共有するという連帯感もあった様に思います。

体罰は、行う側に真摯さと真心が必要です。
決して矛盾がなく、直球であること、別件を持ち出すこと無く
明らかな罪に対して、受ける側が許容できる罰をすぐに与える。
それが肝なのだと思います。
そして少しでもよこしまな気持ちがあれば
それは体罰なのではなく、罪であることを肝に銘じなければいけません。

公に罪を犯した場合、裁判にて罪の重さが計量され、罪に見合った刑罰が下されます。
刑罰には、
①金品を没収する
②身柄を拘束し、自由を奪う
③身体に苦痛を与える
④精神に苦痛を与える
そして極めつけが
⑤命を奪う
です。
しかし、たとえ公であっても、命を奪う刑罰を行う事には至極慎重です。
それは、たとえ罪人であったとしても、その命は尊いという通念があるからです。

それが親なら、先生などの指導者ならばなおさらです。
罰は、しっかりと計量して行う事
罰は、真摯な気持ちで行う事
罰は、真心を持って行う事
そして、痛みを分かつこと
それ以外は、罪であること
重々肝に銘じなければなりません。

2015年1月7日水曜日

人間の糧

人間が生きてゆく為には、必ず摂らなければならないものがあります。
空気であり、水であり、食物です。
ですが、これだけでは人間は生きられない。

人間は欲深い生き物です。欲を満たさなければ生きてゆけないのです。
欲のため生きている、といっても過言ではないでしょう。
ですから欲を満たさなければならない。
先に述べた食欲、そして性欲、腕力欲、権力欲・・・これだけでは人間と他の動植物との差異は無い。
しかし、人間が人間たらしめる欲があります。それが知識欲です。
これまでの知識を調べて、見つけて、学ぶ
そしてさらに新たな疑問を見つけて
また、調べて、見つけて、学んで、そして考える
その繰り返しで新たな知識を開くのです。

知識欲を広げる為には
知ること
定着させること
そして、伝えること
が必要です。
それを可能とするのが、社会です。
ですから、人間には社会が必要です。

では社会とは何か?
親子関係から始まり
家族という集合を作り
隣近所という小集団を形成し
やがてそれはどんどんと多くなって
やがて学びの場(学校)、糧を得る場(仕事場)
そして守る場(国家)へと広がります。

社会に所属する意義は、先の知識欲を広げる為だけではなく
安心を得るという事だと思います。
では人間にとって至福の安心とは何でしょうか?
それは「信頼される」という事だと思います。

信頼される社会に組している
これこそが、人間の最大の至福です。

信頼を得る為には、個人が費やす時間や努力が必要です。
でも、それだけで信頼は実現できるものでありません。
社会の側に、信頼を育む、信頼を良しとする土壌がなければなりません。

昨今、絆という言葉が大流行です。私たち人間は絆を安易に叫びます。
絆とは、社会の中の人間と人間を結ぶ血脈です。
そして絆は、真に信頼の具現化であるべきものです。

ややもすれば、安易に絆を持とうとします。
親子関係、友だち関係、恋人関係、そして仕事関係もあるでしょう。
しかし、安易に持った絆は、信頼の裏書きが無い事を悟らなければいけません。

信頼の無い絆ほど、不安なものはありません。
不安は、何を呼び込むか?
自分を守るという欲求です。そんな時、人間は暴力性と狡猾性を露わにします。

そしてもう一つは、
性急な信頼への欲求です。大いに自分を欲するものに惹き付けられて、身も心も捧げてしまうのです。たとえ信頼すると叫ぶものが人間で無いとしても、構わないのです。
そしてそれは既に実在します。
ネット社会です。
そしてネット社会に暗躍するものたちです。
最たるものがイスラム国ではないかと思います。

そして気付きます。気付かなければならないのです。
それは、真の信頼が保たれる実社会の再興です。
人間同士が、自他ともに愛し、信頼を育むために我慢し、努力する
そんな社会を実現し、維持し続けることを

現在、罪と罰は人間を吊し上げますが、本来罰は罪に対するものであり、人間に対するものではありません。人間は不完全な生き物です。ですから罪を犯します。罪でなく、人間を見ることです。
人間を見て、できうる限り罪を許して、活かす。そして、絆に見合う者に育て上げることです。
それが信頼を育む、信頼を良しとする土壌なのだと思うのです。

