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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2012年9月29日土曜日

《アイルワースのモナリザ》


殺伐とした世相を反映するニュースが続く中で、昨日とてもユーモラスなニュースが夕刊の一面を飾っていました。
「若き日のモナリザ」、ダ・ビンチ作と鑑定発表
です。
20世紀初等に英国貴族の家で見つかったレオナルド・ダ・ビンチの名画「モナリザ」とよく似ているとされてきた女性の絵が、ダ・ビンチ本人の手による「第2のモナリザ」であることが確実になったとの鑑定結果を、スイスの財団「モナリザ基金」が27日発表しました。
鑑定の過程で、モナリザに描かれた女性の顔をデジタル加工で10歳くらい若返らせてみたところ、この絵に描かれた女性の顔にぴたりと一致し、二つの絵のモデルは同一人物と認定もされました。
この絵は《アイルワースのモナリザ》と呼ばれています。アイルワーストは英国の地名です。
この《アイルワースのモナリザ》は、今年の春、「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想」という展覧会で、日本の美術愛好家に公開されていました。

《アイルワースのモナリザ》を写真で見ると、確かにモナリザの女性とよく似ていますね。そしてその微笑みにはあどけなさが漂っています。
モナリザは、『謎の微笑み』と称されるその女性の表情が多くの美術愛好者を虜にしてきたわけですが、私は《アイルワースのモナリザ》の方に、好ましい印象を持ちました。
意味深な微笑み?を湛える美麗な女性よりも、私は可愛い女性に惹かれたのです。

ちょっと下世話な話になりますが、
勤める書店にはさまざまな本があります。そして表紙を飾る絵や写真には、好ましいもの、好ましからざるものがあります。『こんなん売ってエエのん!』とビックリしてしまう本もあります。昨日、丁度本の作業をしていて、人の嗜好についてふと考えました。
好ましいもの、好ましからざるものという判断は私の嗜好によるものです。そして人の嗜好は千差万別です。ですから私が好ましからざると思っても、ある人にとってはとても好ましいものだってあります。そしてあらためて、人の感性ってとても深いなぁ、なんてこと覚えました。
そして家に帰って目にしたのがこのニュースでした。

でも美術品を前にして、好きや嫌いを話すのは罪の無い行為ですよね。
好きや嫌いの軽口が、重大な事態を招く世の中にあって、良風に思えるニュースでありました。

2012年9月27日木曜日

『かもめのジョナサン』、今も読んでいます。


以前のブログで、私のリックサックには古い一冊の本が入っている事を話しましたが、
『かもめのジョナサン』、今も読んでいます。

買って初めて読んだ頃は、何が何やらさっぱり分かりませんでした。
十代の中頃です。それまであまり本など読まなかったのですが、映画に夢中になり始めた頃で、映画雑誌や映画原作本等を読み始めていました。この『かもめのジョナサン』も映画化された原作本という理由で購入したものと思います。

モノトーンの、かもめが飛行する写真が多く配置され、写真集かとみまがうほどです。
物語は三部構成なのですが、全体でも100頁に満たない短編です。
それでも当時はまったく読み進める事が至難でした。その理由は私が余りにも淡泊に日常を過ごしていたからだと思います。汗をかいて努力して何かに熱中することも無く、何事もすぐに諦めて過ごしていました。ですからジョナサンの情熱に共鳴することが出来なかったのです。もう一つは知識の無さです。何故にこの本が欧米でベストセラーとなったか、当時の知識層の人々に支持されたか、その理由に共感するための知識も感性もまったく持ち合わせていませんでした。
今なら一つの説を唱えることが出来ます。それはジョナサンが聖書に書かれている救世主を模しているということです。
聖書の救世主は、人の子として生まれ、時の体制に疎まれながらも預言者として人々を導き、多くの弟子を育みます。そして人が持つ生来の悪を購うために一度殉じはしますが、復活を果たし、以後私たちの希望となって天の御座につかれます。
救世主を模したジョナサンは、情熱を傾けて生きる人たちの、心地よい希望なのだと思います。そして何度も挫折を経験した私にとってもジョナサンはかすかな希望となっています。


物語の要約です。
第一部、
かもめ族、彼らは食う為に飛び、日一日を生きながらえるというかもめの営みを、何千年何万年と繰り返していました。そのかもめ族の中に、風変わりな若きかもめが現れます。
ジョナサンです。彼は喰う事よりも飛ぶこと自体に喜びを見出しました。アクロバット飛行に熱中し、ハヤブサよりも速く飛び、渡り鳥よりも遠くに飛ぶ術を求めました。
ジョナサンには、《飛ぶことが我々かもめ族を自由にする》という信仰がありました。そしてその術を会得した時、偉大なかもめとして仲間達に迎えられると信じていました。ですがそれは間違いでした。ジョナサンはかもめ族の尊厳と伝統を汚した罪で追放されてしまいます。
ジョナサンは流刑の地《遥かなる崖》を越え、ひとり遥かな世界を目指します。
そして一生を掛けて飛行術の探求、そして飛ぶことの意味の探求に励みます。
ジョナサンは多くの発見を得、実に長く素晴らしい生涯を送ることが出来ました。

