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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2016年5月21日土曜日

「グッドパートナー無敵の弁護士」を観て、やるせない気持ちになりました。

竹野内豊、松雪泰子W主演のドラマ「グッドパートナー無敵の弁護士」が面白いですね。毎週録画して欠かさず観ています。
最近ニュースで話題となった経営者親子の骨肉の争いや、法律を逆手にとって行われる悪事、そしてパワーハラスメントやセクシャルハラスメントという問題を、法律の力と正義心、そして人間力を駆使して解決していく様は観ていて痛快に思います。

しかし今週の第五話、ある病院に根深く巣くうパワーハラスメントとセクシャルハラスメントの問題解決は、少し後味が良くなかったです。
何人もの女性看護師を毒牙に掛けて、苦しめて退職に追い込んだ、横柄で横暴なエースドクターが病院を追い出されるところまでは良かったですが、まだこの病院の膿は出し尽くされていないのにこれで終わり? というのが正直な感想です。
この病院の本当の悪は、遂に悪事が露見して糾弾されたドクターではなく、経営者である院長です。人間失格であるのに手術の腕だけはなまじっかあるドクターの悪事を正す事無く、隠蔽し、尚且つ被害者である看護師に悪事の責任を押しつけて病院から追い出し続けてきた院長が信奉してきたのは、「大金を稼ぐ事」そして「ドクターの威光」です。口では患者の為とか、社会的責任を唱えるも、それは患者の為に献身的に働くナースやドクターを病院に繋ぎ止める鎖の呪文でしかありません。こんな院長が経営者として居座り続ける限り、悲劇はいつかまた繰り返されるのだろうな、というやるせない思いが残りました。

それは、安全や高品質、高性能という神話にあぐらをかいて、いつの間にか厚顔無恥になりさがってしまった大企業の経営者や首長、政治家の顔を見る度に、募る思いと同じです。

最近、社会不安を引き起こした企業が掲げている、企業理念・経営理念を調べてみました。
三菱自動車は、ホームページ
http://www.mitsubishi-motors.com/jp/corporate/philosophy/philosophy.html
で、顧客第一主義を掲げ、顧客に満足と安心と価値を提供し続ける事を唱えていました。
また三菱自動車は、2001年10月に過去のリコール問題を踏まえて「三菱自動車企業倫理」という文書を公開していました。
http://www.mitsubishi-motors.com/jp/social/csr/pdf/rinri3.pdf

東洋ゴムは、ホームページ
http://www.toyo-rubber.co.jp/company/vision/
で、独自の技術を核として新たな価値を創造し、人と社会に求められる企業であり続けることを唱い、また断熱パネルの性能偽装が明るみになった後の2012年12月に行動規範を公開していました。
http://www.toyo-rubber.co.jp/pdf/news/2012/121227_pdf02.pdf

両社が肝として掲げているのは、「顧客第一主義」と「法令遵守」ですが、それが形骸化されてしまっていたことは明らかです。さらにいえば、企業の一番の財産でありファン(一番の顧客といっても過言ではない)であるべき従業員や子会社、関連会社、下請け会社について言及した見解が何ひとつ書かれていない事にも注目しなければいけないと思います。

すこしステレオタイプな意見となりますが、創業者経営者の場合は、ワンマン経営に陥りやすいものの、良いも悪いも責任の所在はハッキリとしています。しかしサラリーマンが企業のトップに登り詰める場合、その人物の経歴と実績に加え、社内力学の精通と世渡りの巧さが必要です。平たくいえばどの派閥に入るか誰に組するかという事です。そしてめでたくトップに登り詰めてからも保身のために派閥を優遇し、たとえ企業にとって必要な人物であったとしても、それが敵対する派閥に組する者であれば冷遇する。そこには「顧客第一主義」とか「法令遵守」とか、さらに言えば「従業員や子会社、・関連会社・下請け会社を守る」という信条を差し挟むスキなどありません。

