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差別の天秤

「愛を読む人」という約10年前公開の映画の、他の方が書いた映画評を読みました。 そこには私が考え及ばなかった、ハンナが隠し通した秘密についての考察が書かれいました。ハンナは文盲でした。そして、その事実を生涯隠し通しました。それは何故かです。 映画か原作小説の序章で、ハンナの...

2020年10月17日土曜日

笑えません

 友達から、近所の兄ちゃんが探偵ナイトスクープに出るという連絡があり、深夜番組であるので録画して、朝に観ました。

そして朝、友達と話しました

一言でいうならば、30年を越える、あの輝かしい番組は終わった、という事をです。


近所の兄ちゃんが登場したのは、

13歳のゴジラ大好き女の子が、可愛い妄想をリアルに体験したいという突飛な依頼を、探偵が叶えるというVTRの中でした。

そのVTRは、女の子が澤部探偵が連れてきたゴジラとの一日デートを物怖じせずに思いっきり楽しむ姿と、デートについてきた女の子のおじいちゃん(これが近所の兄ちゃんです)が見せる感傷的な姿を、奇異なものとして見せることに終始していました。

VTRの後、他の探偵も松本局長もフォローに苦慮している様が見て取れました。


そのVTRからは、感動も面白みも全く感じることができませんでした。

もしVTRの中で、女の子とおじいちゃんよりも年上のゴジラとのなれそめ、出会いにまで踏み込んでいたならば、そして、女の子とおじいちゃんとの心温まるエピソードにまで踏み込んでいたならば、間違いなく、年間最優秀感動VTRの候補になるほどの作品になったと思います。近所の人間からすれば、ただただ腹立たしい気持ちです。


今回、探偵ナイトスクープを見たのは久し振りでした。松本局長になってからは初めての視聴です。

探偵ナイトスクープが始まった頃は、駆け出しの芸人探偵たちが、上岡局長の厳しくも愛情ある叱咤激励をうけて、心の底から大笑いできる作品や感動できる作品を次々に見せてくれました。どの短いVTRにも、愛と哀があり、泣き笑いがあり、しっかりと上方のお笑い文化が継承されていました。だからこそ、関西人に長く愛されてきたのだと思います。

笑いの質が変わったのでしょうか、芸人の位が変わったのでしょうか、忙しくなったのでしょうか、上方のお笑いの神髄である、喜怒哀楽はどこへいったのでしょうか、眺めるだけの意味の無い笑いが最近あまりにも多すぎて・・・、

笑えません。

2020年10月15日木曜日

親愛なるアメリカ人の人々へ

 私は一人のしがない日本人ですが、アメリカ大統領選挙の行方を、これからのアメリカがどうなるのかが心配で見守っています。


アメリカ建国の父たちがアメリカの理想として後継者に託したリバティとデモクラシーは、250年の時を経てアメリカ以外の多くの国へも理想として引き継がれました。

リバティは、アメリカ国家は古い国家、独裁国家の様に国民を弾圧することなく、国民の自由を保証する。アメリカ国民の、行動の自由、選択の自由、思想の自由、言論の自由等々を保証する。と云うことですね。

そしてデモクラシーは、すべてのアメリカ国民は、リバティの享受者であるとともに、その守護者であり、リバティの理想を追い求める国家運営、政治に参加する事が出来る。と云うことですね。

私は映画「スミス都へ行く」を観て、以上の様に理解しました。


しかし、リバティとデモクラシーと云う理想の実現は、アメリカ同様にすべての国が道半ばです。そして理想への厳しい道程よりも、安易に進めそうな別の道の誘惑によって、リバティとデモクラシーが危機に瀕しています。


日本も同様です。

日本は75年前の第二次世界大戦敗戦の後に、アメリカを主体とする占領国の指導によりリバティとデモクラシーを理想とする国家へと生まれ変わりました。しかし、それはアメリカ建国の父たちの理想とは似て非なるものになっていると思っています。

戦争以前からの日本の支配者層、エスタブリッシュメントは、戦後も生き残り、この国を支配し続けています。彼らは戦争以前まで、天皇を絶対権威に仕立て上げて国民を平伏させ、精神も肉体も支配しました。そして戦後は、自由と民主主義を教義として国民を教育し、支配を続けています。自由はリバティの翻訳語、民主主義はデモクラシーの翻訳語です。

しかし日本では以前から、自由には身勝手という意味があり、民主主義には数の多いほうが勝ちという意味がありました。そしてその行動は、別の誰かが責任をとるだろうという無責任なものでした。その結果、日本の政治は国民を顧みることのない「身勝手な政策」と「数が力」で支配され続けています。

それでも日本は、勤勉さ、辛抱強さ、和を尊ぶという国民性によって、戦後復興を果たし、1980年代にはアメリカが警戒するほどの経済大国と呼ばれるようになりました。

しかし、戦後が遠くなり、戦争時の苦渋を知る人々が死んで少なくなるに連れて、勤勉さ、辛抱強さ、和を尊ぶという国民性も薄れてきました。その結果が、1990年代に起こったバブル経済の崩壊です。そして日本国民は、経済力という柱を失い、自信も失いました。

そして現在、エスタブリッシュメントが御題目として唱えるようになったのが、「経済の持続性」です。それは、かろうじて生き残った経済システムを維持し続けるために、国民のあらゆる権利を踏みにじるというものでした。そして国民は、非正規雇用に誘導されました。非正規雇用は、摩耗すれば交換される安い部品の様なものです。そうして非正規雇用となった国民は、夢や希望を失いつつあります。


アメリカも同様ですね。

アメリカ建国の父が理想として後継者に託したはずのリバティやデモクラシーは、今はまるで日本の自由や民主主義の様に思えます。

日本人から見れば民主政治の理想と思える二大政党制ですが、二つの党は、それぞれの支持者にのみ迎合し、国家を二分する対立を生む元凶になっているように思えます。

進歩的と云われる民主党は性急な国民の統合を掲げて、民族、宗教、肌の色、性的少数派への差別を無くし、国家による社会保障の充実を訴え、かたや保守的と云われる共和党は、建国以来の多数派である白人の国民に与えられたあらゆる権利(その一つが、身を守るための銃を所持する権利)、キリスト教会の教えを忠実に守る権利(中絶や性的少数派を認めない権利等々)の守護者であることを訴えて、政党支持者の熱狂を誘い、対立政党への憎悪を煽っているように思えます。


親愛なるアメリカ人の人々へ、

冷静になってアメリカ建国の父たちがあなたがたに託したリバティやデモクラシーの理想に立ち戻り、すべてのアメリカ国民が希求する安全な生活の実現と融和の実現のために、協力されることを願います。

そして、理想のリバティやデモクラシーを追求する守護者としての誇りと指導力を取り戻されることを願います。

どうか、これから先もリバティとデモクラシーを理想に掲げる他の国々の目標であり続けて下さい。お願いします。