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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2013年1月25日金曜日

アルジェリア人質事件


アルジェリアで起こったテロリストによるガス田施設襲撃事件は、多数の人命が奪われるという悲劇で幕を閉じました。
アルジェリア軍600名に守られたガス田施設が、未明に60名のテロリストに襲撃され、施設で働く多くの民間人、外国人が殺害され又、人質にされました。そしてその翌日、アルジェリア政府は、関連諸国に通告することなく、大規模な軍事行動によってテロリストを制圧しました。その制圧作戦でも多くの死傷者がでた模様です。そしてこの襲撃に巻き込まれて日本人10名も無残に殺されました。

私たち日本人には、考えられない、理解できない非道です。それはテロリストも、そしてアルジェリア政府も同じです。しかし、現在の北アフリカが抱える問題を知れば、アルジェリア政府の行動には、一定の理解を示すことができます。
アルジェリアの隣国マリは、現在アルカイーダの一大拠点となりつつあります。アルカイーダはイスラム原理主義者のテロリスト集団とされていますが、この度の悪行、非道を見ると、イスラム原理主義への回帰を隠れ蓑にした、単なる盗賊集団です。彼らは貧しい人々に飴を与えてシンパを増やし、やがては彼らを鞭で従わせて、兵士に仕立てるのです。そして聖戦の名の下に彼らを人間爆弾に仕立てて甚大なテロ行為を繰り広げます。アルジェリア国内では、この二十年余りの間に15万人に及ぶテロによる貴い犠牲があったといいます。そして資源開発はアルジェリア国家を左右する重要な事業です。今回の事件は、その二つが同時に標的にされたのです。そしてアルジェリア政府は、襲撃に端を発した国家存亡の危機に、渾身の武力でもって、それを回避したのです。
私たち日本人は、時間をかければ妙案が生まれると考えがちですが、世界には、時間を要すればなおのこと悪化するという事実があることを、今回の事件で身につまされました。

私たちは、秩序を求め、治安を求め、ともに生きる事を求めます。ですが世界には、その三つの欲求を破壊して、混沌を求め、その混沌の世界の中で支配者になろうと企む者がいることを知りました。
そこには宗教、民族、肌の色という連帯も、大政を司る主義主張もありません。そこにあるのは、ただ欲望のままに生を貪ることだけです。
そして彼らは、人類が築いた歴史的遺産にも敬意を示すことがありません。ですから破壊に躊躇がないのです。2001年、彼らはアメリカを標的にした大規模なテロを行いました。そして2013年、彼らの次の標的はフランスだといいます。私は、パリが燃えるのを絶対見たくありません。そして同時に、私たち日本人にとっても、もう他人事ではありません。今後は日本も、日本人も標的になる可能性が高いと思います。それは現在、日本が混沌とした社会へと陥っているからです。彼らはその隙を突いて、日本の中に、日本人の中に深く潜入してくるでしょう。ですから、私たちは、強い連帯と希望と、そして秩序をこの日本に取り戻さなければならないと思います。

私の峠物語


須磨岡 輯さん著書『播磨の峠物語』(出版:神戸新聞総合出版センター)という本があります。

昨日、仕事を終えた後、しばし立ち読みしました。目次を繰りますと、『馬坂峠』がありました。馬坂峠は、日笠山にあって大塩と牛谷を結ぶ古い街道です。
馬坂の名前の由来については、羽柴秀吉が西国遠征に向かう途中、死んだ馬をこの坂に葬りますと、その夜から亡霊となった馬がこの坂に現れたという不思議から、馬坂峠と呼ばれるようになったと書かれていました。
また牛谷の由来については、天平の時代、この深谷の西方に播磨国の国分寺が築かれることになりました。するとこの地に聖牛が現れて、築石や木材をあっという間に運び終えたというのです。そのような不思議があって、この深谷は牛谷と呼ばれるようになったと書かれていました。

最近、ちょくちょく散歩で、日笠山や馬坂峠、そして北脇のお山一本松を散策します。
初めてこのお山に登ったのは小学5年生の時でした。飾磨から引っ越して、北浜っ子となりました。当時、北浜小学校では、毎年一本松登山というのがありまして、授業で登ったのです。そしてお調子者の私は、下りの岩肌を滑り落ちて大怪我をしました。初めて整形外科のお世話にもなりました。
そして今から十数年前、北浜隊道の手前から、昔の記憶を頼りにしてまだ幼い子供三人を連れて一本松を登りました。標高150mに満たないぽっこりとしたお山ですが、岩肌がむき出しの、藪で覆われた山です。その藪を掻き分けて、一番小さい耕太郎を抱きかかえて登りました。今思えば、大変無茶をしたものです。でも、子供たちは頂上に着き、とても晴れ晴れとしていました。
また、昔はこのお山に大きなうわばみがいるという話もありました。山を荒らさない、山を侮らないという教えであったと思います。

