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パンデミックと戦うことを考える

昭和の始めに、日本が中国と、そして米国と戦争に及んだ理由を一言で記すことなどできないけれど、しかし、日本が戦争に負けた理由は一言で記すことができます。 それは、当時の日本の指導者の、「国民の人権軽視」と「戦争をするための戦略軽視」です。 「国民の人権軽視」、これは形式的な国...

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2026年4月6日月曜日

プロジェクト・ヘイル・メアリーを読んで、重大に思うこと

 アンディ・ウィアーのSF小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上下巻を読み終えました~!

3月20日に公開が始まった映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を観る前に、まず小説を読もうと思い立ち、図書館で上巻を借りて読みました。そして読み終え、下巻を借りに図書館を訪れた際、雑誌コーナーにあった『SFマガジン』の最新号の表紙に、「小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』特集」を見つけ、ソファーに座ってぺらぺら特集記事を読んだ、それがよくありませんでした。寄稿された記事の一つに、物語の結末のさわりが書かれていたのです。読まなきゃよかったと、後悔先に立たずの気分になりました。それで、下巻を飛ばして、映画鑑賞へと進む事にしました。

制作費約2億ドルとも云われる映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、なかなか見応えがありました。が、でも、小説から受けたスリリングな知的好奇心溢れた冒険譚という印象とは違う、近年のアメリカ・スーパーヒーロー映画に見られる様なコミカルでヒロイックさが強調されている印象が残りました。別な言い方をすれば、長尺小説の、コミカルでヒロイックな部分がつなぎ合わされている印象を受けました。これでは小説がつづるすべてを得ることにはならないと思い、改めて下巻を借りて読むことにしました。


小説では、主人公ライランド・グレースが、未知の部屋で目覚めてから、少しずつ甦る記憶と自らに備わった科学の知見を頼りに、置かれた状況を明らかにし、自ら科せられた運命に従い、人類が未だ成し遂げたことのない偉業遂行に邁進するパートと、彼の徐々に甦る過去の記憶、人類がかつて経験したことのない、30年後には人類を含め地球上の生き物全ての生存が危ぶまれる事態になること、そして、遥か11光年先に人類を救ういちるの望みがあることを科学が明らかにし、そのために世界中から叡智が集まり、11光年先へ最高の科学者を送り出すプロジェクト・ヘイル・メアリー(日本語にすれば、一か八かの神頼みという意味)が始動したこと、その壮大なプロジェクトに一介の高校の科学教師であったライランド・グレースが巻き込まれていく様が描かれるパートが、スリリングに交叉しながら進行していきました。それが、作家アンディ・ウィアーの妙味であると感じます。

そして、巻末の解説でSF翻訳家山岸真さんが述べられていた、『明確な科学観とともに、それを継承していくことへの一貫した思い』、平易に表現するならば、次代を担う人びと(若い人たち、子供たち)に、科学を好きになってもらいたい、興味を持ってもらいたい、そして、継承した科学、彼らが見出した新たな科学で、良い未来を切り開いてもらいたいという思いが伝わってくる物語でもありました。


最後に、小説の一部分をどうしても引用させて頂きたく思います。直接的なネタバレにはならないと思いますが、懸念される方は、飛ばして頂きたく思います。

下巻第26章からの引用です。

***

ドアが開いてストラットが入ってきた。その後ろで警備兵がドアを閉めた。

「どうも」と彼女は言った。

ぼくはベッドから彼女を睨みつけた。

「打ち上げは予定通りよ」と彼女は言った。「すぐ出発してもらうことになるわ」

「ワーイ」

彼女は椅子に腰を下ろした。「信じてもらえないでしょうけど、わたしだって好きであなたにこんな仕打ちをしているんじゃないのよ」

「ええ、あなたは本当に情の厚い人ですからね」

彼女はぼくの辛辣な言葉には反応しなかった。「わたしが大学で何を専攻したか知ってる?なにで学位をとったか?」

ぼくは肩をすくめた。

「歴史よ。歴史専攻だったの」彼女は指で机をリズミカルに叩いた。「大抵の人は科学か経営学専攻だろうと思ってるけど。あとはコミュニケーションとかね。でも違う。歴史だったの」

