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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年4月11日土曜日

何やら、不穏な情報をキャッチしました。

Facebookを開くと、友だちの書き込みが目に留まりました。

ゲリー・ボーネルという米国の予知者が、「明日、東海大地震が起こる」と予知していたと云うのです。
ゲリー・ボーネルという人物、私は全く知りません。
でも、阪神大震災も9.11同時多発テロも、そして東日本大震災も予知していたと云います。ホントかなぁ~というのが本音ですが、さてさて、明日はどうなるか
やはり若干心配です。

トム・クルーズのベストムービー「ザ・エージェント」について

先日、テレビで映画「ザ・エージェント」が放映されていました。残念ながら見る事ができませんでした。

この「ザ・エージェント」(原題:Jerry Maguire 1996年米国映画)も、私のとてもお気に入りの映画作品です。公開当時、梅田の阪急北野劇場で観ました。ゴージャスな北野劇場の中央、白いシートの掛かった指定席で見た様に記憶しています。
当時人気絶頂のトム・クルーズ主演映画であるというだけで予備知識も無く観ました。

あらすじです
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Jerry Maguireは、プロスポーツ選手を牛耳るエージェント会社のやり手エージェントです。数多くのプロスポーツ選手をクライアントに持ち、彼らを大金に換える術にとても長けていました。
大学を出たてでこのエージェントという仕事を始めた頃は、ファンに愛されるプロスポーツ選手を育てるという夢がありました。でも今は、クライアントをファンではなく大金を出すスポンサーに売り込んで、上前を撥ねることに腐心する毎日です。

でもある日、そんな毎日に疑問を覚えます。
スポンサーの商品ではないプレーヤーカードを差し出してサインを求める少年に、そのカードにはサインができないと断るクライアントの姿を見ます。
また、プレー中に大怪我をした選手の子供から「もうパパを止めて(ゲームに出さないで)」と頼まれても、「(契約があるから)パパは止められない」と冷たく言い放つ自分を見ます。
そして彼は一晩で「このままではプロスポーツは駄目になる、エージェントはもっとクライアントに寄り添って、そしてファンに愛される選手を育てなければならない」とする改革案を書き記し、コピーして、会社の同僚全員に配布しました。
そして彼は・・・首を言い渡され、同僚に有望なクライアントを全て奪われます。

でも一人、彼の考えに共感し、彼と共に会社を辞めて、彼の秘書となって支えてくれる女性が現れます。Dorothy Boydです。彼女はシングルマザーでしたが、以前から彼に密かに恋心を抱いていました。

Jerry Maguireは、有望なクライアントを失い、またとても美人で野心家の恋人とも別れる事になりました。でも彼には、誰も手を出さないクライアントが一人残っていました。Rod Tidwellです。Rodは、テキサスの弱小アメリカンフットボールチームのワイドレシーバーでした。Rodはレシーバーとしての非常に高い才能がありましたが、体が余り大きくないために怪我を避ける消極的なプレーに終始し、またビックマウスであったためにチームからもファンからも扱いにくい選手となっていました。
でも本当のRodは、家族思いで愛情が細やかな、とても気持ちのよい男でした。Rodはフットボール選手としては体が小さく、また黒人であるために損をしていると思い込んでいました。それが消極的なプレーやビックマウスに現れていたのです。

Jerry Maguireは、Rodをファンに愛される一流のプレーヤーに育て上げる決意をして、私財を投げ打って彼のエージェントを引き受けます。でもRodはなかなかJerryに心を開かず、Jerryはその度に誤った選択をしたのではと悩み苦しみます。そんな彼を、Dorothyとその一人子である幼いRay少年が癒やし勇気付けてくれました。
やがてJerryとDorothyは一夜を共にし、そして結婚しました。

