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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2010年9月24日金曜日

野風増『イチロー』、10年連続200本安打達成!

私には、プロ野球選手で、とても痺れさせてくれた選手が3名います。

*****
ひとりは、阪神タイガース時代の江夏豊。

1966年、前年度から開始されたドラフト会議の一位指名選手として大阪学院高等学校から阪神タイガースに入団。
入団二年目の1968年に奪三振401個を記録、この奪三振記録は現在も破られない世界記録である。
江夏は王に対してライバル心を燃やし、この年、鉄腕稲尾和久(神様・仏様・稲尾様と呼ばれた鉄腕投手、私の世代では、神様・仏様・バース様である)の持つ日本記録353奪三振と新記録354奪三振を王から奪った。
これには逸話がある、同一試合で、王から日本記録と並ぶ奪三振を記録したのち、次打者以降を三振を取らずに打ち取って、次の王の打席で新記録となる奪三振を記録した。後年にこの逸話を知り、おおいに心が躍ったものである。

1971年(昭和46年)7月17日(土)、西宮球場で行われたオールスターゲームでの9連続奪三振、



1973年(昭和48年)8月30日(木)中日戦(甲子園)、延長11回を投げ抜き、その裏サヨナラホームランを放って、日本プロ野球史上初の延長ノーヒットノーランを達成、



私はこの二試合をテレビでライブで観た。この二試合で江夏の虜となった。

*****
そして野茂英雄。



1989年(平成元年)、ドラフト会議で史上最多8球団から一位指名を受け、近鉄バッファローズに入団。
名将仰木彬の下、東の西武ライオンズに一歩及ばず優勝には縁がなかったものの、『いてまえ打線』とともに、野茂は『トルネード投法』から繰り出すストレート、フォークボールで『ドクターK』と呼ばれ当代随一の投手となった。
しかし、仰木彬退団ののち、後続の鈴木啓示監督との確執、フロントとの確執によって、1994年のシーズン終了後、任意引退、海外に活路を求めた。

そして、1995年(平成7年)、アメリカに渡りロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約し、その後メジャーリーグに昇格して、5月2日(火)、サンフランシスコ・ジャイアンツ戦(敵地キャンドルスティック・パーク)にて先発のマウンドに立った。勝敗は付かなかったものの、メジャーの巨漢打者をきりきり舞いさせたこと、私はライブで観た。
この年野茂は、日本人選手として初めてメジャーリーグのオールスターゲームに選出され、
7月11日(火)、ザ・ボールパーク・イン・アーリントン(テキサス・レンジャーズの本拠地)のマウンドに先発投手として立った。オープニングセレモニーでは、唯一ひとり、招待されたリトルリーグの子供達一人ひとりとハイタッチを交わしていた。その姿がとても微笑ましくあり、また頼もしくもあった。

最近、国際試合が盛んになった中で、野球でもサッカーでも、直ぐに『サムライ』という言葉を安易に当用するが、その風潮に、つい眉間にしわが寄ってしまう。
『侍』『武士』とは、新渡戸稲造がその著書『武士道』で紹介しているように、ストイックな存在、孤高の存在と考える。当時の野茂は、まさに私のイメージ通りの『侍』であった。

メジャーリーグは、野茂が登場する前年の1994年、選手の年俸高騰を抑制しようとするオーナー側と選手会が対立、選手会がストライキに突入し、メジャーリーグの長い歴史の中で初めてシーズンが中断されるという異常事態となり、遂にはアメリカの国技ともいえるベースボールが凋落する危機を招いた。
野茂は、その危機を救う救世主となった。当時日本プロ野球界で一二を争う高額年俸選手だった地位を投げ捨て、全くのルーキー扱いでメジャーリーグに飛び込み、寡黙さとマウンドでの揺るぎない度胸、そして時の饒舌なスーパースター達をきりきり舞いさせるフォークボールで、西海岸から『ノモマニア』を生み、やがてそれは、全米を席巻し、ベースボールは凋落の危機から救われた。

*****
イチロー(鈴木一朗)。

彼もまた仰木彬の下で、その実力を遺憾なく発揮した選手であろう。彼の栄光の足跡を、私ごときがごたごたと書く必要もないのだが、簡単に記す。
日本プロ野球(パリーグ)オリックス・ブルーウェーブで7年連続首位打者という偉業を達成した後、2001年(平成13年)ポスティング制度を利用して、シアトル・マリナーズに移籍。
初年度から続く200本安打、ゴールドグラブ賞受賞(その外野手としての守備は『amazing』と表される)、そして華麗な走塁は、1990年代後半に巨漢達がステロイドという魔薬により狂競した『パワー』が織りなす聖域を超越したホームラン競争に一往の終止符を付け、ベースボールのもう一つの神髄、自己鍛錬のみで磨き上げた『スピード』が織りなすスリルと緊張の面白さをファンに思い起こさせた。
記録だけで無く、野茂と同様に、ベースボールの躍進に多大な貢献を成したのである。

平成19年7月10日(火)、AT&Tパーク(サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)で開催されたオールスターゲームで彼は、オールスターゲーム史上初めての、ランニングホームラン(inside-the-park home run)を記録した。それは、奇蹟、驚嘆として私の記憶に刻まれた。あれほどに華麗なベースランニングを観たのは初めてだった。
このゲームでイチローは、アメリカンリーグ勝利の立役者としてMVPを獲得した。