「意外ですね」僕はきちんと座り直した。「過去を振り返ることに時間を費やすタイプとは思えない」

「十八歳で、この先どうしたら良いのか、全く見当がつかなかった。他に何を為ればいいか分からなかったから、歴史を専攻したのよ」彼女は得意げな笑みを浮かべた。「まるで私らしくないでしょう?」

「ええ」

彼女は鉄格子の外に目をやった。遠くに発射台が見えている。「でも多くのことを学んだわ。実際、好きだったし。いまの人は……いまがどんなに恵まれているか、まるで分かっていない。過去は、大抵の人間にとっては情け容赦ない苛酷なものだった。時代を遡れば遡るほど、苛酷なものになっていく」

彼女は立ち上がって部屋の中を歩きながら話を続けた。「産業革命が起こるまでの五万年間、人類の文明はあるひとつのもの、そのひとつだけに関わるものだった――食料よ。過去に存在したどんな文化も、持てる最大の時間、エネルギー、人力、そして資源を食料につぎ込んだ。狩猟、採集、農業、牧畜、貯蔵……すべて食料に関することだった。

ローマ帝国ですら例外ではないわ。皇帝のことやローマ軍のこと、各地を征服したことはみんな知っている。でもローマ人が本当に発明したのは、農地と食料や水の輸送手段を確保する非常に効率的なシステムだったのよ」

彼女は部屋の奥へ歩いていった。「産業革命は農業を機械化した。そしてそれ以来、わたしたちは他のことにエネルギーを注げるようになった。でもそれは過去200年間のことよ。それ以前は、ほとんどの人が人生の大半を自らの手で食料を作る作業に費やしていた」

「歴史の授業、有り難うございます」と僕は言った。「でも、差し支えなければ、ほくとしては地球で過ごす最後の瞬間をもう少し楽しいものにしたいんですよ。ですから……そのう……出て行ってもらえませんか」

彼女はぼくを無視した。「ルクレールの南極核爆弾で時間は稼げた。でもそれも大した時間ではない。南極の端の塊を海に放り込むのも、海面上昇や海洋バイオームの死滅といったことがアストロファージ以上の問題を引き起こすまでに出来る回数は限られている。ルクレールが言ったこと、覚えているでしょう――世界の人間の半分が死ぬのよ」

「分かってますよ」とぼくは呟いた。

「いいえ、あなたはわかっていない」と彼女は言った。「何故なら、それ以上に酷いことになるから」

「人間の半分が死ぬ以上に酷いことになると言うんですか?」

「そうよ」と彼女は言った。「ルクレールの推測は、世界各国が協力し合って資源や配給食料を分かち合うという前提の上に成り立っているの。でも、そんなことできると思う?合衆国が――史上最強の軍事力を誇る合衆国が――自国民の半分が飢えて死ぬのを手をこまねいて見ていると思う?中国は?いちばん良い時でも十三億の国民が常に飢饉を意識していなければならない国よ?彼らが近隣の弱小国を放っておくと思う?」

ぼくは首を振った。「戦争が起こるでしょうね」

「ええ。戦争が起こるわ。古代の戦争のほとんどと同じ理由で戦争が起こる――食料をめぐる戦争よ。宗教でも栄光でも、理由は何とでも付けられる。でも目的は常に食料だった。農地とそこを耕す人間を奪い合うの。

でも、お楽しみはこれでお終いじゃないのよ」と彼女は言った。「絶望に駆られた飢えた国々が食料を求めて互いに侵略し合うようになると、食料生産量は減る。太平天国の乱って、聞いたことある?十九世紀に中国で起きた内戦よ。戦闘で四十万人の兵士が命を落とした。そしてその結果起きた飢饉で二千万人が死んだ。戦争は農業を破壊するの、お分かり?それほどのスケールになってしまうということ」

彼女は両腕を身体に回した。彼女がこれほど弱々しく見えたことはなかった。「栄養不良。混乱。飢饉。社会的インフラの全てが食料生産と戦争につぎ込まれる。社会の基本構造がばらばらに分解されてしまう。疫病も流行するでしょう。様々な疫病が。世界中で。医療システムが追いつかないからよ。これまで簡単に押さえ込めてきたものが抑制出来なくなってしまう」

彼女はくるりと僕の方を向いた。「戦争、飢饉、疫病、そして死。アストロファージはまさに黙示録よ。いまのわたしたちにあるのは〈ヘイル・メアリー〉だけ。どんなに小さかろうと、成功率を高める要素があるなら、わたしはどんな犠牲でも払う」

