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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2016年12月24日土曜日

脱真実の世界

今年読んだ本の中で一番の衝撃を受けたのは、イギリスの哲学者ナイジェル・ウォーバートンの「表現の自由」入門 (原題 FREE SPEECH)でした。
近世のフランスから始まった人民による、支配層からの自由と民主主義、博愛主義を勝ち取る運動は、長きに渡る戦いの末に、近代立憲君主主義を掲げる民主主義国家において、人権の保障と言論の自由、表現の自由が憲法に明記されるまでになりました。
憲法とは、国家権力をそこに明記されているルールによって制限することにより、国民の権利や自由を保護する仕組みです。そしてすべての国民が憲法を協約することで国家は成り立っています。
そして、もしも人民の権利や自由が縮小される事態となれば、それは国家権力を勢いづかせることになるため、国民の権利や自由を保護する憲法は、絶対に守らねばなりません。

それを頑なに守ろうとするジレンマを、フランスの哲学者ヴィルデールが言葉に残しています。私はこの言葉に衝撃を受けました。
「私は君の言うことを徹頭徹尾嫌悪するが、しかしそれを言う君の権利を死ぬまで擁護する」

現代でいえばヘイトスピーチです。ヘイトスピーチは敵視する相手を言論によって徹底的に痛めつけるばかりか、ヘイトの意識がなかった、でも不満を抱える人民を、ヘイトへと駆り立てます。人権主義者や博愛主義者にとっては決して容認できるものではありませんが、しかし、ヘイトスピーチも言論であり表現であり、その自由を憲法は保障しています。でももしも、人民がヘイトスピーチを禁止する法律を求めれば、国家権力は直ぐに法律を作るでしょう。でもそれは、国家権力に都合の良い法律で、様々なところに適用され、いつの間にかあらゆる人民の言論や表現の自由が縮小される事態を招く危険をはらんでいます。ですから、私達人民はむやみやたらととヘイトスピーチを禁止する事を国家権力に求める事ができないのです。ただ静観するか、穏健な言論で対抗するしかありません。万一、ヘイトスピーチを暴力で封じ込めようとするならば、それは悪辣な犯罪行為となって罰せられてしまいます。これも非常なジレンマです。


そして、国家権力とは誰の事でしょう。
ある雑誌の記事に、端的に表現した文章がありました。
「選挙は権力を掴む人を決めるもので、真実を語る人を決めるものではない」
そうです、私達人民が自由選挙で選んだ同じ人民であったものです。人民の中からリーダーとして選ばれた者が、権力の座に就くのです。

今年は、国家権力が次々と頭をもたげた年として歴史に刻まれるかも知れません。その筆頭が、アメリカの次期大統領に選ばれたドナルド・トランプです。
彼が選挙で示したことは、アメリカ社会の分断と不満を抱える多くの白人に迎合したことです。彼は「アメリカファースト」を唱えました。でもそれはアメリカ人の中の、彼と同種の白人至上主義者や差別主義者、また男社会を是とする者、暴力を是とする者への呼びかけであった様に思います。
そして彼は「客観的な真実よりも刺激的な嘘」を大いに活用しました。彼を支持した人々は、その言動に熱狂しました。その言動はまさにヘイトスピーチそのものでした。
国家権力がヘイトと手を組めば、国家ぐるみの排斥が容易に行える様になるでしょう。それはまさにナチスによる独裁やファシズムという悪夢の再来です。

人民が長き時間を掛けて一つひとつ勝ち取ってきた自由の権利が、そしてその自由の権利を失わないためにしてきた我慢さえも報われぬままに、現在のシリアや多くの紛争国、また独裁国家と同様に、新しい支配層によって一気に奪い取られる日が迫っている恐怖を覚えます。

サンタクロースを信じていますか?