第二部、
ある日の夕方、二羽の光り輝くかもめが現れて、ジョナサンをもっと気高い世界、本当のふるさとへの導きます。
その世界にはジョナサンと志を同じくするかもめ達がいて、飛ぶこと、その意味の探求に励んでします。ジョナサンはサリバンという友人を得、そしてチャンという師を得ます。
ジョナサンは、最初、天国と思っていたその世界にも限界があることを知ります。時間と空間の壁です。しかしチャンの導きによって、時間と空間の壁を越える瞬間移動の術を会得します。それは信じるという強い思念の成せる技でありました。
チャンはさらなる気高き世界へと旅立ちました。そしてジョナサンは、地上に置き去りにしてきた思いを巡ります。それは仲間達をもっと豊かに出来るのではという優しさと、そしてジョナサンと同じく飛ぶことの意味を知ろうと苦闘している者の導き手になりたいという愛でした。そしてジョナサンは地上に戻ることを決心します。

第三部、
ジョナサンは、《遥かなる崖》に向かう若き追放かもめフレッチャー・リンドを認めます。
ジョナサンはフレッチャーを一番弟子として、《遥かなる崖》の追放かもめ達の導き手となって希望を与え、探求を促します。
そしてジョナサンは、彼ら弟子を伴って群れに帰る事を決断します。
群れの中の次なるフレッチャーに手をさしのべる為です。
群れの中に戻ったジョナサンは、さらに良き導き手となって弟子達を指導しました。その様子を遠巻きに見ていた群れの中の若きかもめ達もジョナサンの話に耳を傾け、やがて一羽一羽と群れの境界線を越えてジョナサンのもとへと集まってきました。
ある日、一羽のかもめカーク・メイナードがやって来ました。カークは傷ついた翼の為に飛ぶことが叶わなかったのです。ジョナサンは『君は自由だ』と告げます。その一言でカークは大空に舞うことが出来たのです。その奇跡を見た群れのかもめ達に《群れの掟》はなきものとなりました。ジョナサンはかもめ達に告げます。
『正しい掟というのは、自由へ導いてくれるものだけなのだ』と。

ジョナサンは、この世界から旅立つことをフレッシャーに告げます。
そしてジョナサンは、フレッチャーに導き手となることを命じます。
それはジョナサンが悠久の時間の中で学んだ愛の伝達でした。

ジョナサンは、他の世界のフレッチャーの導き手となる為に旅立ちました。
フレッチャーは、ジョナサンと過ごした時間の中で学んだ事柄の意味をかみしめながら、愛についてさらに深く学んでいきました。

end

《スイッチの押し込み》事件について


ある学校で、照明などのスイッチを押し込んで壊してしまう事件が起こっています。
この《スイッチの押し込み》事件は、どうやら日本の各地の学校で起こっている様子です。
一つの学校の学校通信をインターネットを通じて読むことが出来ました。

《スイッチの押し込み》、これは器物破損という悪質な犯罪です。
その行為の代償は、被害の賠償と、そして刑に服さなければならないということです。
とても重く辛い代償です。

スイッチを壊すくらいのいたずら、などとうそぶくなかれ
想像してみてください
もし教室の照明がつかなければ、授業の運営に差し支えます。
もし奥まった部屋や廊下の照明がつかなければ、捜し物を見つけられることも出来ず、また事故の危険も高まります。
『小さな亀裂は、やがて大きな崩壊を招く』ということを、私たち全員が肝に銘じなければなりません。

そして犯人に伝えます。
あなたは学校内の人間かもしれないし、学校に不正に侵入した者かもしれません。
ですが真理がひとつあります、あなたは悪意に心を犯されのです。
誰も見ていないから分かりっこない、そんなことはありません。しっかりと見つめている者がいます。
ひとりは、あなたの良心です。あなたの良心は酷く痛めつけられて、一生その痛みを背負わなければならないでしょう。
ふたりめは、あなたの隣人です。あなたの行為を知ってはいても告白できずにいるのです。あなたは隣人を、良心の呵責に苦しめているのです。
さいごは、大いなる存在、神です。あなたの良きことも悪しきこともすべてを知り、そして見つめ続けています。
何故ならば、それはあなたがとても大切な存在であるからです。
そしてあなたが大切な存在である様に、あなたの隣人も大切な存在です。そしてあなたが与えられた生活環境も大切な存在です。あなたは、この事をしっかりと心に刻まなければなりません。
そして自ら罪を告白し、罪を償い、心から悪意を追っ払って、軽やかな心になって、歩き出してください。

最後に、
この事件の学校の対応を見ると、とてもナイーブ過ぎる様に思います。
大切なことはたった一つです。
『罪を憎んで人を憎まず』
罪を犯す事の重大さを諭し、その事柄を通じて、さらに人を良き者へと導く。
愛情に富んだ厳しい姿勢が、今求められていると思います。


P.S.
何故に私がこのように考えるのか?それは私が数多くの罪を背負っているからです。
もちろん誓って凶悪な犯罪行為を犯したことはありません。
ですが、自らをそして隣人を悲しみに落とす罪は数多く犯しています。
その代償は苦しみです。その苦しみは、快楽で補うことはできません。その苦しみはいつまでも私とともにあります。

大切な事は、罪を避けることです。岐路に立った時、良心に照らし合わせて選択を行うことです。
そしてもう一つは、癇癪を起こさず、常に平静に我慢強く歩む事です。これもまた苦しみを伴う生き方ですが、この苦しみは重荷ではなく、励みです。そしていつか大いなる恵みに授かる生き方です。
だらしなく生きてきた私の、うらやむ誠意ある本道です。