映画「沈黙 -サイレンス-」のエンドロール、劇中で印象的であった海の音、雨の音、夜の音がBGMとして再び流れてきました。上映室が明るくなるまで、その音に聞き入りました。
帰り道、寒風吹きすさぶ夜道を歩いていて、ふと古い歌のタイトルが頭をよぎりました。
サウンドオブサイレンス
英語がまるで堪能ではない私には、昔から”沈黙の音”と読み替えていたこのタイトルがまったく理解できませんでしたが、でもBGMで流れてきた海の音、雨の音、夜の音こそが”沈黙の音”なのではないか、そう思えてきました。
海の音、雨の音、夜の音、というのはあくまでも比喩ですね。海も雨も夜も、それ自体音を発することはありません。
海の音、厳密には波のうねりの音、波が浜や岸壁を打ち付け割れる音でしょう。
雨の音、それは雨滴、雨垂れが森や大地、そして地上のあらゆる物に落ちる音でしょう。
そして
夜に聞こえてくるのは、あらゆるものが風にそよぐ、また風に打ち付けられる音でしょう。
でもその沈黙が発する音に、私は、私達は畏怖畏敬の念を抱きます。
寒風の中を歩いていて、止むことの無い風が打ち続ける轟音に、じっと堪えながら、そしてこんなことを考えていました。
この”沈黙の音”を静聴し続ければ、いつか神の声を聞くことが出来るかも知れない。でもいつまで私は、それを続けられるだろうか、そして信じ続けられるだろうか・・・、信仰心が試される思いがしました。
追伸.
サウンドオブサイレンス
原曲名 The Sound of Silence
翌日、Googleで検索しますと、
The Sound of Silence-「沈黙の世界」~訳と解釈
http://kiyo-furu.com/silence.html
というある方の長文ページを見つけました。そこには、S&Gのポール・サイモンが紡いだ歌詞の解釈が克明に綴られていました。
その方は、歌詞の中の”within the sound of ~”に注目せよ、と書かれていました。
”~の音の聞こえる範囲内で”という意味だそうで、この歌詞の場合
”within the sound of silence”、「沈黙が届く範囲」、「沈黙の世界」と表現されていました。
1960年代のアメリカはすでに現在と変わりなく、沢山の歌や言葉に溢れていても
人々は喋りはするが、語る事はなく ”People talking without speaking,”
聞いてはいるが、耳を傾けることはない ”People hearing without listening,”
彼らが作る歌では、声は何の役割も果たさない ”People writhng songs that voices never shared.”
そして、この現代の全能の神(聖書の神でないもの)も、沈黙の閉ざされた世界に対しては「囁く」事しかできません。自らが手を貸した沈黙の世界をどう処理する事もできないわけです。僕の言葉が音のない雨粒となって落ちていった様に、それは放置され、今後も癌の様に増殖していくのだと、と括られていました。
サウンドオブサイレンス、”静寂の音”という解釈は、どうも正しくはなかったですが、でも遠からずであったとも思います。
中世の時代も、今から50年前も、そして現在も、根本的な恐れは変わらないのですね。
真実の声は、本当にあるのか?
その声を信じる私達の信仰心は、その終わりの時まで試され続けられるのか?
信仰心が試されるづけることに、少し苦痛を思います。