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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年2月25日月曜日

ネットプリントが今とっても便利です。

唐突ですが、プリンターはEPSON製品を長年愛用しています。CANNONやHEWLETT-PACKARDがあるのに浮気をせずに一途にです。
でも現在のプリンターEP807に買い換えてから、しばらくして互換インクカートリッジを使用するようになりました。EPSON純正インクカートリッジがあまりに高価だからです。
当初、プリンターは本体が高価でした。でもインクカートリッジは現在のものよりも1/2~1/3程度の価格でした。
当初は、ブラックとカラーの二つのカートリッジですみましたが、現在は、カラープリントの品質向上のためにEP807でブラックと5つのカラーカートリッジが必要となっています。プリンターは、ノズルとインクの進歩によって、2000年あたりから写真とみまがうほどにプリントの品質が向上しました。そのあたりが分岐点でしょうか、プリンターを使用するためのイニシャルコストは下がり、ランニングコストは上昇しました。
そのあたりから互換インクカートリッジなるものが世に出てきたように記憶しています。

しかし、自分で互換インクカートリッジを使用するようになってから、互換インクの恩恵はほとんど無いと考える様になりました。
使用して経験した問題は、
①交換しようとカバーを外すとインクが漏れ出て使い物にならなくなった。
②増量タイプなのに、純正品に比べて非常に早く交換時期がおとずれる。
③純正品に比べて、ノズルズまりが頻発する。

他の互換インクカートリッジ使用者からは、プリンタが壊れた。でも不正使用と見なされて、EPSONの修理が高額になり、プリンタ本体自体を買い換える羽目になったという話も聞きました。
実は、現在も上記②③に悩まされて、やむなく純正品を購入し、まだインク残量がありましたが、6つのカートリッジすべてを純正品に変えました。いまから試運転です。
ちゃんと印刷てきるようになれば良いのですが・・・

でも家プリントというのは、もしかしたら潮時なのかもしれません。
純正品を購入するか迷っていた時、至急印刷しなければならない事案がありました。提出書類にカラー写真を載せるという印刷です。
でも問題は、すぐに解消しました。
セブンイレブンのマルチコピー機を使うネットプリントというサービスを見つけたからです。
使い方ですが、
①パソコンでドキュメントを作成し、フォント埋め込み型PDF、もしくはXPS(XML Paper Specification)形式で出力ファイルを作成する。
②ブラウザを開き、セブンイレブンnetprintにアクセスして、印刷したいファイルをアップロードする。プリンタ予約番号が付与される。
③セブンイレブンに出向き、マルチコピー機を操作して、プリンタ予約番号を入力し、お金を投入するとプリントができます。
簡単でした。カラープリントでしたからA4一枚60円、8枚プリントしたので480円、紙の品質もよく、カラーもきれいに再現されていました。白黒でしたらA4一枚20円です。
スマートフォンからも印刷が可能です。写真をとって、最寄りのセブンイレブンですぐにプリントすることも可能です。

なお、わたしは決してセブンイレブンの回し者ではありません (#^.^#)

2019年2月24日日曜日

テキストの人間化、情を通わせた物語が、平和の礎となること信じます。

米田彰男さんのエッセー「寅さんとイエス」は、忘れ難き一冊となりました。
このエッセーは「男はつらいよ」風天の寅さんの情けを通して、聖書の御言葉が語られていました。そして二千年前の人である救世主イエスを、ユダヤ教の律法でがんじがらめとなっていた市井の人々に、情けや無償の愛こそ神が尊ばれることを身を以て実践した、寅さんを彷彿させる愛すべき風天として描いていました。

そして、また一つ書き留めたい箇所がありました。転記させて頂きます。

208頁、イスラエルの歴史家イラン・パペの論文「テキストの人間化」で、『ユダヤ人の選民思想と結びついた民族主義的運動は《テキストの人間化》に反する《テキストの国家化》である』という指摘です。
『テキストの《人間化》は、何に対峙しているかというと、テキストの《国家化》に対峙している。テキストの固定化とナショナリズムは深く結びついている。国家にアイデンティティーを与えるようなテキストを固定して、その絶対性を疑うことを許さないようにしていく。国家のアイデンティティーを、固定されたテキストの語る歴史によって維持していこうとする。そういう動きがテキストの《国家化》である。
それに対し、テキストの《人間化》とは、人間を国家の呪縛から解放し、人間と人間の間に、異なった伝統と文化を持つ民族の間に、同一の歴史的事実に対して異なった歴史を語る国家と国家の間に、橋を架けることの出来るような歴史、そして物語を語れるようなテキストを生み出していくことである。』

ユダヤ人は、キリスト教が誕生して後、二千年もの間、流浪の民として苦難を強いられてきました。でもその理由の一つとして、神に選ばれた民というユダヤ人の選民思想が、融和や人間への愛を重んじる他宗教や民族との間に、軋轢を生み続けたのだと思います。

イラン・パペの指摘は、現代においてあらゆるところで見受けられます。
特に私たち日本人の火急の問題としてあるのは、日本と中国、そして日本と韓国との軋轢問題です。中国と韓国から突きつけられるのは第二次世界大戦時の日本の悪行を認めることとその謝罪です。それは「同一の歴史的事実に対して異なった歴史を語る国家と国家の間」の問題です。日本人として、日本、中国、朝鮮半島の歴史を調べると、歴史的事実が、戦後に各々の国で、変容している事が分かります。

そして、最近の韓国国会議長の天皇陛下を貶めるような暴言の後に、続く発言です。
「ドイツは第二次世界大戦時の戦争犯罪について、今もユダヤ人墓地に献花するなど、謝罪を重ねることにより、欧州連合(EU)を率いる『リーディング・ステート』(先導国家先)になった。歴史の法廷において戦争や人倫に関する犯罪は時効がない。日本も真摯な謝罪を通じて和解を成し遂げなければ『リーディング・ステート』になれない」
これが韓国のテキストの《国家化》だと思います。

韓国人から日本人に帰化された呉善花さんは著書「侮日論」の中で、朝鮮民族と日本民族の精神性の違いを「恨」と「もののあわれ」の違いと表現されていました。
『恨は、ある面では「不完全さ」や「欠如」の美意識や美学にもなります。日本でいえば、やはり「不完全さ」や「欠如」にかかわる「もののあわれ」の心が、生きる美意識とも美学ともなっているように、です。ただ、恨と「もののあわれ」は、同じ「不完全さ」や「欠如」の感覚に発しているとはいえても、正反対の作用をもった精神性です。』
また呉善花さんは朝鮮民族の反日主義、侮日について、
古代から中国皇帝の冊封国として国を維持してきた朝鮮王は、中国を華(栄華)とし、冊封関係にない国や地域は夷(未開、野蛮)とする華夷思想、中華主義に倣い、その思想や主義が広く朝鮮民族に浸透したことが根本であると書かれています。
韓国は、現在朝鮮半島に存在するもう一つの朝鮮民族の国、北朝鮮と正統な国であることを争ってきました。そのためには、反日、侮日の看板は決して下ろせないといいます。

日本にしても、「もののあわれ」はどんどん廃れ、「恨」が際立つようになってきたように思います。このままでは永久に出口のないイスラエル問題と同じになってしまいます。

日本人と中国人、そして日本人と韓国人、テキストの《人間化》、情を通わせた物語は、実は沢山あると思います。
私の物語ですが、
新婚旅行でオークランドで道に迷った際、同じアジア系の青年に声を掛けると、彼は中国人で、英語の話せない私たちを、丁寧にホテルまで案内してくれました。
次に教会での出来事です。当時通っていた教会に、韓国人の学生達が宣教活動で滞在していました。片言の日本語で話しかけてくれて、一緒に食事をしたり、ゲームをして楽しい時間を過ごしました。彼らはとても素直で素敵な若者達でした。

私以上に素敵な物語をお持ちの方は、本当に沢山おられると思います。
そういう情を通わせた沢山の物語によって、いつか国と国が、民族と民族が、相容れない過去よりも、共生する未来を選択する日が来ること、信じていたいと思います。

「落ちこぼれる子供がひとりもいなくなるように、子供達が自信と明るさを取り戻すのを手伝う」、大島吾郎の物語

昨日の放送が最終回であったドラマ「みかづき」、良かったですね。
このドラマでは「学校は太陽で、塾は月」と表現していました。
太陽に育まれながらも、その強い光に堪えきれず、陰に身を潜めた子供たちを、月の優しい光で包み、もう一度、光の中に戻してあげられたら・・・
大島吾郎という人の念いは、「落ちこぼれる子供がひとりもいなくなるように、子供達が自信と明るさを取り戻すのを手伝う」ことであったように思います。

学校が、子供達の安心のよりどころとなって、また学ぶことにより自信と明るさが育つ場所であったなら、どんなに良いでしょう。
そして、それでもこぼれる子供を、専門的な知識と愛で、救う(大島流にいえば塾)が補完として機能すれば、すべての子供が救われるのではないかと想像します。

でも現実は、真逆の道を逆走していると感じます。
この四月から、子供達の小中学校通学時の携帯電話持ち込みが容認されるというニュースには愕然としました。
これまでは建前であったとしても持ち込みは禁止でした。
学校は、これまでは学校に携帯電話を持ち込まさないための責務を負っていました。でもこれからは、学校運営、学校生活に支障が無いように、携帯電話の使い方を指導する責務を負うことになります。そして急造で、「正しい携帯電話の使い方」が検討され、制定され、指導されることになるでしょう。
でも「正しい携帯電話の使い方」、もっと正確に言えば「正しい情報端末の使い方」なんてできるのでしょうか?
情報端末はどんどんと進化して、あらゆることが情報端末を介して可能になりつつある時代です。一方で、大人の世界がスマートフォンとSNSで、モラルハザードに陥っています。
現在の悩める学校に、それはさらに過酷さを押しつけることだと思います。

私は、学校教育と情報教育は、切り離すべきだと考えます。
学校は、教育を通じて人間を学び、個々の子供が自信と明るさと道徳を身につける場に特化すべきと考えます。そして、学校とは別に新たに情報技術を学ぶ学校の補完機関を作るべきと考えます。そこで情報技術を学び、また情報技術に溺れないためのトレーニングを学びます。

学校で使う情報技術は、教師の負担軽減にこそ活かすべきだと考えます。
今朝ふと見たがっちりマンデーという番組で、フランチャイズレストランの新たな取り組みが紹介されていました。精算は現金レス、すべて電子マネーで、従業員から金銭管理の負担を無くしていました。また調理は、セントラルキッチンで半調理された食品を、プロの料理人の調理手順を学習したAI型の電子レンジで完成させ、従業員は接客に特化するだけでよいようにシステム化されていました。
学校も、そうあるべきだと思います。
教師から事務や金銭管理の負担を取り除き、子供に向き合うことに特化できる職場環境にすべきです。

子供(だけではなく人間というもの)は、個人として認められること、そしてプラスに評価されることで、自信が育ちます。その自信が、一歩踏み出す勇気となります。またそれが教師への感謝や尊敬の念を生み出すのだと思います。
これこそ、社会が、学校が、一番大切にしなければならない事だと思います。