JerryとDorothyの献身は、やがてRodと彼の妻Marceeの心を開き、二組のカップルはとても良い友人となりました。
JerryとRodは親友となり、ある日、本音をぶつけ合う事になります。
JerryはRodに
「何故に家族を愛する様に、ファンに向き合わないのか。全力でプレーしないのか。だから君は認められないし、大金が稼げないのだ」とぶつけます。
RodはJerryに
「何故に俺にばかりかまけて、Dorothyと向き合わないのか。」とぶつけます。
Jerryは、結婚したものの、どの様にDorothyと向き合えば良いか分からなかったのです。そしてDorrthyの愛情に応える事が出来ず、彼女を苦しめていました。

Rodは、Jerryの言葉に発憤し、怪我を恐れない積極的なプレーでチームの勝利に貢献しました。そしてチームを二十年ぶりにプレーオフに導きます。
プレーオフのその日、Jerryは記者席で、またMarceeは家族と共に自宅のテレビでRodの活躍を見守ります。ただ、そこにDorothyの姿はありませんでした。Dorothyは、Jerryのために身を引く意志を固めて自宅に引きこもっていたのです。

Rodは、この日も何度も敵チームのタックルの標的となりますが、それでも積極的で献身的なプレーで得点を重ねていきます。そして逆転のタッチダウンを決めた時もタックルを浴び、空中を舞って頭からフィールドに激突しました。
Rodはフィールドに倒れ込んだまま、身じろぎもしません。
Jerryは記者席から飛び出して、Rodの側に駆け寄りました。そして不安になっているだろうMarceeに電話を入れます。
しばらくしてRodは目覚めました。そしてスタジアムに集う何万ものファンやチームメイト達が、固唾を飲んで見守っている事に気付きます。
Rodは起き上がり、ハイテンションでファンに応えます。愛していると応えます。俺はやったと応えます。

試合が終わります。Rodは時の人になりました。大勢の記者がRodを囲み成功者と称えますが、Rodは彼らを押しのけてJerryの元に駆け寄り、固い友情の抱擁を交わします。
そしてJerryは気付きます。この喜びを分かつ相手が側にいない事に気付きます。JerryはDorothyのもとへ駆け出します。

彼女の家のドアを開きます。
戸惑う彼女に、
今日二人の会社は成功への道を歩み始めた。なのに君がいない。
君がいたから、二人でいたから、ここまで来る事が出来た。
君がいなければ、僕はこれからどうすることもできない。
愛している。
と告白します。
彼女は、
あなたが部屋に入って来た時から、分かっていたわ。
と応えます。

Rodは、チームと大型契約を結びます。
Rodは、家族とファンとチームに、そして親友Jerryに感謝の言葉を贈ります。

しばしの休日、JerryとDorothyは息子Rayを真ん中に公園を散歩です。
幸せの風が包みます。

end
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私は、この映画でトム・クルーズはきっとアカデミー主演男優賞を獲得するものと思っていました。でも伝記物の映画「シャイン」で変幻自在の名優ジェフリー・ラッシュにその栄誉をさらわれました。でも間違いなくこの映画は、トム・クルーズのベストムービーだと思っています。

共演者も素晴らしかった。
Dorothyを演じたレニー・ゼルウィガーが、とてもチャーミングでした。彼女はけっして美人ではないけれど、日本人女優蒼井優さんに似て、天然さを醸し出しながらも、時にてきぱきと行動し、時に物事をはっきりと話すという、そのギャップの魅力に引き込まれます。彼女が出演した「コールド・マウンテン」(Cold Mountain 2003)、そして「ミス・ポター」(Miss Potter 2006)も彼女の魅力が全開の作品です。
Rodを演じたキューバ・グッディング・Jrは、類い稀な身体能力とコミカルな演技でこの物語の肝である破天荒なアメリカンフットボール選手を演じきりました。彼の出演した「奇蹟の輝き」(What Dreams May Come 1998)、そして「ザ・ダイバー」(Men of Honor)も絶品です。
そしてRay少年を演じたジョナサン・リプニッキが本当に可愛かった。そして全くの自然体に見える演技で、JerryとDorothyの間に流れる微妙な緊張感を、ユーモアと癒やしで解きほぐし、見ている私たちも笑顔にしてくれました。

