今年の初め、長きに渡る、精神症『自信喪失から繰り返される、失意と不安』と、具体的な症状『不眠と体の痺れ』が、一時の酷い状態から快方に向かう途上、朗読者wisさんの朗読に出会いました。朗読は太宰治の『ビィヨンの妻』でした。
昨年2009年が太宰治の生誕100周年ということで本屋に行けば、太宰治ブックフェアーを目にし、テレビ、映画も太宰作品をベースにしたモノや、太宰本人を取り上げたドキュメンタリーが次々と発表されていました。
それまで、太宰治で知っていることといえば、『走れメロス』と入水自殺した事、それだけでした。私にとって関心事の外でした。
朗読者wisさんは、ホームページを開設されています。
タイトルは『【朗読】声を便りに、声を頼りにー。』
http://18.art-studio.cc/~koenoizumi/
です。
ですが、wisさん自身のプロフィールは公開されておらず、いつしか彼女の朗読ファンとなった私にとっては、年齢不詳の、霧の中から語りかけてくる魅惑的な女性となりました。
その後、暫くwisさんの太宰作品を中心とした文芸古典作品の朗読を聴き、また太宰治の小説も幾冊も読みました。
少し本筋からそれますが、太宰作品を読み、そして聴きしていくうちに、太宰の作品には、二つの個体、端正でもありそれなりの地位があるのに空虚感漂う男と、若くて美しくとても利発で積極的な女が描かれている事に気付きました。
『抜け殻の男』と『昭和初期と思えないほどに現代的であり延々と愚痴る若い女性』、このふたつの性、ふたつの個性を合わせて太宰治、その人ではないのかと確信しました。
中性の魅力があふれ出る作品だからこそ、思春期の若者に読み継がれ、また現代の若者にもっとも受け入れられる作家なのでしょう。
本筋に戻り、
朗読を聴き、小説の世界にのめりこむ内、ある考えが浮かびました。
私は、20代の若きSEであった頃、酒を飲んではおおいに語り、歌をこよなく愛した。
読書や、映画、演劇、美術も親しんだ。
もしかしたら、朗読という手段で、自己表現できるのではないか、という考えです。
インターネットを通じて朗読を学べないか調べました。
そして、新神戸オリエンタル劇場で朗読セミナーが開催されることを知りました。
ただ、その時点で、既に体験ワークショップは終わり、セミナー参加申込も終了して
明日から本セミナーが開催される事も知りました。
それが、
[朗読セミナー]きれいな日本語声を出していこう!朗読セミナー
日時:平成22年2月24日(水)19:00~21:10
場所:新神戸オリエンタル劇場
監修・脚本:わかぎゑふさん
演出・指導:朝深大介さん
でした。
因みにこのセミナーを企画されたわかぎえふさんと朝深大介さんの略歴は、
《わかぎゑふさんの略歴》
劇団リリパットアーミーII所属、座長
1959/2月生まれの日本の女優、演出家、劇作家、エッセイスト
2010から新神戸オリエンタル劇場の芸術監督に就任
就任第一弾としてのプログラムで、当ワークショップ朗読会を開催
《:朝深大介さんの略歴》
劇団リリパットアーミーII所属、副座長
1967/1月生まれの日本の俳優
※1995年に、お二人は結婚された
です。
しかし、それでも、新神戸オリエンタル劇場に電話で、参加できないかを問い合わせし、
担当の山崎氏の好意で、第一回セミナーを見学者として、参加をさせて頂ける事になりました。
第1回セミナーの開催日、久し振りの三宮でした。さんちかタウンでは、その人の多さに目眩がし、吐き気を催しました。そんなざまで、会場の新神戸オリエンタル劇場に着きました。
そこには思いがけない幸運が待ち受けていました。
当日は、劇場公演が無く、当初セミナーは舞台裏の稽古場で行う、と説明を受けていましたが、
本劇場がセミナーの舞台となりました。
また、第1回セミナーの講師は、わかぎゑふさんでした。
19:00から舞台の最前列に講師であるわかぎさんが腰掛け、生徒は観客席のソファーに座って話を聞く、というスタイルで始まりました。
その後、わがきさんが準備された朗読劇『時のおくりもの』の台本読みのために舞台に上がり、実際に観客席に向かって、台本を読みました。
『ブレス』、『立ち』等聞き慣れない演劇用語もありましたが、わがぎさんの話される言葉を聞き漏らさぬよう必死で傾聴しました。
以下が聞き覚えたわかぎさんの言葉です。
・むやみな大声は、音が飛散してしまうだけ、
語りかける相手の位置を意識して、
適切な音量で言葉・台詞を発する
・ブレス(息をころしたささやきや、息継ぎ)は
想像する以上に、音として耳に届く、
ブレスを意識させない台詞回しは
大変は技術を要する
※実際に舞台上での小声(息を殺したささやき)が、
劇場の最後尾ではっきりと聞き取れました。
・台詞は、特に長台詞の場合、
単調さ、抑揚のなさは、聴衆の耳に残らない、