以上の3名に共通する、彼らにこそ相応しい表現は『野風増』(中国・四国地方の方言で「やんちゃ坊主」を意味する言葉)である。
同世代の方ならば、河島英五さんの『野風増』という歌で共感して頂けると思う。



その『野風増』の一人、イチローが、今日9月24日(金)、カナダ、トロントのロジャーズセンター(スタジアム)で行われたトロント・ブルージェイズ戦(デーゲーム)、5回表1死一塁、3打席目、初球を鋭いライナーでセンター前にヒットを放ち、10シーズン連続200本安打に到達した。レギュラーシーズン、チーム152試合目であった。


自己の持つメジャーリーグ連続200安打記録を9年から10年に伸ばしたと共に、メジャーリーク安打数記録保持者(4256本)のピート・ローズが持つもう一つの記録、200本安打最多達成記録(10回)に並んだ。
ピート・ローズは、1960年代から80年代に掛けて活躍した希代のハッスル・プレーヤーであったが、野球賭博に関与したことで、現在、メジャーリーグから永久追放状態となっている。

ロジャーズセンターは閑散としていた。ブルージェイズ、マリナーズ共に早くに優勝戦線から脱落し、消化試合である。また、イチローにとっては敵地、それでも全ての観客が、イチローのヒッティングと同時にスタンディングし、彼の偉業を拍手と歓声で讃えた。二年前『イチロー・バッシング』で揺れた自軍の僚友達もベンチを出て、並んで拍手をしていた。イチローは戸惑いながら、少し遅れてヘルメットを脱ぎ、観客に向かって、賞賛に軽いお辞儀で応えた。


イチローがメジャーデビューを華々しく飾った2001年のマリナーズは最強だった。アメリカンリーグの中で断トツで勝ち進み、116勝46敗、西地区を制覇した。マリナーズはその勢いで、地区シリーズ(Division Series)、リーグ優勝決定戦(League Championship Series )を勝ち上がってワールドシリーズ(World Series)に進ものと全く疑わなかったが、リーグ優勝決定戦でヤンキースに呆気なく敗れた。マリナーズは1977年の球団創設以来、未だワールドシリーズに進出したことがなく、球団として3度目の最大のワールドシリーズ出場チャンスをこの様にして逃した。
こうして1990年代後半、アメリカンリーグの強豪チームと数えられていたマリナーズは、それ以降、沈下した。

イチローは、この様なマリナーズ暗黒の時代にひとり気を吐いて、記録挑戦を糧に戦っている。
メジャーリーグの長き歴史は、多くの名選手を輩出してきた。しかし、ワールドシリーズに出場できるのはほんの一握りで、チャンピオン・リングを指にはめる幸運に浴するものはさらに希少だ。

いつかイチローも、バットを置き、球界を去る時が来るだろう。
野球の神様にお願いしたい。
どうか、これほどまでにベースボールを面白くしまた身近なものにし、また日本の野球の地位を高めてくれたイチローに、多くの野球少年の夢の門戸を開いてくれたイチローに、ワールドチャンピオンリングという褒美を授けてあげて欲しい。

2010年9月22日水曜日

『坂本龍馬』考 その1 ~司馬竜馬との出会い、そして竜馬と歩む人生~

坂本龍馬、高知桂浜にある10数メートルはあろう龍馬立像を見られた方ならばお判りだと思う。
彼は太平洋を望んでいる。

彼は幕末期、まだ歴史の表舞台に立つ前、『自分とは何もので』、『何ができるのか』、『望みは』を問い続け、求め、日本国中を奔走した。たとえ疎んじられようとも聴いた、特に新しい考え方、世の仕組み、つまり遠く異国の世情に詳しい者からどん欲に尋ね、聴いた。
そして、『支配社会を転換し、開かれた社会、どこで生まれようとも、誰であろうとも、志あれば、いつでも学び、そして望む仕事ができる社会を新興する』事を、彼の羅針盤に進路と定め、動いた。

23歳の頃、社会人一年目の年、会社の一年先輩で同じ寮住まいであった、通称『ちびっ子ギャング』と呼ばれていた好漢に心酔し、先輩の愛読書であった司馬遼太郎著『竜馬がゆく』を梅田の紀伊國屋書店で購入(文庫本八巻)、ひたすら読んだ。

物語の始まり、竜馬18歳の時、剣術修業で江戸へ旅立つその朝、下僕の源爺が紙切れでこしらえた桜花を庭の若桜の木に括り付け、『えらいことじゃ・・・(三月もまだ半ばというのに)若桜が、花をつけちょりまする』と騒ぎだし、家のもの皆が、源爺の法螺じゃと笑い出す、目に一杯の涙を浮かべて・・・、
今、この行を読んだだけで、もう私は泣いている。初めて竜馬に出会ってから、今日9月22日で、27年となった。
この年月、何度も読み返し、本はぼろぼろになった。本はぼろぼろになったが、司馬が描いた竜馬の人生は、ちょっとした仕草までも私の記憶に刻み込まれた。

