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映画「ナチュラル」の名台詞を、大谷翔平選手に贈ります。

大谷翔平選手が、信頼する人に裏切られ欺され巻き込まれた疑惑について、自ら矢面に立って会見を開き、大勢の記者とテレビカメラの前で、自らの言葉で、今公表できる事実をしっかりとした口調で伝えてくれました。 その会見が開かれた日、NHKシネマで野球映画の名作「ナチュラル」(The Nat...

2011年2月19日土曜日

3月12日は3回目の、おはなし会朗読担当日です。

昨年、10月8日のブログ投稿で、『12/18、おはなしの会で朗読する絵本、決めました!』と図書館の、おはなし会2回目の朗読について触れましたが、実は、当日朗読したのは違う絵本でした。
YouTubeにもアップしていますが、
C.V.オールズバーグさん絵と文『急行「北極号」 The Polar Express 』
コルネリス・ウィルクスハウスさん絵と文『クリスマスのおくりもの』
の二冊を朗読しました。
準備を進める課程で、よりクリスマスに相応し物語を子どもたちに贈りたいと思い、この二冊に変更しました。

何度も練習を重ねて、本番に挑みましたが、思わぬ苦戦を強いられました。
『急行「北極号」』、横長の絵本で、見開きの頁によって文が右端、左端にレイアウトされています。
私はお話しの会では、本立て用の机の、右側に座り(子どもたちから向かって左側)、机に本を立て、子どもたちに向かって開きながら読み進めますが、見開き頁の右側の文が見えないのです。つまりはこういう事です、ふだん読書用として常用しているメガネ(近視用メガネ)では、見開き頁の右側の文章が遠くて全く見えなかったのです。おはなし会が行われる場所は、児童書コーナーの奥の一角、会の最中は、パーティションで仕切り、天井も高いため、少し薄暗いのです。私の眼の機能が著しく低下していること、改めて認識させられました。
まぁ、文章をしっかり暗記しておればどういうことはなかったのですが、しかし、まだまだ朗読修業の道半ばということでしょうか、次の担当時には、この点も考慮に入れて、本を選択せねば、と反省した次第です。

でも、そうはいっても、読みたい本を朗読したい、伝えたい本を朗読したい、という誘惑がまさり、次のおはなし会に準備している絵本も横長本です。

朗読しようと思っている本は、
スーザン・バーレイさん絵と文『わすれなれないおくりもの』
トーベ・ヤンソンさんの『ムーミンのふしぎ』←横長本です。
です。

『わすられないおくりもの』、『死』を扱った物語です。しかし、悲しみの物語ではなく、たとえるならば春に芽生え、冬を前に枯れ果てる草木でも、種を残し、別の場所で新たな春に芽吹くように、教え与えられた者が、その教え行いを絶やさないかぎり、『生』の喜びは永遠に尽きない、そう作者であるスーザンさんが伝えようとされている物語だと思います。
『ムーミンのふしぎ』、海の青さ、草木染めのピンク色、水によって宝石のように輝く石ころ、オレンジ色に染まる夕空、本当の宝物は手で捕まえる事はできないけれど、じっくりと見て、しっかり頭の中にしまう事で、それは私のなかに留まり決してなくなる事はない、賢者のつぶやきが聞こえてきそうな物語です。
私たちの世代にとってもとても懐かしい、古い友人である、ムーミンとその仲間達が出演して物語を演じてくれます。ちょっと意地悪だけど友だち思いのミイ、おっちょこちょいのスニフ、賢者スナフキン、やさしいムーミンママ、そして永遠の少年ムーミン、本を読んでいて、岸田今日子さん(アニメ『ムーミン』でムーミンの声を担当された、とても知性的でチャーミングな女優さんでした。)が語りかけて下さるような気がしました。

おはなし会の持ち時間は30分、聴いてくれる子どもたち(眼が悪いので、特に最前列で聴いてくれる子どもたち)一人ひとりの顔を見ながら、その表情の変化を楽しみながら、一人ひとりに話しかけるように、朗読できたらと思います。

