播磨の国ブログ検索

差別の天秤

「愛を読む人」という約10年前公開の映画の、他の方が書いた映画評を読みました。 そこには私が考え及ばなかった、ハンナが隠し通した秘密についての考察が書かれいました。ハンナは文盲でした。そして、その事実を生涯隠し通しました。それは何故かです。 映画か原作小説の序章で、ハンナの...

2011年2月11日金曜日

新聞読み「B型肝炎訴訟20代原告女性が手記」

最近の新聞読みで一番心に残った記事は、2月4日の朝日新聞・夕刊に掲載された『B型肝炎訴訟原告 20代女性が手記』です。

以下、掲載記事の引用-----

原告たちは長い間、発病への不安や周囲の偏見におびえ、苦しんできた。差別のない、「生」をまっとうできる社会になってほしい-。大阪地裁で闘ってきた20代の女性が、その思いを綴った手記を朝日新聞に寄せた。

女性は専門学校を卒業し、就職。関西で1人で暮らす。
職場には感染を伝えたが、周囲の心ない言動で傷ついた経験から、友人には幼なじみも含めて明かしていない。
約2年前、母の勧めで提訴した。仲間となった他の原告と励まし合い、救われた。だが、それでも裁判資料は自宅の目の届かない場所に置き、感染の現実を遠ざける。
提訴は解決の道筋が見えてきたが、社会では、いまだにB型肝炎が正しく理解されていないと感じる。「自分に出来る事は勇気を出して語ること」。そう考え、手記を綴った。

『「近寄らんといてくれ」 涙、止まらず』

私は小学4年生で盲腸の手術を受けた時、予防接種で感染したことを知りました。母は「守ってやれなかった。代わってやりたい。ごめんな。ホンマにごめんなさい」と泣き崩れ、幼い私に頭を下げました。
私は感染したことよりも、初めて見る母らしくない姿にただ涙がこぼれました。こんなに優しい母が、なぜ罪悪感を持たなければならなかったのでしょうか。
10代の頃、医療の学校に通いながらアルバイトをしていました。感染を知ったアルバイト先の上司は「君がB型肝炎って知ってたら採用してへんわ。これからはうちの食器使わんといてな。私やったら絶対雇わん。こわ-、近寄らんといてくれ」と、笑いながら離れる素振りをされました。私は驚きのあまり、ただ「すいません」と頭を下げるのが精一杯でしたが、その夜は悔しくて涙が止まりませんでした。
学校の授業で感染対策の勉強をした時は、友人たちから「感染病持っている人は専門の病院にいってくれればいいのに。うつされたら怖いわ-」と本音を聞いてしまい、ますます打ち明けられなくなりました。
好きになった男性にも、感染のことで、嫌われるのが怖くて、最初から遠ざける事がほとんどでした。大切な人の幸せを1番に願うなら、私なんかがそばにいてはいけない、と感じてしまいます。

ウィルスを抑える核酸アナログ製剤という薬があります。他の原告から、この薬は人によっては服用すると一生飲み続けなくてはならず、子どもをつくることをあきらめなくてはならないと聞かされました。
結婚、出産、子育て、日常の幸せな夢まで、B型肝炎が重くのしかかります。
私は将来、家族を持てるでしょうか。お箸の持ち方やくつひもの結び方・・・・・・、将来、自分の子どもに当たり前の事を教えてあげられるでしょうか。病気で入院して、寂しい思いをさせないでしょうか。
これから先、いつ発病するか分からないウィルスとともに、死ぬまで生きていかなければならないのは、恐怖と不安でいっぱいです。
病気にならないための予防接種で、なぜ感染してしまったのか。国は危険な行為を続けたことを認め、謝罪して欲しい。私の母は悪くないと言ってあげて欲しい。
被害者の多くが人に言えない、辛い辛い経験をしています。私自身も自分の心の奥底にしまった気持ちや経験を話すことためらっていました。でも、勇気を出して発言します。偏見・差別がなくなるように。被害者が下を向いて、一人で泣く事のないように。