彼は、日本初の株式会社というべき海運を生業とする『亀山社中』を、雄藩や豪商から出資を受けて設立した。
幕府の長州征伐を阻止し、かつ幕府の後ろで日本を手に入れようと企むフランスの野望を阻止するために、犬猿の仲であった薩摩と長州に働きかけて『薩長同盟』を締結させた。
そして最大の功績は、幕府に働きかけて、幕府自らが大政を奉還する、人類史上類を見ない無血革命を成し遂げたことである。

何故に一介の浪士が、この様な偉業を達成できたのか、
現代の作家の中には、龍馬はフリーメーソンのスパイであった、と唱える方もおられる。
しかし、私は単純に、天の定めに清く耳を傾け行動した彼の無欲さ、人柄が大望を叶えたと見る。
大政奉還が叶った後、彼は新官制案、つまり革命政府の閣僚名簿案を起草、その名簿に竜馬の名がない事を不思議がる西郷吉之助に対して、
『あれは、きらいでな』
・・・なにが?
『窮屈な役人がさ』
・・・では何をする?
『世界の海援隊でもやりましょうかな』

竜馬の腰巾着であった陸奥陽之助(後の明治の外相 陸奥宗光)は、心の中で小躍りする面持ちだったであろう、『我らの大将は、日本一!』。私もこの行では、いつも痛快さで満たされる。

そして、竜馬は明治という真新しい太陽が昇る曙に、定めを終え、33歳、天に召された。

幕末、そして明治維新に掛けて、龍馬と同様に、志のために奔走し、多くの若き志士が野の屍となった、その御霊を礎として新しい時代が明けた。


今の日本は、幕末期に似ているといわれる。
内政は破綻し掛かっているにも関わらず、付け焼き刃の手当を講ずる事しかできない。日本の将来像を示すことができないのだ。
そして外圧、島国日本という通りでは話にならないほどに、世界は密接し、大国の興亡、新興は甚だしく、朝令暮改は当たり前となってしまった。沖縄基地問題という内政問題ではアメリカの顔を伺い、領海侵犯しかつ公務執行妨害した中国漁船の船長の逮捕に至っては、中国から戦争を吹っかけられそうな事態に陥っている。

龍馬ならどうするか、龍馬なら相手の懐に飛び込み、また周囲にも働きかけて、喧嘩を逆手にとり、更なる友好・信頼を深める妙案を実行するのではないだろうか。
妙案はないにしても、つまらぬ意地はさっさと捨てて、この騒動を沈静するに違いない。

私は、私の中で生き続ける、竜馬のことをこれからも書こうと思う。


『坂本龍馬』考

『坂本龍馬』考 その1 ~司馬竜馬との出会い、そして竜馬と歩む人生~
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2010/09/blog-post_5723.html

『坂本龍馬』考 その2 ~お田鶴さまのいない『龍馬伝』、いよいよクライマックスです~
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2010/10/blog-post.html

『坂本龍馬』考 その3 ~龍馬の夢~
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2010/11/3.html

『坂本龍馬』考 その4 ~デモクラシー~
https://harimanokuni2007.blogspot.com/2017/11/blog-post_20.html

中国と喧嘩をしてはならない。

本日(9/22)の朝日新聞朝刊の『天声人語』、尖閣諸島沖での海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突に端を発した、この度の中国との緊張状態について、
前原外相の「(公務執行妨害事件を)国内法に基づいて粛々と処理する」を支持し、また
老子を引用し「相手に負けを意識させない勝ち方」を上げ、中国とのこの度の問題を、そうした収めた方が探れるか否かで、管内閣の器も問われよう、と締めている。

この問題が、中国側で異常に加熱し、次々と日本制裁を繰り出す背景には、尖閣諸島の領有権問題が根底にあることは、互いの了解事項である。
日本のメディアは、「公務執行妨害事件として、日本の法で処理されることは、中国側にとって、領有権を(暗に)認めてしまう事に通じ、それを認める事が出来ない」と中国側の過剰反応を解説している。
また一方で、現在の日中関係(経済に特化した)を「もっとも重要な二国間関係のひとつ」として、長引けば双方に不利益が生じると警告している。

どうもおかしい、日本の政府およびメディアは、中国が駄々っ子で、日本は大人の対応をしている、と一見日本の良識を良しとしているようだが、国家の主義も違い(日本は一応、社会・民主主義国家で資本主義国家、中国は全体主義国家である)、また日本の経済の浮沈はいまや中国に依存、空洞化した日本社会の『衣・食』そして『雇用』までもが中国に依存している。そして、いまや中国は世界の『猛る虎』である。

大人の対応といって静観し、ついには追い詰められて、中国の軍門に下るか、暴発するか、歴史を振り返れば判ることである。
喧嘩はしてはならない、これは絶対条件である。それこそ、日本国民ならびに諸外国への背信行為だ。

日本はまず、今回の『海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突』事件のあらゆる情報を世界に公開し、この問題を、領有権問題から切り離し、ひとつの『公務執行妨害事件』として世界の世論に問うことが急務と考える。
その後、この問題を、中国の司法の手に委ねる、引き渡すことも選択肢のひとつであろう。
それはまた、政治の、成熟した二国間関係を演出することにも繋がる。

