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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2015年10月7日水曜日

映画「コンタクト」が教えてくれること

”君らは興味深い
複雑な種だ
美しい夢を追う力がある
破壊的な悪夢も描く”


1997年のアメリカSF映画「コンタクト」を、久し振りに観ました。
SETI(地球外生命体探査)プロジェクトの研究員エリーが、地球から25光年離れた琴座の一等星ヴェガから送られる人工的な電波を発見します。その電波には、巨大建造物の設計図が隠されていました。
それから数年後、アメリカは国家の威信をかけて、この巨大建造物を建造します。この建造物は、どうやらターミナルの様な物で、球体状の物体が乗り物です。
そしてエリーが搭乗員として選ばれました。
膨大なエネルギーを消費してターミナルが駆動すると、その中心部はまるで太陽の様に光輝き、その光の中にエリーが搭乗した物体が落とされます。

エリーは、球体の壁面が透明となり、外の光景を目にします。球体は光りのチューブを通っていました。チューブは星々や星雲を縫う様に走り、やがて目の前にヴェガがぐんぐんと近づいて来ました。その光景は神々しく、エリーは畏敬の念に打たれました。
気づくと、エリーは浜辺に立っていました。そこがどこかエリーは直ぐに分かりました。
ペンサコラ、子供の頃に夢に見た浜辺です。
エリーは子供の頃、大好きな父に無線通信の手解きを受けました。そして毎夜、無線通信機を使って、遥か遠くの人に呼び掛けました。その呼び掛けに一番遠くから応えてくれた人の住む町が、フロリダ州ペンサコラであったのです。エリーはその出会いの日に父を亡くしました。その日からエリーにとって無線通信は、最愛の父に再び巡り逢うための手段となりました。
エリーが浜辺にたたずんでいると、近づいてくる影が見えました。その影はやがてある実体に変化しました。それは最愛の父でした。抱擁し、エリーは父の温もりと匂いを感じましたが、またそれが父でないことも理解しました。それは、エリーよりも何億年も前にチューブを通ってこの地にやって来た高度な文明を持つ異星人でした。
異星人は、地球の人類を太古から観察していました。そして人類が高度な文明を持つ種へと進歩した時、直接会ってメッセージを授けるために、この企てを実行したのです。

そして、冒頭の台詞です。
”君らは興味深い
複雑な種だ
美しい夢を追う力がある
破壊的な悪夢も描く”

メッセージは続きます。
”途方に暮れ
孤独だと感じている
(でも)君はもう違う
我々は気づいたんだ
孤独をいやしてくれるのは
お互いの存在なのだと”

異星人は、人類の複雑性を理解していました。人類は、差別的な主観を持ちながら公平無私を求める種だということをです。
でもそれは、私たちしか存在しないという孤独や偉ぶり、或いは異なる存在への不安や恐れが生み出すものであり、それでは永遠に平安が訪れることはないと告げます。
そして
人類はひとりではない、また異なる存在を認め、信じること、尊重すること、それが平安を招くのだと告げました。

昨今の世界では、また日本においてもナショナリズム(民族主義)やレイシズム(人種差別主義)が頭をもたげ、巷に不安な空気が満ち溢れる様になりました。だれもかも身近な絆という鎖に繋がれて、視野が狭まり、目の前しか信じられなくなりました。
でもそれでは、永遠に平安は訪れない事に気が付かなければなりません。

司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で、竜馬が幕臣大久保一翁に面会した際、世俗の衣を脱いで、一度仙人にでもなった心持ちでゆるりと話をしましょうと持ち掛ける場面を描いていますが、私はこの場面が、「竜馬がゆく」の中で特に好きな場面です。
今自分がいる場所からではなく、異なった場所から物事を眺める視点の大切さを学んだからです。 この「コンタクト」では、それは異星人の視点です。

私たちは、本当の平安を求めたいのであれば、敵視ではなく、互いを信じ、尊重する関係を築くことに努力しなければいけないこと、この「コンタクト」は教えてくれている様に思います。

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