***

今、この現実世界で起こっている事態は、パラノイアから終わらぬ戦争を始めた軍事大国ロシアの独裁者プーチン、我欲を最大化するためと過去の犯罪歴から処罰されぬ為に、現在の世界を破壊も出来るし平和にも導くことも出来る唯一の国家アメリカの大統領の椅子にしがみついて、遂には娘婿の言いなりになってアメリカ国民の僅かな益にもならず、世界中の人びとを一世紀も二世紀も過去に引きずり落とすことになるかもしれない戦争を始めたトランプ、まさに聖書の黙示録が暗示した、偽りの王が始めたゴッドとの最終戦争を彷彿する事態の様に思います。

小説の行は、この事態までも預言していたかのように私には思われました。


すでに、小説が案じた事態は始まっています。

現実のわたしたちには、プロジェクト・ヘイル・メアリーはありません。世界は一つにならず、瓦解、崩壊、滅亡に向かって、ブレーキのないチキンレースに巻き込まれています。

私は、ただ憂うしかできないことが歯がゆいです。

2019年10月31日木曜日

寅次郎を通して考えた、学校ってなんだろう?先生ってなんだろう?

学校ってなんだろう?
勉強するところかな
友達をつくるところかな

でも素朴に

学校に通う子どもにとって
楽しいところ
安全なところ
一人の人間として
誰とも違う個性を認めて貰えるところ
一人でなく回りの仲間と成長できるところ
であって欲しいと思います。

そして、それを叶えてくれるのが先生です。

男はつらいよ第50作「お帰り寅さん」の公開を前に、「悪童(ワルガキ)-小説 寅次郎の告白-」(2018/9 山田洋次)を読みました。
その寅さんの告白の中に、子ども時代にこんな事があったら、一生心に持ち続けるだろう、そして大切にするだろうという出来事がありました。

一つめは、寅次郎が小学校を卒業するときの出来事です。
ガキ大将の寅次郎には、幼い頃から連れ遊ぶ子分の様な友達、タンクローとクボチンがいました。いつもの様に三人で柴又帝釈天題経寺の境内で遊んでいると、和尚様である御前様に「進学を控えているのに遊び呆けていていいのか」と声をかけられます。
寅次郎は自慢げに「俺とタンクローは柴又中学」
「それはおめでとう。で、久保田君はどこに決まったのかね」と御前様がクボチンにたずねると
クボチンはへらへら笑いながら「オデは馬鹿だから養護学校」
そして三人でゲラゲラ笑った。
それを見た御前様の顔はみるみる真っ赤になって、いきなり三人の頭を拳固でポカポカ殴り、そのまま三人を本堂に引き連れて正座をさせ、三人をにらみつけ、震える様な声で吃りながら話をします。

以下、本編から抜粋させて頂きます。
「く、久保田君は自分の事を馬鹿と言い、ほかの二人はそれを可笑しそうにあざ笑う、な、なんということだ。お前たちを生まれた時からよく知っている私としてこんな情けないことはないぞ。いいか、久保田君は昆虫と動物が大好きでお父さんの手伝いをよくする優しくて良い子だ、ちっとも馬鹿ではない。学校の成績が悪いことぐらいがなんだ。成績がよくても馬鹿な奴はいくらでもいる。私の同級生に秀才で東大を卒業して偉い官吏になったのがいるがそいつなどは心の冷たい大馬鹿者だ。あんなくだらない男にくらべたら久保田君などは、くらべるのも失礼なくらい上等な人間なんだ。養護学校は君のために国が作った学校だ、きっと良い先生がいて君の才能を伸ばす手伝いをしてくれるだろう。その学校でしっかり勉強しなさい。自分のことを馬鹿とはなんだ、君のような良い子がどうして馬鹿なんだ、誰がそんなことを君に教えたんだ、ああ情けない、じつに情けない」
そんなことを云いながら御前様は涙をこぼして泣くんですよ、いや参りました。

