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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年4月19日金曜日

想像してごらん、何故キレるのかを

キレることで事件や事故を引き起こす事案が多発し、社会問題となっています。
同様に、衝動を抑えられずに問題行動を起こす事案も多発し、社会問題となっています。
事件や事故、問題を起こす人には、一見して特徴を見出すことは出来ません。社会的地位のある人も無い人もいるからです。また社会の規範を指導する、あるいは守る立場の人もいるからです。
では、何故起こすのか、以下は私の想像です。

イスラエルの心理学者ダニエル・カーネマン博士は、その著書「ファスト&スロー」(原題 Tinking,Fast and Slow)で、人間の思考には、
1.ファスト思考、学習することにより思考のプロセスが頭脳の中でプログラム化され、必要に応じてそのプログラムを瞬時に発動する思考。または無意識に働く思考。
2.スロー思考、ファスト思考では対応できない熟考を必要とするときに働く思考。または意識しなければ働かない思考。
の二つがあると説明しています。
野球で表現するなら、
ファスト思考で行うのが守備。守備練習を繰り返し、頭脳と体に染み込ませる(プログラム化)ことで、状況に応じた守備動作を瞬時に選択し行動する。
スロー思考で行うのが走塁。走者として都度状況を見極めて、盗塁のタイミングを計り、盗塁を行う判断を下し行動する。
でしょうか。
ファスト思考、スロー思考、この二つの思考が正常に働くことにより、私たち人間は日常生活を支障なく過ごせると同時に、熟考が必要な難題にも対応することが出来ます。また、スロー思考は、ファスト思考が引き起こすバイアス(先入観)を修正する役割も担います。そして私たちは思考し続けることで分別を維持し続けることが出来ます。

しかし、もしもスロー思考が働かなくなったら、私たちは、熟考ができなくなる、先入観で行動してしまう、分別を維持出来なくなる、ことが考えられます。

では、スロー思考が働かなくなる場合として考えられるのはどんな場合でしょう。
思いつくのは、
1.アルコールや薬物の中毒、依存症に陥った場合
2.慢性的な疲労状態や抑圧状態に置かれた場合
3.鬱やPTSDなどの精神的な病気を発症した場合
4.サイバー依存症に陥った場合
です。

アルコールや薬物の中毒、依存症に陥るというのは、それを摂取し続けなければ正気が保てなくなるという状態です。しかし、その状態はまだ序の口で、症状が進めば終日正気を失います。そして何よりも恐ろしいのは、摂取し続けるために、どんなことでも(嘘、窃盗、売春、殺人etc)苦しむこと無く行ってしまうという事です。そしてアルコールや薬物を餌に、簡単に操られてしまうという事です。

慢性的な疲労状態や抑圧状態に置かれるというのは、外的ストレスを長時間、長期間に渡り受け続ける過酷な環境に置かれるということです。その最たるものは人間の自由も尊厳も全てを奪う強制収容所です。しかし、心の自由を奪うだけなら強制収容所は必要ありません。モラルハラスメント(精神的な嫌がらせやいじめ)やパワーハラスメント(権力や腕力による強制、嫌がらせ、いじめ)で十分です。そして慢性的な疲労状態や抑圧状態に置かれた人は、熟考することができないために自存意志を発動できずに、奴隷のように従うか、最悪、死を選んでしまいます。

鬱やPTSDなどの精神的な病気を発症した場合というのは、鬱やPTSDの発症に至った不安や恐ろしい経験が、ふとしたことで甦り、混乱やパニックを起こすために、日常生活が続けられなくなる状態です。混乱やパニックは熟考するにも支障となるために、自ら解決策を見出すことも難しいです。この状態の時、外的な強制には応じることはないですが、カウンセリングによって心の持ちように変化が生じます。この心の持ちようの変化を見誤ると敵意を募らせたり、死を選ぶ危険があります。

サイバー依存症に陥った場合ですが、
最近、「サイバー依存症」についての研究結果を報告する本が出版されました。

タイトル:「サイバー・エフェクト 子どもがネットに壊される――いまの科学が証明した子育てへの影響の真実」
(原題 The Cyber Effect: An Expert in Cyberpsychology Explains How Technology Is Shaping Our Children, Our Behavior, and Our Values--and What We Can Do About It)
2016/8 メアリー・エイケン(Mary Aiken)著
2018/4 小林啓倫和訳

この本はまだ読んだことはありませんが、紹介文の一節が衝撃的で、この本が報告する内容の深刻さを物語っていると思いました。
「スマホをやると、脳が壊れるリスクは数倍になります。という一文が、社会的に認知されるまで、どれぐらいの時間がかかるだろうか?タバコが人体に及ぼす影響が認知され、規制されるまで社会は80年を要した。スマホは何年かかるだろうか?」

