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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2023年9月15日金曜日

阪神優勝!!!!!!(!が6は、岡田彰布監督が胴上げされた回数です(#^.^#))

いまはもう熱烈な阪神ファンではなくなりましたが、少年の私を阪神ファンに育ててくれたサンテレビが独占中継し、1985年の日本一メンバーである掛布さんと真弓さんが解説されると知り、そしてなにより今日、甲子園で優勝が決まると確信して、久しぶりに野球中継を18時から試合終了まで観ました。

マジック15から11連勝で一気にセリーグ優勝を果たしたこの試合は、肘の大怪我から復活を果たした地元兵庫県出身の才木投手が先発し、岩貞投手、石井投手、島本投手の中継ぎ陣と、そしてこの数年、阪神のブルペン人のリーダーして活躍し続けてきた岩崎投手が、巨人の猛追をかわして勝ちきるという、今年の阪神のどの投手が出て来ても勝ちに貢献できるという強さを体現していました。
野手陣も良いですね、リードオフマンとして攻撃を牽引した近本選手と二番の中野選手が、確かなバッティングとすきを突く走塁で対戦相手のバッテリーや野手をかきみだし、ルーキー森下選手も好打者の片鱗を存分にアピールするとともにと全力走塁でチャンスを広げ、一年間四番に座り続けた太山選手、そして左の長距離砲佐藤選手が走者をかえすという、今年おなじみとなった攻撃シーンをこの試合でも観ることが出来ました。

試合終了直後、岡田監督がお立ち台で選手とファンに向けて語ったユーモアあふれる、愛情あふれる言葉は、とても印象的で、心にしっかり届きました。はじめて、岡田監督ありがとう!そういう気持ちになりました。

そして私は、22時40分から開始する祝勝会の番組を急遽録画予約して、そしてアルコールは一滴も飲まずに寝ました。でもよく眠れました。

朝起きてテレビを付けると、昨夜の戎橋界隈の喧噪を映し出していました。大勢の若者とそれを取材する記者やテレビリポーター、そして事故が起きないようにと警備に駆り出された千名を超える警察官で、ごった返していましたね。
死者はもとよりけが人が出なかったこと、器物損害などの破壊行為が行われなかったことで、阪神の優勝が汚されなかったことはなにより良かったですが、警備に駆り出された警察官の皆様には、私、関係ないですが、非常に申し訳ない気持ちになりました。

1985年10月16日、というか翌日17日のまだ陽の明けぬ時間に、私も戎橋の喧噪の中にいました。
16日、神宮で行われた優勝の決まる試合を、職場近く、淀屋橋界隈の居酒屋にラジオを持ち込んで、会社の同僚たちと試合終了まで居座り、そこから北の行きつけのスナックに場所を移して、夜中まで六甲おろしを歌い続けました。どこからか優勝祝いの行進が御堂筋で始まるという、言わばデマに乗せられて、深夜に阪神百貨店本店前に向かうと、そこはもう一群であふれかえっていました。そこで、優勝の文字が書かれた横断幕が披露されたのか、歓喜の渦に包まれましたが、結局、御堂筋行進はなく、そこから先輩の行きつけのスナックに再び場所を変え、三時過ぎまで六甲おろしを歌い続けました。その夜は、北の歓楽街の店という店から六甲おろしが鳴り響いていた様に思います。
そして、先輩と二人で南を歩いて目指すことにしました。もうその時間には南までの御堂筋の道中は、閑散としていました。が、残念なことに、暴走した者たちによって、歩道を彩る花の鉢や看板、駐車中の自転車やバイクが、引き倒された惨劇の後を、道中ずっと眺めることになり、戎橋についた頃には、すっかり優勝の幸福感や高揚感は冷めていました。戎橋の喧噪や道頓堀橋の上でまだ進行中の破壊活動を目の当たりにした時、これじゃあ六甲山にでも登って、静かに優勝を祝う方がよかったなと嘆きたくなる気持ちになったことを、思い出します。

その意の申し訳なさが甦ってきたのだと思います。

最後に、トラッキーの背番号が、来年こそ1985から更新されること、心から願っています。頑張れ阪神、日本一、応援してます。