馬坂峠の由来とは別に、この小さい町にも、化け物話がありました。北浜小学校の北西にかんじゃ坊主交差点があります。この辺りは、昔じめじめした沼地であって、そこにサソリばばあという化け物が住んでいました。そして、畑仕事に向かう人や子供が通りかかると、恐ろしい顔で追いかけてきたというのです。
もう一つは、北脇の北西に位置する大鳥に古池がありました。一本松の西麓にあって、いつもじめじめとした鬱陶しい場所でした。その池に幽霊が住んでいました。小学生の頃、夏になると、町のお化け話、幽霊話で私たちは盛り上がっていました。でも、かんじゃ坊主も埋め立てられ、また幽霊の住むという古池も埋め立てられて、現在はもうありません。サソリばばあも、古池の幽霊も、今はどうしているのかと安否がちょっと気になります。

情操教育の本丸である学校を取り戻そう!


部活動での体罰が原因と思われる生徒の自殺、この事件にとても深い憤りを覚えます。

世の中は、体罰を圧倒的に否定する意見が正義となって、体罰は時代錯誤、体罰は暴力と決めつけてシュプレヒコールをあげ、体罰をした教師は処罰され、体罰を容認した学校は容赦なく糾弾されます。

人の命は、とても尊く、とても重く、到底釣り合うものなどありません。(そう、無い筈です)しかし、人の命の尊さを知る、実感する、学ぶ教育がどんどん奪われているように思います。

私たちは、いつ、どこで、命の尊さを学ぶのでしょうか?
私は、小動物を飼ったとき、それがあっけないほどに早く死を迎える様を見て、命の儚さを知りました。
食事の時、ご飯粒一つでも残そうものなら、もったいないと父に酷く叱られ、命を粗末にしてはならないとすりこまれました。
学校でいたずらをして、先生にこっぴどく叱られ、悪いことをすると酷い目にあうことを学びました。
喧嘩をして殴られて、殴られる痛みを知りました。
そして、人を殴り、殴ると、その殴った手と、そして心に酷く痛みが残ることも知りました。

昔、いたずらをすると、先生に叩かれたり、廊下に立たされたり、罰として掃除をさせられたりしました。さらに、先生に叱られたことが親に知れると、家でもこっぴどく叱られました。子供の頃は、いつも理不尽な目に遭っていたのです。ですが、理不尽な目に遭ったから、あるときはじたばたし、あるときは観念し、あるときは向き合う覚悟をしました。しかし、不幸中の幸いか、外因による死を覚悟した経験はありません。
ですが、死に魅力を覚えた事もあります。それは、躁鬱症状が激しいとき、自分自身に全く自信を見いだせず、自分がとても役立たずに思えて、そんな時死に誘われて楽になりたいと願いました。内因で、死を求めていたのです。

私たち人は、体が壊れたとき、もしくは心が折れたとき、死に直面するのだと思います。
体が壊れるとき、それは傍目にも分かります。ですが、心が折れる音は本人でなければ聞こえません。しかし、この心を強く保つ手段はあります。
”三本の矢”の教訓です。一本の矢では簡単に折れるが、三本まとめると容易に折れない。結束すると強くなるという教訓です。私たちは、ひとりでは生きていけません。志もひとりでは叶いません。志を同じくする者が集まって、苦楽を共にし、互いに支え合うことで、心を強く保つことができるのです。また、ひとりですべての責任を負うこともできません。皆で責任を分かち合い、また互いに補うことによって信頼が芽生え、それがそれぞれの責任を全うする推進力となるのです。
ですから、私たちは共に心の束となれる仲間、友、家族が必要なのです。

では、心の束を結ぶ力はどこで養うのでしょう?私は学校こそ、その力を養う最初の場であったと思うのです。学校は、ただ上の学校を目指すための、また良い仕事に就くためだけの一里塚ではありません。学校は、子供にとって1日の大半を過ごす、もう一つの家であったと思うのです。教師は、もう一人の父であり、母であり、兄であり、姉であったのです。ですから、教師と生徒の間に、情が生まれ、思慕の念が生まれたのです。その温かさが、子供の情操を豊かに育んだのです。