サンタクロース伝説は、現在では聖人の一人に数えられるニコラウスという人物が、貧しい人々に施しをした事が起源と言われます。そして、その美名はセント・ニコラウスからいつしかサンタ・クロースと呼ばれる様になりました。
また、現在私達がよく知っている、真っ赤な衣服を身に纏い、ふくよかで真っ白なおひげを蓄えたサンタクロースは、コカコーラがクリスマス広告の中でイラストとして描いたのが最初と言われます。
そしてサンタクロースが、クリスマスを迎える真夜中、12月25日の午前零時から空飛ぶトナカイのソリに乗って、世界中の子供たちにクリスマスプレゼントを届けるという幸せな夢物語が作られました。
クリスマス、キリストの誕生日ですが、西暦1年12月25日と設定されたのはキリストが誕生してから一千年後の事だそうです。北欧の冬至(この日を境に日が長くなっていく)を祝う祭りを、当時の教会がキリストの降誕を祝う祭事として取り入れたと言われます。
そして現在の聖書研究者や歴史家は、キリストの誕生は春であったという説を唱えています。

オックスフォート英語辞典が今年を象徴する単語として、”post-truth”「脱真実」を選んだと発表がありました。そして今週号のニューズウィーク誌には「客観的な真実よりも刺激的な嘘」が世界を変えるかもしれないという特集記事を掲載していました。
「嘘から出た誠」なら良いですが、「嘘が真実に塗り替えられる」がまかりとおる世界は本当に恐ろしく思います。
でも「脱真実」は、これまでの人が人を支配してきた人類の歴史の中で幾度も繰り返されてきたのだと思います。

ではサンタクロース伝説はどちらでしょうか?私は嘘で彩られた人類の歴史の中で数少ない「嘘から出た誠」ではないかと思っています。
今朝の朝ドラ「べっぴんさん」は、戦後の混乱からようやく秩序を取り戻した日本の庶民が、西洋のクリスマスを生活の中に取り入れ始めた姿が描かれていました。日本人の多くはキリスト教徒ではありませんが、クリスマスイブの夜に西洋人のキリスト教徒の様にして、家族や親しい人と集まって食事をしたりケーキを食べたり、そしてプレゼントを交換したりと、暖かい気持ちになって過ごす事を良しと捉える様になりました。口べたな、というよりも言葉や行動で素直な気持ちを伝える習慣の少なかった、また恥とさえ思っていた日本人にとって、それはおおっぴらに行える約束の日となりました。だからこそクリスマスは日本文化に取り入れられたのだと思います。

そしてサンタクロースです。
以前のクリスマス記事で書きましたが

-2011/12/16 サンタクロースっているんでしょうか?-

から引用します。
「愛する人がいて、その事に感謝し、愛する人に真心をプレゼントする。
『ありがとう』の一言でいいのです。
その時、私たちがサンタクロースなのです。
愛を贈る人、贈られる人、そして愛に満たされる人、すべての人の中にサンタクロースはいるのです。そして、いつでも誰でも、サンタクロースになれる、私はそう信じています。」
これもまた
「嘘から出た誠」ではないかと思います。

☆追記
クリスマスの物語を書き留められたブログがありましたので、ここに紹介させて頂きます。
ブログタイトル「遊び心をいつまでも お話歳時記」
→クリスマスの話→サンタさんは聖ニコラウス。
http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM006.html


2016年12月21日水曜日

「逃げるは恥だが役に立つ」、いや~面白かったです。

最終回も大詰め
神社の境内で、平匡君からのこの上ない一言「みくりさんを小賢しいと思ったことは一度も無い」に、人前であることも忘れて抱きついて「大好き」と小声で囁くみくりちゃん(こと新垣結衣ちゃん)に、いや~久々にキュンとときめいてしまいました。そしてなんとも羨ましい男平匡君(こと星野源さん)には羨ましさを通り越し嫉妬心さえ芽生えそうになりました。

TBS火曜ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」は、全話余すこと無く面白かったですね。
このドラマ、現代の家族観や恋愛観を、誇張することなくリアルにサラッと描いていました。そして主人公の二人、平匡さんとみくりちゃんに至っては、私達が普段使い分けている表に出す言葉と内なる心の、その内なる心で会話をしていたのが新鮮でした。
「自尊感情が低い」とか「小賢しい」という二人のネガティブな思考は、思い通りに進まない多くの私達現代人に共通する陥りやすい思考ですが、それを深刻にならずに、妄想という形で滑稽に描いていたのも好感が持てました。

