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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

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2026年5月4日月曜日

姉の手術、成功裡に終わりました。

下肢閉塞性大動脈硬化症の症状には、四つの段階があると知りました。

Ⅰ度 冷感・痺れ感

Ⅱ度 間欠性跛行

しばらく歩くとふくらはぎなどが締め付けられるように痛くなり歩けなくなるが、休憩すると痛みが無くなって再び歩ける。狭窄や閉塞が悪化すると、次第に歩ける距離が短くなる。

Ⅲ度 安静時痛: 歩かずに安静していても痛みが続く。

Ⅳ度 潰瘍・壊死: 皮膚や筋肉の血流が不足して、小さな傷や低温やけどなどをきっかけに、皮膚に潰瘍や壊死を起こし、細菌感染を伴って治りません。

参照:国立循環器病研究センター 患者の皆様へのページ

https://www.ncvc.go.jp/hospital/pub/knowledge/disease/arteriosclerosis-obliterans/


姉は、長らくⅠ度、Ⅱ度の症状を繰り返し、その都度、閉塞しかけた動脈にカテーテル術で硬化した組織を除去した後にステントを留置して、血流の改善を図ってきました。

しかし、今年に入り、症状はⅢ度、そして遂にはⅣ度へと進行したことから、神大病院に移り、自家静脈を移植する血管バイパス手術を受けることになりました。

入院して数週間を掛けて、全身の血管をMRI検査、カテーテル検査し、本手術の前日に、担当医から、率直な現在の身体の状態についての話を、姉と一緒に聞きました。

その時はじめて、上記の四つの段階の話を聞きました。

余命の話がありました。Ⅳ度に進行した患者の五年存命率は30%、という行では、きっと私は一瞬蒼白になっただろうと思います。ちらっと姉を見ましたが、力なくただ聞いている様に見受けられました。

本手術においても、現状脚の付け根から右足の膝下まで動脈が完全に閉塞してしまっていて、血流が改善しなければ、脚の付け根から切断しなければならない。また、そうならなくても血流の改善具合によっては、手術傷の快復遅れや感染症のリスクも考慮しなければならない、また動脈硬化は全身に及んでおり、いつどこの器官や臓器で閉塞による不全症状が起こることも考慮しなければならない旨の説明が、ありました。

ただ、そこまで説明をされた後に、手術の成功の高さ、メリットを判断したという結論の話があり、この術はきっと上手くいく、そう信じられました。

姉には、全身麻酔から目覚めたら手術はきっと上手くいっている、もうまな板の鯉の心境になって手術に挑んでと、もう他人事ですね、そう伝えました。

そして手術当日、説明通り成功裡に終わったと、医師から電話をもらい安堵しました。

二日後、ICUから病室に戻った姉を見舞いましたが、元気で陽気でお喋りで、ちょっとイラっとする姉の姿がありました。医師から自画自賛で手術成功の話があった事も姉から聞きました。とても誠実でおもろい医師だなぁと思った次第です。

そして、その日から歩行訓練も始まりました。免疫力、治癒力を高めるために、最新の医学では早期からの運動療法を勧めています。きっと姉にも運動を始めて、回復を早める狙いがあるのだと理解しました。

退院までの一二ヶ月は、このような姉の姿を見守ろうと思います。

そして、退院したら、生活面で少しでもサポートできたらと思います。

これから先、何が起こるかは、姉だけじゃなく私も、その他の家族兄弟姉妹にも何が起こるかなんて分かりませんから、そんな些細な事に心を病むこと無く、出来る限りおおらかに、助け合いながら生きていけたら、と思っています。 

2026年4月13日月曜日

足梗塞の恐ろしさ

 先週のNHK『あしたが変わるトリセツショー』が取り上げたテーマは、「足のSOS」でした。私の一番上の姉から必ず観るようにと連絡が来てましたので、観ました。

※番組ページURL

https://www.web.nhk/tv/an/torisetsu-show/pl/series-tep-J6MX7VP885/ep/7PW517GKRM

※足のSOS取扱説明書(PDFファイル)ダウンロードURL

https://at.web.nhk/files/torisetsu-show/2026_ashisos_taat.pdf


トリセツ01で取り上げられていたのは「足梗塞」でした。

実は、私の二番目の姉が七年前に足梗塞、病名「下肢閉塞性動脈硬化症」と診断されて、これまで何度もカテーテル術による血流の回復術、具体的には、血管中の硬化した(石灰化した)老廃物をドリルと吸引で血管から取り除き、そこにステントを留置して血流を回復するという術を受けてきました。しかし、いよいよこれまでの術式では回復が見込めないほどに症状が悪化し、また右足親指が黒ずんで痛みが生じてきたため、この度、神大病院に入院し、右下肢動脈のバイパス術を受けることになりました。