[朝日新聞に掲載されたキーワード]
◆B型肝炎集団訴訟
国が1948~88年、地方自治体に実施された乳幼児期の集団予防接種などでB型肝炎ウィルスに感染したとして、2008年3月以降、札幌や東京、大阪など10地裁で計702人が提訴した。
札幌地裁が先月、国が患者の症状に応じて3600万~1250万円を支払う>症状が出ていない持続感染者にも50万円を支払う-などとする和解案を示し、国と原告側は基本的に受け入れる方針を表明した。
原告側弁護団によると、原告は予防接種時の注射器の使い回しで感染。発症すれば肝硬変や肝がんになる場合があるが、主に血液を介して感染するため、一般的な日常生活では感染する恐れはない。それにもかかわらず、感染を理由に就職や結婚を断られたり、学校・職場で差別的な扱いを受けたりした人も多く、原告の大半は匿名で訴訟に加わる。
大阪訴訟の弁護団長、長野真一郎弁護士は「国には啓発を通じて偏見や差別をなくす責務がある」と話す。
◆B型肝炎集団訴訟をめぐる主な動き
1989年6月
患者ら5人が札幌地裁に提訴
2000年3月
同地裁が「歯科医療などの一般の医療行為や家族内の感染の可能性がある」として原告側の請求棄却
2004年1月
札幌高裁が「5人の感染は集団予防接種によるもの」と認定。損害賠償請求権が消滅したと判断した2人を除く3人に勝訴判決
2006年6月
最高裁が5人全員に対する国の賠償責任を認定
2008年3月以降
別の患者らが全国10地裁に集団訴訟(現在の原告数702人)
2010年3月
札幌、福岡両地裁で和解勧告
2010年7月
札幌市債で和解協議始まる
2011年1月
同地裁が和解案を提示。原告団が国の謝罪や差別・偏見の解消なを条件に受け入れを決め、政府も受け入れ表明

以上、引用-----

太平洋戦争を敗戦で終えた後、欧米の民主主義、博愛主義を骨格として日本は再建され、そして65年を経過しましたが、多くの差別・偏見が今なお私たちの血脈に根深く、息づいています。

ハンセン病、原爆被爆、公害、沖縄、在日、部落等々、エイズもしかり、性同一性障害(障害という名称自体如何なものかと思います)、貧困と枚挙に遑が無いほどに、古くて新しい、新しくて古い問題が、根本的な解決をみないまま棚晒しになっています。

私は、戦後の乳幼児期の集団予防接種について、当時の医療知識・倫理の未熟さ(注射器の使い回し等)等により、現在にいたり、また将来にわたっての命に関わる重大な問題が引き起こされた事実を重く受け止めますが、また集団予防接種により、公平に多くの命が未然に救われたであろうという理解も忘れてはいけないと思います。

16世紀、ガリレオ・ガリレイは地動説を唱え、宗教裁判にかけられて、その後終生、隠遁生活を余儀なくされました。無知、未熟さ、当時の正義(創造主が作られた昼と夜が地の周りを廻る、いわゆる『天動説』が正義であったのです)が彼を追いやったのです。

私たち人類は、長い歴史の中で、文化、技術・道具、哲学を発展させてきました。それは、木が年輪を重ねて枝を伸ばし大きく成長するが如く、積み重ねて成長し発展し続ける分野もあれば、誤りに気づき、見直し、修正しながら進歩する分野もあります。

現在の中国の急速な発展は、「90年代後半、朱鎔基首相が断行した改革が大きかった」といわれていますが、『壮士断臂』で大鉈を振るったとあります。「臂」とは腕のことで、『壮士は指から入った毒が全身に回らないよう、腕を切断してでも生き延びる』、短期間でGDP世界第二位まで登り詰めたのは、全体主義国家であるゆえんだと思います。

『壮士断臂』は極端でも、『臭いものに蓋をする』、『村八分』という制裁を受けないよう、周りと同じように良くも悪くもなく生き延びる、という事に心血を注いで生きてきた日本人の悪性が、差別する側・される側にもあるのだと思います。