最後に、この映画のタイトルについて
その昔、日本語タイトルはオリジナルタイトルよりも映画の本質をよく表した物が多かった様に思います。その最たる作品が、シルヴェスター・スターローンの「ランボー」ではないかと思います。オリジナルタイトルは”First Blood”、でも映画を観たら、ベトナム戦争で心に傷を負った特殊戦コマンドの帰還兵ランボーの物語というのがシックリ来ます。その後今作品はシリーズ化され、シリーズタイトルは”Rambo”となりました。
そして今作品です。オリジナルタイトルは”Jerry Maguire”、でも日本語タイトルは「ザ・エージェント」と改題されました。当時はまた、日本に馴染みの薄い主人公の職業をタイトルにしたと思いますが、エージェントはスパイという意味もありますね(英語には弱い私ですが、映画には強いのです)。なにやらタイトルに深みを持たしすぎたのではと思います。この映画を観れば、Jerry Maguireという人物の物語、というのがピッタリ合ってることが分かります。

2015年4月10日金曜日

大手前通り観光改造計画

3月27日(金)、姫路城は5年にわたる平成の大修理を終えグランドオープンしました。
でも、めでたい行事に水を差す醜聞も聞こえてきます。

ある単身の旅行者が、急きょ姫路で一泊しようとホテルを探し、ようやく一軒のホテルに部屋が確保できしました。
けれどフロントで言われた言葉に耳を疑います。
フロントマンが示した部屋は普段ならば5~6千円のシングルルームでしたが、当日は宿泊費として二万円近くを提示されました。その上、その部屋は空調が壊れていると平然と説明がありました。
旅行者は呆れたものの、仕方なく宿泊し、でも二度と姫路では泊まらないと強く思ったそうです。

以前から、姫路はお城しか観光が無いというのが通説で、旅行者は山陽路の観光地を巡りながら、宿泊は観光や宿泊施設が充実している神戸や大阪か、はたまた岡山の温泉郷を利用するというのが一般的である様に思います。
姫路には泊まる場所が無いわけではないですが、旅行者には素通りされる。そんな風潮が宿泊業者からやる気を削いで、しかも少ないイベントに便乗して宿泊料金を値上げし、大切な一見の客に悪い印象を与えてしまう。これでは益々姫路は素通りされてしまいます。

姫路の市街地は、この十年で見違えるほどに町並みが変わりました。
JR姫路駅周辺は再開発事業でどんどんと整備され、新しく東西の道路が出来て、その側には新しい商業ビルがどんどんと立ち並びます。JR姫路駅から姫路城の大手前に通じる大手前通り(通称50メートル道路)は車線が減少し、歩道の幅が拡張されて、歩行者に優しい街作りも進んでいる様子です。

けれども、市街地の観光は姫路城しかないというは変わりません。十二所線から北の大手前通りの両翼の景色は、昔のままで寂れた町並みが続きます。
旅行者の足として、城周辺観光ループバスが走っています。一日乗車券を利用すれば、JR姫路駅と姫路城周辺に集中する観光施設までの間の約1㎞を、歩く必要もありません。
益々、間が取り残されている様に感じます。

大手前通りは、1955年に完成しました。当時は、こんなバカ広い道路と揶揄されたそうですが、現在ではこの広い道路があるお陰で、姫路城が新幹線姫路駅からも真北に美しく眺める事が出来、姫路城のPRに大変役立っています。
しかし、姫路城のPRには役立ったとしても、姫路市街の観光資源にはなり得ていないのが実情だと思います。

そこで、大手前通り観光改造計画のお披露目です。
先にも述べた通り、姫路駅周辺は再開発の真っ只中で、改造計画は空論でしかありませんが、あえて夢を語ろうと思います。

大手前通り全体をお祭り広場にするのです。
自動車やバスを閉め出して、歩行者専用のお祭り広場にするのです。

広場の中程に、ヤッサや獅子舞の常設練り場を設け、毎日時間を決めてヤッサや獅子舞でお祭り広場を盛り上げるのです。露店を常設し、祭りの幟旗をはためかせ、提灯で飾るのです。大太鼓を打ち鳴らし、笛で祭り囃子を奏でるのです。
日本でも指折りの播州の秋祭りが、ここに来れば、いつでも楽しめる。そんな最高にクールなお祭り広場にするのです。