しかし、今の学校はどうでしょうか?外部(保護者、マスコミ、知識人、政治家、企業)の過剰な欲求(これをしなければならない、あれはしてはならない)に振り回されて、自助の機会を奪われ、一番大切な子供の情操を豊かに育む事が難しくなっています。
小さな事かも知れませんが、今学校では、子供を罰として立たせたり、拘束することが、体罰として一律に禁止されています。ですから、情緒が不安定な子供は、ほったらかしにするしかないのです。学校に秩序を維持する力がなければ、当事者である教師や生徒にはストレスだけが募ります。これこそが、学校崩壊の真因だと思います。
そして、情操を豊かに育む事ができなかった子供がやがて大人になり、社会を運営する立場になったとき、社会崩壊が始まるのだと思います。

ですから、今わたしたちは、学校を教師を敵視するのではなく叩くのではなく、学校の不可侵を保証し、教師の地位を保証し、自助努力を促すことこそ必要です。生徒も保護者も地域社会も、学校を守り立てることに努力すべきです。それが秩序ある学校を取り戻す、豊かな情操教育を取り戻る唯一の道だと思います。

2013年1月23日水曜日

プログラムを編む


先日、NHKコズミックフロント~発見!驚異の大宇宙~を観て、とても感動しました。
番組の副題は、モンスターテクノロジーを支配せよ~アポロ計画 知られざる成功の鍵~です。
http://www.nhk.or.jp/space/program/cosmic_130117.html

1969年、アメリカはアポロ計画によって人類を月に送りました。NASAは、アポロ計画を成功させるために、史上最も複雑で大規模なコンピュータシステムを開発しました。それが、アポロ誘導コンピュータです。

アポロ誘導コンピュータで実行されるオブジェクトプログラム(目的を実行するプログラム)は、特殊なROM(記憶された情報を読み出すことのみ可能なメモリ)、コアロープメモリに編み込まれました。そうです、まるで編み物をするように、データ線をコアに通せば”1”、コアを迂回すれば”0”として、人の手でプログラムが編み込まれたのです。
それはまさに繊細な技法で織られた20世紀のタペストリーです。そして、しっかりと織られた風景は、月への道程でした。

現在のプログラム開発技法では、高度に仮想化されたプログラム開発環境システムの中で、プログラムがプログラムを生み出していきます。人は、ディスプレイとキーボードの前でオペレーションするだけです。ですが、今から半世紀前、人が自らプログラムを編んでいた事実を知り、とても感動しました。

2013年1月21日月曜日

今日、久しぶりに献血ルームに行きました。


今日も長歩きを楽しみました。
午前から曇り空、日笠山に登ってすぐに帰ってこようと家を出たのですが、登り切ったところで便意を催し、急ぎ東に下って曽根のセブンイレブンに飛び込みました。
そして、すっきりして、買った午後ティーを一口含むと、もっと歩きたいという気持ちになって、大塩の海岸を目指しました。天川に沿って東澪に通じる道には、散歩やジョギングを楽しむ同士がいました。突堤の先まで行きました。南には薄く陽が差し、西は曇っています。雨の匂いがするまで西を目指そうと思いました。それから海岸線を西に歩き、的形、八家、白浜、妻鹿と歩いて市川にでました。陽が背中を温めてくれました。

ふと、久しぶりに御幸通りにある献血ルームにいって献血しようと思い立ち、姫路駅を目指すことにしました。そして四時間余りの歩きの末に、献血ルームにたどり着きました。献血ルームは、フェスタ北館4階に移転していました。献血ルームは、とてもシックに生まれ変わっていました。でも、そこで二つ嬉しいことが待っていました。
献血ルームを訪問したのは約四年ぶりでしたが、受付の職員の方が私を覚えて下さいました。気恥ずかしいやら嬉しいやらでした。
そして何より嬉しかったのが、献血ができたことでした。実は四年前、不健康のため血圧もまたコレステロール値も高く、献血ができなくなってしまったのです。それで献血ルームから足が遠のきました。献血50回を超えて次は100回を目指そうとした矢先でした。
そして今日、四年前と比較して体重は10㎏落ちて、また事前の血液検査の結果、すべての検査項目が献血可能数値に収まっていました。

整然と並んだリクラインシートに横になって約一時間ほどの成分献血をしました。終わって、エントランスでジュースとアメを頂いていたところ、若い職員の方がこられて、記念のプレゼント(ボールペンとシャープペンシルのセット)を頂きました。今日で献血回数は59回になりました。

献血は、私ができる唯一の社会貢献です。これからも健康を維持して、一度は頓挫した献血回数100回を目標に、献血を続けたいと思います。