残らなければ芝居の筋が分からなくなり
あげくは、つまらないものになってしまう
・台詞は、特に長台詞では、台詞を伸ばして発声したり、
語尾を省略したり、部分的に強調したりなどの
テクニックを駆使して、台詞回しの中で、
聴衆が分からないように休みを入れながら話す
それは単調な語りよりも、自然で、聞き易く、
台詞が聴衆に残りやすいなどの効果がある
・自分なりの解釈を得るまで、本に向き合い、
考える
・朗読は、緩急と抑揚をつけて、
聞き手の頭にそして心に響き、
残るように語る
・聞き手の呼吸から、その都度求められることを察知し、
臨機応変に対応する
また、休憩中の雑談の中でも、楽しく演劇の造詣の深さを話して下さいました。
まずは前座級の話、
ソファーにだらんと座っていても腹筋を鍛える事が出来る
その術は、
背中をソファーに押しつける、
この背中を押しつけると動作で、腹筋に力が入る
この動作を日々10回以上続けるだけでも
十分に腹筋、背筋のトレーニングとなる
また、芝居中は、ライトの明かりが強くて客席が見えない。
しかし、舞台役者のすごいところは、見えない観客をその息づかい、
客席から漏れてくる雰囲気で感じ、
今、どの様な感情が観客を支配しているかを感じながら演じる事が出来る。
また、観客の求めてを感じて、場合によっては、芝居を臨機応変に変化させる、
という舞台役者の醍醐味を聞かせて頂きました。
そして、100年以上の歴史を誇る文楽、その名作、
近松門左衛門の『曽根崎心中』についてのトリビア。
日本では、芝居のクライマックスである、心中の場面を具体的に演じることはなかったが
海外公演を行った時、これまでの芝居では、キリスト教国の観客に、
曾根崎心中の神髄を伝えきる事ができなかった。
これまで、芝居の流れで、心象的な表現で演じられてきたものが、通じない、
その問題に対して、時の演者は、具体的な心中シーン
(互いに相手の心臓に短剣を突き刺して心中を遂げる)芝居に盛り込んだ。
そして、観客に曽根崎心中の全てを伝える事が出来、
スタンディングオベーションを頂くに至った。
そんなことから、帰国後、日本公演でも
以降、心中シーンを盛り込み、好評を博しているという。
舞台は、役者が作る、でも、観客がいて、観客の反応により、
より良いものに作り替える事が出来る
舞台は、一瞬一瞬が変化に富んだ生きものである
それに対して、映画は、その制作時に完璧が要求され、
完成すれば、制作者や役者から手が離れて、
フィルムというカプセルの中で、永遠に変わらぬ物語を
提供するものとなる。
今回の朗読、会話劇において自分の思い・考えを伝えあうことが、
会話を続ける大前提となる。
私たちは、ややもすれば、相手の質問あるいは詰問に、
ハイ、イイエという返事だけを返す悪癖がある。
三度これを繰り返すと、もう会話は途切れ、再び会話の楽しみを
共有する事が出来なくなってしまう。
つまるところ、会話は楽しむ事である、
だが、楽しむ為の最低限のマナー、会話を終了させない
会話力が必要ということが分かる。
会話を楽しむためには、様々な情報・知識・話題を仕入れ、
それに自己の批評、考えを盛り込む事が肝要である。
つまり、会話を楽しむ為にも、常に学ぶ事、考える事を
継続する事が大切である
という趣旨の話を伺いました。
たった一日、約2時間ほどのふれあいでしたが、わかぎゑふさんから、
このセミナーから、朗読術、会話術の貴重なエッセンスを頂戴しました。
しかし、このセミナー、ただの朗読セミナーではありませんでした。
最終日に、朗読劇をこの舞台で公演するというクライマックスが用意されていました。
他の参加者の殆どが、朗読や芝居の経験者、なかには役者のたまごもいました。
当時、ある事で右足首の腱を酷く痛めていて、立ち芝居ができない。
朗読劇とはいえ立ち芝居の公演が最終目的であり、さらにいえば、
このプログラムの朗読は劇の一表現手段であって、
私の求めるものとは異なっていました。
その為、第1回セミナー終了時点で、講師のわかぎゑふさんにお礼を述べ、
また参加させて下さった劇場担当の山崎さんに以後のプログラム不参加を伝え、
舞台を後にしました。
その後、さらにインターネットで朗読に関する情報を探しました。
そして、見つけたのが、加西市立図書館のおはなし会でした。
加西市立図書館とおはなし会については、既に記したので、これで話は終えます。
正直、朗読で何かが変化する、という期待など微塵もない、と言えば嘘になりますが、
ただ、朗読を知るために、動いたこと活動したことが、心に変化をもたらしています。
今は、不安でびびったりはしていない。
何もない荒野を前にしても、歩み出す勇気が芽生え始めています。
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