2011年2月18日金曜日

風が瑞々しくなりました。

お早うございます

早朝、外に出てみれば、肌に当たる風が瑞々しかったです。
今週を振り返ってみれば、週初めには雪が降り積もり、週中も天候は定まらず、そして昨夜は久し振りのしっかりとした雨音を聴きながら寝床に入りました。



今週は空の上で季節のせめぎ合いがあったようです。
7時15分現在の気温は9度、日中もそう気温は上がらないようですが、今年はじめて、春に出会いました。

2011年2月16日水曜日

石平著『私はなぜ「中国」を捨てたのか』読後感想

2月14日、東加古川のマイカル内未来書店を訪れ、幾つかの本を手に取り、パラパラとめくり読みしながら時間を過ごした。

そして、一冊の本に目が留まった、それが、石平著『私はなぜ「中国」を捨てたのか』である。目次だけをみると、『中国を何故捨てたか』『中国共産党の脅威』『愛日主義』『天皇礼拝』とあって、危険思想の本かと、書棚に戻そうとしたが、中国との関係が不穏な現在、2007年に日本に帰化して中国系日本人一世となられた石平氏が中国を、また日本を実際にどう観ているのか知りたいと思い、購入し、自宅に戻ってから読んだ。
237頁の本であったが、半日もかからず読み終えた、最初に手に取ったときに感じた危険な代物ではなく、そこには中国共産党への激しい怒り憤りとともに、古き良き中国文化への郷愁が溢れていた。
この本は2006年、当時まだ中国籍であった石平氏が出版された『私は「毛主席の小戦士」だった』を改題・改訂し2009年に出版された本です。『尖閣諸島付近での中国漁船による日本の巡視船体当たり事件』に端を発した、以降の日本への中国政府の高圧的な態度を見せつけられ、多くの日本人が中国を脅威と捉えるようになった以前に書かれた本です。

東アジアの一民族、日本人は、明治維新以後、急速な『富国強兵』『西洋化』に走り、東アジア諸国を軽視した施策を採り続けた。昭和期に入ってからは、東アジアを欧米から開放すると称して、併合・植民地化を推し進め、二流日本人化施策により名を奪い(日本名に強制改名)、言語を奪い(日本語の強要)、人権を甚だしく打ち砕いた。たかだか70有余年前の出来事である。
しかし日本は、第二次世界大戦の無条件降伏の後、軍国主義、全体主義と決別し、与えられた平和・民主主義の理想を追った新憲法の下、理想郷としての民主主義国家として日本を再生してきた。しかし、政治的な民主主義の理念を疎かにした、つまり志在る者が民の審判を受けて国政を委ねられ、民のために働くということを疎かにした。外交がその最たるもので、武力放棄、戦争放棄を盾にして、日米安保によって、日本の安全保障を全てアメリカに依存し、1980年半ば以降からの約20年間、ついには経済力に偏重した経済大国と呼ばれるようになった。

日本が以上の様な戦後を歩んでいたとき、隣国である中国がどの様な歩みをしたかを、同世代の石平氏がこの本の中に記されている。

戦後、日本の軍国主義・膨張主義の嵐が過ぎ去った中国では、毛沢東がマルクス主義をテーゼとした共産主義社会主義国家建設の為と称した共産党を興し、文化大革命と称した施策によって、毛沢東思想を布教し、過去の偉大なるいにしえの中国文化を破壊した。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、建国の立役者である金日成を、現在にいたり父として崇めるよう思想弾圧が徹底されたように、現在漸く民主主義国家として歩み出したカンボジアでかつてポルポトが、いにえのクメール文明を破壊し尽くし、教養人、医師、教育者を迫害したように、それらの悪行の先兵を毛沢東と彼が率いた共産党が自国民に強制実践した。
毛沢東の後、共産党を支配した鄧小平は、毛沢東思想および文化大革命を否定し、1980年代、中国では民主化の芽が、高等教育に籍を置く学生の中から吹き始めた。
そして1989年、世界中で疲弊した社会主義国家が次々と斃れ始め、ベルリンの壁が崩壊したその年、中国では6月4日、鄧小平は共産党政権を脅かす脅威・敵と見なして、民主化を標榜する知識人、学生を一掃した。生き残った中国人民主化活動家が『血の日曜日』と呼ぶ、『天安門事件』である。
1990年代、共産党支配を引き継いだ江沢民は、人民の共産党への非難の矛先を変えるべく、反日教育を徹底して行い、若い世代を共産党支持者へと変貌させた。一方で上海を中心に経済の自由市場施策を実行し、膨大な外貨を引き込んだ。民主主義国家から金をそして技術をどんどん引き込んで共産党政権を盤石のものとした。