中国の偉大な知、老子の言葉を引用するならば、
中国に対しては『和して唱えず』
そして世界に対しては『大を用うるに、拙なり』
但し、日本としての気構えは、
『義を見てせざるは勇なきなり』孔子、
そして行動は『敏』この一字です。

2010年9月21日火曜日

朗読を始めた理由について

今年の初め、長きに渡る、精神症『自信喪失から繰り返される、失意と不安』と、具体的な症状『不眠と体の痺れ』が、一時の酷い状態から快方に向かう途上、朗読者wisさんの朗読に出会いました。朗読は太宰治の『ビィヨンの妻』でした。
昨年2009年が太宰治の生誕100周年ということで本屋に行けば、太宰治ブックフェアーを目にし、テレビ、映画も太宰作品をベースにしたモノや、太宰本人を取り上げたドキュメンタリーが次々と発表されていました。
それまで、太宰治で知っていることといえば、『走れメロス』と入水自殺した事、それだけでした。私にとって関心事の外でした。

朗読者wisさんは、ホームページを開設されています。
タイトルは『【朗読】声を便りに、声を頼りにー。』
http://18.art-studio.cc/~koenoizumi/
です。
ですが、wisさん自身のプロフィールは公開されておらず、いつしか彼女の朗読ファンとなった私にとっては、年齢不詳の、霧の中から語りかけてくる魅惑的な女性となりました。

その後、暫くwisさんの太宰作品を中心とした文芸古典作品の朗読を聴き、また太宰治の小説も幾冊も読みました。

少し本筋からそれますが、太宰作品を読み、そして聴きしていくうちに、太宰の作品には、二つの個体、端正でもありそれなりの地位があるのに空虚感漂う男と、若くて美しくとても利発で積極的な女が描かれている事に気付きました。
『抜け殻の男』と『昭和初期と思えないほどに現代的であり延々と愚痴る若い女性』、このふたつの性、ふたつの個性を合わせて太宰治、その人ではないのかと確信しました。
中性の魅力があふれ出る作品だからこそ、思春期の若者に読み継がれ、また現代の若者にもっとも受け入れられる作家なのでしょう。


本筋に戻り、
朗読を聴き、小説の世界にのめりこむ内、ある考えが浮かびました。
私は、20代の若きSEであった頃、酒を飲んではおおいに語り、歌をこよなく愛した。
読書や、映画、演劇、美術も親しんだ。
もしかしたら、朗読という手段で、自己表現できるのではないか、という考えです。

インターネットを通じて朗読を学べないか調べました。
そして、新神戸オリエンタル劇場で朗読セミナーが開催されることを知りました。
ただ、その時点で、既に体験ワークショップは終わり、セミナー参加申込も終了して
明日から本セミナーが開催される事も知りました。

それが、
[朗読セミナー]きれいな日本語声を出していこう!朗読セミナー
日時:平成22年2月24日(水)19:00~21:10
場所:新神戸オリエンタル劇場
監修・脚本:わかぎゑふさん
演出・指導:朝深大介さん
でした。

因みにこのセミナーを企画されたわかぎえふさんと朝深大介さんの略歴は、
《わかぎゑふさんの略歴》
劇団リリパットアーミーII所属、座長
1959/2月生まれの日本の女優、演出家、劇作家、エッセイスト
2010から新神戸オリエンタル劇場の芸術監督に就任
就任第一弾としてのプログラムで、当ワークショップ朗読会を開催
《:朝深大介さんの略歴》
劇団リリパットアーミーII所属、副座長
1967/1月生まれの日本の俳優
※1995年に、お二人は結婚された
です。

しかし、それでも、新神戸オリエンタル劇場に電話で、参加できないかを問い合わせし、
担当の山崎氏の好意で、第一回セミナーを見学者として、参加をさせて頂ける事になりました。


第1回セミナーの開催日、久し振りの三宮でした。さんちかタウンでは、その人の多さに目眩がし、吐き気を催しました。そんなざまで、会場の新神戸オリエンタル劇場に着きました。

そこには思いがけない幸運が待ち受けていました。
当日は、劇場公演が無く、当初セミナーは舞台裏の稽古場で行う、と説明を受けていましたが、
本劇場がセミナーの舞台となりました。
また、第1回セミナーの講師は、わかぎゑふさんでした。

19:00から舞台の最前列に講師であるわかぎさんが腰掛け、生徒は観客席のソファーに座って話を聞く、というスタイルで始まりました。
その後、わがきさんが準備された朗読劇『時のおくりもの』の台本読みのために舞台に上がり、実際に観客席に向かって、台本を読みました。
『ブレス』、『立ち』等聞き慣れない演劇用語もありましたが、わがぎさんの話される言葉を聞き漏らさぬよう必死で傾聴しました。

以下が聞き覚えたわかぎさんの言葉です。

・むやみな大声は、音が飛散してしまうだけ、
語りかける相手の位置を意識して、
適切な音量で言葉・台詞を発する

・ブレス(息をころしたささやきや、息継ぎ)は
想像する以上に、音として耳に届く、
ブレスを意識させない台詞回しは
大変は技術を要する
※実際に舞台上での小声(息を殺したささやき)が、
劇場の最後尾ではっきりと聞き取れました。