まだ学校というものが整備されていない時代において、お寺の和尚さんは、町人、村人、その子供達に物の道理や所作作法を指南する偉い先生であったのだと思います。そして寺は寺子屋、子供達が分け隔て無く集い手習いなどを学べる学校でした。ですから、和尚様である御前様は、寅次郎にとって生まれた時から見守り導きを与えてくれる先生です。
そんな先生である御前様が、寅次郎たちの間違いを、自分の不明を悔いるように嘆き悲しみ、心の底から怒ってくれた。拳固の痛みは御前様の心の痛み、心の悲しみ、それが寅次郎たちにとって、心が間違いに流されないための一生のくさびとなったと思います。

二つめは、柴又中学一年の英語の授業での出来事です。
担任教師は坪内散歩という、初めての授業で
「ボクの授業を受けてもアメリカ人と話を出来るようにはならない。威張るわけじゃないけどボクは一度もアメリカ人やイギリス人と話をしたことはないし、ボクの東北訛りの英語が外国人に通用するわけがない。ボクが英語の授業を通じて教えたいのは、君たちが日本語をきちんとしゃべり日本語でものを考えられることが出来るようになることなんだ」と寅次郎にとってはナゾナゾのような話をする本物のインテリ先生です。
この散歩先生には産みの親の一件で恩義を感じ、寅次郎はおとなしく授業を受けていました。
そんなある日の授業で、電話のかけ方について「車君、英語でモシモシとはなんというか知っているか?」と散歩先生から問われた寅次郎は、なんで俺に当てるんだろう、と思いながら仕方なく立ち上がり、前の授業でモシという言葉を習ったのをかすかに覚えていたので思い切って「イフ、イフ」と答えた。

以下、本編から抜粋させて頂きます。
一瞬の間を置いて大爆笑が起きました。びっくりして隣の教室の女先生が顔を出したくらいです。しかし散歩先生は笑いませんでした。例によって難しい顔で生徒たちを睨みつけ「可笑しくない!」と怒鳴ったのです。
「確かに、電話のモシモシはイフイフではない、車君の答は間違っている。だが彼はボクの質問に対して真面目に答えたんだ、笑うべきではない、その間違いを指摘すればいいことなんだ。答は常に正しくなくてはならないという考え方はまったくおかしい。人間は間違いばかり犯す存在なんだ、君たちもボクもだ。このことは肝に銘じて覚えておけ」
この最後の言葉は散歩先生に云われたとおり悪い頭で今でもよく覚えています。

人の成長にとって何より大事なことは、間違えても、失敗しても、それが自分の成長にとって肥やしであると自分自身が信じ続けられる事です。そう出来る人が、間違えても、失敗しても、何度でも挑戦できる不屈の人になるんだと思います。
だからこそ成長の始まり、子ども時代の間違いや失敗した時の経験は、その後の成長を大きく左右するのだと思います。
何より一番やってはいけないことは、間違いや失敗を一笑に付してしまうことです。笑うだけで取り上げない、間違いや失敗の価値を一切認めないことです。些細なことと大人は思っても、子供にとっては大きな心の痛手、一生の傷となりかねません。
大切なことは、間違いや失敗にも価値があることを気づかせる事です。信じられるようにする事です。寅次郎の、寅さんのその後の人生において、善意ある間違いや失敗は、寅さんに関わる人々を幸せに導くという価値を生み出しました。寅さんは気づいていないでしょうけれど、寅さんは上等な人間に成長されたのだと思います。

学校の先生は、人の子供時代において、どの大人よりも子供の身近にあって、子供と長く時間を共にする存在です。
最近では、フレンドリーな先生とか、保護者受けのする先生とか、受験に強い先生が持てはやされる時代ですが、そんな先生は、子供が大人になった時、きっと顔も、名前すら覚えていないのではと思います。
子供にとって一生の先生とは、もしかしたらたった一言で決まるのではないかと思います。御前様や散歩先生、またその逆なりもです。私にもそういう先生がいること、懐かしく思います。

2019年2月24日日曜日

テキストの人間化、情を通わせた物語が、平和の礎となること信じます。

米田彰男さんのエッセー「寅さんとイエス」は、忘れ難き一冊となりました。
このエッセーは「男はつらいよ」風天の寅さんの情けを通して、聖書の御言葉が語られていました。そして二千年前の人である救世主イエスを、ユダヤ教の律法でがんじがらめとなっていた市井の人々に、情けや無償の愛こそ神が尊ばれることを身を以て実践した、寅さんを彷彿させる愛すべき風天として描いていました。