1962年、四川省の教育者家庭の一粒種として生まれた石平氏は、時代に翻弄されながらも、1980年代の民主化の風の中で学び、1988年日本の神戸大学、大学院に留学、以後日本から中国を直視し続けた。

本の第1章から第3章まで、
第1章 私は「毛主席の小戦士」だった
第2章 いかにして「反日」はつくられるのか
第1章 中国を覆う「愛国主義狂乱」
恐ろしい見出しの中で書かれた記述は、何度も欺かれ裏切られた中国共産党の悪行告発とともに、中国人として生きた半生、文化大革命の嵐の中でいにしえの中国文化を伝えようとした祖父と過ごした思い出、民主化を語り合った友との思い出、そして友を凄惨な死に追いやった中国共産党が支配する中国との断固たる決別表明が、理知的に記憶を辿りながら語られていた。しかし、その文面から激しい感情、哀悼、そして郷愁がひしひしと伝わってきた。

後半の第4章、第5章では、
第4章 日本で出会った論語と儒教の心
第5章 わが安息の地、日本
彼が出会った日本人の礼儀正しさとやさしさの中に、いにしえの中国儒教の精神が息づいていることを学び、また京都や奈良にいにしえの中国の詩人が詠んだ風景を眺めた。
私は、彼の日本人感、日本感に感謝すると共に、近年の日本人の歴史認識の疎さ、いにしえの日本文化の軽視は、彼が感嘆するに値するのかと、恥ずかしさも感じた。

この100年間で日本の四季折々の美しい風景は、開発という御旗のもと破壊され続けてきた。一貫性のない教育施策と軽薄なメディアの台頭によって、各土地で息づいた方言、美しい日本語は軽視された。日本精神文化の根源である(いにしえの中国から渡来した儒教を源流とした)「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八徳は絶滅の危機に瀕している。
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仁・・・思いやり、慈しみ。
義・・・人道に従うこと、道理にかなうこと。
礼・・・社会生活上の定まった形式、人の踏み行なうべき道に従うこと。
智・・・物事を知り、弁えていること。
忠・・・心の中に偽りがないこと、主君に専心尽くそうとする真心。
信・・・言葉で嘘を言わないこと、相手の言葉をまことと受けて疑わないこと。
考・・・おもいはかること、工夫をめぐらすこと。親孝行すること。
悌・・・兄弟仲がいいこと。
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彼、石平氏が2007年末日本人として帰化したときの手続きのくだりは、とても奇異に感じた。彼は帰化申請のとき、当局から日本に対する「忠誠心」「愛国心」を求められなかった。これが不満で、その後、伊勢神宮に参拝し、五十鈴川で身体を清め、靖国神社を参拝し、この二つの「通過儀礼」をもって、身も心も日本人になったと書いている。
私は小学校の修学旅行で、伊勢神宮を見学し、五十鈴川の清水で遊んだ記憶がある、しかしその後、38年間、参拝もしていないし、また靖国神社に国会議員が公式に参拝することについて、パフォーマンスと思っているし、その行為には嫌悪感を感じている。

私は日本人の精神世界の原点は、自然崇拝から育まれたもの思っている。それは、あらゆる文明が中国から朝鮮半島を経由して日本に渡来する遙か昔のことである。
豊かな実りも、飢餓も、自然が招くものであり、自然の中に、多くの神(八百万の神)を見いだし、畏怖の念を抱くと共に愛でた。それが、石平氏の大好きな日本語『やさしい』の原点なのだろうと思う。

皇室についての論評であるが、漢詩の如く、端的に真理を書き綴られていた。これまで漠然としか見ていなかった皇室の存在について改めて考えた。皇室が神代の時代から不変成るものとして今日まで存続したのは、権勢を放棄し、権力を時の勢力者に委ね、慎ましく、また皇室を高尚に営まれ続けたことが、日本人が、皇室を敬い養護し永続させた主因であるという考えに到達した。

ドラッカーがその著書『マネジメント』の中で、『意見の対立を見ない時には決定を行わない』と記されている。
権力が一握りのものに握られ、独裁を許すことの罪悪、悲劇的な末路は歴史が証明している。
ドラッカーの言葉は、経営だけではなく、すべての意思決定の議論の場において当てはまり、対立軸があって議論が白熱し、ベストあるいはベターな選択に辿り着くと思う。
論評や思想、哲学もそうだ、忌憚ない意見を出し合い議論を尽くすことによって、一歩前に前進できる。

自分の生き方然り、日本人の生き方然り、隣国との付き合い方然り、熟慮が必要な時代である。

2011年2月15日火曜日

映画鑑賞・感想『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~』

昨日2月14日、 受験を終えた長男(18)と映画を観に出かけた。
2月11日(金)から公開された『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~』である。

昭和初期、日本を支配した軍国主義、帝国主義狂信者達の暴走によって引き起こされた、近隣諸外国を恐怖に陥れた事変、侵略行為の果て、第二次世界大戦でアメリカを中心とする連合国と南太平洋で戦火をを交え、1944年7月、ついに日本の防衛線であったマリアナ沖海戦の敗戦に続き、防衛拠点であったサイパン島も圧倒的な物量、火力に勝る連合国によって奪還された。

この映画・物語は、このサイパン島の戦いで生き残り、サイパン島東端に位置する『タッポーチョ山』のジャングルに身を隠して、ゲリラ戦にて応酬し、1945年8月15日の昭和天皇肉声による無条件降伏と戦争終結を信ぜずに戦い続け、同年12月1日上官の降伏命令を受けて47名の隊員達と共に潔く降伏した大場栄大尉を中軸に置いた、人間ドラマであった。
この映画が特出していたのは、悪人を描かず、また、大場隊そして隠密行動を共にする現地に入植した民間人の視点、そして、対峙しついには降伏を促すために奔走するアメリカ軍兵士の視点、両視点からの二つのドラマを交互に織りなし描かれていた点である。
同手法は、2006年公開のクリント・イーストウッド監督が『硫黄島の戦い』を扱った連作『父親たちの星条旗(アメリカ側視点から描かれた映画)/硫黄島からの手紙(日本側視点から描かれた映画)』で完成したものだが、一本の映画で二つの視点のどちらかに比重が偏ることなく描ききったこの映画は、とても深みのある血の通った人間ドラマであった。

役者の演技がみんな素晴らしかった。大場栄大尉を演じた竹野内豊は、実在の大場栄大尉が元理科教諭であった史実から、理知的で且つ大尉らしからぬ誠実な人が持つひ弱さ、また隊員や民間人を気遣う優しさとともに、神代の兵士の上官の命に絶対服従を曲げられぬ狂気をも漂わせていた。
テレビドラマやバラエティー番組でよく『いじられる』役の多い酒井敏也は、民間人としてサイパンの戦いの最中二人の子どもとはぐれ、その生死もわからぬままに民間人捕虜収容所で過ごす、意志の強い父親を演じた。
中嶋朋子は、入植の地で、年老い病弱な母を看護する幸薄い、すこし呆けているような独身女性を演じた。
全ての役者が、ボロを着、顔も何もかも汚れながらの真実を追い求めた熱演であった。

映画表現についての感想であるが、
オープニングシーンのアメリカ軍がサイパン島に上陸するシーンは、スピルバーグ監督が『プライベート・ライアン』のオマハ・ビーチ上陸シーンでこれまでの戦争映画ではあり得なかった凄惨なまでのリアルさで描く手法が継承されていた。飛び交う機銃の弾丸が怒号とともに赤い光線を放って縦横に飛び交い、爆音が鳴り響く度に、私は体に稲妻が貫くような電気ショックを感じた。
また、同じくスピルバーグ監督作品である『シンドラーのリスト』から撮影としてチームに参加したヤヌス・カミンスキーが同じく『プライベート・ライアン』でリアルな戦闘シーンをクリアな映像ではなく、少し赤みを帯びた粗い映像表現と手持ちカメラで揺れる映像表現で、観衆が現場にトリップし、充血した眼で地獄を逃げ惑う錯覚を与える撮影表現も継承されていた。

そしてサウンドトラック、挿入歌『島崎藤村詩歌:椰子の実』が、南方の地で望郷の念にかられる日本人兵士、民間人の悲哀を切なくそして美しく印象的に高めていた。

ラストシーン、『椰子の実』が流れる中、収容所の裏の浜辺で、竹野内豊演じる大場栄大尉が、大場が敗走時、廃屋で一人生き残っているのを見つけてアメリカ軍に保護されるべく記を付け、その甲斐あって保護され1歳成長した幼子を抱き、その傍らに井上真央演じる、看護婦としてこの地に赴き、家族を殺され、アメリカ兵を憎みながらも幼子と出会い、幼子と共に生きる決心をした黒豹のような風体の女性が並び、遠望を見つめるシーン、漸く訪れた平安と何もかもを失った喪失感、そしてそれでも『生きて日本に帰ろう』という哀愁漂うシーンが、ただただ切なかった。

この『生きて日本に帰ろう』という台詞を聞いて、市川崑監督が渾身の力で二度描いた『ビルマの竪琴』を思い出した。ビルマ(現ミャンマー)の密林を敗走し、遂にはイギリス軍に投降した部隊の一兵卒で、現地の言葉が話せ現地の民族楽器である竪琴を持って斥候を務めていた水島上等兵が、ムドンの労働収容所に送られる部隊から離れ、三角山で抗戦する日本兵に降伏を促すべく向かうが、説得は叶わず、彼を残し三角山の兵士は全滅。
僧侶に助けられた水島は、髪を剃り僧侶に変装してムドンの収容所に向かうが、その道中、山中で、川縁で、置き去りにされた同胞の骸に数多く出会い、遂には日本への帰還を放棄して、この地で同胞の骸を手厚く葬る僧侶として生きる決心をする。ムドン収容所に収容されている戦友達が、明日、日本に帰還するという日、双子のオウムの片割れを肩に乗せて、収容所の外、格子鉄線を隔てて相対し、戦友からの「一緒に日本へ帰ろう」という懇願に対し、『埴生の宿』そして『仰げば尊し』を竪琴で奏でて別離を告げる。

この『ビルマの竪琴』は終戦後、竹山道雄さんが児童向けの小説として創作された物語である。
1985年に市川崑監督自身がリメイクし、音楽学校出の隊長を石坂浩二、水島兵を中井貴一が演じた映画を、兄と当時まだ存命であった父と三人で観た。
父清造は、20歳の前半から30歳前半までの約10年余り兵役に就き、海軍の一兵卒として、南方洋に赴き、商船の護衛艦に搭乗していた。何度も敵機の来襲を受け、体に二カ所機銃の弾丸で貫かれた傷痕があった。ひとつは左胸の上部、もうひとつは左足首踝あたりにあった。オーストラリア大陸を艦上から望んだ話も聞いた。戦争末期には、海軍陸戦隊としてニューギニアの密林を逃げ惑い、ついには投降して収容所で終戦を迎え、復員した。
当時の下級兵士は、洗脳と絶対服従を強いられ、命は自分のものではなかった。
前線に送られ、殺し殺され、地獄の中をさ迷った。『生きて日本に帰る』、誰もが望みはすれど、声に出すことは許されなかった。そんな時代であった。
父は時々軍歌を歌った。歌は決まって『ラバウル小唄』。夜、南の夜空に輝く南十字星だけが希望だった、そんな思いを込めて歌っていたのではないかと、今はそう思う。

