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差別の天秤

「愛を読む人」という約10年前公開の映画の、他の方が書いた映画評を読みました。 そこには私が考え及ばなかった、ハンナが隠し通した秘密についての考察が書かれいました。ハンナは文盲でした。そして、その事実を生涯隠し通しました。それは何故かです。 映画か原作小説の序章で、ハンナの...

2018年10月18日木曜日

祭りの伝統

ここ何十年と祭りは見るものになっていました。
でも、一本松連中が世話人をしたとき、少年野球の父母会の一員として一緒に活動した友人が世話人をしたとき、また我が子もふくめ、小さい頃から見守ってきた子供らが成長し、いっぱしの祭りの担い手になったとき、そこに自分はいないけれど、晴れ晴れしい気持ちになれました。
でも今年の祭りでは、自分の中の祭りの伝統が蘇ってきました。

本宮、自治会評議員の一員として、北脇丁のテントの下の車座でヤッサがあがるまで過ごしました。そこに年長の評議員の方の同級生も集まってきて車座の中に入ってきました。どなたも面識のない人たちです。と思っていたのですが・・・
その中のお一人が突然に「前田くん、覚えているか?」と話しかけられたのです。
その方は、私を含め、高校生だったころの一本松連中の事をよく覚えていました。その筈です。その方は、私らが一番祭りに夢中になっていたころの青年団の団長でした。あの頃は、祭りの季節になると、毎晩集会所で獅子舞の稽古をし、その後決まって酒が出、酒をあおりながら祭りの話や艶っぽい数え歌、昭和の歌を歌って過ごし、最後は決まって泥酔状態でぶっ倒れていました。私ら一本松連中は、祭りで酒と歌を腹一杯覚えました。それを見守ってくれていたのが団長でした。
車座の中でだらしなく座っていたのですが、その事実を聞かされてからは背筋が伸びました。久々に嬉しい緊張感に浸ることになりました。

テントの中から望む空があかね色に染まり、そして夕闇に染まった頃、座はお開きとなって、銘々シデ棒を持って、最後のヤッサの練り合わせを待ちました。
北脇丁のヤッサはしんがりで、ヤッサが練り場の大塩公園に入ってきたのは夜でした。そして同僚の評議員や班長さんらとともにシデ棒を持ってヤッサに近づきます。
そして練り合わせが始まります。ヤッサの太鼓の音に集中していると、突然に昔のように太鼓の音の心地良さに心がざわついてきて、ヤッサを担いでもいないのに、シデ棒を振りながら、わーっショイっ、ヨイヤサの声の一朶になっていました。
同僚の評議員も皆、真っ赤になって声をからして一朶となっていました。
練り合わせの合間、周りを見渡せば、一本松連中のぼーさん、かんちゃん、かずやもいました。その時、その感覚、そのなんとも言えない誇らしい感覚こそが、私の祭りの伝統、大切にしたい伝統なんだと思い気づいた次第です。
でも年甲斐もなく騒いだ結果、以後数日、体まったく動きません。40年近く忘れていた感覚は、老体には非常に堪えたこと、付け加えさせて頂きます。