これまで本人も、そしてわたしたち家族も、少し悠長に考えていたように思います。

番組冒頭で、杏林大学医学附属病院、整形外科医大浦紀彦医師は、足梗塞の恐ろしさについて「8割の人は、足の血管のこと、足の血管の病気のことを知らないです。それはかなり大変なことで。(中略)年間一万人くらいの方が(指や足を)切断されている。」

そして、足梗塞になりやすいのは、糖尿病・腎臓病・高コレストロール・高血圧・喫煙などの高リスクを抱える人びとで、推定患者数は300万人と述べられていました。

わたしたちが身近な恐ろしい病気として認識する脳梗塞や心筋梗塞と、同じですね。長年の不摂生・不養生(但し、だけとは限りません。)により、全身の器官に栄養分を届ける役割を担う血管に痛みや詰まりが生じて、遂に閉塞してしまうと先の器官や部位が死滅してしまう。カメラの前に立ち証言された経験者の方の勇気に敬服致します。

姉は、壮年までは病気知らず、病院知らずの健康優良に見えた人でしたが、60歳を過ぎてから、いろいろと身体に不調が出て来ました。人より不摂生・不養生であったとは云いませんが、運動不足は否めない生活でありました。

姉は神大病院に入院して、術前の様々な検査を受ける中で、梗塞の危険箇所が、心臓と首の血管にもあることが判明しました。そして、下肢動脈のバイパス術を行う前に、心臓の血管の血流を改善する処置が必要になったために、今日の午後から心臓血管の血流回復術を行います。

大変な手術が続きますが、兵庫県下、一流のプロフェッショナルがチームを組んで姉の回復に挑んでくれていますので、姉にはプロフェッショナルを信じて、回復を信じて、心穏やかに術に挑んでくれたらと思います。

2025年6月23日月曜日

呆けても呆けてもいんだから

 梅雨入りで雨模様が続く予報があった中での会葬となりましたが 晴れ女の面目躍如たるものなのでしょうか 空は見事に晴れ渡り 夏空の下で会葬を行う事が出来ました

昨年秋口から発熱などで体調を崩すことが多くなりまして それからは訪問診療や訪問看護のサービスも利用しながら 少しでも長く健康でいてくれるように 介助や見守りを続けてきました しかし老衰により心不全の症状が悪化していき 今年の三月三日を境に完全な寝たきり状態となりました 点滴が出来ない為に 吸い飲み器で誤嚥せぬ様ゆっくりと水分を口から与えることしかできなくなりました そんな家族の無念さや不安は 母が時間を掛けて癒やしてくれたように思います 以後三ヶ月の間 苦しむ素振りは一度もなく 清拭などの介助も効いたのか床擦れなどが悪化することもなく穏やかに生き続けてくれました

亡くなる一週間前から咽下することが難しくなって スポンジで口元を濡らすことしかできなくなりました そんな風にして命が尽きていく姿をゆっくりとしっかりと私たち家族に見せてくれました

そして令和七年六月十四日早朝二時十五分ごろ 水滴が落ちるようにスッと自ら目を閉じ逝きました 享年百一歳の生涯を閉じました

寝たきりになるまでは 如何にかこうにか 椅子に座って食事を食べさせたり テレビを一緒に見る事も出来ました 訪問看護師は母が背もたれに寄りかからず背筋を伸ばして座る姿勢のあまりの良さにいつも感心していました 昨年の秋口のことですが 診療所でレントゲン写真を取った際 母はひとりで感光版を背にして丸椅子に座ったのですが その姿を見ていた看護師たちが 「お地蔵さま」みたいと愛おしく話していたことを思い出します

母の口癖は「呆けても呆けてもいんだから」でした

認知症状が進み 自分がどこにいるのか 回りの者は誰なのか 分からなくなり始めた時は 不安を口にすることもありました でもこの言葉が口癖となってからは 不安な心も安らいだように思います

