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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2013年9月27日金曜日

9月もいろいろありました。

9月もいろいろありました。
その中でも、一番の出来事は、耕太郎の怪我でした。
2020年東京五輪招致が決まった日の夕暮れの出来事です。夕飯の準備を手伝っていた耕太郎に災難がありました。
包丁で指を切りました。もう少しで左人差し指の腹の部分を切り落とすほどの怪我でした。すぐに救急病院に行って、縫合してもらいましたが、医者の話では、くっつくかは五分五分とのことでした。
病院からの帰り、生半可な気持ちで包丁を持たしたことの反省を伝え、また耕太郎には、刃物を持つ時は、今後決して油断してはならないことを伝えました。
刃物というのは、大変便利な道具でありますが、一つ間違えば、人を傷つけ、自分自身を傷つけます。そして進む道を閉ざす原因にもなりえます。今回も、もしかしたら満足に野球を続けられなくなるのではという恐れが少なからずありました。
でも思う以上に怪我の治りは良好で、九日目には抜糸しました。
元気で治癒力の高い体を作ってきた耕太郎に驚くと同時に、これからは、もっと注意力を養って、しっかりと生きていって欲しいと思います。

一週間前、体育祭がありました。

ちょっと油断すると、一週間はあっという間です。
そう、一週間前、松陽高校の体育祭が陸上競技場で行われました。
足の痛みが治って、久しぶりに散歩がてら陸上競技場を目指します。

到着すると、午後の部、徒競走やリレーの決勝が始まっていました。
野球部の面々が競技でもまた賑わいでも体育祭を盛り上げていましたね、
みんな格好良かったです!

今日は、ひさびさに長歩きを楽しみました。

今日は、ひさびさに長歩きを楽しみました。
日差しは強かったですが、汗を拭ってくれる乾いた秋風が気持ちよく、歩をずんずん進めてくれます。初めての道を通って平荘湖を目指しました。秋風は塵も拭い、遥か遠くの景色までもがくっきりと目に届きます。

空はどこまでも青く澄んで、
雲は雄大でした。
田は稲穂で黄金色に染まり
あぜに咲く曼珠沙華がはかなげに揺らいでいました。

平荘湖はさざなみが立ち、湖面がキラキラ輝いていました。
空に白く透明な月が浮かんでいました。

6時間の長歩きを終えて自宅に戻ると、そのままごろんと横になって昼寝をしました。
今、心地よい疲れに浸っています。

2013年9月26日木曜日

「旅人よ」歌ってしまいました・・・

朝、久々に加山雄三さんの「旅人よ」を聴きました。
私、中学校の時から、加山雄三さんの歌、好きでよく歌っていました。
そして夜、久々に「旅人よ」を歌い、ビデオ作成しました。
今、秋の夜長を楽しんでいます。
(*^_^*)

旅心を誘う風

お早うございます。
夜半から北風が強くなりましたね。昨夜の天気概要で、日本の南東海上を北東に進む台風20号が、北の冷気をともなう北風を日本列島にもたらすでしょう。と気象予報士が解説していました。
そして今朝は、気温がぐっと下がって風邪でも引いたら大変と、ちょっと心配もしましたが、外に出て風に当たってみると、それは冷風ではなく、とても爽やかで心地よい強風です。加山雄三さんの「旅人よ」の中で吹く風を彷彿し、広々とした草原や田園の中を、秋風とともに旅したいなぁ、などという衝動を覚えます。
明日は休み、久々に長歩きを楽しみたいと思います。

2013年9月24日火曜日

ネット依存の処方箋

先日、明け方までオンラインゲームに夢中になっていた息子と、ちょっとした口論になりました。
私は息子に、「お前は、心が無い様に見える」と言いました。でも、 本当に言いたかったのは、「お前は、心がどこかに囚われているようだ」です。

息子はオンラインゲームを、「これも一つのスポーツ」と言います。仮想世界に集う仲間とチームを組んで、人型マシンを操作し、敵チームの人型マシンを倒すのです。激しい光線が放たれるモニターを凝視し、インカムで仲間と通話しながらゲームパッドを操作する。経験値と集中力が勝利を引き寄せることから、「一つのスポーツ」と見なすはできます。ですが、スポーツならば節度が必要です。節度をわきまえずに行えば、それは一種の暴力です。自分自身を破壊する暴力です。
長時間、緊張状態を続けて、激しく頭と目と指先だけを酷使すれば、頭と心と体の疲労度のバランスが崩れます。バランスが崩れれば、不眠や食欲不振に陥ります。若さと、昼夜逆転しても支障が無い身分(と錯覚している)であるから、まだ保っていますが、いずれは重大な健康被害に陥ると危惧します。

そして、それ以上に危惧するのが、本当に大切な物がどこにあるのか分からなくなる事です。本当に大切な物は、生身の肉体とそこに宿る心です。ですが、ネットに繋がれ、それが常習化すれば、まるでクラウドの牢獄に心が囚われたかの様になって、ネット依存に陥ります。
ネットは、もともと自由な空間です。実態のある支配者や王が存在するわけではありませんが、もしかしたら、ネット依存の者達の崇拝や恐れが、魔物を生み出したのかもしれません。そしてまやかしの技でネットが偽りの安息地となって、心が囚われ続けるのです。

ただ息子は、オンラインゲームに夢中なだけで、それ以外、ネットに支配されることはありません。ですが現在、多くの人々がスマートフォンの浸透によって、ネットに繋がれることを強要されています。職場活動、学校活動、クラブ活動、そしてサークル活動毎に、ネット上にバーチャルサークルが作られて、そこに伝言が延々と綴られます。その伝言を常にチェックしなければサークル活動について行けず、また伝言を発信しなければサークルの中での地位が低下する、という恐れが、私たちをネットに繋ぎ止めます。

私は、声を大にして言いたい事が三つあります。
一つは、私たちの一番大切な物は、生身の肉体とそこに宿る心だ、ということです。
ネットの彼方は、虹の彼方ではありません。希望も夢も存在しない、心の安息地でもありません。そこはクラウドの世界、膨大なデータの宿る冷徹なマシンの世界でしかありません。

二つ目は、私たちは、伝える行為にもっと真摯になろう、ということです。
私たちは、伝える相手に、正確に確実に伝言内容をを伝達しなければなりません。相手がしっかりと伝言を受け取るまでが、送る者の責任と自覚しなければなりません。無責任な伝言は、相手を混乱に陥れ、いつか自身が多大な損害を被ることになる事を自覚しなければなりません。

そして三つ目は、ネット利用のルールと節度を取り戻そう、ということです。
一昔前までは、電車の中、学校、また病院などの公共の場所でのネット利用には節度が重んじられました。それが今や野放し状態です。一事が万事で、あらゆる良識や節度が瀕死の状態に陥っていまっています。私たちの社会の安定を取り戻すためにも、ネット利用のルールと節度ある利用に立ち戻らなければいけないと思います。