・台詞は、特に長台詞の場合、
単調さ、抑揚のなさは、聴衆の耳に残らない、
残らなければ芝居の筋が分からなくなり
あげくは、つまらないものになってしまう

・台詞は、特に長台詞では、台詞を伸ばして発声したり、
語尾を省略したり、部分的に強調したりなどの
テクニックを駆使して、台詞回しの中で、
聴衆が分からないように休みを入れながら話す
それは単調な語りよりも、自然で、聞き易く、
台詞が聴衆に残りやすいなどの効果がある

・自分なりの解釈を得るまで、本に向き合い、
考える

・朗読は、緩急と抑揚をつけて、
聞き手の頭にそして心に響き、
残るように語る

・聞き手の呼吸から、その都度求められることを察知し、
臨機応変に対応する


また、休憩中の雑談の中でも、楽しく演劇の造詣の深さを話して下さいました。

まずは前座級の話、
ソファーにだらんと座っていても腹筋を鍛える事が出来る
その術は、
背中をソファーに押しつける、
この背中を押しつけると動作で、腹筋に力が入る
この動作を日々10回以上続けるだけでも
十分に腹筋、背筋のトレーニングとなる

また、芝居中は、ライトの明かりが強くて客席が見えない。
しかし、舞台役者のすごいところは、見えない観客をその息づかい、
客席から漏れてくる雰囲気で感じ、
今、どの様な感情が観客を支配しているかを感じながら演じる事が出来る。
また、観客の求めてを感じて、場合によっては、芝居を臨機応変に変化させる、
という舞台役者の醍醐味を聞かせて頂きました。

そして、100年以上の歴史を誇る文楽、その名作、
近松門左衛門の『曽根崎心中』についてのトリビア。
日本では、芝居のクライマックスである、心中の場面を具体的に演じることはなかったが
海外公演を行った時、これまでの芝居では、キリスト教国の観客に、
曾根崎心中の神髄を伝えきる事ができなかった。
これまで、芝居の流れで、心象的な表現で演じられてきたものが、通じない、
その問題に対して、時の演者は、具体的な心中シーン
(互いに相手の心臓に短剣を突き刺して心中を遂げる)芝居に盛り込んだ。
そして、観客に曽根崎心中の全てを伝える事が出来、
スタンディングオベーションを頂くに至った。
そんなことから、帰国後、日本公演でも
以降、心中シーンを盛り込み、好評を博しているという。

舞台は、役者が作る、でも、観客がいて、観客の反応により、
より良いものに作り替える事が出来る
舞台は、一瞬一瞬が変化に富んだ生きものである
それに対して、映画は、その制作時に完璧が要求され、
完成すれば、制作者や役者から手が離れて、
フィルムというカプセルの中で、永遠に変わらぬ物語を
提供するものとなる。

今回の朗読、会話劇において自分の思い・考えを伝えあうことが、
会話を続ける大前提となる。
私たちは、ややもすれば、相手の質問あるいは詰問に、
ハイ、イイエという返事だけを返す悪癖がある。
三度これを繰り返すと、もう会話は途切れ、再び会話の楽しみを
共有する事が出来なくなってしまう。

つまるところ、会話は楽しむ事である、
だが、楽しむ為の最低限のマナー、会話を終了させない
会話力が必要ということが分かる。
会話を楽しむためには、様々な情報・知識・話題を仕入れ、
それに自己の批評、考えを盛り込む事が肝要である。
つまり、会話を楽しむ為にも、常に学ぶ事、考える事を
継続する事が大切である

という趣旨の話を伺いました。


たった一日、約2時間ほどのふれあいでしたが、わかぎゑふさんから、
このセミナーから、朗読術、会話術の貴重なエッセンスを頂戴しました。


しかし、このセミナー、ただの朗読セミナーではありませんでした。
最終日に、朗読劇をこの舞台で公演するというクライマックスが用意されていました。
他の参加者の殆どが、朗読や芝居の経験者、なかには役者のたまごもいました。

当時、ある事で右足首の腱を酷く痛めていて、立ち芝居ができない。
朗読劇とはいえ立ち芝居の公演が最終目的であり、さらにいえば、
このプログラムの朗読は劇の一表現手段であって、
私の求めるものとは異なっていました。

その為、第1回セミナー終了時点で、講師のわかぎゑふさんにお礼を述べ、
また参加させて下さった劇場担当の山崎さんに以後のプログラム不参加を伝え、
舞台を後にしました。


その後、さらにインターネットで朗読に関する情報を探しました。
そして、見つけたのが、加西市立図書館のおはなし会でした。

加西市立図書館とおはなし会については、既に記したので、これで話は終えます。
正直、朗読で何かが変化する、という期待など微塵もない、と言えば嘘になりますが、
ただ、朗読を知るために、動いたこと活動したことが、心に変化をもたらしています。

今は、不安でびびったりはしていない。
何もない荒野を前にしても、歩み出す勇気が芽生え始めています。

ウィスキーの思い出、『マカロニウェスタンと若気の至り』

十代の中頃、『マカロニウェスタン』にすっかり魅了されていました。今の若者に『マカロニウェスタン』といってもピンとこないでしょうね。60年代から70年代にかけて、イタリア資本で主にイタリアで制作されていたイタリア版西部劇です。