じゃんけんをすれば後出しで「勝った」とうそぶき 指を折っての足し算には一生懸命考えて答えてくれました 最後の最後まで家族を楽しませてくれた母でした

【2025年4月24日】


【2025年5月18日】

【2025年6月12日】

2025年6月14日土曜日

母郁子が、今朝2時15分頃に永眠しました。

夜半から母が横たわる介護ベッドの側で見守っていた姉は、その瞬間の様子を、水がすっと落ちるが如く、また鹿威しが水が満ちてコツンと切りの良い音を立てるが如く、瞬間にスッと目を閉じ、それに呼応するように、胸のかすかに続いていた揺れも止まったとその情景を描写しました。すぐに家族は銘々の部屋から母が眠る部屋に集まり、姉の描写を聞いて、良い最後の時を、母の旅立ちを感謝し、喜び、安堵しました。

1925年、大正14年7月28日生まれの母郁子は、享年百一歳、満年齢では百歳に一ヶ月ちょっと足らない99歳の大往生を遂げました。

 

2025年4月16日水曜日

娘が駆け足帰省しました。

 先週金曜日夜、娘が駆け足帰省したかと思えば、土日は高校来の親友とこれまた駆け足出雲ドライブに出かけ、月曜日の午前中には東京へ帰っていきました。

ただ私としては、初めて口にすることになる美味な珍しい東京のお菓子にありつけ、且つ、出雲の美味な珍しいクラフトビールにありつけ、有り難い帰省となりました。

おばあさんの顔も見て「百歳か元気でいいよ(いるんやでのさくら言葉)」と言い、姫路駅での見送りの際には「おとうさんも元気でいいよ」と握手して行きました。さっぱりした態度に、娘なのに何故か男前やなと感心した次第です。

月曜日の朝、日笠山に桜見物に出かけた娘が、キツツキ科のコゲラを見つけスマホで撮影したものをLINEで送ってくれました。

その画像、記念にここに貼り付けておきます。

2025年3月6日木曜日

奇妙な時間を過ごしています。

現在絶賛再放送中の朝ドラ『カーネーション』の主人公糸子さんと同じ(といっても12歳若いのですが)、大正生まれで、洋裁が得意であった母ですが、この月曜日の朝から急に座って食事が取れなくなって、熱も39度に迫る発熱が出、とりあえず手元にある解熱剤と抗生物質を服用させてから訪問看護の看護婦さんに状況を連絡しました。

看護婦さんは昼過ぎ訪問され、訪問医療の医師の指示で採血されました。その結果が翌朝でました。心不全マーカーといわれるBNP値(平常時は20以下)が5000以上になっていて、心不全の末期状態、いわゆる老衰の看取りの段階になってしまっているとの事でした。

年が明けてから、2月までに数度発熱症状を起こしていました。原因として室内熱中症や誤嚥性肺炎が考えられました。誤嚥性肺炎による発熱時は、血中酸素濃度も90を切る状態で一時は危険な状態になりましたが、その時は、点滴が快方に導いてくれました。しかし、この度は点滴が使えません。心臓にこれ以上負担が掛けられないからです。

日曜日の夜までのように、椅子に座って口から食物や水分を与えることも叶わなくなって、月曜日、火曜日、水曜日の午前中までは、ただそばで見守るしか出来ない有様でした。

でも水曜日に看護師さんが訪問され、室温も蒲団の暖房も厚手の衣服も体熱を逃がさないようになっているため、室温を下げましょう、蒲団の暖房は止めましょう、衣服も軽装にしましょうと勧められ、以降はその指導に沿うようにしました。また、横になっている状態での吸い飲み器を使っての水分補給の仕方と、ベッド上でのおしめ交換の仕方を妻と二人で教わりました。

その後、三日ぶりに吸い飲み器で、栄養補給飲料エンシュアリキッドを白湯で薄めて飲ませてみました。顔が横向きの状態で、上になった口元に吸い口を充てて、気持ち一滴ずつ口中に注ぐ気持ちで、時間を掛けて行いました。きっと半分以上は口から漏れて下でカバーしていたタオルやナプキンが受け止めることになったでしょうが、それでも一回につき100ccは飲ませることができました。そして夜には熱も36度台まで下がり、以降は解熱剤等の服用に頼らず、36度台をキープし続けています。水分補給も木曜日の昼過ぎまでに5回ほど行いました。母はベッドで横になり、じっとしていますが、声かけすると、遅れて短く返答をしてくれます。まだまだ頭はしっかりしている様子です。昨日は兄の長男が久しぶりに見舞いに来ました。小さい頃は母とも同居しており、一番気心の知れた孫でして、手を握ったらしっかり握り返したと話していました。

