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映画「ナチュラル」の名台詞を、大谷翔平選手に贈ります。

大谷翔平選手が、信頼する人に裏切られ欺され巻き込まれた疑惑について、自ら矢面に立って会見を開き、大勢の記者とテレビカメラの前で、自らの言葉で、今公表できる事実をしっかりとした口調で伝えてくれました。 その会見が開かれた日、NHKシネマで野球映画の名作「ナチュラル」(The Nat...

2015年5月28日木曜日

初夏の浜辺を歩いてきました。

昨日、明石から須磨の海辺を歩いてきました。
そして、初夏を満喫してきました。

日差しは強かったですが、空気がカラッとしていてとても気持ち良いウォーキングでした。
海辺はまだ静かでありましたが、夏好きの若者が一足早くサマースポーツを楽しんでいました。

このルートを歩くのは四度目ですが、以前から気になっていた店がありました。
国道2号線を滝の茶屋から少し東に行ったところにあるうどん・茶房竹屋です。長歩きをする場合は、途中ほとんど食事を摂ることをしなかったのですが、久し振りの長歩きという事もあって途中休憩のすがら昼食に名物のカレーうどんを頂きました。
店に入ると、洋風で落ち着いた雰囲気の店でした。南は大きな窓で開かれて須磨に開かれた海が広がります。
店は、落ち着いた雰囲気の女性二人で切り盛りされている様子でした。しばらくしてカレーうどんが運ばれてきました。とろみがあって優しい味の汁が程良く疲れた体に染み込みました。カレーに類する料理は、本来スパイスのよく効いた辛めが好みなのですが、これも有りだなって思いながら頂きました。

須磨では網敷天満宮を参拝しました。本殿前に可愛らしい菅原道真公と「波乗り祈願」と書かれたサーフィン型の石像が建っていました。運気を上げたい、良い運気に乗りたいという欲望が刺激され、護摩木(網敷天満宮納天神火焚串)に「家運隆昌」と書いて奉納しました。

 歩き始めた時間がもう少し早ければ三ノ宮まで歩を進めたかったのですが、時間も夕方近くになっていましたので、高速長田駅をゴールとしました。
最近すっかり運動不足に陥っていましたが、まだまだ歩けることを実感できました。この夏は長歩きをまた楽しんで、腹回りのだぶつきを少し引き締められたらと思います。
夜もぐっすりと眠れました。

2015年5月25日月曜日

大相撲に見る日本の移民施策の未来

相撲はほとんど見ないのですが、昨日夕方テレビをつけると夏場所千秋楽残り3番という大詰めに出くわしました。
大相撲夏場所千秋楽は、三敗で横綱白鵬と関脇照ノ富士が並び、照ノ富士はこれから始まる碧山との取り組みに勝って、結びの一番で照ノ富士の兄弟子横綱日馬富士が白鵬に勝てば初優勝ということで、場内は至極熱気に満ちていました。

そして取り組みが始まります。
照ノ富士は、危なげなく碧山を押し出して三敗を守り、結びの一番を待ちます。
日馬富士は、ここ何場所を白鵬に勝っていません。解説の親方は、がっぷり四つでは日馬富士に勝ち目はない。しかし弟弟子の初勝利のために何とか勝ちを取る相撲をするのではないか、と話していました。

そして結びの一番が始まります。
張り手の応酬から一転、土俵際に追い込まれた様に見えた日馬富士が、一瞬体を低くしたと思えば一気に白鵬の懐に飛び込み両腕でがっちりと回しを掴みます。そして回しが掴めぬ白鵬を一気に土俵外に突き倒しました。
照ノ富士の初優勝が決まりました。画面に兄弟弟子と抱き合って喜びを噛み締める照ノ富士の姿が映ります。相撲に疎い私も思わずもらい泣きしました。

しかし、表彰式が始まってから親方やアナウンサーの「これでまた日本人力士の活躍が遠くなった」という嘆きを聞いて愕然としました。
大相撲を守り立てるために、親方衆は強い力士の素養がある若者を世界中から見つけてきました。そうして集まってきた若者は、日本人であっても外国人であっても一様に新弟子検査を受けて初めて力士の卵となるのです。力士の卵となった若者は、その後何年も部屋に住み込んで、力士の頂点を目指し精進し続けます。外国人の力士の卵についてさらに言えば、言葉も習慣も違う異国の地で、通訳もいなければ身の回りの世話をしてくれる者も側にいない、師匠や部屋の女将さん、兄弟弟子を信じて一から十まで教わりながら、日本人の若者ならば到底感じる事のない不安を抱えながら力士の頂点を目指しているのだと思います。
それなのに、今さらになって外国人力士の台頭を嘆くのは、甚だ遺憾に思います。彼ら外国人力士は助っ人などではありません。彼らを育てたのは日本相撲協会です。彼らは大相撲の正当な後継者なのだと思います。さらに言うならば外国人力士の台頭を嘆く理由は一分もないと思います。