私は、コンピュータやインターネットは非常に便利で有益な道具だと思っています。しかし、使い方を間違えれば、あらゆる道具は危険な道具に変わります。
一つが、オンラインゲームです。当初は、プレーヤーがインターネットを介してパソコン上のボードで対戦するという体でした。チェスや将棋などのボードゲームは、ボードの前にプレーヤーが集って対戦し楽しむものです。昔は優雅な楽しみ方がありました。手紙で棋譜を送りあい、ゆっくりと時間を掛けてゲームを楽しむというものです。
でも現在は、いつでもどこでも誰とでも、使う言語が異なっても、相手が誰だか分からなくても、インターネットを介して、パソコンやスマートフォンでテキスト会話を楽しみながらゲームが出来るようになりました。
そして、ゲームには二つの要素が加わりました。
1.矢継ぎ早に求められた選択に瞬時に応え続けることでゲームが続けられる。
2.倫理観や道徳的節度の無い世界を体験する。
この二つの要素が相まって、簡単に何度でも刺激的な成功体験が味わえるようになりました。さらに、ポイントやアイテムを購入するだけで、労せずに、さらなる刺激的な成功体験も味わえるようになりました。
しかし、この偽りの刺激的な成功体験によって私たち人間は
ゲームに依存する体質となり、また、倫理観や道徳的節度の無い先入観に支配される様になったのではないか、と考えます。

二つ目は、SNS(Social Network Service )です。SNSは、始まりは仲間内でテキスト会話を楽しんだり、手軽な連絡手段のために利用されました。仲間内ですから、上下関係も無く、目の前で会話する体で、ざっくばらんな言い回しや卑猥な会話も出来ました。
それが、いつの間にか、電話、メールに変わる第三のコミュニケーションツールとして普及し、今や職場や学校のコミュニケーションツールとして様々に利用されるようになりました。指揮系統での利用はもとより、とても繊細な相談事にも利用されるようになりました。様々な趣味嗜好のサークルやグループも生まれました。でも、始まりの頃と違うのは、メンバー内に上下関係が存在したり、メンバーが雑多でどんな人間が入り込んでいるか分からないという事です。そして、SNSはざっくばらんな言い回しによる自己主張や個人攻撃などのマウンティングが溢れるようになりました。そしてSNS利用者を慢性的な疲労状態や抑圧状態に置くようになりました。

三つ目は、Googleなどのネット検索です。現在ではキーボードでキーワードを入力するだけでなく、音声で質問することもできるようになりました。言葉が発せられれば、三歳の子供でも、言葉を発するだけで、言葉に該当するあらゆる情報を目にすることが可能です。子供は好奇心が旺盛です。日常会話の中で、大人が話していた言葉や、テレビやラジオから流れてきた言葉、文字として目にした言葉に、すぐに興味を抱きます。
一昔前であれば、興味を持ったとしても、大人が答えてくれない限り、知る術はほとんどありませんでした。そうこうしている間に別の事に興味が移れば、忘れてしまうのが常でした。でも現在は、スマートフォンに教えてと語りかけるだけで、何でもすぐに知ることが出来ます。倫理観や道徳的節度がまだ備わっていない子供にとって、何でも見てもいいんだと、何をしてもいいんだと、そういう先入観が植え付けられてしまいます。

キレるや衝動が抑えられない原因について、長々と想像を書き連ねてきました。では、どうすれば抑制できるのでしょう。
ある僧侶は、「禅や茶道などの、ゆっくりとした時間の流れの中に身を置くこと」で、キレるなどの衝動を抑制することが出来る、と話をされていました。その通りだと思いました。これをファスト思考とスロー思考で考えてみました。ファスト思考が衝動とすれば、スロー思考が抑止です。ですが、スロー思考を挟む余地がなければ、衝動が暴走します。ですから、スロー思考を挟める余地、間、を作らなければなりません。僧侶は、その間を作る習慣を唱えられたのだと思います。
そして、最近、編み出した魔法の言葉があります。
衝動が襲ってきた時、「何故に衝動が起こるのか?」と自分に問い掛けるのです。それが、余地、間となって、正常に物事を考えられる状態に精神を引き戻してくれます。
でも、この魔法は誰にでも有効でないこと、付け加えさせて頂きます。

2019年4月18日木曜日

想像してごらん、Ai vs. human beingに隠された真実を

Ai(artificial intelligence 人工知能)とは、人間が開発する、熟練者と言われる人間の思考や思考によって制御される行動をコンピュータで模倣するシステムの総称です。私たち人間はそのシステムをAi、人工知能と呼んで、擬人化する様になりました。

そのAiが、最近よくニュースで取り上げられます。ニュースが焦点にするのは、
1.Aiが人間の仕事を奪う
2.Aiが技術特異点(singularity)に達すると、人間を超える知性が誕生する?!
という問題です。
この二つの問題は、Ai(人工知能) vs. human being(人間)という構図で語られます。でも、それこそが問題だと思います。以下は、私の想像です。