そして、また一つ書き留めたい箇所がありました。転記させて頂きます。

208頁、イスラエルの歴史家イラン・パペの論文「テキストの人間化」で、『ユダヤ人の選民思想と結びついた民族主義的運動は《テキストの人間化》に反する《テキストの国家化》である』という指摘です。
『テキストの《人間化》は、何に対峙しているかというと、テキストの《国家化》に対峙している。テキストの固定化とナショナリズムは深く結びついている。国家にアイデンティティーを与えるようなテキストを固定して、その絶対性を疑うことを許さないようにしていく。国家のアイデンティティーを、固定されたテキストの語る歴史によって維持していこうとする。そういう動きがテキストの《国家化》である。
それに対し、テキストの《人間化》とは、人間を国家の呪縛から解放し、人間と人間の間に、異なった伝統と文化を持つ民族の間に、同一の歴史的事実に対して異なった歴史を語る国家と国家の間に、橋を架けることの出来るような歴史、そして物語を語れるようなテキストを生み出していくことである。』

ユダヤ人は、キリスト教が誕生して後、二千年もの間、流浪の民として苦難を強いられてきました。でもその理由の一つとして、神に選ばれた民というユダヤ人の選民思想が、融和や人間への愛を重んじる他宗教や民族との間に、軋轢を生み続けたのだと思います。

イラン・パペの指摘は、現代においてあらゆるところで見受けられます。
特に私たち日本人の火急の問題としてあるのは、日本と中国、そして日本と韓国との軋轢問題です。中国と韓国から突きつけられるのは第二次世界大戦時の日本の悪行を認めることとその謝罪です。それは「同一の歴史的事実に対して異なった歴史を語る国家と国家の間」の問題です。日本人として、日本、中国、朝鮮半島の歴史を調べると、歴史的事実が、戦後に各々の国で、変容している事が分かります。

そして、最近の韓国国会議長の天皇陛下を貶めるような暴言の後に、続く発言です。
「ドイツは第二次世界大戦時の戦争犯罪について、今もユダヤ人墓地に献花するなど、謝罪を重ねることにより、欧州連合(EU)を率いる『リーディング・ステート』(先導国家先)になった。歴史の法廷において戦争や人倫に関する犯罪は時効がない。日本も真摯な謝罪を通じて和解を成し遂げなければ『リーディング・ステート』になれない」
これが韓国のテキストの《国家化》だと思います。

韓国人から日本人に帰化された呉善花さんは著書「侮日論」の中で、朝鮮民族と日本民族の精神性の違いを「恨」と「もののあわれ」の違いと表現されていました。
『恨は、ある面では「不完全さ」や「欠如」の美意識や美学にもなります。日本でいえば、やはり「不完全さ」や「欠如」にかかわる「もののあわれ」の心が、生きる美意識とも美学ともなっているように、です。ただ、恨と「もののあわれ」は、同じ「不完全さ」や「欠如」の感覚に発しているとはいえても、正反対の作用をもった精神性です。』
また呉善花さんは朝鮮民族の反日主義、侮日について、
古代から中国皇帝の冊封国として国を維持してきた朝鮮王は、中国を華(栄華)とし、冊封関係にない国や地域は夷(未開、野蛮)とする華夷思想、中華主義に倣い、その思想や主義が広く朝鮮民族に浸透したことが根本であると書かれています。
韓国は、現在朝鮮半島に存在するもう一つの朝鮮民族の国、北朝鮮と正統な国であることを争ってきました。そのためには、反日、侮日の看板は決して下ろせないといいます。

日本にしても、「もののあわれ」はどんどん廃れ、「恨」が際立つようになってきたように思います。このままでは永久に出口のないイスラエル問題と同じになってしまいます。

日本人と中国人、そして日本人と韓国人、テキストの《人間化》、情を通わせた物語は、実は沢山あると思います。
私の物語ですが、
新婚旅行でオークランドで道に迷った際、同じアジア系の青年に声を掛けると、彼は中国人で、英語の話せない私たちを、丁寧にホテルまで案内してくれました。
次に教会での出来事です。当時通っていた教会に、韓国人の学生達が宣教活動で滞在していました。片言の日本語で話しかけてくれて、一緒に食事をしたり、ゲームをして楽しい時間を過ごしました。彼らはとても素直で素敵な若者達でした。

