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寅次郎を通して考えた、学校ってなんだろう?先生ってなんだろう?

学校ってなんだろう? 勉強するところかな 友達をつくるところかな でも素朴に 学校に通う子どもにとって 楽しいところ 安全なところ 一人の人間として 誰とも違う個性を認めて貰えるところ 一人でなく回りの仲間と成長できるところ であって欲しいと思います。 ...

2012年7月6日金曜日

『自殺の練習』という犯罪


学校で起こったある出来事を、いまでも鮮明に覚えています。
生徒同士が言い争いになって、一人が
『死ね!』と叫びました。
その一言で、廊下にいた生徒らは皆凍り付きました。
先生が飛んできて、その喧嘩をしていた生徒を職員室に引きずっていきました。
そして、各教室では急きょ担任の先生が、
『死ね!』という事が、どんなに酷い事かを生徒らに厳しく指導されました。
昭和44年の頃の出来事です。
当時、『死ね!』という言葉は、禁句であり、それを発するのは犯罪行為と同等でした。

仕事から帰って、7時のニュースを見ていますと
昨年秋に起こった痛ましい事件について周囲の生徒らにアンケートを実施したところ
いじめの行為の中に、『死の強要』があった事が明らかになったと伝えていました。
しかし、その行為の表現があまりに稚拙で呆れてしまいました。
『自殺の練習』
そんな練習などありません、命は一つしかないのです。
『自殺をするように仕向けた』が正しいし、これは明らかに悪辣な犯罪行為です。

現在の私たちは、普通の会話の中で
『死ね』とか『殺すぞ』と言う言葉を発します。
これはなにも殺意を抱いて発している訳では無く、おおむね駄目だしとして使用しているのです。
でも発する側は、言葉の乱用で、言葉が持つ本来の重み、痛みに麻痺します。
しかし、その言葉を投げつけられた側は、いつまでも重み痛みが突き刺さるのです。

私たちは間違った『表現の自由』によって、なんでもありという風潮が蔓延し、
どんどん言葉は破壊され、言葉による表現力、語彙力を失おうとしています。
そして言葉に込められた、『歴史』、『表現』、『道徳』、『戒め』という文化、文明をも失おうとしています。

重大な危機です。

道徳や戒めは、机上や議論からは生まれず、辛い経験によって形成されます。
特に教育に携わる者は、不毛な議論や責任転換で身を貶めることは止め、これ以上辛い経験を繰り返さぬために、自ら道徳に、そして戒めに立ち戻って、身を正し、
『人の道』
を正す者、指導する者として清廉となって働いてほしい、そう願います。
そして私たち、大人と称するものたちの社会にはびこる『不徳』が、子供社会を荒廃させている事に、気づき、身を、そして社会を正さなければいけない、そう思います。