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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

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2024年1月7日日曜日

みのる君に電話しました。

今日(6日)、旧鶴来町、現在の白山市に住む大学時代の親友みのる君に電話しました。

昨年の能登半島を震源とする震度6強の地震の時に、何十年ぶりかで電話し、元気な声を聞きました。その時はみのる君の住む町はほどんど被害がなかったということで安堵しましたが、今回は震度7で、震源地である能登半島の揺れは2011年3月11日に宮城県沖を震源とする震度7の地震の揺れと変わらないほどのとてつもない揺れであったという事で、また日を追うごとに被害の甚大さが明らかになり、金沢市内でも被害が出ているというニュースもあり、すぐには電話できずにいました。

地震は今日現在も止む事なく発生している状況ですが、声を聞こうと決めて電話しました。電話の向こうからの第一声は「おめでとう~」でした。その声で、安堵しました。こちらの電話した思いを察したみのる君の「おめでとう~」でした。

実際、白山市も震度5で大変揺れたと思います。それでも家族にも家にも被害は無かったようで安堵しました。金沢市内に娘が住んでいるけれど被害はなかった様でした。

でも、みのる君の会社に勤める珠洲市出身の若い女性社員の事をとても気に掛けていました。週明けに顔を合わすけど、どう声かけしようか思案していると話していました。

また鶴来町の初詣で賑わう神社に大岩が落ちてきて、人の出入りのある場所の手前で止まったという話を聞きました。

そして鶴来町の更に南奥、岐阜県との境近くにある手取りダムからパイプラインで能登島まで水を運んでいるが、そのパイプラインのどこかが破壊されたため、水がまったく能登半島に供給できていないと聞きました。このパイプラインは、私が卒業した後に開通したものであると話してくれました。それまでは能登半島の人々は水も自給自足であった様です。

また人的被害についても、私は正月の帰省が災いして若い人の犠牲者が出てしまったのかと話したところ、みのる君は、帰省で若い人が震災の地にいたから、SOSが発信されている。もし帰省の時節ではなかったら、能登は高齢者の一人世帯が多い為に、被害の様子もSOSも何も発信されぬままになって、今以上に非常に深刻な状況になっていただろう、と話していました。そとから知る事、そとに発信されている事だけでなく、内で見ている人の、内から発信している人の情報に、もっと私たちはフォーカスしなければならないと思いました。


その後は、しばらく学生時代の貧乏生活の話に花が咲きました。みのる君は、二人でよく利用した飲食店の名を覚えていて、先日も一軒の店にいった話をしてくれました。昔は、学生は貧乏だからと大盛りを運んでくれていました。貧乏でいつもお金にピーピーしていましたが、アルバイトで得た金で、けっこうしっかり飲み食いはしていました。でも、本当、大盛りは助かりました。いつも腹ぺこでしたから。 

2017年12月4日月曜日

古い友だちが逝きました。

土曜日、友だちの奥さんの名前で喪中はがきが届き、裏面を読むと友だちが11月19日に亡くなったと書かれていました。
最後に顔を合わしたのは、25年前、私が結婚したての頃に家族で家に遊びに来てくれた時でした。以後、年賀状だけのやりとりとなっていました。今年の年賀状の裏面の下に、自筆で「また会いたいね」と書いていました。その言葉が妙に残っていました。

すぐ電話を入れようとしましたが、控えていた番号は現在使われていませんでした。それで、もう一人の古い友だちに電話を入れました。もう一人の友だちは通夜に行ったこと、そして亡くなった友だちが、きっと病床でのことでしょう。奥さんに「俺は先に絶対死なへん。(もし奥さんが先に死んだら)若い奥さんをもらうん」とほたえていたと聞きました。亡くなった友だちもその奥さんももう一人の友だちも、皆1983年に新入社員として入社した同期です。ですから若いときのふざけあっていた思い出がぱっと蘇ってきました。

そしてなんとか電話番号を調べて、奥さんに電話を入れ、日曜日に線香を上げさせてもらうことにしました。
二人の子どもはすっかり美男美女の大人になっていました。しばらくして友だちの両親と弟家族がきて、お経の供をさせてもらいました。その後、またしばし談笑しお暇しました。

友だちは3月に病気が分かり、闘病に入るも早くに脳に転移し、体に不自由を抱えることになった様子です。食事もなかなか自力でとれなかったでしょうし、家族とのコミュニケーションも難しかったと想像します。闘病を支えた奥さんをはじめご家族の負担も相当であったと思います。でも、奥さんはさらっと話し、「良い夫やった?」とのたずねに「そうやね」と応え、そして29年間の結婚生活はとても濃く、29年しかなかったとは思えないと話してくれました。遺影のポチは少しぽっちゃりとしていましたが、若かりし頃と変わらぬ、はにかんだ笑顔をたたえていました。

遠国の友へ
亡くなる前に行ってくれ
会いに行くから
心の中で空しくこの言葉を唱えました。