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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年4月10日金曜日

子供を持つ親の監督責任を問う裁判の判決が、昨日最高裁判所で出ました。

11年前の出来事です。放課後、学校の運動場でサッカーをして遊んでいた子供たちのひとりが蹴ったボールが、フェンスを越えて学校外の道に出てしまった。
そこに、高齢の男性がバイクを運転して通りかかり、道に転がっているボールを避けようとして転倒し足を骨折した。
その男性は入院し、その後に認知症と診断され、1年後に亡くなった。
という事故で、
3年後、被害者遺族が親の監督責任を問い、高額な賠償金請求の裁判を起こし、一審二審では親が監督責任を怠ったとして裁判所から高額の賠償金支払いを命じられた。
そして本件は、最高裁まで争われることとなった。賠償に相当する事故か、また親の監督責任が認められる事故か、それが争点であった。
そして昨日、最高裁は、どちらも認められないとして、遺族側からの請求を棄却した。


一昨日、この事件の事を知りました。11年前の出来事ですから、当時のニュースを見ていたとしても全く覚えてはいません。被害者遺族にとって、また加害者とされた少年や家族にとって、とても辛く長い11年であったと思います。そして加害者とされた少年の父親が判決後に出されたコメントで、「我々の苦悩が終わる事はない」と吐露された言葉に言いようのない痛みが凝縮されていた様に思います。

今事故のこれまでの裁判を振り返り、ニュースでは、被害者とされた少年や家族にすべての責任を負わすというのは如何なものであったかという論調とともに、学校にこそ責任があるのではないかという論調が多く見受けられました。
でも私はそうは思えないのです。

一言で言えば、今事故は、誰かが責任を負わされるべきものでは無く、全くの不慮の外の事故ではないかと思うのです。
学校の運動場の中で少年が蹴ったボールが不幸にも学校の外に出てしまった。そのボールを避けようとして不幸にも男性が転倒し骨折をした。
少年やその親にあるとするならば道義的な責任です。少年は、事故があった直後、一人警官に囲まれて泣きじゃくっていたといいます。この時点で、少年は深い道義的責任を感じていたのではと推察します。また親も損害保険等を使って事故対応に当たられようとしていたといいます。私の感覚では、十分な道義的責任を果たされようとされていたのではないかと思うのです。
その後に何があって、物事がこじれて、裁判することになったか、という経緯は分かりません。無責任な事は言えません。ですが今事故は、不幸な偶然が重なった誰の所為でもない事故と思えて仕方がないのです。

では、学校の責任でしょうか?これにも疑問符を覚えます。
学校は放課後、子供たちの安全な遊び場として運動場を開放していたのだと思います。当然ながら、子供たちが危険な遊びや故意に器物を損壊したり、またふざけが過ぎることについては、防止しなければなりません。でもそれは、普段の教育の中で十分に行われていた筈です。ですから、子供たちは安全に自由にのびのびと遊びに興じられるのだと思います。でも、それでも事故はやっぱり発生します。その場合も、やはり道義で計り、公正に責任を分担しなくてはならないと思います。怪我をした者、させた者、どちらにも責任があると思います。学校に必要な事は、何か事が発生した場合に、すぐに対応できる体制を準備しておく事だけだと思います。今事故では、ゴールポストの設置場所が問題では?と問題提起する声がありますが、それも”?”です。どうしても誰かをスケープゴートしなければ収まらない現代の風潮に”?”です。

今事故を教訓とし、次の3点を議論すべきではと思います。
一つは、子供に過度な負担を背負わさないという事です。
今事故では、全くの偶然による不幸の連鎖で、少年は「人に怪我を負わせ」、また「人を死に至らしめた」という重荷を一生背負わされる事になりました。それは、親とか先生とかという範疇で守れる話などでは到底無く、社会全体で子供を守るという切実な合意が必要です。

二つめは、被害者となった側のやり場の無い憤りを、暴発させないという事です。
人と人との繋がりが、もっと情に溢れ、好意的であるならば、他人の不幸や憤りを察して、訪ねて、話を聞き、共感し、慰め、癒やし、また道義に照らし合わせて諭す事もできると思います。私の悪意かもしれませんが、どうも弁護士という者は、私の求める人物では無い様に思います。ドライで打算的で好戦的な種族は、この様な場に必要ではありません。

そして三つめは、子供が安全に安心して遊べる広場を沢山作るという事です。
今事故で、万一学校に責任があると認められれば、もう学校は子供たちの物では無くなります。学校は、事故を起こさない事が至上命令となって、一から十まで規則詰めとなり、学校から子供の自由が奪われる事でしょう。
野球がしたければ野球スクールへ、サッカーがしたければサッカースクールへ、という具合に全て専門家の管理化でしか物事ができなくなるに違いなく、スクールに通うお金がなければ、家でじっとするしかありません。そんな管理社会、閉塞社会には虫唾が走ります。
子供たちは、自らの創意工夫で遊びを発展させます。その過程で様々な事柄を学び、社会で生きていく知恵や技量を身に着けます。子供たちにそんな経験ができる場所を、安全に安心して遊べる広場を作り、提供する事こそ大事です。
今事故のケースならば、学校の回りを高いフェンスで囲むという方法が取り沙汰されていますが、さらに学校外を巻き込んで、学校が活動中は周辺道路から自動車はもとよりバイクも自転車も閉め出して、子供たちの安全で安心なスペースを拡大するという議論があってもいいのではと思います。
それが本来、情と能を併せ持つ大人、政に身を置く者が、取り組むべき課題なのではないかと思います。

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