そして二人はネガティブ思考を脱する術を見つけましたね。それは「素直になる」という事でした。
自分に素直になる
大切な相手に素直になる
そして、好きという気持ちを、駄目と思う気持ちを、
素直に伝える
という事でしたね。
ドラマとは思えない本当に素敵なカップルの誕生でした。末永いお幸せを祈っています。

ps.
典型的な草食系男子の平匡君が、みくりちゃんと一夜を過ごしてからすっかり好色になりましたね。男は女性を知ると生まれ変わるんですね。でもその好色振りがなんともおっかなびっくりで、親近感が湧きました。好演した星野源さんに親近感を湧きました。
星野源さんは、映画「箱入り息子の恋」(2013年作品)でも同じような草食系男子の初恋を演じていましたが、いや~ほんとにどこまで演技なのか分からないほど、ピッタリ役にハマる役者さんだと思います。
そしてヒロイン役の新垣結衣ちゃん、それこそ「私、失敗しないので」って言ってもいいぐらい、毎回見惚れてしまいます。いつかは大河ドラマのヒロインを演じられる日が来ることを楽しみにしています。(大河ドラマであれば一年間毎日観ることができますので・・・)

2016年12月16日金曜日

クリスマス朗読 十二番目の天使

オグ・マンディーノさんの代表作「十二番目の天使」で朗読動画を作成しました。
以前ブログで書いた、あらすじを朗読しています。
BGMにクリスマスの名曲を使わせて頂きました。
あったかく、そしてとても切ない物語をどうぞご視聴下さい。
感想を頂ければ嬉しいです。

関連ブロク
https://harimanokuni2007.blogspot.jp/2012/12/blog-post_25.html




2016年12月9日金曜日

パソコンのホコリを払うと・・・

この数ヶ月、ふと気付くとBIOS画面に変わっている、なんてことが数回あって、パソコンそろそろ寿命かな・・・と心配していました。Drawソフトや画像処理ソフト実行中にファンの音が異常に高くなることもしばしばで・・・
二年前の清掃でパソコンの動作が劇的に改善した経験から、まずは清掃することにしました。
必要なものは、ぞうきんとプラスのドライバーとホコリを吹き飛ばす道具だけです。今回はストローを使いました。筐体を開けてみますと、二年前ほどにはホコリは積もっていませんでしたが、でもCPUの冷却ファンや電源部の冷却ファン、そして筐体の通気口はホコリが積もっていました。そのホコリにストローを当て、ひとつひとつ息で吹き飛ばしていきました。30分ほどの作業はベランダで行いましたが、気付けば着ていた服は真っ白になっていました。
そして清掃を終えたパソコンの電源を投入すると・・・
清掃前はブラウザの表示の切り替わりにちょっと時間が掛かっていましたが、すいすい動作する様になりました。そしてファンも静かになりまして・・・
清掃ってアナログだけど、パソコンを生き返らせる最良の方法だとあらためて感じています。

2016年12月4日日曜日

大正デモクラシーが生んだ傑作「ゴンドラの唄」

今秋の覚え書き、ではないですが・・・
紅葉の写真を背景にしてゴンドラの唄を歌ってみました。
アカペラで歌って、後で加工した音楽を付けました
ちょっとずれているところもご愛敬ということで
お願いします。

それにしても
♪命短し恋せよ乙女
なんて気の利いた口説き文句でしょう
大正デモクラシーが生んだ傑作だと思います。


神戸ルミナリエ、素敵でした。

神戸ルミナリエをはじめて観に行きました。
1995年の冬から毎年行われていたというのに、22年間も何をしていたのかと思います。

元町駅を出ると、普段なら歩けぬ車道を人が埋め尽くしていました。それでもルミナリエ会場まで続く行進は、警察官や警備員の誘導により整然と行われていました。
普段は見ることができない車道からの街の風景が新鮮でした。夕景が深まるにつれて、街角を灯す外灯やショーウィンドウを彩るイルミネーションが輝き始めます。沿道には心を揺さぶるルミナリエのテーマ音楽が流れていて、さながら街全体がミュージアムの如くでありました。
光と音楽が、こんなにも人の心に喜びを与え、笑顔にさせる力があることに、当たり前なんだけど、あたらめて気付かされた様に思います。神戸ルミナリエ、素敵でした。
 