私の当時のヒーローは、ジュリアーノ・ジェンマそしていまやアメリカ映画界で確固たる地位を築いたクリント・イーストウッドです。

『荒野の一ドル銀貨』、
何で心臓に一発食らって死なんねや、そうか胸に一ドル銀貨が入っとたんか、運えいやんか、とか、
『荒野の用心棒』で、
あんなにボコボコにどつかれて、また首吊られてよう死なんなぁ、偉いなぁ、とか、
ヒーローにはどんな不可解があってもすべて肯定して観てました。

また、十代中頃といえば、お酒に憧れた頃です。特に私は、ガンマンが酒場でウィスキーを注文し、ウィスキーが注がれたショットグラスが長いカウンターを滑り走って、それをガンマンが無造作につかみ取り、躊躇なくウィスキーを口に放り込む、なんちゅうカッコエンやろと憧れ、映画を見るたび、いつかやったろと秘めていました。
そして、雀の涙ほどの小遣いを貯めては、決して、近所の酒屋にやっすいウィスキーを買いに行き、エロ本を隠すように、本箱の隅にしまって、親が寝静まった真夜中に、台所からガラスのコップを持ち込んで、部屋で酒場のワンシーンを回想し、字幕で覚えたガンマンのセリフをブツブツ呟きながら、コップになみなみと注いだやっすいウィスキーを一気飲みしてぶっ倒れていました。翌日は、頭痛がすると言い訳しては、よく学校の保健室で酔い醒ましをしたものです。
私にとってのささやかなる青春の思い出です。

さて、同世代の皆さん、同じような経験、お持ちではないでしょうか。ですから、現代の子どもたちの行動にも、注意しながらも、おおらかに見守ろうではないですか。
私たちは、そんな大らか大人達に見守られていたわけですから・・・。

2010年9月20日月曜日

星空が掻き立てるロマンの話

朝日新聞9/18(土)朝刊の、2面に掲載の”ひと”で紹介された『生命の起源を宇宙で探す』東大助教授 坂井南美さん(30歳)。

*****
[記事の抜粋]
電波望遠鏡をを使い、炭素がひも状になった奇妙な分子を見つけた。
生まれたての星の周りで見つけた。
生まれたての星の周りで見つかるのは初めて。
この発見で、優れた博士論文に贈られる井上研究奨励賞を受けた。
このめったにない分子が、アミノ酸となり、生命に進化するのか。
「そうなら、私たち生命の誕生は本当に奇蹟だったことになる」
・・・
大きな電波望遠鏡が建設されている南米チリに行く機会が
増えている。
酸素の薄い5千メートルの高地で、砂埃にまみれて作業する。
「誰も知らない秘密を、世界で最初に知るのが嬉しい。
科学者なので。」
*****

坂井南美さんに、天文学者でありSF小説家でもあったカール・セーガンが1986年に刊行したSF小説『Contact』の主人公、SETIプロジェクトの研究員エリーのキャラクターが重なりました。
SF小説『Contact』は、カール・セーガンが逝去した翌年に、ジュディ・フォスター主演の映画『Contact』として公開されました。エンドロールに『カール・セーガンに捧ぐ』のメッセージが記されています。
エリーは、ある目的のために、電波望遠鏡を使い『宇宙からのメッセージ』を探索、地球外知的生命体とのコンタクトに没頭します。物語のあらすじを述べるのが本意ではないので省略しますが、興味を抱かれた方には、とても知的で魅力的な物語なので、是非小説、映画どちらにでもコンタクトされてみてはと思います。
エリーの口癖は「この広い世界(宇宙)に我々だけではスペースが勿体ない」、翻って表現すると「私たち人類はひとりではない、必ず友人(地球外知的生命体)は存在する」という事で、そこに彼女の、というよりもカール・セーガンのロマンを感じます。

坂井南美さんは、人類で初めて、誕生間もない星の周辺でアミノ酸になり得る紐状の分子を発見された。アミノ酸はタンパク質を構成し、タンパク質は生物の重要な構成要素となります。
大いなる存在(神)を信じるものとして、失礼な意見となりますが、生命の誕生を解き明かす糸口としては、余りにも微細、いや無に等しいと思います。でも究極の奇蹟を、天文学や宇宙物理学で解き明かそうとされる頭脳明晰な科学者の視点から見れば、至高の証明・定理に通じる一つのピースなのでしょうね。これもまた、とても魅力的なロマンだと感じます。

人類にとっての天文は、文明の黎明期から身近なものであり、それは早々に学びの対象となり、かつ信仰の対象ともなりました。いにしえから天の北極を示す星の存在を人類は解き明かしていました。それは移動に欠かせない知識となり人類が開拓精神を持ち得た事の、大いなる支えだったのではと推察します。
また、人類は夜空の星々を結びつけて、星座を描きました。それはいにしえの信仰となり、また想像力や創作力の爆発的な発達に多大な貢献となったのではと推察します。

