観賞を待ちわびていたクリストファー・ノーラン監督最新作『オデュッセイア』を、昨日IMAXシアターで観てきました。IMAXシアターの空間が、ノーランの想像したイタケー島の王オデュッセウスの20年にも及ぶ艱難の旅とその結末を、圧倒的な映像美と音響と振動で再現し、私の心の奥底まで満たしていきました。三時間近い上映時間は、至福の時間となりました。
私がこの物語の中で強く心に残ったのは、王妃ペネロペの元に還り着いたオデュッセウスが、最後に発した言葉でした。
『闇夜に包まれた世界に新たな夜明けが訪れ、我々の過ちが再び忘れ去られる』
オデュッセウスはアカイア軍の一将軍としてトロイヤ戦争に参戦しますが、トロイヤの城郭が難攻不落であったために戦闘は長く酷着状態に陥ってしまいます。しかし10年が経過した頃、オデュッセウスの策略によって、アカイア軍は一夜にしてトロイアを陥落させることに成功します。その策略というのは、巨大な木馬を和平の証しとしてトロイアに献上するというものでした。この木馬の中に兵士を忍ばせ、トロイヤが木馬を城郭の中に運び込んだところで、夜闇に紛れて忍ばせた兵士が内側から城門を開き、その開け放たれた城門からアカイアの大軍が一気呵成になだれ込み、油断したトロイア人を殲滅したのです。
オデュッセウスは、アカイアの英雄として称えられ、イタケーへの帰還を、王の中の王ミュケーナイの王アガメムトーンに許されます。しかし、オデュッセウスの帰還の旅は、艱難に次ぐ艱難で、10年の歳月を要することになりました。王を待つイタケーでは、王の安否が分からぬままに時が過ぎ、王国には、王の在位と財産を狙う悪漢どもが、客分として居座り、しかし客分としての主人への礼儀などお構いなしに、脅し、偽り、王妃ペネロペと王子テレマコスに王位の譲渡を迫り続けていました。
オデュッセウスは、10年に及ぶ艱難の旅の終着でイタケーの惨状を見聞し、すべては己が招いた不始末であったことを悟ります。それは、神々の王であるゼウスの掟を、オデュッセウス自ら背いていたということをです。
ゼウスの掟、古代ギリシャ世界には、『クセニア』と呼ばれるもてなし・歓待の概念がありました。ギリシャ神が支配する古代ギリシャ世界では、『目の前にいる客人は、実は人間に姿を変えている神かもしれない』という考えに従い、客人がたとえみすぼらしい身なりの者であっても、主人は乞われれば、食事を与え休息の場所を与えなければならないのです。主人は客人をもてなし、客人は主人に非礼を働いてはならぬ、この戒めを破ることはゼウスの掟を破ることでありました。
トロイア戦争時、オデュッセウスの計略により、アカイアは和平の証しとしてトロイアに木馬を献上しました。トロイアはゼウスの掟に従い、木馬を受け取り、主人として、アカイアを客人として向かい入れたのです。しかし、アカイアはゼウスの掟を破り、トロイアを攻め滅ぼしました。その報いとして、オデュッセウスは10年にも及ぶ艱難の苦しいを味わいました。その報いは、部下にも及び、彼らはひとりとしてイタケーの土を踏むことなく冥府に赴きました。国に残した最愛の王妃や王子も、ゼウスの掟の呪縛に二十年も苦しみ続けていました。
クリストファー・ノーランは、ゼウスの掟を、キリスト教の黄金律である『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい』として解釈しているというインタビュー記事を読みました。
私たちは、自らが艱難を経験した時にはじめて、この黄金律が身に染みます。助け合って生きようと思います。しかし、満たされ、或いは脅威を感じなくなった時、私たちは思い上がり、身勝手に振るまい、黄金律を忘れます。
ノーランは、映画の最後に、オデュッセウスの口を通じて、私たち現代に生きる者たちへ、『私たちは再び、轍を踏むのか?』と問い掛けている、そう強く実感した次第です。
※映画視聴後に読んだ記事:映画『オデュッセイア』における「ゼウスの掟」とは何か?専門家に聞く
https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/a73587092/theodyssey-zeus-law-explained-2609-hns/