私たちの日本は、世界の中で、侵略され征服させた事のない希有な国であるとみられていますが、日本列島内での世界では、文明の芽生えた飛鳥時代以降から最近まで、時の権力者同士の侵略・征服という血で血を洗う抗争が繰り返されてきました。権力者の下で常に支配された大多数の民は、常に頭を下げて生きてきたのです。

始めに書いた『太平洋戦争を敗戦で終えた後、欧米の民主主義、博愛主義を骨格』を象徴する日本国憲法でさえ、日本人自身で勝ち得たものではなく、外部から与えられたしろものです。

1990年代初頭まで、日本は『政治は三流、経済は一流』と評されていました。
中学生になった日本人は、社会や公民の授業で、最初に日本国憲法を学びますが、日本人自身が描いた正義や価値基準を基に義務と権利を規定したものではない憲法、それぞれの身勝手な解釈で利用される憲法の下で、誇れる政治が行える訳などないのです。

日本人は、先の日本史の中で、自然や周囲との共生、いたわり、礼節など高度な精神文化を生み出し育んできました。しかし、戦後、経済偏重で歩んできた日本人は、行き過ぎた効率化、画一化、マニュアル化そして競争の果てに、その良き精神文化をも廃らせてしまったと思います。

表題の『B型肝炎集団訴訟』は、1989年に最初の提訴がなされ、20余年かかって漸く原告側に風がふいてきました。この事自体は評価されることなのでしょうが、まだまだ原告側の戦いは緒に就いたばかりです。
何故にこんなに時間が掛かるのか、また原告側が求めている国の謝罪に対してどう答えるのか、これは他の差別・偏見の引き起こした事象全てに共通する問題です。
ここで指す国とは、何でしょうか、政治を司る政府でしょうか、行政でしょうか、それとも事象に関与した時の権力者でしょうか、この手記を読んで、彼女が1番怯えているのは、自分と関わる周りの人々です。全ての日本人です。

たとえ勝訴し、金銭的保証を勝ち得ても、時の為政者が通り一遍の謝罪をしても、原告者の怯えは拭えないと思います。

日本人が、頸木を背負った隣人に、躊躇することなく手をさしのべ、笑顔で共に歩むという、精神文化を取り戻さなければ、根本的な解決はないと思います。

重く深い命題です。

昨晩からのみぞれで、寒い朝となりました。

お早うございます
播州地方も、今朝はみぞれ交じりの寒い朝で明けました。

久々のリアルタイムな出来事?の書き込みです。

今日、鹿島中野球部は、Aリーグチーム・阿弥陀北浜連合との合同練習が予定されていましたが、この様な天気のため、合同練習は2月19日に延期となりました。

因みに、Aリーグというのは、昨年11月末に各子ども会等の野球チームを卒業した小学6年生が、中学入学までの約4ヶ月を、野球を楽しめる様に設立されたもので、東播、西播、北播等から多くのチームが参加します。
近年の児童数の減少と共に、様々なスポーツが身近になり、保護者や地域有志のサポートが前提となる子ども会等の野球部を選択する児童が減少している事もあって、鹿島校区の阿弥陀町と北浜町にある4チームの卒業生の受け皿として、Aリーグチーム・阿弥陀北浜連合は発足されました。この形態での活動は今年で3年目となります。
監督を引き受けて下さっているのは、熱血漢で野球をこよなく愛する松井さん、阿弥陀北浜連合チームの発足に尽力され、初年度から監督も引き受けて下さっています。

鹿島中野球部監督である藤原先生とも懇意で、今回、初めて中学野球部員と4月に新1年生となる小学6年生との合同練習が行われることになりました。小中を結ぶ新たなる架け橋としての今回の試みは、小学児童にとっては、一足早い中学野球の体験となり、また中学野球部員にといっては先輩達が開いた道を、自分たちが今歩き、さらなる道を開くだけでなく、自分たちの開く道を歩む、引き継いでくれる後輩の存在を自覚して、自分たちの野球を、環境をさらに良きものとしてくれる事、期待します。

