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差別の天秤

「愛を読む人」という約10年前公開の映画の、他の方が書いた映画評を読みました。 そこには私が考え及ばなかった、ハンナが隠し通した秘密についての考察が書かれいました。ハンナは文盲でした。そして、その事実を生涯隠し通しました。それは何故かです。 映画か原作小説の序章で、ハンナの...

2017年5月7日日曜日

米寿の旅立ち

連中の親が、またひとり旅立たれました。
親、という響き、そう連中の親は、わたしら連中にとって実の親に近い響きがあるのです。

満の八十八歳まで後四日だったと連中は話してくれました。
私は母親の米寿の時の事を思い出しました。
まだ存命であった兄が音頭を取り、兄弟姉妹、その子(孫)、そのこの子(ひ孫)と一統が集まって米寿の祝いをする事になりました。でも当日に母は調子を崩し、主賓不在の祝いの会となりました。でも、様々に昔話で花が咲きました。

私の父と母には、なれそめなど無かった様に思います。
父は、復員後に夫婦となった最初の妻を昭和33年のクリスマスイブの日に事故で亡くしました。五人目の子の出産時に動脈瘤が破裂して亡くなりました。五人目の子は、出産後直ぐに近所の子供のいないご夫婦に引き取られ、その後一人子として育てられました。
母は母で、長年連れ添った夫を病気で亡くします。子供がありませんでしたので、実家に戻ることになりました。
40半ばを迎えようとする子持ちの男と、30半ばを迎えようとする独り身の女、取り持つ縁があって夫婦となり、そして昭和35年の秋に私が誕生することになりました。
兄が存命中、あることに気付き、兄にたずねました。それは、父と母の婚姻が昭和35年の春であった事についてです。当時は子供が授かってから婚姻届けを出すこともままあったということで、父と母もそうであったのだろうと話してくれました。
あれから57年です。今年は、父が他界して26年が経ち、母は92歳を迎えます。

連中の父は、私の父より14歳若いので、早生まれの連中が生まれた昭和36年の冬は、まだ三十歳の若者です。おばちゃんと二人、輝いていたと思います。
昨夜、家を訪問した際、少しビールを頂いた後に、眠るおっちゃんの向こうにいるおばちゃんに思わず、なれそめをたずねてしまいました。どちらが先に好きになったの?と
軽くあしらわれてしまいましたが、でもその顔には笑顔がありました。
告別式の翌日が、おっちゃんの米寿の日です。家族で、楽しい思い出でいっぱい花を咲かせて欲しいと思います。