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映画「ナチュラル」の名台詞を、大谷翔平選手に贈ります。

大谷翔平選手が、信頼する人に裏切られ欺され巻き込まれた疑惑について、自ら矢面に立って会見を開き、大勢の記者とテレビカメラの前で、自らの言葉で、今公表できる事実をしっかりとした口調で伝えてくれました。 その会見が開かれた日、NHKシネマで野球映画の名作「ナチュラル」(The Nat...

2019年2月24日日曜日

テキストの人間化、情を通わせた物語が、平和の礎となること信じます。

米田彰男さんのエッセー「寅さんとイエス」は、忘れ難き一冊となりました。
このエッセーは「男はつらいよ」風天の寅さんの情けを通して、聖書の御言葉が語られていました。そして二千年前の人である救世主イエスを、ユダヤ教の律法でがんじがらめとなっていた市井の人々に、情けや無償の愛こそ神が尊ばれることを身を以て実践した、寅さんを彷彿させる愛すべき風天として描いていました。

そして、また一つ書き留めたい箇所がありました。転記させて頂きます。

208頁、イスラエルの歴史家イラン・パペの論文「テキストの人間化」で、『ユダヤ人の選民思想と結びついた民族主義的運動は《テキストの人間化》に反する《テキストの国家化》である』という指摘です。
『テキストの《人間化》は、何に対峙しているかというと、テキストの《国家化》に対峙している。テキストの固定化とナショナリズムは深く結びついている。国家にアイデンティティーを与えるようなテキストを固定して、その絶対性を疑うことを許さないようにしていく。国家のアイデンティティーを、固定されたテキストの語る歴史によって維持していこうとする。そういう動きがテキストの《国家化》である。
それに対し、テキストの《人間化》とは、人間を国家の呪縛から解放し、人間と人間の間に、異なった伝統と文化を持つ民族の間に、同一の歴史的事実に対して異なった歴史を語る国家と国家の間に、橋を架けることの出来るような歴史、そして物語を語れるようなテキストを生み出していくことである。』

ユダヤ人は、キリスト教が誕生して後、二千年もの間、流浪の民として苦難を強いられてきました。でもその理由の一つとして、神に選ばれた民というユダヤ人の選民思想が、融和や人間への愛を重んじる他宗教や民族との間に、軋轢を生み続けたのだと思います。

イラン・パペの指摘は、現代においてあらゆるところで見受けられます。
特に私たち日本人の火急の問題としてあるのは、日本と中国、そして日本と韓国との軋轢問題です。中国と韓国から突きつけられるのは第二次世界大戦時の日本の悪行を認めることとその謝罪です。それは「同一の歴史的事実に対して異なった歴史を語る国家と国家の間」の問題です。日本人として、日本、中国、朝鮮半島の歴史を調べると、歴史的事実が、戦後に各々の国で、変容している事が分かります。

そして、最近の韓国国会議長の天皇陛下を貶めるような暴言の後に、続く発言です。
「ドイツは第二次世界大戦時の戦争犯罪について、今もユダヤ人墓地に献花するなど、謝罪を重ねることにより、欧州連合(EU)を率いる『リーディング・ステート』(先導国家先)になった。歴史の法廷において戦争や人倫に関する犯罪は時効がない。日本も真摯な謝罪を通じて和解を成し遂げなければ『リーディング・ステート』になれない」
これが韓国のテキストの《国家化》だと思います。

韓国人から日本人に帰化された呉善花さんは著書「侮日論」の中で、朝鮮民族と日本民族の精神性の違いを「恨」と「もののあわれ」の違いと表現されていました。
『恨は、ある面では「不完全さ」や「欠如」の美意識や美学にもなります。日本でいえば、やはり「不完全さ」や「欠如」にかかわる「もののあわれ」の心が、生きる美意識とも美学ともなっているように、です。ただ、恨と「もののあわれ」は、同じ「不完全さ」や「欠如」の感覚に発しているとはいえても、正反対の作用をもった精神性です。』
また呉善花さんは朝鮮民族の反日主義、侮日について、
古代から中国皇帝の冊封国として国を維持してきた朝鮮王は、中国を華(栄華)とし、冊封関係にない国や地域は夷(未開、野蛮)とする華夷思想、中華主義に倣い、その思想や主義が広く朝鮮民族に浸透したことが根本であると書かれています。
韓国は、現在朝鮮半島に存在するもう一つの朝鮮民族の国、北朝鮮と正統な国であることを争ってきました。そのためには、反日、侮日の看板は決して下ろせないといいます。

日本にしても、「もののあわれ」はどんどん廃れ、「恨」が際立つようになってきたように思います。このままでは永久に出口のないイスラエル問題と同じになってしまいます。

日本人と中国人、そして日本人と韓国人、テキストの《人間化》、情を通わせた物語は、実は沢山あると思います。
私の物語ですが、
新婚旅行でオークランドで道に迷った際、同じアジア系の青年に声を掛けると、彼は中国人で、英語の話せない私たちを、丁寧にホテルまで案内してくれました。
次に教会での出来事です。当時通っていた教会に、韓国人の学生達が宣教活動で滞在していました。片言の日本語で話しかけてくれて、一緒に食事をしたり、ゲームをして楽しい時間を過ごしました。彼らはとても素直で素敵な若者達でした。

私以上に素敵な物語をお持ちの方は、本当に沢山おられると思います。
そういう情を通わせた沢山の物語によって、いつか国と国が、民族と民族が、相容れない過去よりも、共生する未来を選択する日が来ること、信じていたいと思います。

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