本当に妙な気持ちです。もしかしたら以前の様に快方してくれるのではないか、ベッドに寝たままだけど、気持ちは伝わるし、少ないけれど水分や栄養補給もできる、このまま続ければもしかしたら・・・、という期待もわき上がってくるのですが、現実的にはいつ息が止まってもおかしくない状況であるとの現実からも目を背けることは出来ません。

妙な気持ちで母の側に付き添います。母もずいぶん前までは日々行としてお経を上げていましたので、いまは母の枕元で般若心経や修証義を読誦します。般若心経は生死の境なく歩み続ける人への応援歌と私は理解しています。

キリスト者の妻は、愛情込めて、キリストを信じ受け入れることを母に語ってくれていました。信仰に篤き者には天国の門が開かれるからです。一応私も洗礼を受けた者として、その様子を感謝の気持ちを持って見守りました。

この先のこと、この数日のことは、一体どうなるか分かりません。ですが、この奇妙な時間がもう少し続いてくれる事を願って、いま過ごしています。


追伸

誤嚥性肺炎で体調を崩したときには、春の桜を見に行こう、そして母よりも八つ若い子どもの頃姉妹の様にして育った姪の認知症状が進んだという知らせがあったので見舞いに行こう、それを励ましの言葉として、そして、それが励ましとなって母は快方したと思っていて、それだけは実現させてあげたかったです。

それだけが、唯一の心残りになっています。

それと、7月28日で満年齢が百に到達するので、それも叶えてほしかったです。

まだ、どうなるか分かりませんが・・・

2025年1月1日水曜日

百歳の旅人

1925年7月28日生まれの母は、今日で数え年百一歳になりました。次の誕生日を迎えると満年齢でも百歳に到達です。大正、昭和、平成、令和と四つの時代を生きてきました。

現在は日常生活すべてに介助は必要ですし、認知症状もだいぶ進んでいますが、決まった時間に寝起きし、椅子に座って食事を摂り、オムツ交換も便器に座らせて行えています。作年11月から利用するようになった訪問看護サービスの看護師さんも、とても体の姿勢が良いと感心されていました。訪問看護サービスを利用するようになって、これまで気付けなかった褥瘡の予防や諦めていた手の拘縮がストレッチやマッサージにより改善した等々、今のところ母にとって訪問看護サービスは良いことばかりです。

じゃんけんをすれば、後出しで勝ちを主張するし、両手の指で足し算をすれば全問正解だし、ちょっと頭の回転まで良くなってきた様子で、この調子で体調を崩さなければ、満年齢での百歳到達も夢ではないように思います。

2024年1月1日月曜日

百寿

年が明け、2024年(令和6年)になりました。

そして母郁子は、百寿を迎えました。1925年(大正14年)7月28日生まれで、今日で数えの百歳です。

母は、戦時下で青春時代を過ごし、終戦の年に成人式を迎えた母です。

それなりに波瀾万丈の人生を生き抜いて、90歳を超えたあたりから認知症状も進み、今ではどこに住んでいるのか、誰と住んでいるのか、もしかしたら不安で一杯かも知れませんが、日一日を淡々と過ごしています。

何をするにも介助が必要ですが、それでも本人が気持ち動いてくれるから、介助作業も張り合いが持てます。そこが我が母ながら凄いな、と思います。


 

2023年1月8日日曜日

今日、耕太郎が門出を迎えました。

 次男耕太郎はスポーツ指導・運営管理に関わる職を得て、今日横浜へと旅立ちました。

高校卒業後一度就職しましたが、スポーツに関わる仕事をしたいという夢を実現するために一念発起して、スポーツの指導が出来る教員免許を取得するために学校に入りました。

しかし、無事に卒業を迎えても世の中は不景気とコロナ禍のまっただ中で、なかなか就職が決まらず、派遣社員登録して介護の仕事に就きながら就職活動を続けて一年あまり、漸く希望するスポーツを事業の柱とする会社に就職が叶いました。そして明日から始まる新人研修に参加するため、研修場所で本社のある横浜に旅立ちました。