最近の大相撲では、希代の横綱大鵬の幕内最高優勝記録32回を更新し、尚も記録を34回と更新し続けている平成の大横綱白鵬が逆風に晒されています。取り組みの結果にけちを付けたり、放言が過ぎるなど「傲慢」のレッテルを貼られて叩かれています。
私の勝手な見識ですが、大相撲はスポーツでもなく、見世物色の濃い格闘技でもありません。大相撲は神事なのだと思います。神事であればこそ、様式が重んじられ、また力士が尊ばれるのだと思います。その力士の最高峰である横綱に登り詰め、尚且つその在位を守り続けている横綱白鵬に、「傲慢」というレッテルを貼る日本相撲協会と人気のおこぼれに与るマスコミこそ「傲慢」であり「不遜」であると思います。
白鵬ほどに大相撲の精霊とみまがうほど、品格と美と力を醸し出す力士はかつていただろうかと思います。白鵬に対する「傲慢」というレッテルは、裏を返せば「外国人力士への嫉妬」だと思います。
昨日の照ノ富士の表彰式で解説の親方は「初々しさと感謝の気持ちを忘れず・・・一人で強くなったと決して思わないでほしい」と、まるで白鵬を名指ししたようなコメントを発言していましたが、そんなことは白鵬が誰よりも一番に分かっていると思います。でもそれ以上に白鵬は、誰よりも何倍も何倍も努力して、今も堪えて堪えて苦心して、かつての力士達が誰も見たことのない孤高の道を歩んでいます。白鵬は今や角界の至宝です。至宝は皆で守らなければならないし、決して傷つけてはならない、曇らせてはならない存在です。たとえ親方衆であっても、敬意を払わなければいけない存在なのだと思います。

しかし、実態はそうではなくて、往々にして外国人力士がとてつもなく強くなったとき、彼らは日本人ではない、だから相撲道を理解できない、相撲道を踏み外す等々、「異質な存在」と決めつけられて叩きます。真に迷信そのものです。

この迷信であり狂信的な嫉妬を目にする度に、最近日本政府が積極的に推し進めようとしている移民受入政策の危うさを覚えます。すでに突入した日本の少子高齢社会を下支えするために移民を積極的に受け入れるという政策は、あまりにも近視眼的で、将来を見通した計画も、将来起こりうる問題も、何ひとつ議論せぬままに進んでいるように思います。
近い将来に必ず頭をもたげるであろう「異質な存在」という迷信、狂信が広がる局面を全く無視した政策に思います。

日本に活躍の道を求めて働きに来る人々、また移民として新日本人となる人々を、これまでと同様に「異質な存在」と見なして、活躍の場を制限するのか、生活を制限するのか、日本人の型への同化を強いるのか。
それとは真逆に、日本社会が多様性を受け入れて、彼らを「多様な存在」としてありのままに受け入れて、旧来の日本人と変わらぬすべての権利を与え安全を保証するのか。
そういう決意なくして移民政策を推し進めてはならないと思います。

大相撲は、日本社会の移民受け入れの一つケーススタディだと思います。大相撲が、外国人力士に対して、これからどう変わっていくのか、もしくは変わらないのか。日本の将来を考えながら大相撲を見ること、とても重要に思います。

サミュエル・ウルマン『青春の詩』 -「精一杯生きて輝け!それが青春だ!-

花燃ゆ第21話「決行の日」では、あらぬことに久坂文さんが長州藩藩主毛利敬親公に謁見を許されました。そこで敬親公は、藩是となった「攘夷」の不明を吐露し、しかし、死んでも尚心の頼りである吉田松陰と問答し「攘夷」に邁進する若き勇猛な藩士達を見守ると決めたこと、文さんに話します。
決意の言葉は「行け!輝け!」でした。
私には「精一杯生きて輝け!」と聞こえました。心に響く言葉でした。心にぐさりと刺さります。

そして今日偶然にも、心に響く素敵な詩に出会いました。
詩の作者サミュエル・ウルマンが70歳を過ぎてから書いた『青春の詩』です。
サミュエル・ウルマンが生きたのは、1840-1924です。
ちなみに吉田松陰が生きたのは、1830-1859です。
二人は、生きた時間が重なっていました。
ウルマンの詩は、まるで松蔭の言葉かとみまがうほどに、「精一杯生きて輝け!それが青春だ!」と情熱的に語られていました。

この『青春の詩』を、以下に書き留めさせて頂きます。


『青春の詩』
原詩作者 サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman 1840-1924)
訳詩作者 岡田義夫(明治24年[1891]-昭和43年[1968])

青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相(ようそう)を言うのだ。

優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、

こう言う様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

苦悶や狐疑(こぎ)や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰(あたか)も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥(あくた)に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰(せいしん)、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰(きんぎょう)、事に処する剛毅(ごうき)な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、

人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、

希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷(あつごおり)がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。

原詩
Youth
Samuel Ullman

Youth is not a time of life -- it is a state of mind; It is a temper of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love of ease. Nobody grows old by merely living a number of years; people grow old only by deserting their ideals.

Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, doubt, self-distrust, fear and despair -- these are the long, long years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.

Whether seventy or sixteen, there is in every beings' heart, the love of wonder, the sweet amazement at stars and the starlike things and thoughts, the undaunted challenge of events the unfailing childlike appetite for what next, and the joy and the game of life. You are as young as your faith, as old as your doubt; as young as your self-confidence, as old as your fear, as young as your hope, as old as your despair.

So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur and power from the earth, from man and from the Infinite, so long you are young. When the wires are all down and all the central place of your heart is covered with snows of pessimism and the ice of cynicism, then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul.