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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2015年1月31日土曜日

NHKアーカイブス「戦後70年 人間の闇 アウシュビッツ」を観ました。

フォトジャーナリスト大石吉野さんがゲスト解説で参加され、
「死の国の旋律~アウシュビッツと音楽家たち」が放映されました。
※番組参考ページへのリンク
死の国の旋律~アウシュビッツと音楽家たち~を見て
http://eritokyo.jp/independent/ikeda-co1139.htm

※wikipedia:アウシュビッツの女性オーケストラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9

アウシュビッツ強制収容所では、囚人たちのオーケストラが組織されたというのです。
ナチスが囚人たちの中から楽器が演奏できるものを募集し、演奏と引き替えに命が保証されました。
彼らオーケストラ楽団員の仕事は、囚人が処刑されるまでの間、賑やかな協奏曲を収容所内で演奏したり、強制労働させる囚人を、せきたてる音楽を演奏することでした。
またガス室による大量殺戮が始まると、貨物列車で送り込まれ、すぐに選別され、ガス室送りされる人々に死の疑念を悟らせないために、和やかな音楽を演奏しました。
音楽が、大量殺戮に荷担させられたのです。そして、殺戮者への恐怖心の増幅に利用されたのです。
そのオーケストラの元団員で、放送当時存命であった一人の女性の回想がありました。
彼女は生き残るために究極の選択を突きつけられました。殺戮者に従うか拷問により苦しみ抜いて死ぬかという選択です。そして彼女は、生き残る選択をします。それは自己の崩壊を意味しました。
1945年1月27日、アウシュビッツ収容所が解放された後、彼女は故郷クラクフに帰郷しますが、同胞の殺戮を手助けした罪過に苦しみます。仕事にも就けず、結婚もできず、大好きなはずの音楽さえあの日々を思い出すことになるために聴くことができなくなったのです。その苦しみは、80歳を越えた今も続いているのです。

彼女の回想の中で、楽団員であった若い女性の話がありました。
若い女性の兄は、同胞をガス室に入れ、処刑した後、遺体から金品となるものをはぎ取って、そして焼却炉に放り込む仕事をしていました。
ある日、その兄から手紙が来ます。短い手紙には、「今日、父と母をガス室に入れました」と書かれていました。若い女性は兄の所行をしって錯乱し、高圧電流が流れる鉄条網に身を投げて自殺を図ろうとしますが、彼女は若い女性を暴打し我に返らせた後に「私たちは(あなたの兄と)何も変わらない」と諭します。同胞を殺して、私たちは生き延びているのだと、と諭します。

「死の国の旋律~アウシュビッツと音楽家たち」放映が終わった後、ゲスト解説の大石吉野さんが、この40年間で紛争地に赴き、撮影した写真とともに「人間の闇」について語られました。
1970年代カンボジアで起こったクメールルージュによる大量殺戮
1980年代ユーゴスラビアで起こった民族や宗教の異なる勢力同士の大量殺戮を伴う紛争
そしてアフリカ諸国で起こった部族の異なる勢力同士の大量殺戮を伴う紛争
この殺戮に荷担した者のほとんどの動機は、首謀者に刃向かい殺されるよりも、殺す側になって生き延びるという選択でした。恐怖が彼らを殺戮者に仕立てたのです。
また、殺戮された側には恨みが生まれます。それは深い怨念へと成長し、そしてまた彼らも殺戮者へと仕立てます。

殺戮の連鎖を絶つためには、恨みを深い怨念へと成長させないこと、そのために世界中が協力して、被害者を保護しなければいけない、という大石吉野さんの言葉が、とても重く心に残りました。

私たちは、今まさに私たちが遭遇しているイスラム国の恐怖の中にも、これまで世界が見捨ててきたたくさんの悲しみや恨みがあることを、理解しなければいけないと思います。
私たちは、イスラム国の恐怖に、悪意に断固戦わなければならない。
しかし、その基となる悲しみや恨みの連鎖も絶たなければならない。
悲しみや恨みに暮れる人々に、怨念ではなく、平安の種をまき、平安を広げる支援をしなければならない、そう思います。

2015年1月27日火曜日

至高の横綱白鵬関

私は大相撲には余り関心がない方なのですが、横綱白鵬関には感服します。
前人未踏の33回優勝もさることながら、その浮世絵から抜け出たような男っ振りと、そして富士山の如く悠然とした立ち居振る舞いに感服するのです、惚れ惚れするのです。