帰りに元町駅近くで食事を摂りました。ピザを焼く石窯の中の薪の火の、揺れる光も素敵でした。

2016年11月27日日曜日

「ハリー・ポッターと呪いの子」を読みました。


最新刊「ハリー・ポッターと呪いの子」を読みました。
ハリーらダンブルドア軍団が、最終決戦となったホグワーツの戦いでヴォルデモートを滅ぼしてから19年後の物語です。
死の秘宝の最終章に、9と3/4番線に停車するホグワーツ特急の前で、新一年生としてホグワーツ魔法学校に入学する
ハリーとジニーの次男アルバス・セブルス・ポッター
ロンとハーマイオニーの長女ローズ・グレンジャー・ウィーズリー
そして
ドラコとアストリアの一人子スコーピウス・マルフォイ
を家族が見送るシーンが描かれていましたが、新たな物語はここから始まりました。

そして読み終わって・・・
J.K.ローリングさんは、この物語をドラコ・マルフォイへの贖罪として描いたのかなと想像しています。
ハリー・ポッターの物語は、11歳のハリーとロン、ハーマイオニー、そしてグリフィンドールの同級生らの成長物語でしたね。友情物語といってもいいかもしれません。しかし、スリザリンに組み分けされたドラコは友情とは無縁で、ひとり孤独に成長していたように思います。ドラコは生意気で不遜な子供でした。しかし、成長するに従って、そして、ドラコの手筈でホグワーツがヴォルデモートの手に落ちる辺りから、心の内の葛藤に非常に苦しんでいたように思います。
第二幕第15場の中で、ドラコはハリーとジニーの前で告白しています。
「君たち三人は、輝いていたんだ。分かるか?君たちはお互いが好きだったし、楽しんでいた。私は君たちの友情が何よりも羨ましかった。」と
ハリー・ポッターの成長物語では、結局ドラコは救われませんでした。ホグワーツの戦いでダンブルドア軍団が勝利した時、ドラコと両親の三人は、死食い人とも袂を分かち、孤独に生き延びることを選択しました。
物語としては描かれていませんが、ドラコは純血の、でもとても心根の穏やかな女性アストリアと結婚した様子です。
第四幕第4場で告白は続きます。
「アストリアは虚弱だった・・・
私は彼女の体を危険にさらしたくなかった。マルフォイ家の血筋が絶えても、私は構わないと思った・・・
しかし、アストリアは、マルフォイ家の家名とか、純血とか、栄光のために子供が欲しかったのではない。我々夫婦のために欲しかった。
我々の子供、スコーピウスが生まれた。我々夫婦にとって人生最良の日だった」
ドラコの長年の希望は、その一人子スコーピウスの手によって叶えられました。
スコーピオスは、ハーマイオニーを男の子にした様な性質です。勉強ができて、ちょっとシニカルではあるけれどユーモアもあり、そして何より友情を積極的に求めていました。
そして、初めてのホグワーツ特急の中で、アルバスと出会い、二人が本当の友だちになるための冒険が始まります。
そして、呪いの子の冒険物語は、バック・トゥ・ザ・フューチャーの様相でしたね。過去を修正すると未来が変わる。しかし、望んだ未来は訪れない。そんなジレンマの中で、時間旅行は、やがて修正を取り消す旅へと変わっていきます。それは、ハリーら親にとって辛い体験の既視感であり、アルバスら子にとっては辛さの追体験となりました。
そして時間旅行の旅は終わります。アルバスは、ひがみっぽい性根は薄れ、明るく勇気を示す事ができる少年へと成長しました。そしてスコーピウスは、この旅で賢さと誠実を示したことで、生まれてから付きまとっていた汚名を晴らすことができました。そして何より、父同士、ハリーとドラコの長年の確執を取り除くことができました。

最後に・・・
この呪いの子には、一点疑問を覚えます。ヴォルデモートに一人子がいたということです。うら若き娘の姿をした闇の魔女デルフィーです。
ヴォルデモートは、闇の帝王、悪の中の悪の存在です。そして何者も服従させ、決して信じない。自らの魂さえ七つに裂くほどの、もはや人間の感情など一欠片も持ち合わせていない化け物です。そんな化け物のヴォルデモートが、何故に忠実な最強の闇の魔女ベラトリックス・レストレンジに一粒種を与えたのか?万一、ヴィルデモートよりも優れた闇の魔法使いが誕生したらどうするのでしょうか?それこそヴィルデモートが一番に恐れることではないかと思うのです。
そこでまた疑問です。ヴォルデモートほどの希代の魔法使いであれば、賢者の石を精錬して不死の力を得ることも可能であっただろうし、究極の逆転時計を作り出し、時を超えて恐怖で世界を支配することも可能であっただろうと思います。それなのに何故に、魂を引き裂いてまで自衛を計ろうとしたのでしょうか?一体、ヴォルデモートは何に恐れを感じていたのか?
そんな風にしてヴォルデモートを眺めると、彼が、トム・リドルが、とても孤独に苛まれた弱々しい人間に思えてきます。もしかしたら、彼の残虐性は、愛情への悲痛な渇望の裏返しであったのかもしれない、そう思えて仕方がありません。

