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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2024年4月22日月曜日

映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)”

先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。
ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、まことに今、私たちが直面している危機にも通じる恐怖を描いて見せてくれました。
ただ映画館は、新作コナンが上映される大スクリーンには、家族連れや若者たち、子供たちが大勢集っていましたが、今作が上映される小スクリーンには、私と同年代のシニア世代がちらほら入っている程度の有り様で、できれば、家族連れや若者たち、子供たちの多くにも今作品を観てもらい、感想や内容、疑問について会話し、私たち、貴方たちの未來を左右する危機について、自分事として関心を持つ機会にしてほしいと老婆心ながら思わずにはいられませんでした。しかし、この映画はレイティングがR15+なんですね。実際に鑑賞していて、生々しい情事の様子や情事の後の女性の裸体が、都度、緊張感が漂う詰問会の場面に何度も差し入れられて、そのあまりの唐突さに戸惑うと同時に、気恥ずかしい気持ちにもなりました。ノーランの意図は理解しますが、全年齢、少なくとも12歳以上鑑賞可能な表現に出来なかったものかと、その点が唯一のマイナス評価となりました。

冒頭の”nearly zero”は、オッペンハイマーが開発部門で指揮をとったマンハッタン計画(濃縮放射性物質の核分裂反応を利用した原子爆弾の開発)の最終段階となる1945年7月16日に実施されたトリニティー実験(人類史上初となる原子爆弾の爆発実験)で、オッペンハイマーたち理論物理学者が理論方程式で導いた、濃縮された核物質の核分裂反応が自然界に存在する核物質の核分裂反応を誘発する確率の数値です。演算上zeroでないということは、トリニティー実験が導火線となり地球が太陽の様な巨大な火球になる可能性がzeroではなかったということを示しています。
翌日7月17日からポツダムで始まるアメリカ、イギリス、ソヴィエトの3カ国首脳による第二次世界大戦後の世界地図と戦後処理を決定する会談で、すでに始まっていた冷戦の敵国ソヴィエトの首脳にアメリカの圧倒的な力の保持を明示することで、戦後の世界地図をアメリカの思い通りに描くためには、是が非でもアメリカの為政者は原子爆弾が必要でした。
このアメリカの為政者の身勝手な理由だけで、計算上”nearly zero”の人類初の核爆発実験は、ロスアラモスという秘密の原子爆弾開発研究所に集う科学者と軍人、政府関係者の内々が見守る中で実施されたと、ノーランは粛々と行われたトリニティー実験当日の様子と、夜明け前の闇夜を裂く巨大な火球、その火球から数十㎞先まで放たれる、射すもの全てを焼き尽くす光と立ちはだかるもの全てを吹き飛ばす爆風で、その成功を描きました。

しかし、ノーランはエピローグで再びオッペンハイマーの悪夢として”nearly zero”に言及します。
アメリカの原子爆弾開発は、理論物理学の先進国であったドイツで、ナチスが原子爆弾の開発に着手したというニュースに脅威を覚えたドイツからの亡命者で希代の理論物理学者であるアインシュタインが、時の大統領ルーズベルトに開発に着手する進言書を送った事が発端という話があります。映画でもこの点が触れられていましが、しかしナチスは、原子爆弾開発を中断或いは中止して、弾道ミサイル開発を推し進め、第二次世界大戦中にV2ロケットを実用化し、ロンドンに向けて発射を成功させていたました。オッペンハイマーは知り合いの戦闘機パイロットから、戦闘機よりも速い速度で火花を吐きながら飛んで行く幾つもの物体の光跡を目にしたことを聞いて、その事実を知っていました。
オッペンハイマーの悪夢は、核兵器保有を隠さぬ超軍事大国を筆頭に、1945年から79年を経過した現在、十数カ国が核弾頭搭載大陸間弾道ミサイルを保有するに至っており、その多くの国が、現在、実際に戦争を行っていたり、或いは何時発火してもおかしくない紛争の火種を抱えている状況です。万一にも、一つの核弾頭搭載大陸間弾道ミサイルが発射されれば、自動的に反撃の核弾頭搭載大陸間弾道ミサイルが発射される仕組みとなっていて、”nearly zero”と理論物理学者が計算した核兵器による地球の火球化は、今まさに現実の危機となったと、ノーランは描いていました。

オッペンハイマーは、裕福なユダヤ人家庭の出の、いわゆる天才的な頭脳を持つ非常に上昇志向の高い人物であると同時に、アンナ・ハーレントの『責任と判断』を読んで、100年前の貴族や富裕層が背徳に惹かれていた事を知り、オッペンハイマーも、アメリカ社会に反する共産主義に興味を持ったり、またキリスト教やユダヤ教の戒律に反する行為、姦淫の行為に耽るといった、精神的に不安定さのある人物であったと想像します。そういう人物であったから、共産主義に傾倒する精神科の女医との情事に耽った過去がありました。
オッペンハイマーは、アメリカ市民から『原爆の父』ともてはやされた絶頂期に、トルーマン大統領と面会し、原爆よりもさらに破壊力のある水爆開発に異を唱えた事で、アメリカ政府はオッペンハイマーを共産主義者のスパイという嫌疑を掛け(全くの冤罪)、彼の名声を奪い、社会的な抹殺を図ります。その重要な証拠としてくだんの過去が利用されました。
オッペンハイマーを陥れたのは、原子爆弾投下を政治利用した張本人であるトルーマン大統領であり、オッペンハイマーに変わって水爆開発を担う事になる同僚であった科学者であり、オッペンハイマーに恥を掻かされたたたき上げの政治家でした。彼らは、オッペンハイマーの口を封じる為、或い我欲の為、或いは妬み、怨みのために、オッペンハイマーを裁判ではなく、非公開の詰問会で責め続け、彼を精神的に追い込みました。くだんのふしだらな幻視はオッペンハイマーの苦しみの具象でありました。

最後に、映画の中での日本への言及について、
東京大空襲で、一夜にして14万人が殺されことが、原爆の開発を中断しようと立ち上がるロスアラモスの科学者の中で話されていました。要は、原爆開発競争の対抗馬であったドイツはすでに降伏し、残る日本も戦争を続ける戦力も体力もなく、国内は全国津々浦々まで空爆され廃墟と化しつつあることを、アメリカ人はニュース等で知っていたのだと思います。誰の目にも、思考にも、日本に原爆は必要でないことは明白でした。しかしトルーマン大統領だけは、新たに始まった冷戦の敵国ソヴィエトを黙らすために、原爆投下というパフォーマンスが必要だった。その為に原子爆弾は投下され、そしてヒロシマでは十万人を越える市民が、ナガサキでは7万人を越える市民が、原爆の一撃で瞬時に殺され、そして翌日から現在に至るまでに重度の火傷や怪我で、そして原爆病を発症して、20万人以上の人々が長い苦しみの末に死んでいったのです。
その惨劇を伝聞でしったオッペンハイマーは、自分の手が血で染まっていると表現し、後悔に打ち震えます。ただ、誰も惨劇の実際の様子を見た人など生存していません。B29から投下された原子爆弾が上空500mで炸裂し、爆心地点から1㎞圏内を一瞬で焼き付くし、4~5㎞圏内を光線と爆風で破壊し尽くしたのです。
ノーランは賢明でした。死者への冒涜でしかないヒロシマとナガサキの惨劇を映像化しませんでした。私はノーラン監督の真実に迫る映像作家としての矜恃に、最高の評価を与えたいと思います。

2024年4月15日月曜日

不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤官九郎作のドラマ『不適切にもほどがある!』は、多くの日本人の共感と支持を得たと思います。私もその一人です。