詐欺や横領まがいな行為に耽る東京都の首長や、選挙時の平身低頭とは一転して厚顔無恥に変貌する政治家などはなおさらです。憲法は彼ら権力者の行動規範となるものですが、違反した場合の罰則規定がありません。法律家でもある彼ら権力者はその点をよく承知しているのです。さらにいえば、権力者や有力者の力、政党の力によって、崇高な目標もなく公僕としての矜持もなく、意地も無く責任もない者が政争の道具として民意とかけ離れたところで選ばれて政治家になるのです。そんな彼らが免罪符となる議員バッチを手にすれば、どうなるか火を見るよりも明らかです。彼らが利殖に耽り、権力を乱用し、悪行に手を染めるのも致し方ないのかも知れません。そして有権者である私たちにも大いに責任があります。権力者や有力者に大変弱いのです。彼らを頼ろうとする下心があるから彼らの好き勝手を黙認してきたのです。それは子供時代に学ぶ道徳や躾とは真逆の行為です。私たち大人と称する者が、子供に対し「これはしてはならない」と言葉にする行為を舌の根が渇かぬ内からしているのです。

アメリカには国軍以外に州軍が存在します。州軍は日本の自衛隊の様に災害救助や治安維持という役割の他に、日本には無い役割が合衆国憲法で認められています。それは政府が独裁化したり国民に刃を向けた場合に、国民が集結し武器を取って政府と戦うための軍隊という役割です。目には目というのは前時代的な行為ですが、国民にとって憲法が無力化されて生命が脅かされる様な非常事態が訪れた時、最後の戦うという選択が残されている事は、権力者の暴走を抑止する事に繋がると考えられます。
日本の、特に自由民主党の政治家や支援者たちは憲法改正を党是として唱えますが、私も憲法改正には賛成です。ただし、その改正は権力者の行動規範に対しての罰則規定の明記です。
国のトップの権力者が、憲法という行動規範を厳粛に受け止めながら、公約を果たすために日々努力する姿こそが、今この国に蔓延る様々な不正を正していく端緒となるのだと思います。そうして公約を成した権力者が心から国民の尊敬と賞賛を受ける時、この国は、本当の正しい国へと生まれ変わるのだと思います。その時、私のやるせない気持ちが解消されるのだと思います。

2016年5月18日水曜日

コンピュータのプログラミング教育必須化に『反対!』です。

昨日の読売新聞に掲載された社説です。
以下、引用掲載させて頂きます。

***
題:プログラミング 必須化を想像力育てる一助に
読売新聞 平成28年5月17日(火)朝刊社説
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20160516-OYT1T50131.html

 子供たちの論理的な思考力や創造力の向上につなげることが大切だ。
 文部科学省が、コンピューターのプログラミング教育を必修化することを決めた。2020年度から小学校で実施するのを手始めに、21年度に中学校、22年度には高校で順次必修化する。
 自分の思い通りになるソフトウェアを作り上げるのが、プログラミングだ。画面上でキャラクターの動きを操ったり、ブロックを積んだりと、ゲーム感覚で楽しめる子供向けの教材も多い。
 小学校では、理科や総合学習などの授業で取り入れられる見通しだ。プログラミングに親しみながら、年齢に応じて高度化していく工夫が求められよう。
 茨城県古河市や佐賀県武雄市などでは、企業やボランティアの協力で、既に小学校でプログラミング教育に取り組む。自ら学ぼうとする意欲が高まるといった効果が報告されている。
 授業内容の検討を始めた文科省の有識者会議は、こうした先行事例を参考にすべきだ。
 中学では、技術・家庭で教えている簡単なプログラミングを、より充実した内容にする方向だ。高校では選択制を必修に改める。
 プログラミング教育への関心は、急速に高まっている。政府の産業競争力会議も、成長戦略のメニューに盛り込んだ。
 スマートフォンをはじめとする電子機器は、プログラムによって制御されている。家電製品の節電機能や電車の運行管理など、プログラミング技術は、日常生活の隅々にまで浸透している。
 子供たちが早い時期からプログラミングになじむことで、IT分野で世界的に活躍する人材の輩出も期待できるのではないか。
 海外では、多くの国がプログラミング教育に力を入れている。イスラエルでは00年から高校で必修化され、英国でも、14年から5歳以上のすべての子供が学ぶ制度が導入された。いずれも、産業力の強化を念頭に置いている。
 オバマ米大統領は今年1月、コンピューター科学教育に40億ドル(約4400億円)を投じると表明した。グーグルなどの情報関連企業も、無料で利用できる教育向けサイトを開設するなど、人材育成を後押ししている。
 教師がいかに知識や技術を習得するか。必修化に向けた日本の最大の課題だろう。IT企業やNPOが手がける講習会などは多い。民間の知見を活用し、教師のレベルアップを図りたい。
***