2016年11月26日土曜日

晩秋

午後、光りの下で読書しようと
シロトピア公園を目指しました。
晩秋ではありますが
姫路城周辺は
鮮やかな紅葉が楽しめました。

シロトピア公園、ビックリ桜が咲いていました。








ひなたぼっこ


午前中は、小春日和のあったかさでしたね
柔らかな日差しが部屋の中に差し込みます。
そのしばしの光りの温もりに
うちのノルン
ご満悦の様子でした。


2016年11月24日木曜日

今の気持ち

私は、自分で言っちゃあ何ですが涙もろいです。
感動したとき、悲しくなったとき、そして可哀想に感じたとき、涙が目から溢れ出してきます。
でも、本気で泣いたこと、我を忘れて泣いたことは、最近ほとんどありません。
父を亡くしたとき、兄を亡くしたとき、ぽっかりと心に穴が開いたけれど、でも我を忘れることはありませんでした。
本気で泣いた、思い出すのは
たった三ヶ月だったのだけれど、会社の寮で一緒だった悪友が、広島に旅発つその日、顔を合わすことなく行ってしまったときの事です。会社のトイレで、大声を出して泣きました。一言、気の利いた言葉でも掛けて送ってやりたかったのに、それを叶えてくれなかった。否、あいつのことだから、顔を見ると泣いてしまうから顔を出さなかったのだろと、そう思うと無性に悔しくて腹立たしくなって泣きました。
そう、
友人や恩師、先輩との別れの時は、決まって我を忘れて泣いていたように思います。

今日、大学時代の恩師の訃報を知らせる喪中はがきが届きました。
今、当時の悪友達と膝突き合わせて、思いっきり泣きたい気持ちです。

2016年11月20日日曜日

紅葉狩り in 龍野

曇り空の下、龍野へ紅葉狩りに出かけました。
紅葉真っ盛りで、いつもの日曜日よりも人出があるだろうなと思っていましたが
旭橋を渡って龍野美観地区に入ると驚くほど人だかりがありまして・・・
オータムフェスティバルが開催中でした。普段は閑散とした下川原の通りはどの店も扉を開き店先に出店を出して活気ある縁日の様相でした。

私はその群衆を避けて、通りに沿って西へと歩を進め粒坐天照神社から紅葉谷まで紅葉狩りの散策を楽しみました。

2016年11月14日月曜日

じょっぴんや

犬も歩けば棒に当たる
このことわざには真逆の二つの意味があるようです。
一つは、出しゃばると思わぬ災難にあう
もう一つは、じっとしないで何でもやってみれば思わぬ幸運にあう
昨日、後者の意味で棒に当たりました。

はじめて訪れた喫茶店で、思いがけない楽しい時間を過ごすことができました。
午後、妻と二人であらい浜風公園に出かけました。午前とは打って変わって夕方に近づくにつれ空はどんより曇っていきます。寒くなってきたので喫茶店に立ち寄ることにしました。Googleマップで『近くの喫茶店』で検索すると、地図上に妻がうろ覚えの名前がありました。じょっぴんや、場所は高砂高校のほん近くです。

住宅街の一角にじょっぴんやはありました。落ち着いた佇まいの一軒家で銀色の煙突が目を引きます。入り口には二つの窓があり、右の窓からぴかぴかに光る焙煎機が見えました。左が入り口になっていて、中に入ると店内はコーヒー色に統一され、灯りは暖かいオレンジ色で落ち着いた雰囲気でした。
二人がけのテーブルに座り、壁に掛かる卓上電話帳型のメニューを取り、上から一ページ毎に捲ります。八種類のブレンドがあって、それぞれに漢字の名前が付いていました。その下に『一期一会』という名もありました。オーダーをとりにきた若い店員さんに、お薦めは何ですかとたずねると 代わりに店主がテーブルに来てくれて、八種類のブレンドについて丁寧に説明して下さいました。
八種類のブレンドは、焙煎の深さとその深さにあった豆という風な違いがあって、もっとも浅いのがアメリカン、もっとも深いのがイタリアン、そう読み替えて聞いていました。
店主のお薦めは、漆黒という名のフレンチローストのブレンドと、一期一会でした。一期一会は、その時々で得られた稀少豆を使用した期間限定のブレンドで、それで、店主の変わらぬ渾身の逸品と思われる漆黒を注文しました。
焼き物に淹れられた漆黒は、その名の通り淀みの無い漆黒色でした。湯気がなく少し温度が低いように思われました。まずはストレートで口に含むと濃い苦みが口中に広がります。半分ほど飲んでから少しミルクを加えると、苦みを鮮明に感じる事ができました。そしてまたミルクを加えると苦みのない円やかな味へと変化しました。飲み終えてもしばらくは豊潤な苦みが口中に残りました。妻が注文したクルミのタルトを少し食べたのですが、しっとりとした甘さが漆黒と相性抜群でした。大変美味しかったです。

そして閉店(5時だったかな)が近づいて勘定を済ませて店を出ようとしたとき、店主が前に立ち焙煎室を案内して下さいました。店主に、コーヒーの温度についてたずねると、浅い焙煎は90~95度の高い温度で抽出し、深い焙煎は低めの温度で抽出すると話されました。深い焙煎を高い温度で抽出すると苦みが尖ってしまうからだそうです。それで漆黒は温度が低めであったのだと納得しました。
家で美味しく抽出する方法をたずねると、美味しく抽出できた時の、豆の種類と分量、水の分量をしっかり記録して、以後はそれをしっかりと守る事だと話されました。
その後も、二三面白い話を聞きました。
温度の事ですが、常連さんの中には温度計を持参して、気になるといちいち温度を計る人がいるそうです。また、東京の有名店の店主は、客が飲んだコーヒーカップに飲み残しがあると後を追っかけて、何故に飲み残したのかいちいちたずねるそうです。そんな話を、愉快に話される店主が、私は一番面白いと思って、それを店主に感謝を込めてお伝えしました。
じょっぴんや、コーヒーの他にも紅茶やフルーツティ、生ジュースとメニューが豊富で、またカレーやスパゲッティも、べっぴんに思いました。次に訪れるときは、是非コーヒーと共にべっぴんにも手を付けたいと思います。

自家焙煎珈房 じょっぴんやホームページ
http://www.eonet.ne.jp/~jyoppinya/

2016年11月11日金曜日

平和を問う寓話「カエルの楽園」は、救いのない物語でした。

百田尚樹さんの寓話「カエルの楽園」を読みました。
日本を彷彿させる平和なツチカエルの国ナバージュが、ある日突然、沼地の凶暴なウシガエルに国土を侵犯されてから、徐々に国土を侵略され、ついには占領されジェノサイドによって滅ぼされるまでの物語が描かれていました。

滅亡を招いた原因は幾つもありますが、
直接の原因は、ナバージュの岩山に棲んでいたオオワシのスチームボートが、何処へと去ってしまったことでした。
昔、オオワシがこの地にやって来たとき、カエルはオオワシを追い出そうと楯突きました。それに怒ったオオワシは何百というカエルを虐殺しました。
カエルは降伏し、岩山をオオワシに提供し、そしてオオワシが住みやすいように様々に便宜を図りました。またオオワシの命令により、再びオオワシに楯突かないように三戒の法を作りました。
ツチガエルが作った三戒は、「スチームボート様を信じろ。スチームボート様と争うな。争うための力を持つな」という法でした。ツチガエルは三戒とあわせて「我々は生まれながらに罪深きカエル。すべての罪は、我らにあり。さあ、今こそみんなで謝ろう」という謝りソングも作り、オオワシに向かって歌いました。
オオワシは、この見返りにナバージュを外敵から守ってやることにしました。

