ヨハネによる福音書9章41節
イエスは彼らに言われた。「もしあなた方が盲目であったなら、あなた方に罪は無かったでしょう。しかし、あなた方は今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなた方の罪は残るのです。」
イエスの時代、ユダヤ人社会では盲人の様な障害を背負って生まれた人たちは、何かしらの罪を神が下した人という罪人扱いを受けていた様子です。その盲人が、イエスの奇蹟の業で眼が見える様になりました。その奇蹟の業が行われたのは安息日でした。安息日はモーセ戒律で一切の労働をしてはならない日と定められていました。
イエスが奇蹟の業で盲人の目を開いたという噂を聞きつけた、ユダヤ人社会の権威主義者や厳格な戒律主義者は、安息日に神の業を行ったと噂されるイエスをユダヤ人社会を乱す不届き者、憎むべきたかり者と見なします。そして、イエスの業で目が開かれた人を教会堂に呼び出し、イエスの業は偽りであったと告白する様に迫ります。しかし、その人は同意せず、イエスの業は本物であると主張したために、教会堂から、ユダヤ人社会から追放されました。
イエスは、追放され途方に暮れていた人の前に現れ、神の力であなたの目を開いたのは私であると告げ、その人はキリストの救済と信仰を信じると告白し、キリスト者となりました。
そして、章の最後の御言葉41節です。
この御言葉を、私は次の様に受け取りました。
救いを求めて謙虚に悔い改められる者は、救世主(キリスト)の導きによって罪が許され、神の国に入ることが出来るが、しかし、救世主を信じず、敬いもせず、己こそ正しいと主張する傲慢で真実を見出すことが出来ない者は、いつまでも罪人のままで、神の国に入ることが許されない、と。
私たちの今の時代、己が正しいと主張し、デモクラシー下での自由を身勝手な自由と履き違えて、身勝手な行動に走る者、他人をおとしめる者、傷つける者、盗む者、奪う者、欺す者、殺す者、そして、法律でさえ身勝手に解釈して歪めてしまう者等々、傲慢な無法者で溢れかえるようになりました。
残念なことですが、こうなるのは必然であった様に思います。それは、日本だけでなく近代デモクラシーが興った欧米社会も同じで、近代デモクラシーの根幹となる思想『人権を尊重する』の心の教育がおざなりとなって、富を獲得することが最上とする教育に傾斜してきたことが原因だと思っています。
人権を尊重することは神の戒めであり、それを守ることは、自らが心に決めて行う遵守です。しかし富を最上とすることは欲望であり、それに付き従うことは、自らの心を無くす服従でしかありません。
服従に身を任すことは大罪であることを、私たちは自覚し、自戒し、心が救済されるように『人権を尊重する』という思想の遵守に立ち返らなければいけないと強く思います。