私は、コンピュータのプログラミング教育必須化に『反対!』です。
プログラミングとは、コンピュータのプログラムを作成することです。
プログラムとは、コンピュータに情報処理を行うための動作手順を指定するものです。
プログラミング教育とは、平たくいえばコンピュータを動かすための技術教育です。
①コンピュータを動かす目的に応じた手順を作成し(基本設計、概要設計、そしてプログラム言語に応じた詳細設計)、
②プログラム言語でコーディングしてプログラムを作成し(プログラム製造、バグ修正)、
③コンピュータを正確に動作させる(単体テスト、総合テスト、本番移行)
までの一連の手順と技術を学ぶ教育です。
私は、”IT分野で世界で活躍できる人材を輩出する”とか”論理的な思考力や創造力の向上を育む”ためとかの教育をコンピュータに特化して行うことに反対なんです。
さらにいえば、コンピュータに特化することでコンピュータという制約に阻まれて、自由な発想力や想像力が制限されてしまうことを恐れます。

子供たちには、ある固定した目的物のための論理的思考や創造力を学ぶまえに、好きな事柄や興味を持つ事柄、そして普段の生活において、さらに活き活きと向き合い行動できるように、発想力や想像力を豊かにすることこそ重要だと思います。
発想力や想像力を豊かにするための学びのもとは、身の回りすべてにあります。学校の教科がそうですし、読書や音楽観賞、美術や写真・映像観賞、自然に触れ合う事、運動する事、家事一般もそうです。

たとえば・・・『洗濯をする』という事を考えてみましょう。
目的は、汚れ物を洗濯してきれいにすることですね。
そして、一般的な行動は、
①洗濯機に汚れ物を入れて、
②洗剤を入れて回し、
③洗濯が終わったら取り出して干し乾かす
まぁその後は取り込んでたたんでしまうと続くわけですが・・・
③をもう少し発想力と想像力を豊かにして考えてみると

洗濯機から洗濯物を取り出す時、無造作に洗濯カゴにそのまま入れてしまうと、後干す段になって洗濯物がこんがらがって干しにくいですよね、というのが想像です。
そして発想ですが、洗濯カゴに入れる前に、
・バスタオルなどの大物と、衣服は一枚一枚裏表を正して、またタオルと下着も別々に、仕分ける
・そして干す順番を考えて洗濯カゴに入れる
後の洗濯物を干す時間が短縮できるというよりも、洗濯物を干す時のイライラが無くなります。毎回手際よく干す事ができる。これが強いては時短につながるかもしれない。ちょっとした手間をかけることで、後々の作業が効率よく行えます。

また洗濯竿の準備ですが、そのまま野外に放置したままにしておいたとすると、前夜雨が降って濡れているかも知れない。すると、洗濯物をそのまま干すと汚れが付いてしまう。そのために濡れた洗濯竿を洗濯物を干す前に、水滴を拭き取らなければならない、これが想像です。
そして発想ですが、ならば毎回洗濯物を干した後は、軒先の雨のかからない場所に洗濯竿を取り込んでおくことです。そして、早く乾かすためには、太陽の軌道を考えて、干し場をあらかじめ陽の当たる場所に変えておく事です。想像力と発想力が、洗濯物を効率よく乾かす事に繋がるのです。

いかがです?
想像すること、発想すること、そして行動すること、それがルーティーン化できれば、そして、少しずつ見直し良くしていく事が出来れば、たとえちっさい事柄でも自分に自信を持つ事ができます。ちっさいことを積み重なれば、それが大きな事柄に繋がることになるかもしれない。それが苦も無く行える体質こそが、生きる力となるのではないかと思います。

2016年5月15日日曜日

CorelDrawで、デザイン制作の練習を始めました。

平成23年10月22日(土)に記した「スティーブ・ジョブスのセンス」というタイトルの記事でも触れましたが、1996年6月のある日にプレゼントされたCorelPhotoPaintが、私が写真のコラージュ制作にはまっていく切っ掛けとなりました。