しかし月日は流れ、三戒は「カエルを信じろ。カエルと争うな。争うための力を持つな」に変化し、ツチガエルはナバージュの平和は三戒で守られていると信じるようになりました。オオワシへの謝りソングは、ツチガエルが昔に他のカエルに非道を行ったと云う風に曲げられて歌われるようになりました。そしてウシガエルの国土侵犯が発覚した時、多くのツチガエルは三戒でウシガエルと和睦できると信じました。
それでも、少数のカエルは三戒ではナバージュは守れない事を知っていて、オオワシにウシガエルを追っ払ってくれるよう頼みました。しかし、オオワシは年老いて以前ほどの力はなく、ツチガエルが共に戦うなら力を貸すと伝えます。しかし、ツチガエルの評議会は、カエルと戦うことは三戒に反するとこの提案を否決し、それを聞いたオオワシは、この地を去ってしまいます。
ウシガエルが恐れたオオワシはナバージュからいなくなりました。そしてウシガエルのナバージュ侵略が始まったのです。

しかし、もっとも忌まわしい原因は、三戒に異を唱えたり、ウシガエルと戦って国を守ろうとした者達を、ナバージュのリーダー達が三戒の法を犯したとして死刑にしてしまったことです。それによって、三戒に異を唱えたり、戦おうとするものは一人もいなくなりました。
ウシガエルの侵略は、ツチガエルの無抵抗の中で粛粛と行われました。そして占領が完了すると、ナバージュのリーダーは、ウシガエルの支配の為に働く者となりました。そして、ツチガエル同士の密告により、三戒に異論を持つ者と烙印を押された者から虐殺が始まりました。

「カエルの楽園」は、この様な救いのない物語で、読み終えたとき、なんともやるせない気持ちになりました。
けれども、この寓話は予言などとは思いません。
日本は、言論の自由が保障され、また人権、人命が保障された国であるからです。憲法に背いたからと無闇に国民を死刑にする国ではないからです。

しかし、カエルの国では三戒として描かれた、日本の憲法第九条は見直さなければいけないと思います。
・戦争の放棄
・戦力の不保持
・交戦権の否認
の三戒を自らに課している主権国は世界中で日本しかありません。日本が憲法第九条を掲げたのは、敗戦で国が占領されていたときです。占領国は、この法律で日本から戦う意志と力を削いだのです。三戒は崇高な理念です。しかし、世界中の国が三戒に従わなければ、一国の三戒は平和を守る力にはなりません。
祖国を守るためには、国民の人命と財産を守るためには、何をすべきか。何が必要か。主権国として、しっかりと法律(主権者が守る法)を見直す必要があると思います。

2016年11月7日月曜日

無視、無関心を正していこう!

いじめ自殺がおおやけになると、必ず巻き起こるのが「学校への非難」と「いじめをなくせ!」というシュプレヒコールです。
でも残念ならが、いじめは決してなくならないと思います。いじめは、人間の不満のはけ口としての生理的行動であるからです。
ただ関心を引きたいだけ、こっちを見て欲しいという微笑ましいものもあるでしょうが、多くの場合、
・イライラとした気持ちを弱い者いじめで発散する
・自分より成績の優秀な者を貶める
・それが度を超し、遊び行動となる
そして、いじめは
・学校で起こる
・学校の外で起こる
・社会の中で起こる
・家庭の中で起こる
・職場の中で起こる
・SNSの中で起こる
と云う風に、学校だけで対処できるものではありません。

しかし、いじめの周辺で起こる無視や無関心という行動は、
・いじめの標的にならないための、
・関わらないための、
・自分の身を守るための
知性的行動です。ですから、教育によって、学習によって、訓練によって、正すことはできると思います。
・いじめを見て見ぬ振りしない
・困っている、悩んでいる人に寄り添う
・いじめに立ち向かう
そういう行動ができる人間に育成するための教育や指導を、学校教育の中で、是非取り組んで欲しいと思います。

「私は、あなたのことを心配している。」この一言が、自殺を思い止まらせるのかも知れない。

私はこれまで、身近で自殺をした人がいないので、残された家族が、親友が、恋人が、そして同級生、同僚、知り合いとして、どんな思いを持つのか、どんな思いをするのか、想像するしかありません。
自責、怒り、悲しみ、虚無、もしかしたら羞恥、冷笑もあるかもしれません。
そしてそれはいつまで続くのか、一時か永遠なのか、弱まるのか強まるのか、想像するだけで苦しくなってきます。