ですが、最終回で不寛容な日本社会の倫理観に囚われる人々を解放するように、フィナーレで『寛容になろう!』と登場人物皆で歌い上げるシーンには、ちょっとだけ違和感を覚えました。


この違和感が何なのか、以下に考えたいと思います。


18世紀中頃に活躍したフランスの著述家ヴォルテールの著書『寛容論(原題:”Traité sur la Tolérance” 英語訳”Treaty on Tolerance”)』には、日本に言及した箇所がありました。ヴォルテールは文明の地ヨーロッパから遠く離れた当時の日本を評して、世界で一番寛容な国であると記していました。当時の徳川幕府が支配する日本はキリスト教を禁教とし、島原で起こったキリスト教徒の反乱を武力で根絶やしにするほど苛烈に弾圧をしていましたから、当然ヨーロッパのキリスト教徒は日本を野蛮な国と断じていただろうと思っていましたので、ちょっと驚きを覚えました。

しかし、ヴォルテールの補足説明で、合点がいきました。

当時のヨーロッパではキリスト教はカトリック派、プロテスタント派、教皇派等に分かれ、それぞれもまた枝葉が分かれる様に分派し、それぞれの宗派のキリスト教徒は他の宗派のキリスト教徒を殺しても足りないほどに憎しみあっていました。これでは文明国家として進歩てきないと憂えた進歩的な知識人が立ち上がり、王を説き、法律を作って、宗派対立の憎しみを耐えて抑制し、文明国家へと進歩できるように国民を啓蒙しました。ヴォルテールもその一人として活躍しました。

この『他宗派への憎しみを耐える』が”Tolerance”の原意であり、”Tolerance”は明治期に『寛容』という日本語に翻訳されて、日本にもたらされました。

徳川幕府以前の日本の支配者も、徳川幕府以後の支配者も統治に悪い影響を与えない限りにおいで信仰の自由を国民に保証しました。ヴォルテールはこの日本の統治の有り様を知っていたのです。

ヨーロッパには明治期以後に『寛容』と日本語翻訳されたもう一つの語があります。『カエサルの寛容』の意として用いられる”Clementia”です。原意は『寛大、或いは慈悲』です。古代ローマ帝国の皇帝は、支配地の統治に悪い影響が無い限りにおいてローマとは異なる土着の文化や信仰を許すという寛大さや慈悲を示したのです。

このような歴史的背景から、ヴォルテールは18世紀において日本が最も寛容な国であると評したのだと思います。

また日本のキリスト教の禁教と弾圧は、16世紀から日本への布教活動を進めた教皇派の分派であるイエズス会の政治的思惑(布教を足掛かりに日本でのスペイン帝国の影響力を強める)を日本の統治者が察し危険視したことから起こった出来事であるとの理解が示されていました。


『寛容』という語を、現在の私たち日本人は『心が広く、他人の過ちや欠点を厳しく咎め立てしないこと、他人の言動・意見を受け容れること』の意として使います。

反対語としての『不寛容』は『心が狭く、他人の過ちや欠点を厳しく咎めること、他人の言動・意見を受け入れないこと。』の意です。


『不寛容』は簡単に行えます。自由の名の下に、身勝手に心の赴くままに振る舞えばいいのです。抑制するとか、耐えるとか、思慮深くとかいう心身の負担は一切ありません。責任の重みを感じなければ『不寛容』は、歌を口ずさむような、軽口を吐くような程度の事で、きっと罪悪感というものも一切記憶に残る事はないでしょう。しかし、やられた方は、きっと殺したいほど憎しみを募らせる事になるでしょう。


『寛容』は違います。寛容には、抑制するとか、耐えるとか、思慮深くとかいう心身の負担が強いられます。重い義務と責任が伴います。その為に、誰でも彼でも『寛容』を実践することは簡単ではないのが実際だと思います。

『寛容』ある態度で振る舞う事は、しっかりと『寛容』についての義務と責任を学び、実践を積む事でしか表現できないと思います。『寛容』は、仏教で表現されるところの徳を積む行為です。誰も彼もが生半可に行える行為ではありません。


そう、そこが私の違和感の所以です。

ドラマでは生半可では出来ない『寛容』を、さも誰でもよっといで『寛容になろう!』と呼びかけている様で、そこに違和感を覚えたのです。


現在の日本社会を支配する不寛容な倫理観は、やはり正さなければならないと思います。

しかし、それは安易なる『寛容になろう!』を説くのではなく、まさにこの数百年で、人類が人権に授かれる範囲を少しずつ獲得し広げていった様に、不寛容な事柄に一つ一つ向き合って、正す様に社会の合意を取りながら、不寛容な事柄を無くする様に一歩一歩着実に進めていかなければならないのだと思います。

そして、『社会の合意を取る』とは、社会を構成する一つ一つのセクションで役割を担う人々に、責任と義務を行使する為の実権を委ねることです。今の社会は、実権もなく責任と義務を負わされてしまうから、役割を担わされる人々は疲労困憊するのだと思います。


実権が与えられてこそ、遣り甲斐が沸き立ち、責任ある行動を自らを律して行えるのだと思います。そのためには、子どもの頃から自治の精神を育まねばなりません。そうでなければ、『耐える』『抑制する』ことも、『寛大』『慈悲』という徳を積む行為を行うことも、不可能だと思います。 

2024年3月31日日曜日

戦後の闇に思いを馳せる「下山事件」

昨年夏にアメリカをはじめ日本以外の国で次々に公開され、映画作品として高く評価された上に抜群の興行成績を上げたクリストファー・ノーラン監督作品『オッペンハイマー』が、先週金曜日にようやく日本で公開されました。

『原爆の父』と称され、理論物理学者でアメリカの原爆開発(マンハッタン計画)を指揮した事で知られるロバート・オッペンハイマーが主人公であることと、海外で先行公開された映画の日本国内からの批判として、広島や長崎の惨状を描いていないという指摘から、配給会社が配給を躊躇したことから日本公開が危ぶまれていましたが、アカデミー賞をはじめ数々の映画賞に作品が輝いたことから潮目が変わり、海外から約八ヶ月遅れでの公開となりました。

私は、ノーラン監督がこの作品に込めたであろうメッセージを観て感じて汲み取りたいと思っていましたし、また広島や長崎の惨状を映像表現として描いていないことに好意的に捉えていました。

後者について、もう少し考えを述べると、

広島や長崎の惨劇は、原爆が空中で炸裂してキノコ雲が立ちのぼる刹那の惨劇は、誰のイマジネーションも到底及ばないだろうと思うとともに、またそれを万一描くことは、それこそ被爆者の記憶への冒涜になるのではと思うからです。

もう一つは、過去に一度、正面切って、この刹那を再現した映画がありました。1953年に広島でロケーションされ、被曝を経験した広島市民が多数エキストラで参加して作られた、長田新が編纂した作文集『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』をベースにして作られた関川秀男監督作品『ひろしま』です。前年1952年に日本は独立を回復しましたが、アメリカの強い支配下に置かれ、『親米政策』が取られていた当時の日本では日の目を見ることが出来なかった作品です。

この映画で描かれた刹那は、朝の日常生活を送る広島市民を突然に強い光が覆い、命のあった人々が起き上がると、そこはもう火焔地獄でありました。

今を生きる私たち日本人が、この刹那を観たければ、『ひろしま』を観てほしいと思います。今では配信で観ることが可能です。


そして、いつ『オッペンハイマー』を観に行こうかと考えながら、昨日夜にNHKで放送のあった『NHKスペシャル 未解決事件 File.10 下山事件 第1部ドラマ編』を観ました。

なんというかとてつもない実録を観た、日本人にとっては『オッペンハイマー』より凄味があるのではと実感したと同時に、よくNHK作ったなと感嘆し、アメリカがよく許したなという隔世の感を感じた次第です。