記事タイトル:スティーブ・ジョブスのセンス
https://harimanokuni2007.blogspot.jp/2011/10/blog-post_22.html

あれから20年を迎えます。写真のコラージュを制作するのに用いるソフトウェアCorelPhotoPaintは、だいぶ熟れて使えるようになりました。1990年代の後半は、デジタルカメラの雑誌デジキャパ!が創刊されて、その中で開催されるフォトコンテスト、コラージュ作品コンテストでよく腕試しをしました。何回か賞を戴き、作品が雑誌に掲載された事もありました。当時コンテストの審査員をされていたプロカメラマン安孫子卓郎さんとは後年Facebookで再会し、現在はFacebookの友人として繋がりを持たせて戴いています。

当初、CorelPhotoPaintとCorelDrawは別々のソフトウェアとして販売されていましたが、何度目かのバージョンアップからGraphicSuiteとして統合されまして、CorelDrawも使える環境となりました。ちなみにCorelのGraphic制作ソフトは、当時からGraphic制作ソフトの主流であったAdobePhotoshop/illustratorがまだAppleコンピュータ上でしか使えなかった頃から、Windows専用のGraphic制作ソフトとして提供されていました。
CorelPhotoPaintは、AdobePhotoshopと同種の画像データ(ラスタ画像)を編集加工するソフトウェアで、CorelDrawは、Adobeillustratorと同種の線と点で構成されるイラスト(ベクタ画像)を制作、編集加工するソフトウェアです。

CorelDrawは、これまでドキュメントのレイアウトを制作するためには使っていましたが、イラストを制作するというチャレンジはまじめにトライはしてきませんでした。でもある人からクラウドワークスという仕事紹介サイトを教えて貰い、数多くのフリーランスが仕事を求め仕事に励んでいる事を知りました。今、私がこのサイトでできる事といえば、カメラ撮影か写真加工、その他簡単なWebサイト制作です。折角CorelDrawが使える環境があるのだからと、それから仕事に対応できる間口を広げる為にイラスト制作を一から学び始める事にしました。
でも、使っているCorelDrawはずいぶん前のバージョンで、マニュアルもいつの間にか処分してしまっていたために、テキストがありません。それで本屋や図書館を巡りましたがCorelの教本は一冊も見つかりません。それではと、図書館でAdobeillustratorの教本を借りました。そしてillustratorで制作するイラストの操作手順を、試行錯誤しながらCorelDrawの操作手順に焼き直しイラスト制作を行う事にしました。難しいですが、でも常に発見する事ばかりで、楽しんで学んでいます。
今、「IllustratorJapanMethod」という和のイラスト制作教本をテキストにして、イラスト制作を学んでいます。試行錯誤の上、一つのイラストが出来上がるのが楽しくて続けています。