昨年、NHK ETV特集で放映され話題となった『ハーバード白熱教室』のマイケル・サンデル教授をNHKが招待し、東京大学安田講堂で行われた『日本で正義の話をしよう』の公開講義は、本家ハーバードに劣らぬ活発で明瞭な白熱した議論が展開され、見応えがあった。3時間を超える講義は、休憩を挟んで二つのテーマで進行した。前半は『イチローの年俸は高すぎる?』で冨の再分配について議論し、後半では『戦争責任を議論する』で過去の世代が犯した過ちを償う義務があるのかどうかを議論した。
後半の議論では、
「責任はない」
「責任はないが、伝える義務は負っている」
「責任があり、賠償義務も負っている」
と、具体的な相反する意見で討論が繰り広げられた。

私は、この過去の戦争責任について次の様に考えている。
私たちは、過去の世代から命を繋いで今、生きている。過去の過ちにおいて、被害者への謝罪と賠償が完了しているのであれば、賠償責任はない、しかし、過去を繰り返さず、加害者、被害者の子孫、次代を担う者達が、手を携えて歩んでゆけるよう、記憶し伝え、より良き道を歩む義務を負っている、そう考える。
被害者が過去を許してなければ、いつか許され、信頼されるための努力を行う義務を、先の義務に加えて負わなければいけない、そう考える。

最後となるが、近代、特に先の戦争の時代において、人道的な行動をとった日本人がいた事、私たちは知らなすぎる。敗戦の後、戦争の歴史を封印してしまったことが原因であろう。悪しきもの、良きものも日本人自身が誠実に検証しなければいけなかった全てを放棄してしまったことが原因であろう。

スピルバーグの映画で、既に故人であったが一躍時の人となったシンドラー、そのシンドラーと同様に、イスラエルで正義の人として讃えられる日本人が故杉原千畝。彼は第二次世界大戦前夜、リトアニアの在カウナス領事館に赴任していたが、ドイツ・ヒットラーのユダヤ人排斥政策によりヨーロッパ中から迫害から逃れようとしたユダヤ人が、唯一の生き残る道、日本ビザを取得し、東回り、ロシア、日本を経由し、そして希望の地アメリカ、約束の地イスラエルへ渡るために、カウナス領事館に日本ビザを求めて押し寄せた。時に日本はドイツと同盟を結んでいたために、外務省本省からはビザの発行は認められない、そして彼は、自分の信仰(彼は敬虔なクリスチャンであった)と良心に従い、独断でビザを発行した、書き続けた。本省からの命により、カウナス領事館を閉鎖した後も、次の赴任先に移動するまでの数日間、滞在したホテルで書いた、そしてカウナスを離れる汽車が動き出す直前まで書いた。そして現在に至り、そのビザで約6000人の命が救われたといわれる。
日本が大きな過ちを犯す中で、また多くの在野の組織や個人が弱き同胞や諸外国の友人を助けるために、危険を顧みず行動したことだろうか。戦後日本人が負の歴史と共に、輝ける歴史までも封印してしまったこと残念に思う。

杉原千畝を検証した大書『千畝―一万人の命を救った外交官 杉原千畝の謎』(ヒレル・レビン著)が1998年に発刊された。素晴らしい本であった。

今回取り上げた映画『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男~』も原作があり、当時サイパン島で大場隊と対峙したアメリカ海兵隊員の一人であったドン・ジョーンズ氏が1982年に日本で発刊した長編実録小説『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』がそれである。

そして、映画のサウンドトラック・挿入歌として重要な役どころを担った『椰子の実』について貴重な記事(Wikipediaに掲載されている)を紹介します。
以下、記事の参照です。
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1898年(明治31年)夏、東京帝国大学2年だった柳田國男が愛知県の伊良湖岬の突端で1か月滞在した時、「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂泊の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、この詩を詠んだ。

「椰子の実」 
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月

旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん

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私の住む播州地方から出た民俗学の第一人者柳田國男が、この美しい日本語詩歌『椰子の実』を生み出すに大いなる貢献をした逸話を知り、また改めて、この詩歌の奥深さを学ぶに至ったこと、この映画に感謝したいと思います。