『下山事件』、終戦直後の日本で起こった当時の国鉄総裁下山定則氏の轢死体事件です。漫画でいえば手塚治虫や浦沢直樹も、この事件を自身の作品の中で取り上げていました。

私の記憶はその作品に触れた時の記憶です。実際、どれほどの事件であったか、以後の日本にどれほど暗い影を残したかはまったく知りませんでした。


ドラマで、特に心に響いた台詞を、書き記します。


大きな圧力によって、そうそうに事件捜査が打ち切れれるなか、少数精鋭でこの事件の真相を追う検事 布施 健(森山 未來)が、闇世界にも通じる政界のフィクサー児玉誉士夫と関係のある読売新聞大阪本社社会部記者 鎗水 徹(溝端 淳平)から情報を聞き出そうと説得する場面の布施検事の台詞です。


「どんなときも、手を汚し傷つくのは弱い者たちだ

戦場からやっとのことで戻ってきても、生活は苦しい

飢えた者に正義を説いたところできれいごとだ、彼らには右左もない

何も知らされず、分断され孤立させられ、僅かの金で権力者たちの目的遂行のために利用され、使い捨てられ・・・

こんな事が、いつまでも許されて良いはずはない」

「(鎗水さん、貴方は本当は)名もなき者たちの声を、社会に届けたいんじゃないですか?」


下山事件を追う布施検事の同士のような存在である朝日新聞編集局社会部記者 矢田喜美雄(佐藤 隆太)が、告白を翻意した鎗水記者を説得にいった際に、何者かに襲われ怪我をしたことを受けて、捜査を止めることを決断した布施検事が、矢田記者に話す台詞です。

「ひとりの人間の命の重さなど、国益と比すれば塵の如きものか

ひとりの人間の命は、国益より優先されなければならない、と私は思っているんす」


事件の真相を何もかも知るであろう人物、右翼活動家 児玉誉士夫(岩崎 う大)に面会した際の、布施検事と児玉誉士夫の会話の台詞です。

布施「そもそも、下山総裁は何故殺されたんですか?」

「一つ美談をお聞かせしようか、美談は真実とは限らないが・・・

当時アメリカは、ソ連や中国との戦争を本格的に考えていた

そうなった場合、軍事力の輸送に使用できるよう、日本全土を縦横に走る鉄道を米軍に差し出せと命じていた。

下山はそれを断固拒否した。下山は長く鉄道畑で働いてきた。彼は鉄道マンだ。日本が誇る輸送網を軍事利用から守った。」

布施「美しすぎる話ですね」


布施検事がひとり、事件の真相を辿る場面の内なる声の台詞です。

「アメリカと日本の旧軍閥は、反共と再軍備で結びついていた。

かつての戦犯がアメリカと手を組み、着々と軍の復権に向けて暗躍していると知ったら、日本国民はアメリカへの不信を募らせるだろう

アメリカにとって親米の空気を維持することは絶対である。」

「下山事件は、自殺とも他殺とも断定されずに終わった

李中煥(玉置 玲央)が総裁暗殺はソ連の仕業だと云ってきたのは、そのすぐ後だ

自殺説はアメリカにとって誤算だった

当時世界情勢は、共産勢力の勢いが凄まじかった

アメリカは焦った筈だ

強引にでもソ連は謀略の国と、日本国民に印象付ける必要があった

あの時私は、李と会いにいき、ソ連による謀殺説を一時的にも信じた

俺も反共に利用されたのか・・・」


すべてを知るであろう吉田茂に面会を望んだ布施検事が、自席検事 馬場義続(渡部 篤郎)から左遷を言い渡された後に、馬場自席検事と面会した会話の台詞です。

布施「ご説明、頂けますか?」

馬場「吉田は今も衆議院議員だ 七期目だ、大したもんだ

検察が議員に話を聞くとなると、穏やかにいかんよ

向こうは選挙で選ばれた国民の代表で、こっちは国家権力だからな」

布施「義続さん、『独立』とはなんでしょうかね」

馬場「アメリカとの関係は、国の存亡に関わる」

布施「その言葉ですべてが片付けられている

検察が国家権力なら、検事であるわれわらが果たす責任とはなんでしょうね

われわれに与えられた権力が無いに等しくて、それでも日本は主権国家と呼べますか?」

馬場「傀儡だとでも云いたいか」

布施「国の謀略によって一人の人間の命が無惨にも奪われ、その死が都合良く政治に利用される

しかし、手を穢すのは何時だって立場の弱い者であり

力を持つ者が救うべきはその名も無き者たちです

国家主義を捨て、国民一人一人の幸福を希求するのが戦後の理想だった筈

それができないなら、それができないなら、アメリカが日本にもたらしたものは真の民主主義では無い!」

馬場「絶望したか?ならば検事を辞めるか…、

ものごとは複雑なんだよ、黒か白か、右か左か、敵か味方か、国か個人か、そんな簡単に線を引けたら苦労はしない、お前だって分かっているだろう

その混沌の中にあって、かろうじて一番まともだと思える線を探っていくんだよ

そして今、最もまともな判断がアメリカとの関係の継続なんだよ、違うか」


1964年7月4日 下山事件が時効を迎える直前、朝日新聞編集局社会部記者 矢田喜美雄(佐藤 隆太)が訪ねてきた時の会話です。

矢田「下山の件でね、やっと怪しい人物を見つけたんです」

布施「君も変わらないな」

矢田「時効が成立したら、俺はどうすればいいでしょうね…」

布施「権力を監視してください

そして、少しでも強い力を感じた時は、

迷わず書け。」


下山事件から、今年で78年が経ちます。当時の為政者は、国民に決していえない、明かせない闇を抱えていたとしても、そこには日本の未來を考えていたこと、そこだけは蒙昧ですが信じたい、そう思います。

ですが、現在の為政者の不遜さ、無責任さ、そして国家を私物化している様子をみると、過去の為政者の本心さえ疑いを覚えてしまいます。非常に悲しいことです。


あたりまえですが、アメリカは民主主義の国です。ですが、それはアメリカ国民の民主主義です。アメリカ国民の政治に参加する権利、自己を表現する権利を守る民主主義です。

しかし外国に対しては、アメリカの利益が第一です。トランプが言い始めた事では無く、はじめからアメリカ第一主義です。

では日本はどうでしょうか。国体は民主主義国家となりましたが、占領期から変わらず日本は自立よりもアメリカ第一主義を政治も経済も、含めるなら司法も優先したまま今日に至っています。失われた30年は、戦後復興の情熱が失われた世代が、アメリカ第一主義で無責任に過ごしてきた結果ではないかと思います。

ほんとにゴミのような私でさえ、その無責任の一旦の責任があります。

きっとアメリカの良識は、こんな日本を望んではいないでしょう。自立、責任、そして親和を私たち自らが育むことが、アメリカの良識と対等に付き合える国、アメリカの良識が信頼する国になる術なのではないかと、思います。 

2024年3月27日水曜日

映画「ナチュラル」の名台詞を、大谷翔平選手に贈ります。

大谷翔平選手が、信頼する人に裏切られ欺され巻き込まれた疑惑について、自ら矢面に立って会見を開き、大勢の記者とテレビカメラの前で、自らの言葉で、今公表できる事実をしっかりとした口調で伝えてくれました。

その会見が開かれた日、NHKシネマで野球映画の名作「ナチュラル」(The Natural 1984年アメリカ映画)が放映されました。

この映画には

『人には人生が二つあるわ

一つは何かを学ぶ人生、もう一つはその後の人生よ』

という名台詞があります。


映画「ナチュラル」のあらすじです。

舞台は、ベーブルースが活躍していた100年前のアメリカです。

主人公ロイは、剛速球投手としてメジャーリーグで成功しうる天性の才能”The Natural”がありました。青年ロイはカブスから入団の誘いを受け、幼なじみの恋人アイリスにプロポーズし、メジャーリーグで成功して、きっと迎えに帰ってくると約束し、意気揚々とシカゴ行きの汽車に乗り込みます。しかし、その汽車に乗り合わせたメジャーリーグの強打者のスター選手と余興で一打席の勝負をして三球三振で勝ったことから、この強打者のスター選手を殺害する為に付け狙っていた、才能あるスポーツ選手を次々と殺害する狂気に取り憑かれた黒服の魅惑的な女に魅入られる羽目になり、彼女に誘われ、ホテルの彼女の部屋に入ったところで、拳銃で撃たれ、ロイはメジャーリーグで活躍する未来が奪われます。


16年後、35歳となったロイはナショナルリーグのニューヨーク・ナイツにロートル・ルーキーとして入団を果たします。ロイをナイツに入れたのは、ナイツの共同経営者の一人で陰を好む判事でした。判事は賭博師と共謀して球団を我が物にすることで不正に大儲けすることを企んでいました。判事にとって、共同経営者の一人でナイツを我が子のようにこよなく愛する監督のポップが邪魔でした。そこで判事はポップと賭けをしました。ナイツが優勝すれば判事はナイツの経営から手を引く、しかし優勝できなければポップがナイツの経営から手を引くという賭けでした。

判事と賭博師は、酒と女でナイツのスター選手を抱き込み、チームはガタガタの状態で最下位に苦しんでいました。判事が繰り出す最後の一手がロートル・ルーキーのロイでした。ロイを加入させることでチームの士気を一層落とすことがもくろみでした。ただ判事も誰も、ロイがどんなに苦労して這い上がってきたか、そしてどんな力を秘めているか知りませんでした。

ポップはロイの加入が判事の嫌がらせであることが解っていました。それでロイを一切使わずにマイナーに落とすことを決めますが、頑とマイナー行きに抗議するロイに一度だけ練習に参加することを認めます。これがポップにとって、勿論ロイにとっても好機の到来となりました。

ロイは打撃練習で、自軍の投手が繰り出す投球を、チームの誰もが目を見張る大ホームランで打ち返しました。

ロイがスター選手に替わってライトで四番に入ってから、ロイの驚異的な打撃と堅実な守備、そして何よりも“For The Team”、何よりもチームの勝利の為に戦う姿勢に、チームメイトも応援するファンも感化され、ナイツは怒濤の連勝街道を歩みはじめ、優勝戦線に食い込みました。


ロイの活躍が邪魔となった判事と賭博師は、ロイを大金で抱き込み八百長を目論みますが、不正を嫌うロイは、ポップの側に立つことを彼らに宣言します。業を煮やした賭博師は、魅入られた男は不幸になるという曰く付きの美女をロイに差し向けます。野球を続ける為に、酒も煙草も嗜むことのないロイでしたが、美女に魅了させ、彼女とベッドを供にするようになってから、まったく精彩を欠くようになって、自慢の打棒も振るわなくなり、ナイツは再び連敗に喘ぐことになりました。


しかし、遠征先のシカゴで再び、ロイは精彩を取り戻すことになります。16年前にロイが一方的に姿を消したことから別れ別れになっていたアイリスが、ロイに一目会う為に試合観戦に来ていたのです。打席で酷いヤジに晒されるなかロイは、スタンドの中で一人立ち上がりロイに向かって祈る白服の女性に眼が止まります。それがアイリスでした。その途端、ロイの精彩は蘇り、ロイは試合を決定づけるスコアーボード上の時計を破壊する大ホームランをかっ飛ばします。

試合の後、ロイはアイリスと再会します。アイリスは姿を消したロイといつか再会できることを信じて、シカゴに居を構えて暮らしていました。アイリスは最愛のひとり子と二人で暮らしていると話します。ロイはアイリスを裏切る行為から女に撃たれ、それがもとで大怪我をし、長く極貧に身を沈めていたこと、そして野球選手として活躍できるまでの道程を話します。


再び精彩を取り戻したロイは、大活躍でチームを牽引し、ナイツを残り試合で一つ勝てば優勝するところまで導きます。その優勝の前祝いのパーティーで、ロイは崩れるように倒れ病院に担ぎ込まれます。

16年前に撃たれた拳銃の弾が腹の中に残り続けていて、それが原因で臓器が傷つき、起き上がることができない痛みを引き起こしていたのです。弾は手術で取り出すことができましたが手術傷が大きく、ロイは試合に出場できる身体ではなくなっていました。

病院のベッドに横たわるロイに、闇に紛れて判事が訪れ、大金を餌にこのまま引退するよう迫ります。そして万一ロイが最後の試合に出場を決めても、他にも八百長の手先となる者の存在がいることを匂わせて、我々には勝てないことをロイに思い知らせます。


最後の試合が行われる前日、アイリスがロイを見舞いにシカゴから訪れます。ベッドに横たわり後悔を口にするロイに、アイリスは冒頭の台詞をロイに告げて、若気の至りを晴らすの、と励まします。


『人には人生が二つあるわ

一つは何かを学ぶ人生、もう一つはその後の人生よ』


アイリスに励まされたロイは、最後の試合に勝って優勝し、判事と賭博師の悪巧みを砕くために、試合に強行出場します。

試合は0対0で進みますが、突然にエースが崩れ二点が奪われます。これを見たロイは、エースが八百長に加担していることを理解し、タイムをとってマウンドに走り、エースにこれ以上八百長に加担するなと告げ、自分のプライドを傷つけるなと諭します。

しかし、ロイも手術傷から血がにじみ出し、出場し続けるだけで精いっぱいの状況でした。アイリスは、ロイに勇気を奮い立たせる為に、ロイに隠していた事実を手紙にしたため、ベンチのロイに届けます。


『私の15歳になる最愛の息子は、16年前に貴方と愛し合って誕生した貴方の子どもです。息子に貴方の勇気を見せて。』


試合は2対0で、九回の裏ナイツ最終回の攻撃が始まります。二死から連打が飛び出し一塁三塁となって、ロイは16年前に相棒として自ら自宅の庭の落雷で裂けた大木から作った”WONDER BOY”と名を刻んだバッドを手に左打席に入ります。相手投手は、今年メジャーデビューを果たした若き左の剛速球投手に変わりました。それは16年前の若き左の剛速球投手ロイとこの打席で引退することとなる左のホームラン打者ロイとの生涯一度きりの勝負を彷彿しました。

ロイは二球目を強振します。打球は大飛球でしたが、ボールの外に落ちました。仕切り直しで、ロイはバットを拾いに行くと、”WONDER BOY”は真っ二つに裂けて転がっていました。ロイはバットボーイの少年サボイに「君の勇者を貸してくれ」と、ロイが手ほどきしてサボイと一緒に作ったバット”SAVOY SPECIAL”を持って来て貰います。

”SAVOY SPECIAL”を手にしたロイが左打席に入り構えます。捕手はロイの胸元に剛速球を要求し、若き剛速球投手は、そこに向かって剛速球を投げ込みます。唸りを上げて迫り来る剛速球を、ロイは”SAVOY SPECIAL”を振り抜いてかっ飛ばします。打球はぐんぐんと夜空を裂いて、グランドを照らす高くそびえる照明に突き刺さり、照明はまるで大輪の花火が炸裂するように火の粉をグランドに降らします。その火の粉の降り落ちる中、ロイは大歓声に包まれながらダイヤモンドを一周します。


END


私のような、少年の頃に、汗と涙と人情で綴られた、あるいは友情やフォア・ザ・チームに彩られた野球漫画を読みあさり、そこで超人的な活躍をする主人公に心を躍らせた、昔、少年であった大人たちは、きっとこの映画「ナチュラル」を公開当時に映画館で見て、私と同様にどんなに心を躍らせたことでしょう。そんな心が踊る感動を、リアルな野球観戦で今現在進行形で甦らせ続けてくれるのが、誰あろう大谷翔平選手です。

彼のこれまでの軌跡を知る人々は皆、大谷翔平選手がどれだけ野球に直向きなのか、真摯であるのかを、心に刻み付けています。ましてや名実ともに世界一の野球選手となってからも、その姿勢は変わらずに、更には野球の楽しさを世界中に普及する大役を担ってからも、それを大いに楽しんで挑戦している姿をみれば、この度の降って湧いた疑惑など一蹴できます。

ただアメリカの論調は、日本よりも自己責任が良くも悪くも重きが置かれることから、言葉の壁の責任、資産の管理の責任を大谷翔平選手に求めることには、そうなんだという諦めを感じます。

しかし、逆にいえば、言葉も文化も異なる国で、一つの仕事をやり抜く為に、その為にすべての力と時間を注ぎ込むために、他のことは信頼できる人や組織にすべてを任せる決断をして実践を貫いてきた大谷翔平選手を、誰が非難できるでしょうか。そこにどんな罪があるというのでしょうか。と私は思います。

今回の疑惑、というよりも犯罪は、すべて、百パーセント、大谷翔平選手の信頼を得て、彼の生活のすべてをサポートする仕事を任された人間が、裏切り、その信頼で得た立場を利用して、欺し、盗み、なかんずく大谷翔平選手に偽りの汚名を着せことであり、百パーセント、その人間が悪いのです。ただそれだけです。

大谷翔平選手には、この映画「ナチュラル」の名台詞を贈りたいと思います。

そして、この疑惑、この犯罪でとてつもなく傷ついたことだと思いますが、これも励みと捉えて、ナチュラルから勇者へと変身を遂げて、これからも長く、私たちを野球で心からワクワク、ドキドキ、させ続けてください。


追伸.

私は、この疑惑報道が出る前から、大谷翔平選手のプライベートを扱うニュースには手を出さないようにしないといけない、と思う様になりました。これは大谷翔平選手だけでなく、あらゆる事柄についての身勝手、或いは真偽が不明なニュースや情報がネットを中心に蔓延り、また他人の真偽の不確かなプライベートが本人の同意もなしにネットにさらけ出されるようになったからです。それは一種の麻薬のようなもの、人間の、自分の快楽を求める部分が際限なく刺激され続けてしまうと危惧したからです。

テレビの情報番組も同じです。真偽のつかない事柄を、疑問符を付けながら、何度も繰り返し、クドいほどに時間を掛けて、感情を煽るように伝えてきます。

彼らは、視聴者が見たいと彼らが決めた事柄を、大風呂敷を広げて、誇張して、真偽を確かめること無く、無責任に報道します。それが、自らの責務であるとのたまいているのです。

昔は報道というものに、何かしらの真実、というか正義を感じていたこともありましたが、今はまったく、彼らを真実であるとか正義であるとか、そういう対象で見ることは出来なくなりました。

日本の政治が、二流から世界でも最悪の汚職と不正と不義がまかり通る政治に変貌をしても、近代ジャーナリズムが目指すべき政治の監視機能を一切果たせぬままに、今ではそんな政治への忖度とへつらいが蔓延するのが日本のメディアの実情となりました。

ジャーナリズムを責務と考えるメディアの人々は、大谷翔平選手のニュースなど横において、汚職と不正と不義がまかり通る政治と刺し違える覚悟で対決し、日本の未来が少しでも良くなるように戦ってほしいとエールを送りたいと思います。


また、大いなる成功には、大金がうごめくところには、良からぬハエがたかるものです。これもまた人間の際限のない欲望や快楽を刺激する所以です。人間の正直な弱さの表れです。仏教でいえば悪業です。現代は神の地位も地に堕ちた観がありますが、私たちの世代には、まだ「お天道様が見ている」、或いは「神様が見ている」という漠然とした畏怖の念が、心のどこかにまだ刻まれています。そういう欲望や快楽を自制する感念というものこそ、私たちは大事に落ち続けていかねばならない。子供たち、孫たち、子孫たちに、もしかしたら唯一、引き継がなければならない教えなのかもしれないと、最近強く思います。

 

2024年2月8日木曜日

節分の日の出来事

 2月4日夜に『恵方巻きを食べて食中毒』という速報を妻がキャッチしました。

その前日、節分の日の朝7時頃に私はみやげの巻き寿司を食べ、10時頃に急に吐き気をもよおしトイレで嘔吐しました。12時頃再び嘔吐し、この日は白湯だけで薬も飲まず絶食しました。翌日の午前中、少し胃の辺りのもどかしさが収まり軽く食事を取りました。でも昼過ぎに再び胸の辺りにもどかしさを感じて、我慢してると冷や汗が出て来て、これは胃痛じゃない、冠れん縮性狭心症の発作だと気付き、急いで心臓の薬を服用して、そのまま床に寝転びました。全身から汗が噴き出るまましばらく我慢していると発作は治まりました。2020年2月13日にカテーテルアブレーション術を受けてから、2022年11月20日に続いて二度目の自覚する発作でした。

身体が弱ると、免疫が弱くなると、発作は起こるのだと改めて自覚した次第です。


みやげを持ち帰った姉は3日の昼過ぎに巻き寿司を食べ、夜に嘔吐しました。妻と息子も昼に巻き寿司を食べましたが嘔吐するなどの症状は出ませんでした。けれど翌日から下痢症上が出ました。そして今日、ようやく家族皆の食中毒?症状は治まりました。

当該店の恵方巻きは例年美味しく頂いてきましたが、今年の恵方巻きについては家族一同同じ感想を抱いていました。いつもならしっとりとした口当たりで甘みがあってとても美味しいという感想なのですが、今回はキュッと固めで食べたら身体が冷える感じを受けました。ただ傷んでいる様には思えませんでした。箱の中についていたお品書きには『恵方巻きの提供は今年で最後とさせて頂きます云々』という断り書きが書いてありました。姫路の名店ですから、原因を明らかにして、また安全で美味しい巻き寿司を提供してほしいと思います。


2024年1月17日水曜日

ともに

 阪神・淡路大震災の発生から今日で29年です。今年も各地で追悼行事が行われました。今年の祈りの言葉は「ともに」で、今年元旦に起こった能登大地震の被災者への連帯が示されました。

私は1979年から四年間、石川県の野々市町(現野々市市)で大学生として過ごしました。今の自分の基盤が作られた場所であり、そして大事な友人が今も住んでいる場所でもあります。ですから、私にとっても「ともに」という思いが強く沸き立ちます。

私も何か行動を起こして、連帯を示したいと思います。

2024年1月14日日曜日

トムヤムクン雑煮

 正月、長女と次男が帰省したので、妻が作った正月料理とは別に、トムヤムクン雑煮を作り家族に振る舞いました。

昨夏に妻と行った小天橋海水浴場のタイ料理店で頂いたトムヤムクンの美味しさが忘れられずにいました。それでいつかトムヤムクンを作りたい、そう思っていました。

近くのヤマダストアーで「タイで食べたトムヤムクンセット(2~3人前)」なるトムヤムクンソースとハーブ、スパイスがセットされた商品を見つけたことで、YouTubeに投稿されたタイ料理人のトムヤムクン調理動画で調理手順を学び、トムヤムクンを作り始めました。タイとは同じ米食文化圏ですから、餅とも相性抜群でした。トムヤムクンは激辛スープではありますが、味の深みを得る為に加えた鳥肉、牡蠣、そして和出汁が良い仕事をし、ココナッツミルクと牛乳が、激辛みをミルキーなまろやかさで抑えてくれていました。