オバマ大統領が、広島を訪問される事が決まったそうですね。

オバマ大統領が、伊勢志摩サミット出席後、その足で広島を訪問される事が決まったそうですね。とても印象的な出来事になる、そう思います。
日米は、広島と長崎の原爆投下の出来事について、正反対の見解に分かれます。
米国では、太平洋戦争で犠牲となる米国の兵士をこれ以上増やさない為に、戦争を終結させる。原爆投下はその為の必要な行動であったとする見解が小学生の歴史で教えられています。これが一般的な米国人の見解ともなっています。
しかし、日本は複雑です。日本は、広島と長崎に原爆が投下されてから約一週間で無条件降伏を受け入れます。しかし、広島、長崎以外の多くの都市も絨毯爆撃によって破壊尽くされ、たぶん当時の感覚では広島も長崎も破壊された都市の中で特別ではなかったと思います。それほどまでに日本の隅々の都市が破壊尽くされ多くの民間人の死者が出ました。そして終戦を迎えた生き残った人々は、進駐軍を受け入れた。占領によってもたらされる平和を受け入れたのです。酷い戦争が終わった事がただただ一番であったのだと思います。
そして日本は国として戦争の総括をしないままに、米国主導の自由民主主義国家としての再建を歩み、米国の安全保障の傘の下で、一時は米国と並ぶ経済大国までに躍進しました。戦後の日本人にとって米国人は戦争で戦った鬼畜米兵というよりも、再建の師であり、また平和を与えてくれる主人の様な存在であったかもしれません。しかし、日本人が経済大国という自信を持ってからは、米国人は友人となり、ライバル、あるいは口うるさい目の上のたんこぶの様な存在に変わっていったのだと思います。
そして同時に、日米で冷静に戦争を検証する作業が行われる様になりました。そこには、日本人が許せない事実もありました。それは日本が戦前に米国の思惑によって孤立化を深めてしまった事や、原爆投下が戦争終結よりも原爆の人体実験であったり、戦後脅威となるソ連への牽制であったりという事実の報告です。
広島や長崎の人々については、戦後しばらくは原爆の直接的な被害から放射能の後遺症、そして風評被害に苦しめられたのではないかと想像します。まだまだ日本人には問題を直視するよりも隠そうとする悪癖が強かったのだと思います。しかし、そんな悪癖も徐々に改善されてきました。現在では、弱者救済や災害などの被害者に寄り添い無報酬で奉仕するボランティア精神が広がってきました。
そして日本人は、様々な思想を持ち、自由に発言する様になりました。
今回のオバマ大統領の広島訪問について、謝罪を求める声も出てきました。しかし、それは米国合衆国として原爆投下は間違いであったと認める事であり、決して米国合衆国政府が認める事はありません。またこの事で、日米の国民が相手に新たな憎しみを募らせたり、亀裂や溝を生じさせては決してならないと思います。

オバマ大統領は、アメリカ合衆国大統領に就任した2009年に訪問したチェコ共和国プラハにおいて、核保有国の大統領として歴史的な核廃絶の演説を行いました。しかし、その後の世界は、非自由民主主義の大国であるロシアや中国の台頭、中東諸国の独裁国家破綻から始まる混迷とテロリズムの躍進、そして自由民主主義国家の中の極端なナショナリズムの台頭が始まり、日米にとっても新たな安全保障上の脅威となってきました。そして核についても、廃絶は進まず拡散の脅威が広がりつつあります。
そんな時節であるからこそ、オバマ大統領の広島訪問は、大変な意義があると思います。人間が起こした数々の戦争の中で、そして戦争で使われた兵器の中でも、最強で最悪な兵器の一つである原爆が実際に使われて大被害を被った二つの都市の一つである広島に、その原爆を使った国の70年後の大統領が訪問して、核廃絶を新に宣言すると共に、世界中の人々に、戦争の人を殺し国を滅ぼす兵器が招く苦痛を知らしめると同時に、平和を作る事の大事さ素晴らしさを発信してもらえるとすれば、それは大変素晴らしい事だと思います。また、そうである事を心から願います。

最近、ラ王担々麺を美味しく作る事覚えました。

日清ラ王、生麺の様な食感で即席麺の常識を覆したラ王袋麺の中の担々麺を美味しく作る事を覚えました。
初めてラ王担々麺を作った時、他の即席麺と同じようにスープの素を溶いたスープを麺が隠れるほどにラーメン鉢に注いでいました。これだとどうしても辛みが薄れてしまうんですね。でも、その作り方が常識と思っていましたのでこんなものかと諦めてもいました。でも最近流行のつけ麺を見て、ピンときました。常識と思っていた事を取り去ってしまえばいいのだと。
そして好きに味付けする事にしました。
まずスープですが、袋麺に付いているスープの素に、豆板醤、日本の味噌それぞれをスプーン小さじ1杯程度加えます。それを少量の熱湯で溶かします。これでさらに辛みと深みのあるスープの出来上がりです。
そして麺、たっぷりの湯で茹で、少し固めで取り出して、先に用意した濃いスープの中に入れまして、麺が浸るか浸らないかのころ合いまで熱湯をたして薄めます。少ない位の方が丁度良いです。
そして具材はシンプルに、細切りにして具入りラー油で炒めた牛肉と、茹でたモヤシ、シメジ、刻みネギをトッピングして、最後に胡椒を数回振り掛けたら完成です。
つけ麺感覚で、濃いスープを麺に絡ませ食しますと、辛み一杯、旨味一杯の担々麺が楽しめます。店で食べる担々麺にそうそう引けを取らない、そう自負する一品です。
今日の昼も、家族で食しました。スープも何もかも食べきって空となった鉢を見るのは幸せです。(でも、高血圧の人(私ですが)には勧められない一品かもしれません。)