人間を人間たらしめる糧、
それは「信頼されている」という安心です。


2015年大河ドラマ「花燃ゆ」が始まりました。

2015年大河ドラマ「花燃ゆ」が始まりました。
主人公は吉田松陰の末妹、杉文であるらしい・・・
ということで、どんな物語になるのか興味津々で観ました。

何かや冒頭から、登場人物の口からいかめしい詩編の言葉が流れます。
司馬遼太郎「世に棲む日日」を開きますと、当時の学びは四書五経と記されていました。武士の子は、幼年の頃から規則正しい生活の中で四書五経を叩き込まれる。そして人間を作るのです。
ですが、四書五経は膨大です。登場人物が口にする文句は何であるのか、さっぱりわからない。また唱える文句が、物語に関わっているのか否か、それも全然分からない。そこにドラマへの不安感を覚えます。

ただこの不安は、大河ドラマのホームページを見て解消できました。
http://www.nhk.or.jp/hanamoyu/index.html

このホームページにあるメニューの中の「あらすじ」をクリックすると、次回(今日時点では第2回「波乱の恋文」となります)のあらすじページが現れます。
そのページにキーワード解説を表示する(※ネタバレは嫌!という方はご遠慮下さい、という表示があります)ボタンがあります。このボタンをクリックするとキーワードの説明ページが現れます。

第1回「人を結ぶ妹」のキーワード解説ページに、登場人物が暗唱していた言葉の説明がありました。
ホーム>>あらすじ>>第1回「人を結ぶ妹」>>キーワード
http://www.nhk.or.jp/hanamoyu/story/keyword_01.html

少し邪魔くさいですが、このキーワード解説、ドラマ視聴には必須と思います。
NHKに物申すなら、各回のドラマの最後にその回のキーワードを解説するコーナーを入れて欲しいと思います。その方が、視聴者に丁寧です。


で、ドラマですが
杉文は実在の人物ですが、彼女の活躍を記した物語は、たぶん皆無です。(世に棲む日日、には出てきません。)ですから、幕末、明治維新で活躍する時代の主人公達を文が見守る、とう風にしてドラマが進むものと思われます。
そして第1回「人を結ぶ妹」では、兄吉田松陰と、後年文の夫なる小田村井之助との「百年の故知」の出会いが描かれていました。

吉田松陰を演じる伊勢谷友介さんは、「龍馬伝」では高杉晋作を演じてられていましたね
端正で叡智に溢れるマスクと滑舌の素晴らしさ、真に若き英雄そのものです。
また、小田村井之助を演じる大沢たかおさんは、かつて演じられた「仁」の南方仁を彷彿させますね。かすかに弱さを感じさせる甘いマスクから放たれる雄弁、誠実さと意志の強さが滲み出る若き教育者そのものです。
そんな二人が、それぞれの場所で、幕府や藩が禁じた新しい学びに目覚め、藩校明倫館で、新しい学びを「何故、学ぶのか!」と論じる行、迫力がありました。そして二人は「百年の故知」との出会いを果たします。
その二人の出会いの切っ掛けとなったのが、文でした。

映画「ぽっぽや」を観ました。

高倉健さんの追悼番組は続いています・・・
昨日「ぽっぽや」(1999年日本映画)を観ました。
良い映画を見終わった後は心が満たされる感を覚えますが、この作品もそうでした。

昭和の時代にいたであろう、仕事に人生を捧げた男の物語です。
そこに、儚げな不思議が絡み合い、男の最晩年に色彩を与えていました。

あらすじです。

男は、山間の町、幌舞にある終着駅の駅長です。
幌舞は、その昔炭坑があって賑わいのある町でしたが、鉱山が閉山となってから、どんどんと寂れていきました。そして今の幌舞駅には、日に数本の一両編成のディーゼルカーが到着するのみで、乗降客もほとんどいません。
そんな幌舞駅を、男は律儀に守っています。雨の日も、吹雪の日も、ホームに立ち続けて、ディーゼルカーを迎え、乗降客を迎えます。

男は、父の代からの鉄道マンです。父の姿に憧れ、父の言葉「戦後日本の復興を、D51が牽引する」を信じて機関車乗りになりました。そして炭坑が斜陽を迎える時代に、機関車を降り、この幌舞の駅長になりました。

男には、静枝という妻がいました。可愛い妻です。二人はとても仲むつまじい夫婦で、幌舞駅を切り盛りし、町の人々ととても懇意でありました。こんな仲の良い夫婦でしたが、長年子供に恵まれませんでした。
でも、十七年目にして初の子供を授かります。女の子でした。二人は、雪のように美しい娘になれよと、雪子と名付けます。