家族には好評でした。最後に残った一杯分のスープを取り置きして、後で食べようと思っていましたが、知らぬ間に長女が食していました。

イチャサン、カンチャンとの新年会で一杯ずつ食せるように持っていきましたが、辛い料理が大丈夫なイチャサンには好評でした。ただ、辛い料理が苦手なカンチャンは、この程度の辛さでもギブアップしましたが・・・


それでは改めて、トムヤムクンのレシピを記録しておこうと思います。


(1)材料(目安は4人分です)

①殻付きエビ 8尾

②牡蠣むき身 8個

③鳥もも肉 一枚 → 一口サイズにカットしておく。

④和出汁のもと 隠し味として一袋程度使用

⑤水 700cc

⑥タイで食べたトムヤムクンセット 1個

⑦ココナッツミルク 140ml缶1個

⑧牛乳 300cc程度

⑨ブロッコリー 半身程度 → 切り分けておく

⑩椎茸 4個 → 切り分けておく

⑪パクチー → 適量

⑫切り餅 → 8個 → オーブンで焼き餅にしておく

(2)作り方

①冷凍の殻付きエビ、牡蠣むき身を使う場合、絶対に全解凍はせずに、少し解凍したところで、さっと水洗いし、ザルにあげておく。

②中華鍋にオリーブオイルを適量いれて温め、鳥肉とエビと牡蠣をいれて炒める。

③鍋の中の食材に火が通る10分ほど中火から弱火で炒め、エビの身がしっかり赤色に変わったところで火を止める。

④別の鍋(大きめの鍋、寸胴鍋等)に、鳥肉と牡蠣と殻をむいたエビを取り分ける。

⑤具を入れた鍋に、⑥から⑩とトムヤムクンソースを加える。

⑥中華鍋の残った炒め汁に、水と和出汁のもと、エビの殻、そしてトムヤムクンセット内のハーブ、スパイスを加えて、15分程度煮出しする。


⑦煮出ししたスープをザルで濾過して、具を入れた鍋に加える。総量2L程度になるよう牛乳を加える。

⑧具を入れた鍋を一煮立ちして出来上がり。

⑨先に鍋にパクチーを加えて煮るもよし。

⑩一人分、カップもしくはお椀に焼き餅2個を入れ、スープと具を加えて、最後にパクチーを飾って頂きます。




2024年1月9日火曜日

黒澤明監督作品「生きる」を観ました。

 初老の男の主人公が、深夜の雪降る公園のブランコにひとり乗って、「ゴンドラの唄」を形容しがたい声でくちずさむシーンが有名な、黒澤明監督(1952年公開)作品「生きる」を観ました。

どういうあらすじの映画かは、大体知っていたつもりでしたが、今回の鑑賞では気づきが沢山ありまして、今においてもそうですが、公開当時においても斬新で、辛辣な風刺が満載な物語でありました。兵庫県出身の名優志村喬さんをはじめ、名優達の滑稽極まりない人物造形にただただ感嘆しました。


冒頭から斬新です。何やら不鮮明な写真が写り、「これは主人公の胃のレントゲン写真である」が第一声です。主人公は、市役所に勤めて三十年無遅刻無欠勤だけがとりえの、市民課の課長にまで出世した、そろそろ定年が近づいて来た初老の男です。妻を早くに亡くし、子煩悩な男は幼かったひとり息子を大切に育て上げる事だけが生き甲斐で生きてきました。

男が働く市民課は、助役がいずれ選挙に出る時の市民にアピールするための成果物のひとつとして設置されたものでしたが、実情は単なる市民の相談苦情の窓口でしかなく、市民から相談苦情がきても一切動かず、それは○○の課ですからそちらへどうぞと、たらい回しにするだけの、ただただ忙しく振る舞うだけの何もしない課でした。男はその長でした。上司には逆らわず、ただ波風が起こらない様にする事だけに気を配る、生きているのか死んでいるのか判別の付かないミイラの様な風体の男でした。


その男が、最近、胃の辺りの調子が悪く病院でレントゲン検査を受けました。検査の結果を待つ間の待合室で、隣り合わせた男から、胃がんの男の話を聞きました。その男は医者から「ただの胃潰瘍だから、お腹に優しいものを食べて、養生に努めて下さい」と言われたが、それは医者の方便で、もう長くはないと云う事で、血便が出たり、食べたものを吐いたり、等々、等々、そうなったらもう寿命は長くないと聞かされます。隣りの男が言った症状は皆、男の症状に該当するものでした。そして医者からは例の方便を聞かされました。

男は絶望します。男は絶望した胸の内を最愛の息子に吐き出して、息子に頼ろう、すがろうとしますが、結婚して同居している息子の帰りを待っていると、男に気づかない息子夫婦は、男の退職金や男の貯金をあてにして、いずれ一軒家を建てて家を出る算段の話をします。男はさらに絶望して、だまって家を出ます。


男は貯金から5万という大金を引き出して、それで散財した末に死んでやろうと思いますが、そもそも、そんな大胆な事ができる筈もなく、場末の居酒屋でくすぶっていました。そこにひとりの粋な黒ずくめの男が現れます。黒ずくめの男は、男の夢を叶える為に、男を享楽の世界に導きます。ギャンブルに酒に女、昭和27年頃に、あんなにも欲望があけすけな熱気に包まれた世界が日本にあったことに私は驚きましたが、男も驚きながらも、欲望の渦に巻き込まれて沈んでいく事が、絶望を忘れる唯一の事の様に思えていました。しかし、朝になれば享楽の世界は眠り、男は孤独に苛まれることになります。


そんな時、市民課の紅一点の若い女性職員に街角で出会いました。若い女性は、市役所の仕事があまりにも生き甲斐や遣り甲斐がなさすぎて退職する事にしたと話します。男は若い女性職員への送別のつもりで食事に誘います。しかし男は若い女性といる事が、まるで瑞々しい生気に触れている様な気持ちになって、若い女性から離れられなくなりました。

この若い女性を食事に誘い、映画に誘い、遊園地に誘い、お酒に誘い、いつまでも一緒に過ごそうとしました。しかし若い女性は嫌がり、遂に男の誘いを断ります。男は若い女性があらたに勤め始めたおもちゃ工房まで押しかけます。若い女性は最後にもう一度だけ会う事に同意をします。そこは晴れ晴れとしたレストランでした。男は自分の苦しみを、胃がんに冒され、もう寿命がいくばくも無い事、最愛の息子や嫁には疎まれ病気の辛ささえ打ち明けられないでいる事等々を吐露します。深刻な話を聞かされた女性でしたが、自分が作ったぬいぐるみを男に見せて、なにげに男に、何かを作ってみたらと話します。男の目が開きます。男は何も出来ない、何もしてはいけない、言われた事だけすればいい、ただそれだけで長らく生きていました。でもそれは死んでいたことと同じであったと気付いたのです。まだ、いまなら、何かできる、役所にいけば、きっとある、そう確信して、二週間ぶりに役所に出勤しました。


溜まりに溜まった陳情の紙の山から、『新設された道路の下の暗渠から水が溢れて空き地が水浸しになり、蚊などの害虫が湧いて、周りの住民が困っている。いっその事、公園に改修して下さい』という陳情を選び出し、寿命が尽きるまでに必ず公園を作ると決心し、権限が縦割りになって、動かない事、何もしない事が、最善の仕事と思っている役所の人々に、一切引き下がる事無く、働きかけ続けて、そして役所の天皇とも評される助役をも動かして、遂に寿命が尽きぬ間に公園を完成へと導きます。