私は、空を見上げることが好きです。空を見上げることで季節を感じたり、時間の経過を感じたりできるからです。
夜空を見上げることは尚のこと好きです。特に地上の灯りが少ない山間部や浜辺では、満天の星を仰ぐことが出来ます。私たちに届く星の光は、何光年、何万光年、もしかしたら何億光年の時間を旅した光であります。
いわば、夜空は悠久の歴史、過去を見渡すことが出来る唯一の深遠なるスクリーンです。

季節は秋になり、やがて冬に移りゆきます。夜空は一層澄み渡り、星々の輝きはより身近なものになっていきます。
日中の喧噪やストレスを抱えた心を、星々の輝きを浴びて浄化し、癒し、さらにロマンで満たすのは如何でしょうか。

2010年9月19日日曜日

原マサヒコ著「人生で大切なことはすべてプラスドライバーが教えてくれた 」拾い読み感想

書名:「人生で大切なことはすべてプラスドライバーが教えてくれた 」
著者:原マサヒコ著
分類:手記、自己啓発本
出版:経済界(単行本)


書店の自己啓発本が平積みされているコーナーで、『・・・プラスドライバーが教えてくれた・・・』というタイトルが目に留まり、手に取り立ち読みした。

『なんでフェラーリが二人乗りか?』という問いと、予想通りの回答がそこにあった。フェラーリは究極の走りを追求したスポーツカーであり、他の用途では全くの無用の長物でしかない。
著者は、手記の中で、弱点をあれこれと論い卑下するのではなく、自分の強みに特化してポジティブに行動せよと説く。

著者原マサヒコさんは、先天的ではあるがあまり人に知られることのない身体的なハンデキャップに苦しみ、また勉強にも身が入らない。後者の問題はどうも彼の家系にあるらしい、大正期に平民宰相として名を馳せた原敬の子孫であるにも関わらず、他の子孫は優秀なのにと、ことある毎に母親から誹られる。
高校時に勘当同然に家から出され、卒業後に自動車整備士の資格を取り、トヨタ系列のディラーでメカニックとして働き始めるが、もともと大の車好き、しかし折り紙付きの人付き合い下手が災いし、社内でも疎まれる存在となってしまう。
しかし、年のそう違わない先輩整備士(石田さん)が、彼を理解し、時によき相談相手として、また厳しい教師として、彼を考え行動できる整備士として導いていく。
マサヒコさんは、その後、信頼する石田さんの突然の死を乗り越えて、23歳の時、最年少でトヨタ技能オリンピック№1の栄冠を掴む。
その後も、『カイゼン』のコンクールで2年連続全国大会に出場するなどし、整備士としての技能は勿論のこと、仕事の効率的な進め方を学び、考え、提案し、どんどん自信を深めていく。

先に手記と書いたが、ざっとの拾い読みだが、自己啓発本というより、マサヒコさんの成長記、そう読んだ。
章題に車名が引用されている。車名というより、その車のステータスが、章で説かれる内容の主題を表現していると思われる。

題名で使われた『プラスドライバー』、これも比喩である。メカニックには工具が欠かせない、工具として誰もが容易に思いつくのが『プラスドライバー』である。著者は、逆境から成功への課程において、自分を導いてくれた大切な石田先輩、そして自らを変革に導いたプラス思考を、『プラスドライバー』に込められたのだと思う。

手記は、平易な文章で綴られている。机上で学んだ小難しい理論ではなく、現場で体を動かし体得された事柄が書かれている。今この時、道に迷う者達に、一筋の光を照らしてくれる物語であると思う。

拾い読みした後、買って、中坊の息子に読まそうと思ったのだが、躊躇し止めた。今彼は、スポーツに励み、そして悩んでいる。また、マサヒコさん同様に、机上の学びより、現場で体を動かして学ぶ時期にいると思ったからだ。
でも、いつか彼自身が書物に学びを求めようとしたとき、この本を薦めてみようと思う。
きっとマサヒコさんの経験が、染み入る筈だと思うからだ。

高砂市立鹿島中学校第36回体育大会 感想『私はよくやった・・・?』

昨日、9/18(土)に次男の通う鹿島中で体育大会が開催されました。秋空が美しい文様も描く下で、賑やかに爽やかに、行われました。


体育大会の感想ですが、大まかに4点上げます。

(1) 全校男子による組み立て体操、練習の成果を遺憾なく発揮して、見事に素晴らしい演技を披露してくれました。(拍手)


組み立て体操の練習では、これまででは考えられないほどに事故が多発した模様で、軽度の打撲や捻挫は多数、手首の骨折も数名いました。残暑の厳しい中での練習、またふざけや、わらかしあいもあった様です。息子も、わらかしあっていた手合いの一人であった様で、練習中先生から叱られたと聞きました。
また、3段の塔を組むとき、息子は一番下で、その中でわらかしあっていて、その時、息子の肩に足をかけていた2段目の生徒がだんだん背中の方に足がずれていくのを感じ、そしてその本人が『ごめん!』だか『もうあかん!』だかを大声で発して崩れ落ち、最上部にいた野球部のチームメートも落ち、また彼はとっさに友だちの上に落ちてはと避け、左手から落ち、結果、手首を骨折しました。
しかしそれを知ったのが、体育大会当日の昼食時、野球部父母で一緒に昼食を摂っている際に、部員の一人が三角巾をしているのに気付き、奥さんに聞いて事の成り行きを知ったという、恥ずかしい話です。
怪我をした本人にも申し訳なかったし、奥さんにも申し訳なかった・・・。でも、奥さんの一言で救われました。それが、(2)の話に繋がります。怪我の度合いがわからず、怪我をした部員が10/1(金)から開催される総体に間に合うか微妙です。今は、彼の怪我が一日も早く癒える事を祈っています。