しばらくして、生まれたばかりの雪子が風邪を引きました。
男は、代わりのいない駅長仕事を続けながら、ディーゼルカーに乗って大きな町にある病院に向かう静枝と雪子を見送ります。それが雪子との最後の別れとなりました。
雪子は、快方することなく、町の病院で亡くなりました。
そして、ディーゼルカーに乗って、雪子の亡骸を抱いた静枝が戻ってきました。
でも男は、駅長としていつもと同じに、ホームでディーゼルカーを迎えます。
その姿は静枝には、非情にさえ写ります。

そして又長い年月が経ち、今度は静枝が重い病に掛かります。
男は、代わりのいない駅長仕事を続けながら、ディーゼルカーに乗って大きな町にある病院に向かう静枝を見送ります。窓越しに見るやつれた静枝の姿、それが静枝の最後の面影となりました。男は駅長仕事の為に、静枝の臨終に立ち会うことが叶いませんでした。

そして数年が経ちました。
男は、近く定年を迎える事になりました。
そして幌舞線も、近く廃線となることが決まりました。

正月、
男の長年のぽっぽやの後輩、仙次が幌舞にやって来ます。
仙次は、新年の挨拶と男(乙松)の定年後の就職先を世話するために、酒と肴を携えてやって来ます。
乙松は、仙次の乗るディーゼルカーをホームで待つ合間に、年端のいかない小さな女の子を見かけます。女の子は、町からこの幌舞に里帰りした家族の一人子でしょうか、お洒落な服を着てホームの上を跳ねています。両手に古めかしい娘人形を携えています。それがとても印象的でした。
駅舎に戻ると、古めかしい娘人形がベンチに一人置かれていました。幼子の忘れ物です。
乙松は、仕事が終わった後に、その子を探して娘人形を届けることにしました。

その夜、最終の列車を送り出した後、
乙松は、仙次と酒盛りをしました。
友情という肴は、心地よい酔いを与えてくれました。
ふと気が付くと、駅舎に明かりが灯っています。駅舎には少女が一人たっています。
少女に尋ねると、昼間の幼子の姉で、忘れた娘人形を取りにきたと云います。
少女は十二才の小学生で、近くの寺に里帰りしていると話します。
乙松は、ストーブで暖めた牛乳を少女に与えます。
少女は乙松に、目を閉じると良いことが起こると話します。
乙松が目を閉じます。
少女は、乙松に近づいて可愛い口づけを贈ります。
乙松はびっくりします。
少女は、笑顔で駅舎の外にかけていきます。
古い娘人形が残ります。

翌日、仙次が町の駅に帰ります。
乙松は、仙次をホームで見送った後、駅舎に戻ると若い娘が駅舎にたっています。
一目で少女たちの姉であることがわかります。
若い娘は、十七才で高校生だと話します。コートの下には、仙次も良く知る高校の古めかしいセーラー服を着込んでいました。
乙松は、運転手に振る舞うために用意をしていた汁粉を娘に振る舞います。
娘は、学校で鉄道クラブに所属し、鉄道が大好きだと話します。
気をよくした乙松は、私部屋に置いている長年かけて集めた鉄道のコレクションを娘に披露します。
そして古い話を聞かせます。
古いアルバムも披露します。
そのアルバムの最初のページには、雪子の写真がありました。
その写真には、乙松が娘雪子に贈った娘人形も写っていました。

最終の列車を送る間、乙松は、部屋を離れます。
そして部屋に戻ると、娘が冷蔵庫のあり合わせで、暖かい鍋を作って待っていました。
乙松は、妻を亡くしてから久しく、そんな暖かな鍋を囲んだことがありませんでした。
乙松は、正座しなおし、娘から手渡された深皿を受け取りました。
口をつけ、汁を一口啜ります。
妻の懐かしさが甦ってきます。
そして同時に、深い感謝の気持ちで胸が一杯になりました。涙が一杯こぼれ落ちます。

電話がなります。
乙松は、部屋を出、電話を取ります。
電話は寺の住職からです。
娘雪子の十七回忌を告げる電話でありました。
そして、寺には誰も里帰りしていないことを知ります。

電話を置きます。
乙松の隣に、娘がたっています。
乙松は、それが雪子であることを知ります。
雪子は、乙松を驚かさぬよう、明るく姿を現して、乙松が知らぬ雪子の成長を垣間見せてくれていました。
乙松は、娘を驚く父などいないと云います。
雪子は、長い間、一人で辛い思いをさせたね、と父を気遣います。
そして父娘は、しばし無言で抱き合います。
乙松は目を閉じます。
雪子は、娘人形を携えて去って行きます。