二十六才の旅立ちです。

ずぼらな性格です。無愛想な性格です。少し気の弱いところもあります、優柔不断なところもあります。

ですがそれ以上に、友達思い、仲間思い、心根の優しい、そして少しずつですが思慮深さを学びつつある、偉丈夫です。

しんどいことでも進んで行い、仕事を覚え、いずれは周りの人たちから信頼に足る者になって欲しいと願っています。

人を大切にし、自分自身も大切にできる、労れる者になって欲しいと願っています。

2023年1月1日日曜日

母と暮らせば

 母は年末の介護認定更新調査の結果、要介護5に認定されました。

しかたありません、年齢も今年誕生日を迎えれば98才になりますし、年相応に認知機能も身体の衰えも進んでいます。

見ていて辛いのは、左手が丸く引きつってしまっていること、起床時ベッドから起こすときに、少しでも足が伸びてしまっていると関節部分に強い痛みが生じる時です。そんな時、母は顔を大いに歪めて痛みを訴えてきます。でもどうしようもありません、これが人間が痛み衰えてゆく姿なのだと、ただただ頑張れと笑顔で声かけするだけです。


それでも改善したこともありました。

母は衰える以前から便通が悪く、ダイオウ粉末などの薬を服用して排便を促していました。認知機能や身体の衰えが進んで、家族によるケアが必要になってからも服用を続けていました。服用しないと一週間経っても便が出ないのです。しかし、服用すればするで、今度は緩い水便がドバッと排出されオムツパンツからも漏れ出して、服から床から布団からシーツから便塗れになってしまい、その後の片付けや洗濯が大変でした。


それが二年前の母の誕生日の時に、一番上の姉が介護食弁当の一ヶ月お試しをプレゼントしてくれて、これが契機となって、母の食事に色々と気を使うようになりました。


そして現在、母の食事は基本一日二食となり、

朝は、手作りのカボチャやさつまいものピュレに、豆腐と黄身とチーズを混ぜ合わせてスープやシチュー類と合わせて温めたグラタン、そして牛乳から作ったリコッタ、季節の果物のすりおろし、これらを組み合わせて一食にし、

夕刻に、介護食の弁当と、市販の介護食おかゆ御飯類、そしてスープで一食、

間食としてプリンや介護ゼリー

飲み物は、コーヒー、紅茶、日本茶と栄養剤ドリンクであるエンシュアリキッドで水分補給をしています。

テーマは誤嚥防止と、とりあえずしっかり食事を取る事です。

代わり映えしないメニューですが、これを続けている内に、ダイオウ粉末など服用せずとも、形を維持した軟便が出るようになりました。合わせて、汚れることもほぼ無くなって、トイレサポートが楽になりました。


こちらも体調の優れないことも多く、冬場になると風呂に入れることは難しくなりました。けれど、こういう時、温水が出るウォシュレットがあって助かります。

後は身体を温湯で浸したタオルで拭いて、清潔な着替えをすることで、肌のダメージを防いでいます。


十分に満足する様なサポートは出来ないけれど、手を抜くことも多いけれど、それでも母は、時折に「ありがとう」と言ってくれます。いつもはぶっちょずらの私ですが、母の前では笑顔と大きな声で接しています。


母の口癖は「呆けても呆けてもいんだから」「呆けるときは呆ける」などなどです。この口癖を聞くと、なんとも緩やかな笑みがこぼれます。後どれくらい、この口癖が聞けるかは分かりませんが、聞けなくなるまで、母と暮らしていたいとと思います。


2022年12月31日土曜日

大晦日の朝の、思わぬ出来事

 深夜...突然の電話のコール音で目を覚まし、相手を確認すると娘でした。

なんや、こんな深夜にといぶかりながら電話を取ると、数名の男女の会話声が聞こえてきます。とっさに娘の名前を呼ぼうとしましたが、会話の様子からまだ仕事中みたいなのです。偶然スマートフォンの電話ボタンに手が触れて、こちらに掛かってしまった様子です。本人も気が付いていない様子でしたので、察して電話を切りました。

メガネを掛けて、時間を確認すると5時でした。明け方です。

娘は現在アニメーション制作会社に勤めていて、ある作品のアニメーション制作のプロジェクトマネージメントに携わっています。追い込みで年末年始は帰れないと連絡はありましたが、頑張っているな、と頭が下がる思いがしました。

夕方電話を入れると、これから帰宅すると話します。今朝は一度家に戻って午後から出勤、それでも大晦日ということで、一応仕事納めとなった様子です。

明日は秩父の方に初詣に出かけると話していました。きっと、大変だけど、しんどいんだろうけど、充実しているんだろうと、自分のことのように誇らしく思います。

一段落付いたら帰省するとも話していたので、来年の娘の帰りを楽しみにしたいと思います。