そんな白鵬関が、初場所優勝後の会見で発言した一言で、思わぬ苦境に立たされています。
初場所優勝を決めた13日目の稀勢の里戦で審判部が下した取り直しの判断を「疑惑の相撲」と表現したのです。勝負判定への疑念を
「こっちは命をかけてやっている」
「(勝敗を正しい判定は)子供が見ても分かる」
と、少し感情の高揚が見て取れる発言ではありましたが、
日本のメディアや相撲協会は、このような審判部批判ともとれる発言は、横綱の会見にふさわしくないと批判し、横綱白鵬関の資質を問うたのです。

大相撲はこの数十年、日本人の名力士が生まれなくなりました。
日本人の保育が過保護となり、ハングリー精神が育たなくなった
そして、本来厳しい社会である角界に入門できるものがいなくなった
それがため、入門者を過保護に育てたり、また力量が未成熟のまま上位に引き上げたために、名力士と呼ばれるまでに廃業する者が後を絶たすという状況を生んでいるのではないかと察します。

そんな中、外国人の入門者は、海を渡って日本に来、言葉も通じぬ、作法もしらない世界で、自分だけを信じて、強くなろう、偉くなろう、出世しよう、と相撲道に邁進したのだと思います。時には外国人ということで不快な思いもした事でしょう。そして今、彼ら外国人力士は、相撲界を担う者となったのです。

大相撲は日本の国技であり、興行であり、見世物でもあります。
ですから、たとえ外国人力士であっても髷を結い、着物を羽織り、力士の立ち居振る舞いを身に着けねばならない。そういうものだと思います。
ですが、大相撲はもっともっと現実的に、力士にとって、ファンにとって、良いものに変革しなければいけないと思います。
横綱白鵬関の素直な発言は、大相撲の慢心への警句だと思います。
そんな警句を、旧態依然とした相撲協会の体質や、旧態依然の国技を礼賛しかできないメディア、そして日本人贔屓の大衆心理が、葬ろうとしているのではと思います。

横綱白鵬関は、モンゴルの宝です。そして日本の宝です。
横綱白鵬関は、横綱を真摯になって生きているのだと思います。
私たちはもっともっと横綱白鵬関を大切にしなければならないと思います。

2015年1月25日日曜日

シリアの名もない市民の、とても印象的な嘆きの言葉

今朝の朝日新聞朝刊一面の「内戦下、心痛める市民」という記事の中に、シリアの名もない市民の、とても印象的な嘆きの言葉が書かれていました。
「カネのために何でもやり、言うことをきかない相手は暴力で屈服させるのは『イスラム国』だけじゃない。多くの人がモラルを失ってしまった」
ここに知るし留めます。

憤り、憤慨、苛立ち・・・そして苦み

憤り、憤慨、苛立ち・・・そして苦み
イスラム国と名乗るテロ集団が、起こした日本人拉致、ネットに公開された人質身代金要求、そして殺害映像と新たな人質交換要求・・・

息子が、友だちに誘われてネットに拡散された殺害映像を見たと話します。
今事件が発生して、事件の経過を注視していましたが、一番心が乱れました。

イスラム国は、彼らではないすべての人々に、計り知れない恐怖を植え付けようとしている!日本人に計り知れない恐怖を植え付けようとしている!そして、それは成された・・・

彼らではない私たち、共生や親和を尊ぶ人々、生活を豊かにする技術を生み出す人々、
そんな私たちが生み出したSNSが、彼らの武器となり、
そして私たち自身が、彼らにいいように使われて、
SNSで恐怖を拡散している。決して見てはいけないおぞましさを拡散している。
私たちは、何気に、そして簡単に、その恐怖、そのおぞましさにアクセスし
彼らの術中にはまってしまったのです。

私自身、朝おぞましいニュースをテレビで知ってから、ネットニュースにもアクセスしました。見たくはない、けれども万が一見るかもしれない。そんな誘惑に駆られた節もあるのです。ですが、理性で深みに入らず制止はしました。

でも息子は、そして友だちは、見てしまった。
おぞましさに、もしかしたら魅了されたかもしれない、
そして、おぞましさを招いた者に、計り知れない恐怖で支配されたかもしれない
そういう事態に直面した事に、心が乱れたのです。

そして、もう一つ
私自身、人の命の重さを天秤にかけていたことに気付きます。
最初の身代金事件が発生してから、テレビや新聞によって、二人の人質が事件に巻き込まれるまでの経緯が克明に伝えられました。
一人は、民間軍事会社を興すために
一人は、ジャーナリストして人道問題に光をあてるために、そして人質救出のために
レッドゾーンに向かったと報道されました。
二人には、どうかして生きて帰って欲しいと願います。(願いました・・・)
しかし、その思いには差があります。感情が思いの差を生むのです。
そういった自分の中の恐ろしい感情が、白日の下に晒されたような気持ちになって苦いです。