私といえば、昨晩、寝床に入る時、雪が積もっていたら姫路城の雪景色でも眺めに行こう、などと不埒な考えに浸っていました。けれど姫路城は昨年から平成の修理が始まり被いに隠されたまま、当分あの優美な城を望む事ができない事、忘れていました・・・。あ~ぁ、情けない
2

2011年2月8日火曜日

短編小説2 『君なぁ、どないすんのや』 ~夏休み最終日に見た白昼夢~

夏休みも今日で終わってしまうという日の午後、すっかり昼寝が板についてしまった僕は、まだ手つかずの読書感想文に取りかかるため、学校の図書室で適当に選んで借りた本を読もうとしたが、読みつけない本を前にして、数頁めくったところでウトウトしてしまった。
今日は家族みんな出払っていて僕一人、外は残暑が厳しいものの、開けっ放しの窓からは、心地よいそよ風とつくつく法師の鳴き声が流れこんでいた・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「おい!君なぁ、どないすんのや」
語気の強い声が部屋の中に響いた。夢・・・?まだ、薄ボンヤリしていた。
「起きーっ!」
さらにでかい声で、眼が醒めた。
声の主は本だった。

エエッ、と僕はまだ夢の中にいる、と思った。が、本は
「夢ちゃあう、オレや、本や、ちゃんと読んでくれや」
と、それから続いて小言を言い始めた。
「君なぁ、わかってるか、もう夏休み終わりやでえぇ」
「また今度も書けず終いで、夏休みの宿題”0”点になってもええのんかあぁ」
「オレなぁ面白いでぇ、頑張れやぁ」
「おとついは7頁、昨日は5頁、今日は3頁やん」
「オレなぁ46頁から面白なんねん、でもなぁ最初からちゃんと読んでくれんと、その面白さも半減やん、オレ可哀想やん」
「なぁ頑張ろ」

怒ったりすかしたり、本の小言は全く止む気配がない。
僕は本をカバンの中にしまってやろうと本に手を伸ばした。
突如、本は開き僕の手を噛んだ、いや、挟んだのだ。
「痛たっ!」
僕は手を引っ込めた。
「オレに勝とう思とんか、100万年早いわ!」
「君みないな子、よう知っとんねん、おとなしぃにオレの言うようにせぇ~」

僕は諦めた、口答えするのを諦めた。でもやっぱり本読みは辛い・・・。
僕は本に正直に話した。すると本は、
「もう-、しゃあないなぁ」
「ほんだらオレが読んだるさかい、しっかり聴けやっ」

それからトイレ休憩を挟んで4時間、姿勢を正して本の朗読を聴いた。
さすがに本だけあって、上手に朗読する、僕は聴きながら感心した。
本は朗読の途中、何度か止まって、
「どや、ここ面白いやろ」とか
「なぁ、泣けるやろ」とか
僕の表情を見ては話しかけてきた。
4時間はあっという間に過ぎ、本は最終ページまで読み終えた。
時計の針は5時を指していた。

「さっ、ほんだら読書感想文、書こか」
と、本は僕に指図した。
でも、本の朗読があまりに上手かったので、僕はしっかり物語を堪能できていた。それで、忘れぬうちに書いてしまおうと、本に従い、原稿用紙を取り出し読書感想文を書き始めた。
驚くほどにスラスラ書けた。
書き終わると、本は
「見してみいっ」と上から目線で僕に言った。
僕は仕方なく、原稿用紙に書き上げた感想文を本が見えるように、本の前に開いて見せた。
「君なぁ、ちゃんと聴いとったんかぁ・・・」
まずイヤミを聞かされた。
「でも、まぁそこそこ書けと-やん、ほんだらこれくらいで許したるわ」
本は、開いた頁を閉じ、もう僕に喋りかける事はなかった。
静寂が訪れた。
僕は、開放された安堵感で眠ってしまった・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ぱっと眼が醒めた。時計の針は7時を指していた。
朝の7時だった。
僕は飛び起き、
「あっ、やってもたぁ」
と悔やんだ。
でも、始業式から遅刻すると恥の上塗り、覚悟を決めて身支度をし、大急ぎで机の上に散らばっているワークなどの夏休みの宿題をカバンに詰め込もうと机の上を見ると、夢と思っていた読書感想文があった。
その下に本があり、しおりが挟んであった。
僕はしおりの頁を開いた。
その頁には小さな紙片がたたんで挟んであった。
ひろげると紙片にはメモ書きで、次のように記されていた。

