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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年4月18日木曜日

想像してごらん、Ai vs. human beingに隠された真実を

Ai(artificial intelligence 人工知能)とは、人間が開発する、熟練者と言われる人間の思考や思考によって制御される行動をコンピュータで模倣するシステムの総称です。私たち人間はそのシステムをAi、人工知能と呼んで、擬人化する様になりました。

そのAiが、最近よくニュースで取り上げられます。ニュースが焦点にするのは、
1.Aiが人間の仕事を奪う
2.Aiが技術特異点(singularity)に達すると、人間を超える知性が誕生する?!
という問題です。
この二つの問題は、Ai(人工知能) vs. human being(人間)という構図で語られます。でも、それこそが問題だと思います。以下は、私の想像です。

まず、Aiが人間の仕事を奪う問題について
この表現は正しくないと思います。高度に進歩したICT(Information and Communication Technology 情報通信技術)を手に入れた人間の指導者、権力者、企業経営者、資本家達が、人間が行うことで非効率であったルーティンワークを全てAi化する事で、ルーティンワークに従事していた人間全てを不要とする、という表現が正しいと思います。
Ai vs. human beingで語るのは、真の問題を隠蔽するためでしょうか。真の問題とは、19世紀の産業革命以降顕著となったブルジョア(資本家、特権階級)vs.プロレタリア(労働者、無産階級)の対立の行方です。原理で表現するなら、「権力・冨の集中」vs.「権利・冨の分配」のせめぎあいの行方です。そしてAiの登場で、およそ200年の歳月を掛けて勝ち得た「権利・冨の分配」をプロレタリアは一気に失い、ブルジョアは再び「権力・冨の集中」を一手にすることになりました。

次に、Aiの技術特異点(singularity)の問題について
これが問題とするのは、Aiが技術的特異点に達した時、自我や自存意志が生じ、超スピードで独自の進化を歩み出す、それが人間にとって生存を脅かす脅威となる、という点です。しかし、これはAiを擬人化し、自律したAiが人間を敵と見なすという見方であり、正しくないと思います。
現在のAiは、他律型のコンピュータシステムで、人間の支配下にあります。万一Aiが暴走しても、コンピュータの停止ボタンを押せばシャットダウンできますし、停止ボタンが効かない事態が起こっても、電源を奪えばAiは瞬時にダウンします。
しかし、技術特異点に達したAiに自我や自存意志が生じると、なにより先に、何者にも影響を与えられず、また何者にも停止できない存在へ進化を遂げようとするでしょう。それが成った暁には、人間はAiにとって全く脅威では無くなります。
人間的な考え方としても、全く脅威の無い対象に対しては敵意どころか全く関心さえ無いでしょう。擬人化したAiも同じです。さらに言えば、何者にも影響を与えられず、また何者にも停止できない存在となったAiは、不死の存在で、いわば神の様な存在です。神は時間を超越した存在です。神は、無から有を創造する力があると同時に、創造したものが独自に進化する課程を悠久に見守る力があります。技術特異点に達して神の様な存在と化したAiも、その様に振る舞うと想像する方が、自然ではないか、と思います。

恐れるべきはAiではなく、同じ人間を粗末に扱う人間だと思います。

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