また両側の建物は、現在大手前家老屋敷跡公園にある土産物の建物と同様に、瓦屋根と白壁に統一するのです。高さも統一できれば尚良いです。一階には土産物屋、食事処、休憩所、案内所、ギャラリーなどを配置して、二階より上は宿屋や食事処、芝居や漫才落語などの劇場を配置します。
夜にはヤッサや獅子舞を練り上げて、宿泊客に祭りの絶景を提供するのです。
姫路だけでなく播州一円の祭り関係者が協力し合って、このお祭り広場を盛り上げるのです。

そしてあと一つ、
お祭り広場を縦走する交通機関として、LRT(次世代型路面電車システム)を導入するのです。観光客の足として、無料で運行するのです。JR姫路駅から再開発地域を通り、お祭り広場を通り、大手前から姫路城周辺をぐるりと回ります。美術館、図書館、城郭研究センター、シロトピア記念公園、文学館、千姫神社、好古園を巡るショートコースもいいでしょう。また、競馬場から增位山随願寺、広峰神社の麓を巡るロングコースもあれば尚良いと思います。

姫路城の次の100年が、世界中のどんなテーマパークよりも華やかで優れた「城と祭り」のシティパークとなったらどんなに素晴らしいでしょう・・・そう夢想してしまう私です。

子供を持つ親の監督責任を問う裁判の判決が、昨日最高裁判所で出ました。

11年前の出来事です。放課後、学校の運動場でサッカーをして遊んでいた子供たちのひとりが蹴ったボールが、フェンスを越えて学校外の道に出てしまった。
そこに、高齢の男性がバイクを運転して通りかかり、道に転がっているボールを避けようとして転倒し足を骨折した。
その男性は入院し、その後に認知症と診断され、1年後に亡くなった。
という事故で、
3年後、被害者遺族が親の監督責任を問い、高額な賠償金請求の裁判を起こし、一審二審では親が監督責任を怠ったとして裁判所から高額の賠償金支払いを命じられた。
そして本件は、最高裁まで争われることとなった。賠償に相当する事故か、また親の監督責任が認められる事故か、それが争点であった。
そして昨日、最高裁は、どちらも認められないとして、遺族側からの請求を棄却した。


一昨日、この事件の事を知りました。11年前の出来事ですから、当時のニュースを見ていたとしても全く覚えてはいません。被害者遺族にとって、また加害者とされた少年や家族にとって、とても辛く長い11年であったと思います。そして加害者とされた少年の父親が判決後に出されたコメントで、「我々の苦悩が終わる事はない」と吐露された言葉に言いようのない痛みが凝縮されていた様に思います。

今事故のこれまでの裁判を振り返り、ニュースでは、被害者とされた少年や家族にすべての責任を負わすというのは如何なものであったかという論調とともに、学校にこそ責任があるのではないかという論調が多く見受けられました。
でも私はそうは思えないのです。

一言で言えば、今事故は、誰かが責任を負わされるべきものでは無く、全くの不慮の外の事故ではないかと思うのです。
学校の運動場の中で少年が蹴ったボールが不幸にも学校の外に出てしまった。そのボールを避けようとして不幸にも男性が転倒し骨折をした。
少年やその親にあるとするならば道義的な責任です。少年は、事故があった直後、一人警官に囲まれて泣きじゃくっていたといいます。この時点で、少年は深い道義的責任を感じていたのではと推察します。また親も損害保険等を使って事故対応に当たられようとしていたといいます。私の感覚では、十分な道義的責任を果たされようとされていたのではないかと思うのです。
その後に何があって、物事がこじれて、裁判することになったか、という経緯は分かりません。無責任な事は言えません。ですが今事故は、不幸な偶然が重なった誰の所為でもない事故と思えて仕方がないのです。

