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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2023年11月7日火曜日

風に立つライオン

 お願いだから幸せになってください。


2015年に公開された日本映画「風に立つライオン」を観ました。

アフリカ、ケニアの風土病を研究する長崎大学の現地研究所に二年の任期で赴任した日本人医師が、赤十字の要請で短期間、ケニア・ロキチョキオにある赤十字戦傷病院に医師して派遣されます。

そこは平和日本で育った日本人には別世界でした。

兵士に守られた赤十字戦傷病院には、毎日、銃や爆弾、地雷による殺し合いの中で、瀕死の重傷を負った大人の兵士、子供の兵士がトラックに山ほど積まれて運ばれてきます。医師は懸命に治療を施しますが、命を繋いだ人たちの多くが手足を失うことになります。兵士となった人たち、子供たちは、親や家族を虐殺された上、連れ去られて殺戮する側の兵士に仕立て上げられた人たちです。麻薬漬けにされた人たちです。そして彼らには行く当てなどありません。ですから、治療を終えた彼らの帰るところは殺戮場しかありません。


戦傷病院での活動を終えた日本人医師は研究所に戻りますが、短い間でしたが生活を共にした少年兵士たちへの思いが、どんどんと心に重くのしかかっていき、朗らかだった彼の顔を曇らせていきました。彼は夜になる度に、静まったアフリカの大地に立ち「頑張れ、頑張れ」っと自分を鼓舞しました。そして遂に彼は、再び戦傷病院に赴く事を決意します。


彼は二年の任期が過ぎても、戦傷病院に留まり、マザー・テレサ終末病院からこの戦傷病院に派遣されてきた日本人看護師とともに、元少年兵の子供たちが生きる希望を見つける為の、安全と学習を提供する孤児院を設立します。


麻薬の禁断症状、家族を虐殺された記憶、自分が人を虐殺した記憶に重度に心を病んだ子供たちも、日本人医師の自分たちへの献身に心がほだされ、いつか日本人医師に懺悔し、未来への希望を口にするようになります。日本人医師は、ひとつひとつ自分の思いが叶えられていく悦びを見いだします。

しかしそれが彼の命を縮める事に繋がりました。医師としても自分の思いを叶える為に彼は戦傷病院の外の村々まで訪問診療を始めるようになります。そしてその道中でゲリラに襲われ、撃たれ、命を落とします。


日本人医師には、アフリカへの二年の赴任が決まった時、結婚を申し込んだ大学の同級生の女性医師がいました。二人は相思相愛でしたが、彼女の方には、過疎地で診療所を続けてきた父の後を継がなければならないという責任がありました。そのために彼女は結婚の申し入れを受け取る事が出来ずに、二人は別れることになりました。

そして二年が過ぎて、彼女は過疎地の村で地元の働き者の若者と結婚をすることになりました。彼女は、遠いアフリカに赴任したまま帰ってこない日本人医師に、結婚をすることを告げる手紙を書きました。

その手紙を受け取った日本人医師は、何日も考えて、ようやく返信の手紙を書きました。その手紙が彼女の元に届いたのは、彼が死んだという連絡があった数日後でした。その手紙には、とても短い一文だけが書かれていました。


「お願いだから幸せになってください。」


end


「お願いだから幸せになってください。」は、日本人医師が思いを寄せるすべての人たちに向けた祈りの言葉であった様に思います。それは、愛する彼女への思い、病気に苦しむ患者への思い、患者に寄り添う家族への思い、そしてアフリカ・ケニアの最果ての地で出会った傷ついた元少年兵の子供たちへの思いです。そして彼は、その思いを叶えるために、献身的に働きました。


この物語「風に立つライオン」は、さだまさしさんの創作ですが、この物語の主人公日本人医師と同じ九州大学医学部出身で、実際にアフガニスタンで数十年にも及ぶ医療活動と共に、貧困の本質的な問題を解決する為に用水路建設に自ら陣頭指揮にたった中村哲医師の事が思い出されました。中村哲医師は、アフガニスタンの荒野に暮らす多くの貧困にあえぐ人々の本当の友人になった日本人ではないかと思います。そんな中村哲医師も2019年にゲリラの凶弾に斃れました。


今年生誕100周年を迎えた作家遠藤周作が、晩年となる1993年に発表された「深い河」でテーマとされた旧約聖書イザヤ書第53章3-4節の句を思い出します。


彼は醜く、威厳もない。惨めで、みすぼらしい

人は彼を蔑み、見捨てた

忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる

まことに彼は我々の病を負い

我々の哀しみを担った


イザヤ書は、ユダ王国後期に、預言者イザヤがユダヤ民族の救世主到来を預言した書と伝えられています。そして、イザヤが預言をしてから約8世紀後に、古代ローマ帝国の属州となっていたユダヤの地にイエスが現れました。イエスは、まさにイザヤ書で預言された救世主像でありました。当時においても、見捨てられた人々、貧しき人々、虐げられた人々にイエスは寄り添い、心と体の救済に尽くしました。それがためにユダヤ教の権威を重んじる祭司長や法学者から目の敵にされ、遂に死刑の冤罪を告発され十字架の刑に処せられました。


そして私は一つ確信を得ました。

この世界の痛みは、暴力では正せない。何故なら暴力は痛みを広げ深めるばかりだからです。そして、この世界の痛みを癒やす為には、暴力を捨てて、痛みに苦しむ人に「お願いだから幸せになってください」と心から祈り、痛みに苦しむ人々が生きる希望を見出せるために献身的に寄り添い支える事しかないという事をです。


私たちは暴力の脅威に晒された時、その脅威に対抗するために、抑止力となる暴力で身を固めます。その抑止力が脅威となる暴力を超える時、立場は逆転します。暴力を止めない限り、双方が滅びるまで続く事になるでしょう。

では暴力を手放せば、どうなるでしょうか?ほとんどの人間は同じ想像の元に暴力を手放すことは出来ないでしょう。

でも聖者は、暴力を手放して、慈愛と献身に身を捧げました。そして、その結果はどうなったでしょう。聖者は命は奪われましたが、聖者の遺志は、広く深く後に続く多くの人々に引き継がれていきました。

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