「フォースの覚醒」、観ました。

昨年末に公開されたスター・ウォーズ エピソード7「フォースの覚醒」(STAR WARS: THE FORCE AWAKENS)をTSUTAYAでレンタルして観ました。
今作品は、初期三部作(ルーク・スカイウォーカー三部作)の主要な登場人物、ルーク・スカイウォーカー、ハン・ソロ、レイナ姫が揃い踏みで登場するということで、年を経た彼らに会うのが楽しみでした。それに観終わった感想ですが、前三部作(アナキン・スカイウォーカー三部作)があまりにもフルCGにこだわっていたために、それが食傷気味に感じましたが、今作品では実写の絶景や実物大のミレニアム・ファルコン、Xウィング・スターファイターが登場する場面が多く、生身の役者がCGの制約を受けずに活き活きと演じていたところが非常に良かったです。

物語は、どこか初期三部作を彷彿させる内容でしたね。冒頭のシーン、今作品から登場したドロイドBB-8にルーク・スカイウォーカーの居場所を記す地図を隠して逃がすシーンは、エピソード4の冒頭シーン、R2D2にデス・スターの設計図を隠して逃がすシーンを彷彿させます。そして何よりデススターの再来であるスターキラー基地でのハン・ソロとその息子でダークサイドに取り込まれたカイロ・レンとの対面では、エピソード5のクライマックスシーン、ルークとその父ダース・ベーダーとの対決シーンを思い出しました。ここでハン・ソロが息子のライトセーバーに貫かれるなんて思いもしませんでした。ハン・ソロがエピソード1のクワイ=ガン・ジンの様にあっけなく物語から退場してしまうのは残念です。是非次回作で復活登場してくれること期待したいと思います。

そして新三部作(レイ三部作)の主人公となる少女レイ、今作品でカイロ・レンよりも強いフォースを覚醒させますが、しかし、レイが誰なのか明かされず、またレイの秘密も明かされないままでした。勝手な想像ですが・・・レイは、もしかしたらルーク・スカイウォーカーの娘かもしれません。その場合、誰がレイの母なのか?そこが今後の楽しみです。そしてもう一つの可能性ですが、それを調べるためにGoogle検索しました。ルークとレイアの父であるアナキンのその母について検索してみました。名前はシミ・スカイウォーカーと言うんですね。シミがアナキンと別れた後、再婚して弟か妹を産んだというエピソードがないかを知りたかったんですが、それ以上に驚愕の事実(架空の事実)を見つけました。シミはフォースによって処女懐妊し、アナキンを身ごもったと書かれていました。とするとアナキンの様な特別な存在は、物語中二人と出てはこないでしょう。すると最後の可能性は、アナキンの妻であったアミダラ姫は三つ子を産んだ?ということではないでしょうか。どっちにしても、スター・ウォーズはスカイウォーカー一族の物語という側面もありますから可能性は高いのではないかと思います。

最後に、苦難の末にルークの居場所を記す地図を見つけたレイナ率いるレジスタンスは、レイにルークを見つける大役を与えます。レイはミレニアム・ファルコンの新しい船長としてチューバッカと共に遥かな宇宙にある惑星を目指します。海原に城壁を思わせる断崖の島が見えてきます。レイはひとり崖を登りその頂上に辿り着きます。そして、フードを被った白髪と白髭の老人ルークと対面。エンドクレジットが流れます。

実際、今作品を観るまでは、あまり興味はありませんでした。初期三部作をワクワクして観た世代からすると、前三部作はCGによる映像の進化ばかりに目が行って、生身の役者が演ずる登場人物に感情移入し辛い作品でした。また、主旋律のダース・ベイダー卿誕生の物語も陰鬱で、全く希望が見いだせませんでした。なにより、映画作品しか観ない者には、映画作品が描く時代を繋ぐ物語として描かれたアニメやノベルで描かれた物語を知らない為に、ついて行けないところがありました。
でも今作品、新三部作の始まりは、懐古趣味と揶揄されてもいますが、その懐かしさが物語を身近なものに感じさせてくれました。次回作、楽しみになりました。