まず、Aiが人間の仕事を奪う問題について
この表現は正しくないと思います。高度に進歩したICT(Information and Communication Technology 情報通信技術)を手に入れた人間の指導者、権力者、企業経営者、資本家達が、人間が行うことで非効率であったルーティンワークを全てAi化する事で、ルーティンワークに従事していた人間全てを不要とする、という表現が正しいと思います。
Ai vs. human beingで語るのは、真の問題を隠蔽するためでしょうか。真の問題とは、19世紀の産業革命以降顕著となったブルジョア(資本家、特権階級)vs.プロレタリア(労働者、無産階級)の対立の行方です。原理で表現するなら、「権力・冨の集中」vs.「権利・冨の分配」のせめぎあいの行方です。そしてAiの登場で、およそ200年の歳月を掛けて勝ち得た「権利・冨の分配」をプロレタリアは一気に失い、ブルジョアは再び「権力・冨の集中」を一手にすることになりました。

次に、Aiの技術特異点(singularity)の問題について
これが問題とするのは、Aiが技術的特異点に達した時、自我や自存意志が生じ、超スピードで独自の進化を歩み出す、それが人間にとって生存を脅かす脅威となる、という点です。しかし、これはAiを擬人化し、自律したAiが人間を敵と見なすという見方であり、正しくないと思います。
現在のAiは、他律型のコンピュータシステムで、人間の支配下にあります。万一Aiが暴走しても、コンピュータの停止ボタンを押せばシャットダウンできますし、停止ボタンが効かない事態が起こっても、電源を奪えばAiは瞬時にダウンします。
しかし、技術特異点に達したAiに自我や自存意志が生じると、なにより先に、何者にも影響を与えられず、また何者にも停止できない存在へ進化を遂げようとするでしょう。それが成った暁には、人間はAiにとって全く脅威では無くなります。
人間的な考え方としても、全く脅威の無い対象に対しては敵意どころか全く関心さえ無いでしょう。擬人化したAiも同じです。さらに言えば、何者にも影響を与えられず、また何者にも停止できない存在となったAiは、不死の存在で、いわば神の様な存在です。神は時間を超越した存在です。神は、無から有を創造する力があると同時に、創造したものが独自に進化する課程を悠久に見守る力があります。技術特異点に達して神の様な存在と化したAiも、その様に振る舞うと想像する方が、自然ではないか、と思います。

恐れるべきはAiではなく、同じ人間を粗末に扱う人間だと思います。

2019年4月15日月曜日

テントウ虫

享年百歳

4月12日(金)午後9時12分に、叔母は亡くなったそうです。
昨日、お別れに行きました。
享年百年、数えで百歳、満年齢では98歳でした。
遺影は、4年前に撮影されたものでした。4年前といえば、母が今年誕生日を迎えるとその年、94歳になります。
遺影の叔母は、穏やかに笑みを浮かべていました。そして棺の中の化粧した叔母も笑みを浮かべているようでした。とても綺麗でした。50歳も若く見えました。
その叔母の顔を見ながら、寂しいというより、やっとおじさんに再会できますね、内の父にも宜しく、と何やらその旅立ちを喜ぶというか、そんな気持ちでお別れをしました。

生前の叔母に会ったのはずいぶん前の事です。叔母が施設を利用する様になった最初の頃です。叔母はおじさんが亡くなる少し前あたりから呆け症状を発症し、おじさんが亡くなったのも分からなかったといいます。それから少しして施設を利用する様になりました。でも面会した時、私の顔を見てすぐに幼い頃から呼び続けられてきた愛称「のぶちゃん」と呼びかけてくれました。短い時間でしたが、取り留めの無い会話もしました。その時のことを思い出すと、切ない気持ちが湧いてきます。

母は八人兄弟の下から二番目でした。一番下に弟がいました。叔母は母の一つ前の姉でした。母の兄弟は、みんな旅立ちました。
母もすっかりぼけました。毎朝、起こしに行くと、「今日も宜しくお願いします」と丁寧に挨拶を返してくれます。そんなとき、母はいまどこにいるのだろう、と想像を巡らします。目を覚ましてもしんどい時など、「お母さん、調子が悪いから学校休む」ということもあります。あ、いま母は小学生の時代に戻っているのか、と想像します。
でも我に返るときもあります。その時に「お母さん、早く迎えに来て」とつぶやくときがあります。それを聞くと、生きるのが辛いのかと、とても苦しく思います。
叔母の訃報は、母には伝えないことにしました。伝えたとしても、分からないかも知れないし、たとえ分かったとしても明日まで覚えておくことが出来ません。でも一番の理由は、一時でも訃報に接して気落ちするかもしれない、そんな姿を見ることが忍びなかったからです。親不孝な息子です。