厚生労働省のホームページに「年齢別死因原因(平成21年度)」という統計データがありました。

厚生労働省 - 人口動態統計年報 主要統計表 - 第8表 死因順位(第5位まで)別にみた年齢階級・性別死亡数・死亡率(人口10万対)・構成割合
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html

「年齢別死因 第1位~第5位の志望者数」と「年齢別死因 第1位~第5位の割合」を表およびグラフ化しました。


次の世代で、自殺率が死亡原因の1位になっていました。愕然する数字です。
15~19歳・・・31.2%
20~24歳・・・49.8%
25~29歳・・・48.8%
30~34歳・・・40.6%
35~39歳・・・31.8歳

最近も、過労が原因と思われる新入社員女性の自殺、そして、いじめが原因と思われる中学生女子の自殺が社会問題となりました。過労自殺、そしていじめ自殺も共通因子があるように思います。それは回り人々の「無関心」です。

先週のニューズウィーク誌には「アメリカにおけるティーンエージャーの自殺」の考察記事が載っていました。アメリカは日本、韓国に次いで若者の自殺率が高い国です。

PRESIDENT Online - 絶望の国 日本は世界一「若者自殺者」を量産している
http://president.jp/articles/-/17058

記事では、
・学校で起こった自殺について子供と話し合ったのに、その後、自殺の予兆のなかった子供が自殺した。
・自殺は伝染する。特に身近な人の追自殺の危険が高まる。
・SNSの普及により、追自殺の危険はさらに広がっている。
と云うように、自殺の感染、自殺の連鎖に警報を鳴らしていました。
しかし、自殺を思い止まった少女の回想もありました。
少女は、自殺の決行日を決めていました。しかし、回りの友人達から「私達は、あなたのことを心配している」と言われた事から、心の苦悩を話す勇気が与えられ、この場合、家族に話をしたことで、自殺を思い止まれたと語っていました。

先週末のNHK週刊ニュース深読みで「どう防ぐ?若者の過労自殺 "会社と社員"のつきあい方」で討論していました。

NHK週刊ニュース深読み - 2016年11月05日放送
http://www.nhk.or.jp/fukayomi/maru/2016/161105.html

弁護士の川人博さんは、仕事に過度に追い立てられた人は、
「仕事の事で頭がいっぱいになり、他のことが全く考えられなくなってしまう。助けを求めることができなくなってしまう。」そして、「仕事の成果が出せないことはすべて自分の責任と思い詰めてしまう」と話されていました。
周りの人が、同僚が、管理者が、仕事の進捗だけでなく、働き手の体調や健康にも注意ができていたならば、自殺は防げたのではないかと苦々しく思います。

いじめ自殺も同じだと思います。
いじめや無視、無関心にされることで、過度に精神が追い込まれ、逃げられなくなってしまうのです。そして、いじめの原因を自分に求めてしまうのだと思います。

「私は、あなたのことを心配している。」
あなたの、私のこの一言が、身近な人の自殺を思い止まらせるのかも知れない。
そして、
身近な人からのこの一言が、あなたの、私の自殺を思い止まらせてくれるかも知れない。
そう希望を持って思います。

2016年11月4日金曜日

ドングリ拾い

昨日、妻とドングリ拾いに行きました。保育園の園児たちとドングリ遊びをするためです。妻がウエルネスパークでキレイなドングリが沢山とれるというので、出かけました。半信半疑でしたが、駐車場の回りに植えられた樫の木の下のくさむらには山ほどドングリが落ちていました。二人で一時拾うだけで手提げのビニール袋一杯にドングリが取れました。

それから黒岩山に登りました。中腹で弁当を食べ、読書を楽しみ、最後は山頂に登りました。黒岩山の標高は132m、加古川支流域が広く見渡せました。

最後は、ウエルネスパークハーブ園をまわってハーブやバラを楽しみました。

持ち帰ったドングリですが、
園児たちにキレイなドングリで遊んで貰いたいために
傷のないドングリだけを選別し
水で洗い、水に浮いた虫食いと思われるドングリは取り払い
そして
煮沸し、
現在、天日で乾かしています。
明日には、園児たちの手元に届けることができそうです。