(2) 次男、耕太郎よ、よく頑張った、です。(T_T)

息子、耕太郎ですが、野球では全く打てず、その悩みは少なからず、の様なのですが、それを晴らすように、体育大会での徒競走やスウェーデン・リレー、その他の競技でも、とにかく一生懸命でした。珍しく弾けていました。

徒競走では、丁度、野球部父母が陣取る前のトラックコーナーの入り口で凄まじく転倒、本人曰く『○○君のお母さんの耕太郎!頑張れ』の声が聞こえ、恥ずかしさで転倒の傷み等忘れて、直ぐに立って駆けて行きました。


また、スウェーデン・リレーでは初めてアンカー(400m)を任され、第3走者(300m)が野球部一の韋駄天□□君。トップでバトンを渡されたため、ヤバイと思い、400mの長丁場、配分なんか吹っ飛んでしまった様で、全速力で駆け、200mは観ているこちらが呆れるほどに速かったです。
しかし、2週目はもうめろめろで、何度も後ろを振り返る始末、後続に野球部のチームメートで、走力のある選手がいたため、不安の中で必死で走っていたようです、その様子がまた滑稽でわらかしてくれました。
ゴール手前で抜かされるかと思いましたが、最後まで一位をキープし、ゴールテープを切ったことに、親としての嬉しさと、また本人にとっては、一つの大きな自信になったのではと思っています。


彼を奮い立たせてくれた『○○君のお母さん』が、「今日は耕太郎よくわらかしてくれた、またリレーも頑張ったから許したろ」と笑って話して下さったことが嬉しかったです。


(3) 鹿島中が誇る吹奏楽部マーチングバンドの妙技に魅了されました。

午後の部の開始は、鹿島中が誇る吹奏楽部のマーチングバンド演奏・演技から始まりました。演奏は勿論のこと、ラッパ鼓隊の演奏しながら、様々な隊形に一糸乱れずに移りゆくさま、その妙技に魅了されました。


また今年の楽曲「翼をください」を含む3曲(間違っていたらすいません)に、美しくも大きな旗を両手に持って、羽ばたく鳥の如く、また戯れる妖精の如く、音楽にも見事に同期して舞い踊るカラーガード隊の演技も素晴らしかった、本当に美しかったです。

この夏、野球部の練習試合を観戦する度に、カラーガード隊が、炎天下の下で黙々と練習していたことを思い起こしました。

因みに、鹿島中吹奏楽部ですが、数年前から全国大会の常連となり、あと一歩(私にはその差など、きっと永久に判らないでしょう)で金賞を逃すこと数度。
そして昨年末、埼玉スーパーアリーナにて開催された「第37回マーチングバンド・バトントワーリング全国大会 中学生の部・マーチングバンド部門(小編成)」 (開催期間:2009/12/12-13)にて見事に初の金賞に輝きました。

彼女・彼らの誇りと、それを継承していく日々の努力に、ただただ感心するばかりです。


(4) オール3年vs.PTA隊の綱引きの参加しました。我ながら頑張りました、褒めてやりたい気持ちです。(*^_^*)

午後の部、吹奏楽部の演奏、部活動行進の後行われた、プログラム「親子で綱引き」に参加しました。カメラ片手に気軽に観戦というスタンスでしたので、当初は参加する意志はありませんでした。
ですが、
カメラが故障したこと (T_T) と、野球部父母会のOBがPTA隊の先頭に陣取り、私に向かって呼びかけのサインを送られてきたことで参加する事にしました。
最初の呼びかけサインでは私にだとは気付きませんでしたが、2度目に気付きました、でもついとぼけてしまいました、先輩方大変失礼致しました。m(__)m

で、PTA隊の列に加わり出場しました。綱を引くのは久し振りでした。あと数日で50歳に到達する身、力の無さも、体の弱さも知り尽くしていますので、『綱に・・・身を任せ』(夢一夜の洒落です、おもしろないですね)と思って格好だけはそれなりにと、比較的力の強い左手と左脇で綱を抱え、一戦目に挑みましたが、先生もPTA隊を見て思ったのでしょう、1回戦は3年生の半数との対決となりました。でも思惑は外れ、呆気なくPTA隊の勝利。そして2回戦、オール3年との対決です。
1回戦とは打って変わって膠着状態となり、段々気持ちが高潮してきて思わず『ちくしょう!』と叫んでいました。1分にも満たない物語は、生徒側の根負けで勝利がPTA隊に転がってきました。
戦い済んで、何とも言えぬ安堵感を覚えました。
今、腰の痛みに耐えています…(T_T)

大勢で楽しんだ体育大会も終わり、また秋の野球応援の日々に戻ります。
が、カメラ修理しないと・・・、
秋空も解決できない問題があるということ、あらためて身に染みて感じています。