沖縄県が制定している記念日『慰霊の日』(6月23日、沖縄戦等の戦没者を追悼する日)の今日、朝日新聞の
記事:「ありったけの地獄」沖縄戦とは何だったのか?
https://www.asahi.com/articles/ASS6P3T3XS6PUTIL032M.html?iref=pc_ss_date_article
の記事は『米軍は「ありったけの地獄をあつめた」戦場と呼んだ。』という書き出しで始まっていました。が、この一文についての解説や補足説明はありませんでした。
ググって見ますと、ある方のブログに、
『アメリカ軍兵士が、目の前の惨状を見て口にしたと言われています。』
と書かれていました。
ウィキベディアの沖縄戦の概要説明には、
『沖縄戦は、1945年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、沖縄本島での組織的な戦闘は4月1日に開始、6月23日に終了した。』
『使用された銃弾・砲弾の数は、連合軍側だけで2,716,691発。この外、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われた為「鉄の暴風」と表現される。』
『残された不発弾は、70年を経た2015年でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる不発弾処理が続く。1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件見つかっている。』
『沖縄での両軍および民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は、沖縄県生活福祉部援助課の1976年3月発表によると、日本の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。戦前の沖縄県の人口は約49万人であり、実に沖縄県民の約4分の1がなくなったことになる。』
住民の犠牲者数については、
『沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明で94,000人は推定である。終戦直後の1946年統計は戸籍が消失したり一家全滅が少なくないなどの諸事情により誤差が大きいと思われ、また、1946年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は沖縄県に不在だった本土への疎開者、また海外からの引き揚げ者4万人以上や復員兵が多数含まれる為、計算上の人口減少より実際の戦没者の方が大きいと推定される。』
『また、日本側死亡者のうちに朝鮮半島出身の土木作業員や慰安婦など1万人以上が統計から洩れているとの見方もある。』
アメリカ軍側の戦死者については、
『アメリカ軍側は死者・行方不明者20,195人となったが、これは1944年12月に戦われた西部戦線最大の激戦の1つであるバルジの戦いの戦死者最大約19,000人を上回り、アメリカ史上での、オーヴァーロード作戦(ノルマンディーの戦い)、第一次世界大戦におけるムーズ・アルゴンヌ攻勢に次いで3番目に死者数が多い戦いであった。』
『戦傷者は最大で55,162人、戦闘外傷病者26,211人を加えた人的損失は実に投入兵力の39%という高水準に達した為、ハリー・S・トルーマン大統領らアメリカの戦争指導者たちは大きな衝撃を受けて、のちの日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」の方針決定に大きな影響を及ぼした。』
などが書かれていました。
沖縄戦の激戦の1つとされる「前田の戦い」という日本軍陣地「前田高地」を巡る戦いを描いた映画があります。2016年に公開された「ハクソー・リッジ」です。監督メル・ギブソンは、前田高地をこの世ではない地獄の世界として映像表現していました。日本兵は殺しても殺しても立ち上がり向かってくる屍人として表現していたのも印象的でした。
これほどまでに、アメリカ軍兵士におぞましいと言わしめた惨状は、誰が引き起こしたのか?何が引き起こしたのか?誰も止めようとはしなかったのか?
沖縄県の平和記念公園の平和の礎(いしじ)には、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名が、国籍や軍人、民間人の区別なく、刻まれ続けています。掲げられた理念には、『国内外の20万人余りのすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和の享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。』と書かれていました。
現在は、やはりかりそめ平和なのだと思います。沖縄戦ひとつをとっても、79年と年月ばかり過ぎて、日本政府すら総括したことがありません。アメリカは尚更です。
現状のなし崩しの平和を受け入れている状況では、いつまでも戦没者の御霊は彷徨うばかりなのではと思います。
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