では、学校の責任でしょうか?これにも疑問符を覚えます。
学校は放課後、子供たちの安全な遊び場として運動場を開放していたのだと思います。当然ながら、子供たちが危険な遊びや故意に器物を損壊したり、またふざけが過ぎることについては、防止しなければなりません。でもそれは、普段の教育の中で十分に行われていた筈です。ですから、子供たちは安全に自由にのびのびと遊びに興じられるのだと思います。でも、それでも事故はやっぱり発生します。その場合も、やはり道義で計り、公正に責任を分担しなくてはならないと思います。怪我をした者、させた者、どちらにも責任があると思います。学校に必要な事は、何か事が発生した場合に、すぐに対応できる体制を準備しておく事だけだと思います。今事故では、ゴールポストの設置場所が問題では?と問題提起する声がありますが、それも”?”です。どうしても誰かをスケープゴートしなければ収まらない現代の風潮に”?”です。

今事故を教訓とし、次の3点を議論すべきではと思います。
一つは、子供に過度な負担を背負わさないという事です。
今事故では、全くの偶然による不幸の連鎖で、少年は「人に怪我を負わせ」、また「人を死に至らしめた」という重荷を一生背負わされる事になりました。それは、親とか先生とかという範疇で守れる話などでは到底無く、社会全体で子供を守るという切実な合意が必要です。

二つめは、被害者となった側のやり場の無い憤りを、暴発させないという事です。
人と人との繋がりが、もっと情に溢れ、好意的であるならば、他人の不幸や憤りを察して、訪ねて、話を聞き、共感し、慰め、癒やし、また道義に照らし合わせて諭す事もできると思います。私の悪意かもしれませんが、どうも弁護士という者は、私の求める人物では無い様に思います。ドライで打算的で好戦的な種族は、この様な場に必要ではありません。

そして三つめは、子供が安全に安心して遊べる広場を沢山作るという事です。
今事故で、万一学校に責任があると認められれば、もう学校は子供たちの物では無くなります。学校は、事故を起こさない事が至上命令となって、一から十まで規則詰めとなり、学校から子供の自由が奪われる事でしょう。
野球がしたければ野球スクールへ、サッカーがしたければサッカースクールへ、という具合に全て専門家の管理化でしか物事ができなくなるに違いなく、スクールに通うお金がなければ、家でじっとするしかありません。そんな管理社会、閉塞社会には虫唾が走ります。
子供たちは、自らの創意工夫で遊びを発展させます。その過程で様々な事柄を学び、社会で生きていく知恵や技量を身に着けます。子供たちにそんな経験ができる場所を、安全に安心して遊べる広場を作り、提供する事こそ大事です。
今事故のケースならば、学校の回りを高いフェンスで囲むという方法が取り沙汰されていますが、さらに学校外を巻き込んで、学校が活動中は周辺道路から自動車はもとよりバイクも自転車も閉め出して、子供たちの安全で安心なスペースを拡大するという議論があってもいいのではと思います。
それが本来、情と能を併せ持つ大人、政に身を置く者が、取り組むべき課題なのではないかと思います。

2015年4月9日木曜日

米朝さんへの感謝の言葉

昨日、先日89歳で亡くなられた桂米朝さんの著書「私の履歴書」を買いました。
まだ車中で数頁読んだだけですが、米朝さんという人物を端的に表すエピソードを見つけました。