翌日、
ラッセル車を待つ幌舞駅のホームで、乙松は斃れます。乙松は長年病気がちでありました。
それを公にせず、定年近くまで勤め上げてきたのです。
最後までホームを守り、そして一人ホームで亡くなりました。

end

1999年といえば、ファンタジー映画の再興の年でした。
洋画では、ハリーポッターシリーズが始まり、指輪物語も実写化されました。
文字で綴られたファンタジーの物語を、最先端の映像技術で魔法の世界を映像化しました。
それはめくるめく世界で、すっかり虜にさせられました。

でも、文字で綴られたファンタジーを、文字で綴られたままの、どこにでもある風景のままで、第一級のファンタジーに仕上げた映画を過去知りませんでした。
この「ぽっぽや」は、そんなまさに文字のままに綴られたファンタジーでした。

魅せられました。

2015年1月5日月曜日

百聞は一見にしかず

繰り返し他人の話を聞くよりも、実際に自分の目でたしかめてみたほうがよくわかる。
(大辞林より)

正月、Sports Graphic Number Web(スポーツのウェブ雑誌)に
-なぜ練習ばかりで見学しないのか。松山で考えた、日本野球の「盲点」-
http://number.bunshun.jp/articles/-/822320
という記事が掲載されていました。

翌年の国際試合に備えて行われた大学日本代表チームの選考会、その様子を見聞した記者の記事です。
全国から集合した将来のスター候補選手50名が、最高のコーチの指導を受けてさらに高みの選手へと変貌していく。その様がグランドのあちらこちらで見られるのです。それは壮観な眺めです。ですがスタンドに目を向けると、この様を見て志を立てて欲しい、次代を担うべき中高生の野球小僧の姿が一人もいない。

記者は愕然とします。と同時に怒りさえ覚えます。
「そんなことより練習です!」といわれる監督さんへ
近隣の中学や高校に、意義深い催しを広報しない学生野球の機構へ
そして、
次代の野球小僧たちへ

本物を見ること、良いお手本を間近で見ること、その価値は一日の練習をはるかに超える。
感動体験です。

司馬遼太郎「竜馬がゆく」第一巻の「江戸へ」の章に次の行があります。
妙なことから、江戸への道中を共にすることとなった盗賊寝待ノ藤兵衛との会話です。
---
(ほう)
眼が洗われるような思いがした。
右手に遠州灘七十五里の紺碧が広がっている。左手には、三河、遠江、駿河の山々が、天の裾を濃淡の青で染め分けて重なっていた。
しかもこの壮大な風景には主役がいた。富士である。竜馬にとって初めて見る富士であった。風にも堪えぬほどに軽い藍色の紗を引いているようであった。
「藤兵衛、この景色を見ろ」
「へい」
藤兵衛はつまらなそうに周りを見た。二十年来、この海道を何度も往来している寝待ノ藤兵衛にとって、この眺望は珍しくも何ともない。
「気のない顔だなぁ」
竜馬は、なおも風の中で眼を細めている。彼の若い心には、潮見坂の海と山と天が、自分の限りない前途を祝福してくれているように思えるのである。
(富士は木花咲耶姫[こはなさくやひめ]の化身だというが、江戸へゆく俺のために一段と粧いをこらして待っていてくれたに違いない)
「藤兵衛、一向に驚かぬな」
「見慣れておりますんで」
「若い頃、初めて見た時は驚いたろう。それともあまり驚かなんだか」
「へい」
藤兵衛は、にが笑いしている。
「だからお前は盗賊になったんだ。血の気の熱い頃に、この風景を見て感じぬ人間は、どれほどの才があっても、ろくな奴にはなるまい。そこが真人間と泥棒の違いだなぁ」
「おっしゃいますねえ。それなら旦那は、この眺望を見て、何をお思いになりました」
「日本一の男になりたいと思った」
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また、
たとえ壮大な風景では無くても、
普段の練習や試合の中で、他校と関わりを持つ時に見ることができる
アップの風景、
練習の風景、
試合中の風景、
グランドでのたたずまい、
グランドの外での佇まい、
その中に、己を一層向上させる、チームを一層向上させる
ヒントがちりばめられている。
それを見出す「一見」力も、大切にして欲しいと思います。