八月になると、毎年一年ずつ過去となっていく、日本人の戦争の記憶が呼び起こされます。戦争で亡くなった人々の慰霊祭は、空襲を受け甚大な被害を被った日本全国津々浦々の町で、戦後79年となる今年も開催され続けていますが、テレビ中継されるほどの大規模な慰霊祭が八月に立て続けに開催されること、これもまた戦争の記憶を呼び起こす一因だと思います。
8月6日、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式
8月9日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典
8月15日、全国戦没者追悼式
テレビ番組でも、日本人の戦争の記憶をもとに新しく制作されたドラマが放送されたり、アメリカやオーストラリアなど海外の国の過去の公文書が新たに公開されるなどして、近年になって発見された戦争の映像や事実が、新しいドキュメンタリーとして制作されて放送されます。
しかし、一方で戦争を肌で体験した日本人は高齢化し、戦争体験の語り部として活躍された人々も、ひとり、またひとりと亡くなられ、日本人の戦争の記憶が途絶えてしまうことを危惧する論調も聞こえてくるようになりました。
日本人の戦争の記憶・・・、象徴的であるのが広島市原爆死没者慰霊碑の碑文、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」、そして長崎平和の泉の碑文、「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」だと思います。
戦争体験者にとって、戦争は、地獄の体験であり、できることなら誰にも語らず、心の奥に蓋をしたまま思い出すことなく忘れたい記憶であり、そして二度と再び苦しめられたくない、というものではないかと想像します。また、それ以上に、挙国一致の号令のもと、日本が戦争をすることは正義であり、必ず勝利するという教育と宣伝によって疑うことなく、戦争を賛美し、あらゆる物資、そして命まで供出した結果が、悲惨な体験と敗戦であったこと、その結果の責任を誰も負わず、謝罪もなく、戦争体験者の言いようのない怒り、悲しみ、苦しみは、自らの罪として背負わねばならず、生きなければならなかったことが、何より辛い体験であったのではないかと想像します。
今も、この様にわれわれ日本人は話します。
戦争はよくない。
原爆は二度と使ってはならない。
しかし、これはあまりにも抽象的で、本質については、われわれ日本人は、われわれ日本人の問題として、悩み、考え、答えを出そうという試練を、避け続けてきたと思います。
今朝ドラ「寅と翼」で、先日、次の様な会話がありました。主人公佐田寅子と上司の東京地方裁判所所長桂場等一郎との短い会話です。
「共亜事件の後、私、桂場さんに法とは何かというお話をしたんです。」
君は法律は綺麗な水、水源のようなもの、と言っていたな。
「嬉しい!覚えていて下さったんですね
憲法が変わっても尚、社会のあちこちに残る不平等を前にして思ったんです。
綺麗なお水、水源は、法律では無くて、人権や人の尊厳なのでは無いかと。」
私は、これだと思いました。悪法でも法律、人権を蹂躙する法律、人間の尊厳を認めない法律も、法律であり、われわれ法の下にある者は、従わなければならない。これが正しい行動であり選択である、とわれわれはずっと教育を受けて信じてきました。きっと法というものが定められた古代から、一貫して従うことが正しい、崇高なものであると、われわれはすり込まれてきたのだと思います。
しかし、法はあくまでも時の為政者が民を都合よく支配するための道具であるという側面があったことは否めません。近代になって理念として芽生えた人権意識や人間の尊厳は、為政者の道具としての法よりも、もっと崇高で、われわれ一人ひとりが守護者とならなければ、すぐに枯れてしまう、淀んでしまう、清らかな泉として保たれ続けなければならないものなのだと思います。
