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差別の天秤

「愛を読む人」という約10年前公開の映画の、他の方が書いた映画評を読みました。 そこには私が考え及ばなかった、ハンナが隠し通した秘密についての考察が書かれいました。ハンナは文盲でした。そして、その事実を生涯隠し通しました。それは何故かです。 映画か原作小説の序章で、ハンナの...

2017年12月4日月曜日

鶴橋

夕刻、司馬遼太郎記念館を出た後、最寄り駅の八戸ノ里駅には行かずに、近鉄奈良線と平行して鶴橋を目指して歩きました。大都会だから一本の道で通じるだろうという当ては見事に外れ、暮れゆく見知らぬ町の繁華街から街灯の少ない古い町並みの中、路地、運河の縁、倉庫街、そしてちょっとディープな界隈を彷徨うことになりました。
そして日がすっかり暮れた頃、焼き肉の旨垂れや油の焦げる、なんとも腹に堪える匂いが近づいてきます。そして、また路地に入っていくと鶴橋の超猥雑な世界に入りました。
こんなに活気のある場所は初めてでした。昔大阪に15年いましたが、鶴橋を歩いたことはありませんでした。狭い路地の両側に無数の露天の様な店が軒を並べ品物が路地にまで溢れています。雑貨から韓国惣菜、食べ物屋が混雑し、その迷宮の様な路地にありとあらゆる人が集まってきている様に思いました。その中で日本語と韓国語が飛び交っていました。一日の行軍ですっかりヘトヘトとなりすぐに電車に乗ろうかと思いましたが、空腹は押さえられず、一軒の惣菜店の中のテーブルに着きました。韓国ラーメンとみやげに韓国海苔巻きを三本注文しました。店のおばちゃんたちは常に笑顔を絶やさずに動き回っていました。韓国ラーメン、スープのあまりの辛さに何度も咳き込んでしまいました。でも付いていた海苔巻きも、キムチもとても美味しかったです。
ここには、今を生きるという活気と熱気が溢れていました。ほだされました。

赤ひげ診療譚、電車の中で読み終えました。

この秋、NHKの金曜時代劇で始まった「赤ひげ」、重厚な筋立てに、毎回一時間ドラマとは思えないほど感慨を覚えます。特に第三話「最後の告白」では、衝撃的な結末にしばらく言葉が出ませんでした。

山本周五郎といえば時代劇には切り離せない作家です。そして、これまで山本周五郎原作の時代劇は星の数ほど見てきました。でも原作本は一冊も読んだことありませんでした。私にとっては時代劇=山本周五郎であり、きっと近松門左衛門と同じく江戸時代の人の様に思っていました。そんな話を妻としていると、妻は学生時代にゼミの先生が山本周五郎のファンで、それがきっかけで何冊か読んだことがある。そして赤ひげの原作小説も持っていると話します。それで年季の入った「赤ひげ診療譚」を手にすることになりました。
「赤ひげ診療譚」は、山本周五郎55才、昭和33年の作品でした。今から60年前です。当時から見ても江戸の時代は90年も昔です。でも、お祖父さんたちは江戸時代を生きた人もまだいたんでしょうね。ですから、山本周五郎にとって江戸時代は、素描できるほどに身近な時代であった様に想像します。

そして最終章「氷の下の芽」に、この連続小説の骨子であろう文を見つけました。
赤ひげこと新出去定のもとで医者の本分を学ぶ保本登が心の中で聞いた声です。

罪を知らぬ者だけが人を裁く
罪を知った者は決して人を裁かない

罪を憎んで人を憎まず、そして人を許し助けることは、とても難しく、その行為はほとんど徒労に終わってしまう。それでも仁に尽くすことで、世界が少しでもよくなると信じよう。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に通じる感慨を覚えました。

古い友だちが逝きました。

土曜日、友だちの奥さんの名前で喪中はがきが届き、裏面を読むと友だちが11月19日に亡くなったと書かれていました。
最後に顔を合わしたのは、25年前、私が結婚したての頃に家族で家に遊びに来てくれた時でした。以後、年賀状だけのやりとりとなっていました。今年の年賀状の裏面の下に、自筆で「また会いたいね」と書いていました。その言葉が妙に残っていました。

