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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年4月13日土曜日

令和

「令和」を最初に聞いた時、冷たい印象を持ちました。
4月1日、安倍首相はニュース番組をはしごして、内閣(自分)が「令和」と決めた理由を説明していましたね。元号が最終的に内閣が決めるとは知りませんでした。1979年に法令化されたんですね。「平成」について、今上天皇が即位される前日(昭和天皇が崩御された日)に幾つかの案から選ばれたとずっと思っていましたが、どうやら勘違いでした。
でも、元号は皇位の継承があったときに新たに定められるわけですから、国政と紐付けるよりも、皇室文化として、国民が選んだ中から皇位継承者が一つを選び、国民に新元号を述べられる、としたほうが、国民側からとしても平等であると思います。今回の様な生前退位による即位の場合においても、即位前日に皇室から厳かに発表するとしていたら、乱痴気気味な元号商法や元号詐欺などを抑制できたのではないか、と思います。

「令和」ですが、元号として初めて和書から選ばれたという点が強調されましたね。その出典元である万葉集は、759年(天平宝字3年)までの約130年間に様々な身分の人が読んだ歌が分類収録された和歌集です。その万葉集の、第五巻梅花の歌三十二首の序文、大伴旅人によるとされる序文の一節が出典元であると説明がありました。
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梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。
于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

天平二年(730年)正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。
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転載元
※万葉集を読む
http://flac.aki.gs/Manyou/?p=3227

「令和」は、「初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」の一節から「令」と「和」の二文字が選ばれて作られました。令は良い、和は和み、「令和」には「良い平和」という願いが込められていて、選定理由を知ると、「令和」もまんざら悪くないなぁと思えるようになりました。

そして、太宰府で読まれた梅花の歌には、古代日本の風景を偲ばせます。

古代の日本は、大陸や海から様々な容姿の人々や様々な文明を持つ人々が流れ着き、長い時間を掛けて融和しながら、独自の日本文化というものを育んでいきました。
また、当時の日本からすれば世界の中心である大陸と、早くから交流や交易が行われていたのだと思います。古代人にとっては、海というものは想像するよりも困難な隔たりでは無かったように思います。
そして646年、最初の維新、大化改新によって、天皇を中心とする律令国家が成立し、日本は独立国家となりました。隣の朝鮮半島では5世紀に渡る大国高句麗、百済、小国新羅の三国支配が、新羅が唐の冊封国となったことから唐の朝鮮半島侵攻が始まり、終焉を迎えます。日本も百済支援に初の海外派兵を行いますが、敗れ、百済は滅亡、日本は九州太宰府に防衛拠点を築き、防人を駐屯させるに至ります。
そして以後、第二次世界大戦の敗戦で占領されるまでの約1300年あまり独立国家して歩みます。
太宰府は古代日本国の防衛の拠点となり、また大陸との交流、交易の拠点ともなりました。そして多くの日本人が大陸へ渡ったのだと思います。大伴旅人が太宰府で梅花の歌会を催した730年ごろには、唐の脅威はずいぶんと去って、人的交流や文化交流が盛んになっていたころではないでしょうか。その歌会に集まった人々は大いなる旅を経験した人たちばかりであったと思います。豊かな心を育んだ日本人であったのだと思います。

2019年4月9日火曜日

憧れる人

日曜日、仕事帰りに服も着替えず花見に参加してくれたぼーさんが、こんな話をしてくれました。新入社員研修で、新入社員に何のために仕事をするの?と問い掛けたところ、一様に「金のため(お金を稼ぐため)」、「生きるため(生活するため、あるいは自分で生きていくため)」と答が返ってきて、「う-ん」という気持ちになったという話です。
その話で、聞いた連中は一様に「それは当たり前のことやけど、な-」とため息が漏れました。

尋ねたぼーさんは、問い掛けに対して期待する正解の答えというのは無かったはずです。
でも何気ない問い掛け(ではなかったかもしれませんが)にも、一生懸命に、個性を出して欲しかった、気概を見せて欲しかった、人となりを見せて欲しかった、のだと思います。

もうずいぶん前からですね、若者が本音で答えることがカッコいいとなったのは。私の勝手な想像ですが、これは現在のテンポの速い攻撃的なお笑い文化の影響ではないか、と思います。会話の途中に相手から水を向けられると、間髪入れずに相手が期待するおもろい答えを返す。そうでなければ空気の読めん(KY)奴、おもろない奴となる訳です。そして若者が本音といっているのは、昨今の意味での忖度といえるのではないか、と思います。
そして、考えて、考えながら、時間が掛かっても話す(自分の心に問いながら話す、これが本来の本音だと思います)事は、恥ずかしいこと、と思っている様に思います。

先ほど忖度という言葉を使いましたが、忖度の本来の意味は「相手をおもんばかる」、相手の立場に立って考えるという意味です。しかし、昨今「目上の者に気に入られる行動、言動をする」という悪い意味が加わりました。

人垂らし、という言葉があります。だれに対してもいい顔をするとか、欺すという悪い意味もありますが、私は「人の内に飛び込める」という良い意味で大変好きな言葉です。
歴史上の人垂らしと呼ばれる人物は豊臣秀吉や坂本竜馬です。
「人の内に飛び込める」人というのは「心の内を相手に伝えられる」人のことだと思います。

60年近く生きてきて、憧れる人というのは
人の心に寄り添え、かつ、自分の心の内を相手に伝えられる人です。若者には、恥ずかしがらず、臆せずに、そういう者になって欲しいと思います。

2019年4月8日月曜日

アンディー・ウォーホル風ポップアートの作り方メモ

制作はCorelPhotoPaintです。

①写真を開く
②新規レイアに画像を複製し、複製画像の背景を消し込む。やり直しができるよう、 元画像はレイアはロックし隠しておく。
③新規レイアに背景色を設定する。
④背景を消し込んだ画像の色をグレースケールに変換する。
⑤ガウスフェードで軽くぼかす
⑥モノクロラインアートに変換する。
⑦ ②の切り込んだ画像のマスクで、⑥を切り込む
⑧の白部分にマスクを掛けて消し込む。
完成!

追悼花見

タクロウ追悼花見をカンチャン邸で行いました。
陽の当たる庭で、世間一般は満開の桜(カンチャンの庭の桜は何故か三分咲き)を愛でました。
タクロウは満年齢では、まだ誕生日を迎えていないので58歳でした。でも数え年では60歳、なのでタクロウの享年は60年です。

60年、60歳、
連中の中では、誕生日が一番早いのがぼーさんで、一番遅いのがたかちゅんです。昭和35年(1960年)~昭和36年(1961年)に生まれて、いよいよ、令和2年(2020年)~令和3年(2021年)で60歳です。
後何年生きるか、なんて若い頃には考えもしなかった。
そして、連中が亡くなる、なんてこと想像もしなかった。

でもしかし・・・、酔いが回るほどに(私は飲めない体になりましたので飲みませんが)、ガヤガヤと賑やかで楽しい酒宴となりました。「ひとりおらん」者も「そこにおるやないか」と勘定にいれ、「おらんもの」の性、酒の肴にしてました。こりゃタクロウもゆっくり寝てられんな、と思った次第です。

一人ひとり写真を撮ろうということで撮りました。そのままでは芸が無いので、アンディ・ウォーホル風ポップアートにしてみました。ポップアートにすると、個性が鮮烈に表現できました。面白い作品ができました。