「正義の戦争」というものもあるのかもしれません。2022年2月にロシアがウクライナに軍事侵略を始めたことにより、ウクライナが、国土と国民、ウクライナの文化を守る為に、自衛のために立ち上がり始まったウクライナ戦争は、ウクライナ側から見たら「正義の戦争」といえるのかもしれません。しかし、二年が過ぎても終わりの見えない戦争に、ウクライナ国民も、武器や物資、戦費を支援し続けるウクライナ支援国の国民にも、厭戦気分が広がりつつあるのも事実です。ウクライナでは成人男性は徴兵が義務付けられ、戦地に送られ、命を落とすのが日常と化しています。「正義の戦争」でも、人権や人間の尊厳が著しく制限され、損なわれているのが実情です。
そして、ウクライナ支援国の一つである日本のわれわれも、ウクライナの人々が受けている人権侵害、人間の尊厳が蝕まれる事態を、遠くで眺めているだけのようで、罪悪感を感じ得ずにはいらねなくなる時があります。
そして、戦争だけが、人権や人間の尊厳を著しく傷つけている訳ではありません。現在の日本においても、様々な問題が、人権や人間の尊厳を著しく傷つけているのは実情です。
BICMOTORの事件は、ブラック企業問題の象徴的な事件でした。創業一族の傲慢さ、圧倒的なパワハラによって、一万の従業員が犯罪に手を染めさせられ、犯罪が露見するや、犯罪者として社会から糾弾され、罰を受け職を失う事態に陥っているのです。それなのにすべての責任を負い、罪に服し、賠償を負わなければならない創業者一族は、犯罪が露見するや否や、事業から手を引いて、表舞台から消えただけなのです。
首相の暴走を正当化する為に、多くの官僚が公文書の改ざんや破棄に手を染め、その事で心を病んだ官僚が自殺しても、いまもって真実は明らかにされず、誰も責任を取ろうとしないのです。統一教会と政治家の癒着問題もしかりです。政治と金の問題もしかりです。犯罪があっても、悪しき行いがあっても、それが事実であっても、だれが首謀者なのか、誰が犯罪行為を指揮したのか、いつも不明のままで、誰も責任を取らないのです。皆がやっているから、決まっていたことだから、とまるで他人事の様に彼らは話し、被害者を装い、煙に巻いて、事件はいつも藪の中に追いやられ、忘れられてしまうのです。
ビジネス化された児童ポルノ問題や、売春問題もしかりです。善悪の判断のつかぬ子どもや未成年者が、盗撮され、写真をばらまくと脅され、或いは金をゆすられ、性の奴隷にさせられて、その映像や写真がビジネスとして取引される事態が社会問題化しても、日本においては、「表現の自由」や「通信の秘密」という法律に阻まれて、人権や尊厳を回復させるための戦いが一向に進まず、もう犯罪者天国と化しているのです。
悪い淀んだ空気や水の中で、何か善からぬものが、勝手に生まれたように振る舞い始め、同調者が現れ、悪しきシステムが構築されて、承認されぬままに動き出し、悪が金を生み、同調者の欲を満たしていくのです。
日本の戦争に戻れば、その戦争に一分の道理があったとしても、戦争捕虜の国際的な取り決めを無視して、「生きて虜囚の辱めを受けず」と訓令し、兵隊だけで亡く民間人まで自決を強要し、或いは殺し、また、一億総玉砕を掲げて、如何に空襲で国土が焦土化し、国民が殺されても、一向に戦争を止めず本土決戦を唱え続けた為政者たちの罪は、計り知れないものと、私は思います。
日本に、日本人に、しっかりとした人権意識や人間の尊厳を守るという強い使命や意識が育まれ、宿っていたならば、少なくとも、この様な人権侵害が行われることは無かったのではと思います。
そこに、日本の戦争の記憶の本質があるのだと私は思います。
日本に、日本人に戦争で何が起こったか、体験者の記憶を、しっかりと記録し、後世に残す事も重要ですが、戦争の本質、当時の日本人が陥ってたい本質に向き合い、戦争も、そして戦争以外のあらゆることについても、人権が蹂躙されぬ様に、人間の尊厳が損なわれない様に、私たちがその守護者として、責任ある一人として振る舞えるように、行動できるようにするために、戦争の記憶を役立てなければならないのだと、今、強く思います。