すぐ電話を入れようとしましたが、控えていた番号は現在使われていませんでした。それで、もう一人の古い友だちに電話を入れました。もう一人の友だちは通夜に行ったこと、そして亡くなった友だちが、きっと病床でのことでしょう。奥さんに「俺は先に絶対死なへん。(もし奥さんが先に死んだら)若い奥さんをもらうん」とほたえていたと聞きました。亡くなった友だちもその奥さんももう一人の友だちも、皆1983年に新入社員として入社した同期です。ですから若いときのふざけあっていた思い出がぱっと蘇ってきました。

そしてなんとか電話番号を調べて、奥さんに電話を入れ、日曜日に線香を上げさせてもらうことにしました。
二人の子どもはすっかり美男美女の大人になっていました。しばらくして友だちの両親と弟家族がきて、お経の供をさせてもらいました。その後、またしばし談笑しお暇しました。

友だちは3月に病気が分かり、闘病に入るも早くに脳に転移し、体に不自由を抱えることになった様子です。食事もなかなか自力でとれなかったでしょうし、家族とのコミュニケーションも難しかったと想像します。闘病を支えた奥さんをはじめご家族の負担も相当であったと思います。でも、奥さんはさらっと話し、「良い夫やった?」とのたずねに「そうやね」と応え、そして29年間の結婚生活はとても濃く、29年しかなかったとは思えないと話してくれました。遺影のポチは少しぽっちゃりとしていましたが、若かりし頃と変わらぬ、はにかんだ笑顔をたたえていました。

遠国の友へ
亡くなる前に行ってくれ
会いに行くから
心の中で空しくこの言葉を唱えました。

司馬遼太郎記念館で珈琲を飲む

昨日夕方、はじめて司馬遼太郎記念館を訪れました。
展示室で展示物を見、ホールで映像を観た後、館内のカフェで珈琲を飲みました。そして思いを馳せました。大書架は、まるで伽藍や廟の様であったなと。
瞑想には適した場所です。ですが伽藍や廟の装飾品である彫刻や絵画であれば、たとえ触れることができなくても、見るだけで、作品に宿る思いや価値を見出すことは可能です。
でも大書架に飾られた二万冊もの司馬さんの蔵書は、その本の頁を開き読まない限り、内容を知ることはできず、その価値を見出すこともできません。
司馬さんは「二十一世紀に生きる君たちへ」の中で、目には見えないけれど人間の心の中に宿る思いやりや逞しさを賛歌し、その心が21世紀を担う人々に引き継がれることを希望されました。そんな司馬さんなら、21世紀に生きる人々に役立つ形で蔵書が活かされることを望まれているのではないか、そう思えてきました。

一服の珈琲はとても美味しかったです。でもこの珈琲を抽出するために、集められ、選別され、配合され、焙煎され、挽かれ、漉された珈琲豆は味を失い価値のないものとなりました。でも司馬さんの蔵書は違います。それは知識の泉であり、歴史の証人ででり、人の目に触れて、誰かの知覚で読み解かれることにより、何度でも新しい発見や物語を生み出すでしょう。でも司馬さんの廟の装飾品である限り、それは叶うことはないでしょうね。それがとても残念に思います。


枚岡山展望台からの眺め

枚岡神社の裏手に公園があり展望台があるというので気楽な気持ちで登ってみますと・・・、他の皆さんは山ガールやトレッキングスタイルなんですね、ここは生駒山ハイキングコースの一角でして、えらい長い木組みの曲がりくねった階段があって、どこまであるんやとへこみそうになりながら、下ってくる人、下ってくる人に、後どれくらいですかとたずねては、気持ちを奮い立たせました。だって皆さんが一様に「最高の風景」とか「宇宙から観た景色の様」とか人参をぶら下げて下さるからです。
そして30~40分してようやく枚岡山展望台に着きました。町歩きのスタイルでかつ厚手のセーターを着ていたものですから汗びっしょりになりました。でも風景を見て、疲れも汗も吹っ飛びました。

枚岡神社で紅葉撮り

東大阪の紅葉の名所、枚岡神社で紅葉撮りしてきました。
生駒山の大阪側の裾にあって、その昔はこの辺りから生駒山を越えて奈良へと通じていたと聞きました。いまなら近鉄で大阪奈良間などアッと言う間ですのにね。