男は、公園の完成とともに息を引き取りました。寒く雪が降る夜に、あの公園のブランコの辺りで見つかりました。凍死として片付けられました。男の葬式には、助役をはじめ各課の長、そして市民課の職員の面々が集まり、男の長男夫婦から振る舞われた酒肴をあてにして談笑しています。あの公園の開園の日、市民の前で市会議員や助役は、自分の功績として話をしていました。しかし市民たちは、誰が自分たちの陳情を聞き入れて、働き動き、あの公園をこんなにも早く作ってくれたかを知っていました。そして、その事実を知った新聞記者が、市会議員や助役の不正を追求し始めました。

男の遺影の前で、助役がいるときは、皆々、公園ができたのは助役のお陰と褒めそやし、死んだ男を、まるで公園建設が男の手柄にならなかった事を恨んで死んで抗議した不忠義者となじりました。しかし、助役と各課の長が帰った後、残った市民課の面々は、なぜ我々と変わらなかった男が、急に変わったのか。あんなにも公園建設に執着したのか、その何故について語り出します。そして、もしかしたら男は自分が胃がんであった事を知っていたのではないか、という気付きに至ります。そして、我々も役所に入った頃は大志を持っていた。しかし、いつの間にか、役所のシステムに飼い慣らされて、こういう振る舞いしか出来なくなった。でも、我々だって男の様になれる、明日からなろうとのたまいます。

そこに男を見つけた巡査が、線香をあげに訪ねてきました。巡査は話します。男は、まるで酔っ払いのように見えた。楽しそうに歌を歌っていました。だから声を掛けなかったと話しました。次に見た時には男は死んでいました。巡査は、男のなんとも形容しがたい声が忘れられないと話します。死の間際、男は楽しんでいた、喜んでいた・・・、その事に一同は言葉を失います。


翌日、市民課はひとりひとり序列が繰り上がり、次長であった男が課長席に座っています。そこに市民が陳情に訪れました。対面した男は、市民に「それは○○の課」と、これまで通りたらい回しを決め込みます。末席にいた男は立ち上がり課長を見ます。課長は立ち上がった男に座れと目配せします。立ち上がった男は、唇に苦い笑みを浮かべて書類が山となった机に身を沈めます。


終わり


ゲーテの『ファウスト』を彷彿する物語でありました。主人公の初老の男がファウストです。そして場末の居酒屋で男とあった黒ずくめの男が悪魔メフィストでしょうか。

ファウストの魂を賭けて神様に勝負を挑み、ファウストを誘惑し続け、遂にファウストを堕落させた悪魔メフィストでしたが、ファウストを愛するものの祈りによって、ファウストの魂は地獄行きを免れて天上へと昇っていきました。

この男はどうでしょうか。男は生きている実感を得る為に、生きた証を得る為に、公園を作りました。それは利他ではなく、利己を充たす為ででした。そして男は歓喜しながら死にました。男の魂は、天国に昇ったのでしょうか。それとも地獄に落ちたのでしょうか。

まるで藪の中の様な難問が残りました。やはり『生きる』は名作中の名作でした。


雨と太陽

 とても心に沁みるドラマが始まりましたね。

心に重いトラウマを抱えて生きてきた雨と、色覚異常から亡き母から託された夢を諦めていた太陽が、出会い、太陽は恋する雨を励まし続けることで夢に向き合い歩み出す決意をし、そして雨も励まされることで秘めていた夢を叶える為に歩み出す・・・。


希望が見えず、憂さ晴らしの中傷や暴力が蔓延るようになった現代社会は、弱い立場の人、抵抗しない人が真っ先に傷つけられて、自己否定に追い込まれ、最悪の場合は自殺に追い込まれてしまいます。しかし、そんなことは絶対無い。必要でない人なんてひとりもいない。

あなたは私にとって、僕にとって掛け替えのない人だ、必要な人だ、みんなにとって必要なんだ。と太陽は雨に思いを伝えます。

負けるな。私がいつも側にいるから、側で支えるから。と雨の祖母は雨に思いを伝えます。


殺伐とした現代社会に、荒涼とした世界に、本当に必要なものは、太陽の温もりと雨の潤いなのだと思い出させてくれました。そして私たちは、温もりと潤いを信じ、生きなければならないのだと思い出させてくれました。


昭和35年生まれの私の頬に熱い涙をこぼれさせたこのドラマは、死神が登場したりして、どう展開していくのか全く先が読めないですが、最初の感動が最後まで続いてくれる事、期待して止みません。


追伸、永野芽郁さんと山田裕貴さんの触れると壊れてしまいそうな切ない演技に心が動かされました。この先も楽しみにしています。

2024年1月8日月曜日

摩訶般若波羅蜜多心経

昨年秋から、写経を始めました。

私の家は曹洞宗なので、曹洞宗の日用経典「摩訶般若波羅蜜多心経」を手本にしました。「観自在菩薩」から始まり「般若心経」で終わる266文字を、毎日朝の内に30分ほどかけて原稿用紙に写経します。写経が終わると、書いた文字を眼で読みながら諷誦します。続いて経典の本尊回向文、四弘誓願文と続き、修証義の第一章総序を諷誦して終わります。

筆記用具は、4Bの鉛筆から初めて、現在は6Bの鉛筆と、fonteのガラスペンを使っています。30歳中頃からほぼキーボードで文書作成してきたので、鉛筆で長文を書く事にはまったく馴れていませんでしたが、書き続けているとペン先が紙に線を引く音がとても心地よく、その音が無心に誘ってくれるような心持ちにさせてくれます。

ただ、やはり集中力には限界があって、毎回、折り返しの辺りから、書き損じや抜け落ちします。それでもそこから書き直して一応最後まで書き切ります。

でも一月五日の夜に写経した時、19行、1行14文字きっちりで写経できました。気持ちが入ったのかなと思います。


般若心経について、仏教学者の紀野一義は、次の様な逸話を書き記されていました。

私たちが今となえている般若心経を、インドの原文から中国語に翻訳したのは唐の玄奘三蔵である。この人は『西遊記』の三蔵法師のモデルである。

玄奘は唐の貞観三年(629年)にインドに赴き、貞観十九年(645年)に長安に帰ってきた。玄奘は唐に帰ってから、持ち帰った経典の翻訳に従事し、七十四部千三百三十八巻を訳出したのであった。

中略

敦煌出土本の中に、『唐梵飜対字音般若波羅蜜多心経』があった。

この本の序文に次の様な話がのっている。玄奘が益州の空恵寺にいた時、インドから来た僧が病気で苦しんでいたのを見てこれを看病した。このインド僧は玄奘が沙漠を越えてインドに仏教の経典を取りに行く志を抱いていることを知ると、玄奘に般若心経という短いお経を教えてくれ、これを誦えてゆけば、災厄にもあわず、病気にもかからないと言ったという。

もちろん玄奘は、このお経を誦えながらシルクロードを越えて行ったに違いない。

のちに玄奘が中インドのナーランダー寺に行ったら、なんと、かの病僧がそこにいるではないか。驚く玄奘にその僧は、私は観世音菩薩である、と告げて姿を消したという。


この逸話から、私は般若心経は、死者への弔いや供養のものではなく、私たち生きとし生けるものを鼓舞する経文などだと理解をしました。

でも最近は、生死に境などはなく、死者に対しても西方十万億土に思いを馳せて精進を重ねることを鼓舞するものなのだと思うようになりました。

私自身、仏教徒なのかキリスト教徒なのか、もしくは仏教徒でもないのかキリスト教徒でもないのか、判然としませんが、それでも般若心経を写経したり諷誦する時、心が平安になるように思います。そして修証義は、まことに人生の指針の経文であると思っています。

