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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年2月2日土曜日

フランス装の殉倩詩集

本を読んでいて、本の内容から別の本へと興味が広がっていくことは多々あります。
今回も、米田彰男さん著「寅さんとイエス」を読んでいて、佐藤春夫の「水辺月夜の歌」という心に沁みる詩と出会い、佐藤春夫の詩集を読んでみようと、さっそく図書館で借りました。

でも扉を開くと、中は袋とじ状態で切らないと中面が読めない状態でした。調べてみるとフランス装というもので、製本時に最後の工程となる裁ち工程が省かれたもので、読み手がペーパーナイフで自らカットしながらページを開き読み進めるという体の本でした。

扉に
殉倩詩集 佐藤春夫著
一九二一年・東京・新潮社版
と縦書きで書かれています。
1921年ですから、大正10年に世に出た本です。
借りた本は、この復刻版で
新選 名著復刻全集 近代文学館
佐藤春夫著 殉倩詩集 新潮社版
です。
なかなかに趣のある本です。

さすがに図書館で借りた本を傷つけることはできないので、図書館には、今後この様な加工しなければ読むことが出来ない本を、読めるようにして欲しいとお願いのメールを送りました。そして今回は読まずに返却致します。

が、びっくりしました。佐藤春夫という詩人、はじめて知ったと思ったのですが
この詩集の目次に、「浜辺の恋」という歌がありました。
これまたインターネットで調べてみると、そうです。小椋佳にハマっていた十代の頃に聴いて涙した?歌でした。歌詞曲ともに小椋佳だと思っていましたが、歌詞は佐藤春夫だったんですね。大正時代から昭和初期に掛けて、女性の心をわしづかみした人気詩人、それが佐藤春夫という人でした。なかなかの女垂らし、人垂らしだった様ですね。知れば知るほど魅せられる人なのでしょうね。とても興味を持ちました。

海辺の恋 佐藤春夫

こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき、
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき。

わらべとをとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ、
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み、

入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか、
海ベのこひのはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ。

2019年2月1日金曜日

「恋のつらさは心磨きに通ず」、寅さんとイエスの教えです。

今年は、寅さん映画第一作公開から50年です。そして、なんと新作の50作目が公開されるといいます。公開は12月の予定です。
https://www.tora-san.jp/

そんなことが頭の片隅にあったのでしょう、先日、図書館で「寅さんとイエス」(著者:米田彰男さん、司祭であり大学で教鞭を執られている方です。)というエッセーに目が留まり借りました。
まだ全文を読み通したわけではないのですが、是非に書き留めたい箇所がありましたので、ここに転記させて頂きます。

第三章「つらさ」について
寅さんの場合-恋のつらさ から
*****
寅の恋は盲目的な燃える恋であり、文字通り恋の病に落ちてしまうのだが、一方でまだ触らぬ恋であり、かつライバルが現れる時、決して相手を不幸に陥れない恋である。ある意味、『葉隠』の恋の極意に通じるものがある。
『葉隠』によると、恋の究極は忍ぶ恋である。「恋ひ死なん 後の煙に それと知れ 終にもらさぬ 中の思ひは」。
確かに寅さんは、恋の思いを単純すぎる程単純にもらしてはいるのだが、忍ぶところは潔く忍ぶ気品のある恋である。たとえ失敗し、バカにされ、笑いものにされようとも。マドンナは変われども、一回一回真剣であり、具体的な恋の一つ一つによって、寅の心は高められ、清められたと言っても過言ではなかろう。

佐藤春夫の詩に「水辺月夜の歌」がある。

せつなき恋をするゆゑに
月かげさむく身にぞ沁む。
もののあわれを知るゆゑに
水のひかりぞなげかるる。

身をうたかたとおもふとも
うたたかならじわが思ひ。
げにいやしかるわれながら
うれひは清し、君ゆゑに。

この詩の第二節の意味は深い。自らがどんなに卑しく惨めな存在であろうと、高貴で清らかな対象をみつめ、心の中で大切にし続けることによって、自らも高貴になり清らかになってゆく。
寅の思いは常に清らかであった。第34作「寅次郎真実一路」に寅さんの次のような想像の語りある。
「俺、その顔じいっと見てる。台所で洗い物をしている、そのきれーなうなじを見つめている。針仕事をする白魚のようなきれーな指先を俺はじーっと見惚れる。買物なんかだってついて行っちゃうよ。八百屋で大根を値切っているその美しい声音に思わず聞き惚れる。夜は寝ない。スヤスヤとかわいい寝息をたてるその美しい寝顔をじーっと見つめているな、俺は寝ない。いいんだよ、食わなくたって、あんなきれいな人と一緒に暮らせたら、腹なんか、すかないんだよ」。
寅さんの清らかな想像力である。恋する対象を想像の中で簡単に服を脱がせ抱いてしまうのではなく、恋人への清らかな思いは、思いの対象である恋人によって、寅さん自身が清らかにされる。

月見草は日没と共に花を開き夜空の月を見つめ続ける。昔は河原でよく見かけた平凡な月見草は、そっと月を見つめていたら、いつの間にか、静かで優しいお月様のような姿になってしまった。
自己にとって最も価値あるもの、大切なものを愛情込めて見つめていると、取るに足りない自分自身もおのずからその価値あるものに類似してくる。月見草は象徴的にその真実を教えている。

それはまたヒマワリと太陽の関係も同じ真実を語っている。

英語のsunflowerやドイツ語のSonnenblumeは「太陽のような容姿」即ち日輪草の側面を表示する。黄色い色は太陽の輝きに、中心を囲む花冠は太陽の放つ光冠に類似するヒマワリの姿、太陽を見つめ続ける向日葵はいつしか太陽の淡い写しとなった。

これはまたキリスト教の本質をずばり語っている。キリスト教を一言で言えば、神倣いの宗教である。神に倣うこと、神を見つめることによって、人間が神に似た者となってゆく。
イエスが自らの生きざまや譬え話などを通じて示した神の顔、神の姿、例えば神の寛大さや慈悲深さに人間が倣うことによって、自ら寛大で慈悲深いものとなっていゆく。イエスが当時排除された人々と共に食事をしたように、また最後の晩餐で弟子たちの足を洗ったように、人間もそれに倣って、一人ひとりを互いに大切にしてゆく。神に倣う事により神に似た者となってゆくこと、ちょうどヒマワリが太陽を仰ぎ見続けることによって太陽の淡い写しとなったように。
*****

恋は切なく苦しいものです。でも、以上の様に恋ができれば、きっと心を磨くことができるのだと思います。

でも昨今は、恋をする人が少なくなったのではないかと思います。恋には暇(時間)が必要です。何かの切っ掛けである人を好ましく思い、その人を好ましく思う時間を過ごす中で、心の中に恋心が育ちます。その恋心で心が一杯になった時、人は恋心に気づいてどうしようもなくもがくのだと思います。
そしてその恋が成就すれば素晴らしいですが、でもきっと多くの場合は失恋を味わう事になるでしょう。その失恋が癒えるのにもまた暇(時間)が必要です。

でも昨今は、この様な暇(時間)の使い方を良しとしない風潮が蔓延しています。
出会い系でいえば同じ性的嗜好者の集うSNSにアクセスすれば、すぐに会話を楽しむことが出来ますし、同意する人を見つけて、すぐに性行為を含むプレイを楽しむことも出来る時代です。そこには背徳の後ろめたさなどつゆほどもありません。そして恋が育ついとまもありません。

しかもSNSでは人の本性は見えません。さらに言えばSNSに掲示される身上書など偽りで塗り固めることなどおちゃのこさいさいです。性別のなりすましなども簡単です。
たとえ出会い系でなくとも、たとえば趣味で集うSNSで身上書や投稿される写真などですっかり意気投合し、心を許し、秘密の話をしたりして、後でそれをネタに脅されたり、または実際に会うと別人だったという事もあるでしょう。
それは犯罪に直結します。
昨今の痛ましい事件の数々、ただ肉欲の赴くままに、偽り欺し、性欲と支配欲を満たした末に、さらに被害者を脅したり、あげくに殺害に及ぶ凶悪事件の数々はSNS絡みばかりです。たとえ被害者につけ込まれる隙が無かったとしても、すっかり欺されて犯罪に巻き込まれるという場合も多くあると思います。

SNS反対!いますぐ無くせ!なんて、叫んだとしても、人間の生活に深く関わってしまっている現在において、無くすることは不可能です。
ならば、匿名のSNSには寄りつかない。出会いはSNSには頼らない、現実の世界で時間を掛けて恋をする、そして心を磨く、せめてこれだけは守って欲しいと思います。
親として、また自らを律する意味でも、ここに書き留めて置きます。