『できるやん、なぁ。これからはもっと自信持って、本好きになってな・・・ほなさいなら。 本より』

短編小説1 『野球小僧に逢ったかい?』 ~僕はタイムトラベルで勇気に会った~

7回裏、1点リードで最終回の守備についた。
僕は遊撃手、親友でエースの豊は6回まで強豪浜中を0点に抑えてきたものの、この回疲労から制球を乱し、一死から三者連続四球で満塁、一打逆転のピンチとなった。
僕と二塁手の勝弘は前進守備隊形をとった、頭に一年前の試合がよぎった。
あの試合も、まさに最終回の守りで一打逆転のピンチを迎えた。痛烈な打球が僕の左脇辺り目がけて襲ってきた。一瞬の恐怖が体を凍らせ、打球をはじき、誰もいない方向にボールは転がり逆転負けを喫した・・・。
頭から振り払おうとした、でも悪夢はますます鮮明に甦り、目の前の試合に集中できない。
その瞬間、また強烈な打球が僕の左側を襲ってきた。普段なら十分に処理できる打球、しかし、始動が遅れ僕のグラブの数センチ先を抜けて左中間を破り、二者が返ってまたもや逆転負けを喫してしまった。

試合後、監督から居残り特守ノックを言い渡された。
学校に戻り、監督の厳しい檄の後、特守ノックが始まった。
けれどますます萎縮し、消沈した気持ちに支配され、つい目を切った瞬間、顔面、鼻先に強烈な打球を受けて、僕は真っ暗になった・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

遠くから僕に呼びかける声が聞こえた。意識が次第に戻ると同時に、鼻の辺りに強烈な痛みを覚えた。ゆっくりと目を開いた、鼻血が左頬を濡らしていた、生暖かかった。
僕の鼻先10センチの所に見知らぬ顔があった、その顔は心配顔から僕のびっくりした表情を確認した後、安心した笑顔に変わり、持っている濡れタオルで顔を冷やしてくれた。
「もう大丈夫やな、けどビックリしたで・・・急に現れてぶっ倒れて、鼻血流して・・・おもろいやっちゃなぁ」
僕は彼が顔に当ててくれたタオルを右手で掴み、それを見た。
「ワイの手ぬぐいや、ちーと汚いけど勘弁してや」彼は笑いながら、彼が手ぬぐい?という代物を僕の手から受け取り、もう一回濡らしてくるわと言って、駆けて行ってしまった。

鼻血も止まり、顔面の痛みも和らいだので、体を起こして周りを見渡した。そこはいつもの見慣れた学校の風景ではなかった。木造二階建ての粗末な校舎らしき建物が目に入った。その建物の前に広がる空き地?校庭?で僕と同い年くらいの連中が、変わった風体で野球をしていた。ぶかぶかで薄汚れたユニフォームを着ていた。足、足にはストッキングではない別のもの、そう包帯の様なものを巻いていた。
ひとりが僕に気づき駆け寄ってきた、彼だった。
「もう大丈夫やろ、こっちきいや、今隣町の中学と試合してんねん、お前も野球しとんのやろ・・・、でもお前アメリカ人か?ええユニフォーム着てるやんかっ」
エエッ、と頭が混乱しながらも、立ち上がって彼の後ろについて一塁側のベンチの横まで移動し、そこで地ベタに座り込んだ。後ろには、よく陽に焼け、ガッシリとしたおっちゃんとおぼしき数名がランニングシャツ一枚の格好で、先ほど僕を介抱してくれた彼が持っていたものと同じ、手ぬぐい?という代物を首に巻いたり、頭に巻いたりして、試合を観戦していた。

僕達の試合ではいつも母親達が付き添い、お茶出しや冷やしたタオルで介抱してくれたりと、世話をしてくれるのだが、ここには母親らしき人はいなかった。けれどサザエさんみたいな髪型をした、綺麗な顔立ちの女性が、真っ白な傘で日差しを避けながら、花壇の低い石垣に腰掛けて試合を観戦していた。ぼーっと見ていた僕に、顔を向けてニッコリ微笑み、また試合観戦に戻った。
僕はカーッと顔が熱くなり、顔を左右に何度も振り、そしてすまし顔を取り繕って、僕の左隣に座っている彼に向かって尋ねた。
「あの人は誰?」
彼は恥ずかしげに相手を確かめてから
「ワイの組の担任、夕紀先生や、べっぴんやろ」
僕と同じく顔を赤くしながら言った。
「今日は、夕紀先生が応援しにきとってやから、絶対勝ちたいねん!」
「けど、前の試合でエラーしてもて、今日は補欠や、けど絶対出て先生にエエとこみせたんねん!」
彼は試合に顔を戻して、真顔で言った。

彼につられて、僕も試合に目を向けた。
監督らしき人はいるものの、僕と同じようにただ試合を見つめていた、そのまなざしは優しかった。
それに比べて、選手達はみんな笑顔で、チームメートには檄を飛ばし、相手チームには汚い言葉でヤジを飛ばしていた。
みんな大声を発していた。
「さあワイのとこ打ってこい!アウトにしたる」
「さあこい、ワイが一発かましたる!」
攻守とも、目を閉じればケンカをしているようなありさまなんだけれど、みんな笑顔で上を向いている、集中している、楽しんでいる、その晴れやかな清々しい熱気が、先ほどまで僕の心を支配していた弱気を吹き飛ばしてくれた。

試合は最終回、同点で彼のチームの攻撃となった。
一死から四球で走者が出て、次打者の内野ゴロの間に二塁に進塁した。
監督が立ち上がり、代打を告げた。こちらに向かって
「耕太郎!かちましてこい」
心臓に響くほどの大声だった。
彼は両手で頬をおもいっきり叩いて、よっしゃーっの一声を発して立ち上がり、バッターボックスの方へ駆けていき、バットを受け取り、バッターボックスに入った。
彼を見た。僕のように前の失敗を全く引きずることのない、真っ直ぐな顔で、相手投手を睨みつけていた。
「耕太郎、頑張れっ」
涼やかな美声が喧騒を溶かし、僕の耳にも届いた。夕紀先生だった。
彼は、夕紀先生の方を振り向き、また顔を真っ赤にして、一度バッターボックスを外した。
仕切り直して、バッターボックスに入った。

後ろで観戦しているおっちゃん達が歌を歌い出した。
「野球小僧に逢ったかい
男らしくて純情で
燃える憧れスタンドで
じっと見てたよ背番号
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ
朗らかな 朗らかな 野球小僧~」
その時だった、カキーンという音が聞こえた瞬間、顔を音の方向に向けた、ファウルの打球がライナーで僕の顔面を直撃した、また僕は真っ暗になった・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

声が聞こえた、懐かしい声・・・。強烈な痛みを堪えて目を見開き立ち上がった。
「やれるか」
監督の安堵した表情が目に入った。
「やれます。もう1本お願いします!」
自分でも驚くほど、素直に、大声を発していた。
心の中で何度も叫んだ、野球小僧になる、野球小僧になったるっ!と・・・

2011年2月7日月曜日

スーザン・バーレイさんの絵本『わすれられないおくりもの』の朗読ビデオをYouTubeにアップしました。

約二ヶ月ぶりの書き込みとなります。

一昨日から制作に取りかかり、今日出来上がった、絵本朗読ビデオ(絵本題名『わすれられないおくりもの』)、YouTubeにアップしました。


この絵本は昨年11月に中古書店で購入したものです。
作者であるスーザン・バーレイさんが美術学校の卒業制作として創作された作品で、1984年に刊行、日本では1986年に初版が刊行されています。現在でも、スーザンさんの代表作品となっています。

原題は、"BADGER'S PARTING GIFTS" 直訳すれば『アナグマの分かち与えた贈り物』とでもなるのでしょうか、物語は、森の賢者というべき年老いたアナグマの死から始まり、森の仲間達の悲しみ、そしてそれぞれが、アナグマとの思い出、アナグマから授かった知恵や工夫を語り合い、アナグマを失った悲しみの冬を乗り越えて、互いに助け合い、励まし合って、アナグマとの楽しかった思い出と共に歩み出す春を迎えるまでが綴られています。

西洋の童話の多くに見受けられる神秘的なお話しではなく、文明の継承という哲学を物語の主軸に置かれている点で、他の童話とは一線を画す物語です。

また、死は悲しみばかりではなく、共に過ごした楽しかった思い出や、与えて貰った様々な事柄、この物語の表現を借りれば、大切な贈り物、忘れられない贈り物によって、私達は思い出や記憶と共に豊かに歩むことができる、という作者スーザンさんのメッセージが心を癒してくれます。


昨年末に、古い友人が逝きました。新入社員として同期入社し、数年後、互いに紆余曲折な人生を歩むことになり、二十歳代の終わりから会ってはいませんが、ただ葉書や手紙で細々と便りは取っていました。
昨年春、腫瘍が見つかり手術を行ったことを手紙で伝えられました。その後、根治治療を続け9月の始めに届いた手紙には希望が書かれていました。しかし、10月の終わり、最後となった手紙には、転移の事実と、家族にこれまでの又、現在の苦しみを吐きだしたことなどが綴られていました。

年が明けてから、訃報を受け、腹を割って話せる大切な友人を失ったことに、思う以上に落胆してしまいました。
暫くしてから、もうひとりの古い友人にメールで知らせました。
共通の思い出を持つ友人に伝えた事で、楽しかった思い出が遠い記憶の淵から甦りました。
また、生と死についても、改めて身近な事象として考える切っ掛けとなりました。
この絵本はその貴重なテキストの一つとなりました。

昨年末から体調が優れなかった事もあって、呆けた期間が長くなりましたが、ここに来て体調も安定し、また弱々しいながらも前に歩み出すその証として、また亡き友人への感謝を込めて、この朗読ビデオを作成しました。

今の私には何の背景もありませんが、これまでに学んだ事、探した事、考えた事を、精一杯、絞って記したい、伝えたい・・・、改めて始めます。

閲覧してくださる方へ、またどうぞ宜しくお願い致します。



追伸。
不死について、私のバイブルと呼ぶべき司馬遼太郎著『竜馬がゆく』、文庫本第四巻、物情騒然の章、86頁に次の記述があります。

不穏になってきた京の都で活動する竜馬を案じるおりょうとのやりとりです。
以下本文を引用------
「死ぬ? おれは死なんよ」
竜馬は起きあがった。
「でも、人間はみな死ぬものでしょう?」
「いやおれもだんだんこのごろわかりかけてきたのだが、つまりこういうことではないか」
竜馬は自分に話しているらしい。
「大和の三上ヶ岳という山は千何百年か前に役ノ小角という男がひらいた山だそうだが、その上に蔵王権現をまつるお堂があって、そこに役ノ小角がともして以来、千数百年不滅という燈明がともりつづけている。人間、仕事の大小があっても、そういうものさ。たれかが灯を消さずに点しつづけてゆく、そういう仕事をするのが、不滅の人間ということになる。西洋では、シビリ、シビリゼ・・・・・・」
竜馬は、文明(シビリゼーション)という言葉をいおうとしているらしい。
以上------

司馬遼太郎は、竜馬の口を通じて、人が起こす不滅なるものを記しています。
『文明』という燈明は、常に点し続ける人が在って不滅・不死となる、司馬さんは、短文『洪庵のたいまつ』でも同じメッセージを記されてきます。
私達、人の在りよう、在り方の答えが、希望がここに在るのだと思います。