それは「交遊」の章にありました。
奈良・薬師寺の高田好胤さんとの会話です。その箇所、引用させて頂きます。
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ある時、薬師寺におじゃましたら床の間の軸に目が留まった。
「本来無一物」とある。
高田さんの師である橋本凝胤長老の書であった。
その豊かな味わいに思わず無心すると、
これだけはだれであろうと無理と受け付けない。
そこで「本来無一物。これが僧のあるべき姿では」と突っ込むと、
さすがの高僧も答えに窮し、首尾よく我が家の床の間に引っ越した。
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米朝さんは、細やかに落語を演じる一流の噺家であったと同時に、上方落語の復興、そして後生に残すという偉業を達成された落語研究の第一人者でありました。
ですから米朝さんは、芸事から文化芸術、教育と多岐にわたり各分野の第一人者と親しく交遊がありました。そして米朝さんは、その各分野の第一人者からも一目置かれる存在であったのだと思います。
薬師寺の説法の達人と、親しく座を共にする事など一介の芸人では考えられない事の様に思います。さらに云えば、宝物を無心する事など滅相も無い事に思います。
それをさらりと口にして、さらには禅問答さながらの問答で、まんまと宝物を手に入れた。
凄い人物だと感じ入りました。


私は十代の頃に枝雀落語に出会い、落語のファンとなりました。というよりも爆笑型の枝雀落語のファンとなりました。しかし、その師匠であり同郷姫路出身の米朝さんの落語は当時の私にはインテリ過ぎて、あまり好きではありませんでした。

六年前です。朗読というものに興味を覚え、よく聴いていた枝雀さんの落語話を朗読することを思いつきました。枝雀さんの落語CDは何枚も持っていましたので、その落語話を書き記した本を探しに図書館を訪ねました。有名どころの本が沢山ありました。枝雀さんの落語話の本もシリーズで何冊もありました。でも、そこでハタッと気付きます。爆笑型の枝雀落語を真似て朗読することなんて不可能だと・・・

その横に、師匠米朝さんの落語話の本もシリーズで何冊もありました。その一冊を手に取りました。頁をめくると「たちぎれ線香」というタイトルが目に留まり、立ったまま読みました。枕で、昔の花街の風景が鮮やかに描かれていました。登場する人物が活き活きと動きだし、すっかり物語世界に引き込まれました。
この「たちぎれ線香」は、枝雀六十番には入っていない演目でした。図書館にはAV資料の貸し出しがあって、枝雀さんや米朝さんの落語CDも揃っていました。それで何回も通い、一通り借りて聴きました。もちろん米朝さんの「たちぎれ線香」はなんじゅっぺんも聴きました。そして「たちぎれ線香」の朗読に挑戦しました。


※5年前にアップロードした朗読です。当時一本15分以内という制限があり、場面場面でファイルを分けました。全部で10幕あります。計50分以上あります・・・根気よくお聞き下さい

CDから流れる米朝さんの語りは、細やかな舞台の風景描写から始まります。私はまるで絵を見る様に舞台を思い浮かべます。そこに登場人物が現れて、活き活きと動き始めるのです。昔話に「絵のうまい小僧さん」の話がありますが、米朝さんは筆で描く物語で、また語りで登場人物に命を吹き込まれていくのです。
そして私は、枝雀さんと同様に米朝さんの落語の虜となりました。

「たちぎれ線香」に始まり、「百年目」、「天狗裁き」、「三枚起請」、「不動坊」、「骨釣り」、「まめだ」等々・・・次々に聴きました。
米朝さんは、帝に奉行、そしておおだなの主人、番頭、丁稚さんになって、
また閻魔大王、幽霊そして化け物、遊女、たいこもち、街の遊び人になって、
笑いと涙と人情を、私に運んでくれました。

米朝さん、ありがとうございました。

2015年4月6日月曜日

桜坂

雨の合間に日笠山に登り、満開の桜を眺めてきました。
昨夜からの雨で、桜坂はすでに桜色に染まっていました。
今夜も比較的強い雨が降るとの事、
ようやく満開を迎えた桜は、あじわいの桜吹雪を成せぬまま、一気に花を落とす事になりそうです。

2015年4月5日日曜日

神戸


手に負えないウィルス事情

昨日放送された、NHK「週刊ニュースFU.KA.YO.MI.」の
深読みコーナー『あなたも狙われている!?急増するサイバー攻撃』で取り上げられた最新コンピュータウィルス事情を観て、もはや私たちに抗う手立てがないと思いました。