2024年1月7日日曜日

みのる君に電話しました。

今日(6日)、旧鶴来町、現在の白山市に住む大学時代の親友みのる君に電話しました。

昨年の能登半島を震源とする震度6強の地震の時に、何十年ぶりかで電話し、元気な声を聞きました。その時はみのる君の住む町はほどんど被害がなかったということで安堵しましたが、今回は震度7で、震源地である能登半島の揺れは2011年3月11日に宮城県沖を震源とする震度7の地震の揺れと変わらないほどのとてつもない揺れであったという事で、また日を追うごとに被害の甚大さが明らかになり、金沢市内でも被害が出ているというニュースもあり、すぐには電話できずにいました。

地震は今日現在も止む事なく発生している状況ですが、声を聞こうと決めて電話しました。電話の向こうからの第一声は「おめでとう~」でした。その声で、安堵しました。こちらの電話した思いを察したみのる君の「おめでとう~」でした。

実際、白山市も震度5で大変揺れたと思います。それでも家族にも家にも被害は無かったようで安堵しました。金沢市内に娘が住んでいるけれど被害はなかった様でした。

でも、みのる君の会社に勤める珠洲市出身の若い女性社員の事をとても気に掛けていました。週明けに顔を合わすけど、どう声かけしようか思案していると話していました。

また鶴来町の初詣で賑わう神社に大岩が落ちてきて、人の出入りのある場所の手前で止まったという話を聞きました。

そして鶴来町の更に南奥、岐阜県との境近くにある手取りダムからパイプラインで能登島まで水を運んでいるが、そのパイプラインのどこかが破壊されたため、水がまったく能登半島に供給できていないと聞きました。このパイプラインは、私が卒業した後に開通したものであると話してくれました。それまでは能登半島の人々は水も自給自足であった様です。

また人的被害についても、私は正月の帰省が災いして若い人の犠牲者が出てしまったのかと話したところ、みのる君は、帰省で若い人が震災の地にいたから、SOSが発信されている。もし帰省の時節ではなかったら、能登は高齢者の一人世帯が多い為に、被害の様子もSOSも何も発信されぬままになって、今以上に非常に深刻な状況になっていただろう、と話していました。そとから知る事、そとに発信されている事だけでなく、内で見ている人の、内から発信している人の情報に、もっと私たちはフォーカスしなければならないと思いました。


その後は、しばらく学生時代の貧乏生活の話に花が咲きました。みのる君は、二人でよく利用した飲食店の名を覚えていて、先日も一軒の店にいった話をしてくれました。昔は、学生は貧乏だからと大盛りを運んでくれていました。貧乏でいつもお金にピーピーしていましたが、アルバイトで得た金で、けっこうしっかり飲み食いはしていました。でも、本当、大盛りは助かりました。いつも腹ぺこでしたから。 

2024年1月6日土曜日

カズヤ逝く

5日の朝、一本松連中の幼なじみ、カズヤが逝きました。

昨年の夏の終わりに友だち四人で会いました。その一人がカズヤでした。その日、カズヤは退院したその足で集まりに参加してくれました。

イチャさんは、それが何より嬉しくて、少し調子に乗りすぎてしまい、いつもなら笑って怒って許してくれるカズヤが、本気で怒って沈んで黙ってしまいました。その日、カズヤに会う前に、イチャさんからカズヤが入院していて、今日退院で、その足で来てくれると聞いていました。カズヤはその時も体調が思わしくない様子でした。でも、これからは良くなると思っていました。

10月15日の朝、一本松連中の集まりに、一時顔を出しました。その時に、一言二言会話を交わしたのが、最後の会話となりました。その時、集合写真を撮ったのが、私が撮影したカズヤが写る最後の写真となりました。

若い頃はけんかっ早いところがありましたが、最近ではすっかり好々爺の風がありました。子供や孫を大事にしていました。

撮りためていた写真データを、見返し、カズヤが写る写真を探しました。笑みを浮かべる顔は、本当にハンサムです。後、2014年10月15日の本宮、牛谷丁の獅子道中舞で、軽妙に太鼓を叩いて音頭を取る笑顔のカズヤが写る映像がありました。こちらを向いて何やら言葉を発しているカズヤがそこにいました。

私は明日の告別式に参列する予定で、今夜の通夜に参列していません。ですから、まだ実感が湧きません。近くにいても、顔をあわせて話すのは年に数回程度です。ですから、少し時間がたったら、また顔を見られる様な気分でいるのです。昨日今日と面会したイチャさんなどはきっといま辛い気持ちになっているのだろうなと思います。

2024年1月4日木曜日

神も仏もないのか

三日、友だちと会った時の第一声でした。

元旦の午後4時10分頃に能登半島地方で起こった震度7の大地震です。震源地となった能登地方から直線距離で約350㎞のここ播州地方にも長周期震動が届き、地震の規模の深刻さを実感しました。その被害は日を追うにつれて深刻さを増しています。

そして二日の午後5時50分頃に羽田空港で起こった航空機衝突事故です。着陸した直後の旅客機が滑走路に侵入していた海上保安庁の小型輸送機と衝突し、小型輸送機は爆発大破し、旅客機も火を噴きながら停止、それから20分ほどで機全体が炎に包まれました。旅客機の乗客乗員379名が乗務員の冷静な誘導によって、停止後18分で全員が無事避難できた事は本当に幸いでしたが、能登地方に救援物資を届けるために小型輸送機に搭乗していた海上自衛隊の5名の隊員が死亡、1名が重傷を負われた事は、言葉にならないほど辛い出来事となりました。


神も仏もないのか


正月は、特に日本人が神仏に集い手を合わせて願い事をするという、古来からのしきたりの神聖な日です。神仏を身近に感じる日です。なのにこんな仕打ちを日本人に行うのか、という憤りも分かります。

私はどういうものかを言葉で説明する事はできませんが、この世界、あらゆる世界を創造し、永遠に見守り続けている存在はある、と思っています。存在は、この世界のあらゆる生きとし生けるものの創造主であり、創造したあらゆるものの誕生を見守り、死滅を見守ります。逆説的に云えば、誕生も死滅も私たちの行動や進歩に懸かっているという事です。もし存在が私たちに慈悲により望みを叶えてくれるとするなら、憎悪によって絶望に落とすことにもなるでしょう。慈悲や憎悪は、人間特有の感情であると私は思っています。存在は、慈悲や憎悪を超越した存在だと私は思っています。

だから、地震の深刻な被害や飛行機事故は、私たち自身が受け止め、私たち自身で対処しなければならない事です。地震の被災者に手を差し伸べて、苦しみを分かち合い、助け合い、復興に向けて気持ちを一つにする。飛行機事故も同様に、原因を究明して、二度と同様の事故が起きない様、防ぐ事ができる様にする事です。

そういう私たちの行動こそ、存在が望む事ではないか、と思います。

2024年1月1日月曜日

百寿

年が明け、2024年(令和6年)になりました。

そして母郁子は、百寿を迎えました。1925年(大正14年)7月28日生まれで、今日で数えの百歳です。

母は、戦時下で青春時代を過ごし、終戦の年に成人式を迎えた母です。

それなりに波瀾万丈の人生を生き抜いて、90歳を超えたあたりから認知症状も進み、今ではどこに住んでいるのか、誰と住んでいるのか、もしかしたら不安で一杯かも知れませんが、日一日を淡々と過ごしています。

何をするにも介助が必要ですが、それでも本人が気持ち動いてくれるから、介助作業も張り合いが持てます。そこが我が母ながら凄いな、と思います。