大好きな映画の話、本や朗読の話、また高校野球の試合観戦記、地元播磨の散策記など徒然に書いています。 その他にも、しょうもない昔話やちょっとしたエッセーなども書いています。 本でも読む感覚で読んで頂いて、面白ければ訪問カウンター下にある[G+1]ボタン(Facebookのいいねボタンの様なものです)を押して頂ければ嬉しいです。また、コメントの書き込みも楽しみにしています。
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不寛容にもほどがある!
現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...
2025年6月26日木曜日
個人的なことは政治的なこと
2025年6月24日火曜日
誰か故郷を想わざる
花摘む野辺に 陽は落ちて
みんなで肩を 組みながら
歌を歌った 帰り道
幼なじみの あの友この友
ああ誰か故郷を 想わざる
ひとりの姉が 嫁ぐ夜に
小川の岸で 淋しさに
泣いた涙の 懐かしさ
幼なじみの あの山この川
ああ誰か故郷を 想わざる
都に雨の 降る夜は
涙に胸も 湿りがち
遠く呼ぶのは 誰の声
幼なじみの あの夢この夢
ああ誰か故郷を 想わざる
母が寝たきり状態になってからは、毎朝 母の枕元で般若心経と曹洞宗の経典修証義、そして新約聖書マタイの福音書第4章から第6章を諷誦しました。その後に歌を歌いました。母は歌が好きでしたので、私に取っては懐メロ、母にとっては青春時代の流行歌であったであろう歌を歌いました。特に母に思いを込めて歌った歌があります。それが「誰か故郷を想わざる」でした。
この歌は昭和15年の流行歌です。日本から遠く離れた戦地の兵士の間で、望郷の念に刺さる歌として大ヒットしたそうです。母は15歳でした。飾磨という海ベに近い町で、三男五女の兄弟姉妹の五女として大家族に囲まれ、生涯の友となる女友だちとともに青春時代を過ごしていたのだと思います。その大好きな家族も大好きな友だちも、みんな既に彼岸の向こうに旅立って、母はひとり残されていました。そんな母に、この歌が少しでも慰めになればと思ったのです。
2025年6月23日月曜日
呆けても呆けてもいんだから
梅雨入りで雨模様が続く予報があった中での会葬となりましたが 晴れ女の面目躍如たるものなのでしょうか 空は見事に晴れ渡り 夏空の下で会葬を行う事が出来ました
昨年秋口から発熱などで体調を崩すことが多くなりまして それからは訪問診療や訪問看護のサービスも利用しながら 少しでも長く健康でいてくれるように 介助や見守りを続けてきました しかし老衰により心不全の症状が悪化していき 今年の三月三日を境に完全な寝たきり状態となりました 点滴が出来ない為に 吸い飲み器で誤嚥せぬ様ゆっくりと水分を口から与えることしかできなくなりました そんな家族の無念さや不安は 母が時間を掛けて癒やしてくれたように思います 以後三ヶ月の間 苦しむ素振りは一度もなく 清拭などの介助も効いたのか床擦れなどが悪化することもなく穏やかに生き続けてくれました
亡くなる一週間前から咽下することが難しくなって スポンジで口元を濡らすことしかできなくなりました そんな風にして命が尽きていく姿をゆっくりとしっかりと私たち家族に見せてくれました
そして令和七年六月十四日早朝二時十五分ごろ 水滴が落ちるようにスッと自ら目を閉じ逝きました 享年百一歳の生涯を閉じました
寝たきりになるまでは 如何にかこうにか 椅子に座って食事を食べさせたり テレビを一緒に見る事も出来ました 訪問看護師は母が背もたれに寄りかからず背筋を伸ばして座る姿勢のあまりの良さにいつも感心していました 昨年の秋口のことですが 診療所でレントゲン写真を取った際 母はひとりで感光版を背にして丸椅子に座ったのですが その姿を見ていた看護師たちが 「お地蔵さま」みたいと愛おしく話していたことを思い出します
母の口癖は「呆けても呆けてもいんだから」でした
認知症状が進み 自分がどこにいるのか 回りの者は誰なのか 分からなくなり始めた時は 不安を口にすることもありました でもこの言葉が口癖となってからは 不安な心も安らいだように思います
じゃんけんをすれば後出しで「勝った」とうそぶき 指を折っての足し算には一生懸命考えて答えてくれました 最後の最後まで家族を楽しませてくれた母でした