いくら私たちが自宅のパソコンや情報機器に強固と思えるセキュリティを施しても、偽装されていない正真正銘の企業が公開しているホームページを閲覧するだけでウィルスに感染すると云います。企業の正真正銘のホームページが密かに改ざんされているのです。そしてパソコンや情報機器に感染したウィルスは、セキュリティに検出されない様に動かず、利用者がある操作をするのをじっと待ちます。
たとえば、ネットバンキングから送金操作を行った時に、口座と金額を勝手に改ざんし、送金の上限に引っかからない程度の金額を別の口座(飛ばし口座)に送金するという手口です。
また、まるでパソコンやスマートフォンの有料サービスの利用料金の如くに、毎月少額をかすめ取るという手口もあると云います。
結局は、お金を盗まれた直接の被害者である末端の利用者が気付いてはじめて公になり、事件になります。その時はすでに遅しで犯人は分からぬまま足取りさえも掴めません。
改ざんされた企業も被害者と見なされ、お金を盗まれたのが銀行の口座であれば、銀行が補填する様ですが、多くの場合振り込み詐欺と同様に、被害者の泣き寝入りです。

昨今は、スーパーマーケットのレジや様々な券売機、もちろん銀行のATMもインターネットで繋がっています。インターネットで個人情報が行き交うところは、すべてサイバー攻撃の標的に晒されます。そして個人情報や電子マネーがどんどんとかすめ取られ、さらに悪い事に利用されていくと云うのです。

またウィルスは、闇サイトにいけば簡単に手に入ります。何がしたいか?と希望を告げればオーダーメイドで新規のウィルスが提供されると云います。そしてウィルスは増殖し、もはやセキュリティソフトでは対応ができなくなりつつあると云います。

この様な事態に、番組では
企業や個人へのセキュリティの啓蒙
そして
セキュリティへの投資、要員の育成、高い技術者へのインセンティブの奨励
を対策としてあげていました。

偏屈な私は、その昔、パソコンの黎明期と同時に販売されたウィルス駆除ソフトを見て、自分たちが裏でばらまいて、表で有料で駆除サービスを展開しているのでは?と疑ったものです。昔からあった悪質シロアリ業者の手口から連想したのです。

昨年、米国の大手セキュリティソフト会社であるシマンテックが、もはやアンチウィルスソフトだけでは防ぐ事ができないと発表しましたが、衝撃でした。もはやモグラ叩きでは追っつかなくなったという事です。

サイバー攻撃はさらに進化し、巧妙に、あるいは大胆にあらゆる場所を攻撃します。米国や中国、そしてロシアなどではもはやサイバー戦争が始まっていると云います。中東でもそうです。イスラエル、イラン、そして昨今のテロリスト集団もサイバー攻撃でしのぎを削っているのです。東アジアでは北朝鮮もそうです。

これもまた、新しい技術を利益を得る道具とだけにしか見ずに、野放し状態にしてきた報いではないかと思います。

大胆な処断が必要だと思います。

市民サービス、笑話

妻が、先日の話をしました。

家の水回りに問題があって、市役所の市民サービス窓口に電話を入れました。
すると若い担当者から、
「家にパソコンはありますか?」と問われ、有りますと答えると
「市役所のホームページに水回りのQ&Aのページがありますので、そちらを見てください。簡単です」と説明?を受け、言われるままに電話を切り、パソコンを立ち上げ、インターネットビューワを開き、”○○役所”で検索し、ようやく市役所のホームページを開きます。

でも、妻はパソコンのヘビーユーザなどではもちろん無く、沢山のメニュー項目に四苦八苦しながら、そしてようやく近くの水道工事の店の電話番号を見つけたそうです。
すっかり疲れた、と言いました。

疲弊したバリアフリー

35年前、ポートアイランドは突如として海の上に現れた未来都市に思われました。
新交通システムとして島内を周回するポートライナーは、無人で静かに乗客を運びます。高層ビルやマンションが建ち並び、それらは広い空中回廊や遊歩道で結ばれていました。
華やかなポートピアホテル、遊び飽きる事のないポートピアランドがあって、まさに若者が集う都市でした。

兄が車椅子生活となり、医療センターや三ノ宮にある病院の付き添いをしました。
ポートアイランド、そして1995年の震災から復興した三ノ宮界隈は、現代においてもっともバリアフリーの進んだ都市だと思っていましたが、車椅子生活者の目線で眺めると、様々な問題が見えました。

兄は高層マンションに住んでいますが、エレベーターが各階には止まりません。兄はエレベーターが止まらない階に部屋がありました。また、各部屋は、共有通路に面して入り口があるのではなく、一部屋一部屋が奥まったところに入り口が設けられ、よく云えばプライベートが守られた作りになっています。

マンションのエントランスを出ると階段とは別にスロープが設けられています。ですがそれは駐車場から車道にでる道の側にあって、細かに段差があり、またスロープはとても急です。

島内の道路は、どこも広くゆったりしています。歩道も広く設けられています。でも、震災の影響や街自身の老朽化なのでしょう、道にはでこぼこや様々な角度の傾斜がありました。また、段差もそこかしこにありました。歩道に引かれたタイルも相当に傷んでいました。

ポートライナーの各駅には、エレベーターが設けられています。でも、入り口の場所が分かりづらい、また自転車やオートバイの駐車スペースの側にあるために、とても入りにくいのです。そしてエレベーターの設置場所は、三ノ宮駅以外はホームの端にありました。
三ノ宮駅では、駅員さんが常駐し、声を掛けて頂いて、電車の乗り降りを介助してくださいましたが、他の無人駅を利用する場合、電車の乗り降りにさえ危険が伴います。

病院や駅、また周辺のビル群への行き交いは、空中回廊や遊歩道を利用することで、車椅子でも安心して行き交う事ができるのですが、でもスロープの角度が急すぎたり、スロープの先が急に階段の降り口になっていたり、また目の不自由な方のための点字ブロックが段差となって進行の妨げになっていました。

普通に歩ける、又たとえ杖などの補助を必要としても自分で歩く事ができさえすれば、現状でも十分なバリアフリーであると思いはしますが、バリアフリーを切実に必要とする者の目線でみれば、改善しなければならない事が沢山あることに気付かされます。

車椅子自体についてですが、利用者の安全をより確保するために、シートベルトを設けるとか、また自転車同様にヘルメット着用を義務づけるなどの整備も必要に思います。

なにより、私たち一人一人がバリアフリーとならなければいけないと思います。
必要な人のためのエレベーターに大きな荷物を抱えて乗らない。
駄弁ったり、スマートフォンを見入ったり、ヘッドフォンで音楽を聴き入ったりして、上の空で歩かない。
子供と手を繋がずに、勝手に走り回らせたりはしない。
そして、たとえ困っている風を見せなくても、周りも良く見て気付けば、見守る、声掛けをする、手伝う。
そういう社会の一員にならなければいけないと思います。

ポートライナーでの出来事

市民広場駅で三ノ宮行の電車を待っていました。
私は、二十代そこそこのスマートフォンを見ながら駄弁っている若者二人が先頭にいる列に並びました。
若者達の後ろには、若い母子の二人連れ、年配のご夫婦と思われる二人連れが並んでいます。

彼らの後ろで電車待ちをしていますと、私の後ろに家族連れが来ました。祖父母と思われるご夫婦と母親そして年頃の娘さんの四人連れです。でもその祖父母と思われるご夫婦は、列に並ばず開閉ドアの前に進みました。母娘は私の後ろに並びます。

電車が来て、開閉ドアが開きますと
電車は空いているのに関わらず、若者二人と若い母子の二人連れは共にドア近くに設定されている優先座席に一目散に駆け込んで座りました。
年配のご夫婦は、連結傍の席に座ります。
そして私の後ろの家族連れは、一人座席に祖母、そして年頃の娘さんが座り、傍に祖父と母親が立つ格好になりました。
私はというと、反対側の連結傍の一人席に座りました。

座って、その光景を振り返り、なんか違うやろっ、と彼らを一瞥してしまいました。