私以上に素敵な物語をお持ちの方は、本当に沢山おられると思います。
そういう情を通わせた沢山の物語によって、いつか国と国が、民族と民族が、相容れない過去よりも、共生する未来を選択する日が来ること、信じていたいと思います。

2019年2月2日土曜日

フランス装の殉倩詩集

本を読んでいて、本の内容から別の本へと興味が広がっていくことは多々あります。
今回も、米田彰男さん著「寅さんとイエス」を読んでいて、佐藤春夫の「水辺月夜の歌」という心に沁みる詩と出会い、佐藤春夫の詩集を読んでみようと、さっそく図書館で借りました。

でも扉を開くと、中は袋とじ状態で切らないと中面が読めない状態でした。調べてみるとフランス装というもので、製本時に最後の工程となる裁ち工程が省かれたもので、読み手がペーパーナイフで自らカットしながらページを開き読み進めるという体の本でした。

扉に
殉倩詩集 佐藤春夫著
一九二一年・東京・新潮社版
と縦書きで書かれています。
1921年ですから、大正10年に世に出た本です。
借りた本は、この復刻版で
新選 名著復刻全集 近代文学館
佐藤春夫著 殉倩詩集 新潮社版
です。
なかなかに趣のある本です。

さすがに図書館で借りた本を傷つけることはできないので、図書館には、今後この様な加工しなければ読むことが出来ない本を、読めるようにして欲しいとお願いのメールを送りました。そして今回は読まずに返却致します。

が、びっくりしました。佐藤春夫という詩人、はじめて知ったと思ったのですが
この詩集の目次に、「浜辺の恋」という歌がありました。
これまたインターネットで調べてみると、そうです。小椋佳にハマっていた十代の頃に聴いて涙した?歌でした。歌詞曲ともに小椋佳だと思っていましたが、歌詞は佐藤春夫だったんですね。大正時代から昭和初期に掛けて、女性の心をわしづかみした人気詩人、それが佐藤春夫という人でした。なかなかの女垂らし、人垂らしだった様ですね。知れば知るほど魅せられる人なのでしょうね。とても興味を持ちました。

海辺の恋 佐藤春夫

こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき、
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき。

わらべとをとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ、
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み、

入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか、
海ベのこひのはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ。

2019年2月1日金曜日

「恋のつらさは心磨きに通ず」、寅さんとイエスの教えです。

今年は、寅さん映画第一作公開から50年です。そして、なんと新作の50作目が公開されるといいます。公開は12月の予定です。
https://www.tora-san.jp/

そんなことが頭の片隅にあったのでしょう、先日、図書館で「寅さんとイエス」(著者:米田彰男さん、司祭であり大学で教鞭を執られている方です。)というエッセーに目が留まり借りました。
まだ全文を読み通したわけではないのですが、是非に書き留めたい箇所がありましたので、ここに転記させて頂きます。

第三章「つらさ」について
寅さんの場合-恋のつらさ から
*****
寅の恋は盲目的な燃える恋であり、文字通り恋の病に落ちてしまうのだが、一方でまだ触らぬ恋であり、かつライバルが現れる時、決して相手を不幸に陥れない恋である。ある意味、『葉隠』の恋の極意に通じるものがある。
『葉隠』によると、恋の究極は忍ぶ恋である。「恋ひ死なん 後の煙に それと知れ 終にもらさぬ 中の思ひは」。
確かに寅さんは、恋の思いを単純すぎる程単純にもらしてはいるのだが、忍ぶところは潔く忍ぶ気品のある恋である。たとえ失敗し、バカにされ、笑いものにされようとも。マドンナは変われども、一回一回真剣であり、具体的な恋の一つ一つによって、寅の心は高められ、清められたと言っても過言ではなかろう。

佐藤春夫の詩に「水辺月夜の歌」がある。

せつなき恋をするゆゑに
月かげさむく身にぞ沁む。
もののあわれを知るゆゑに
水のひかりぞなげかるる。

身をうたかたとおもふとも
うたたかならじわが思ひ。
げにいやしかるわれながら
うれひは清し、君ゆゑに。

この詩の第二節の意味は深い。自らがどんなに卑しく惨めな存在であろうと、高貴で清らかな対象をみつめ、心の中で大切にし続けることによって、自らも高貴になり清らかになってゆく。
寅の思いは常に清らかであった。第34作「寅次郎真実一路」に寅さんの次のような想像の語りある。
「俺、その顔じいっと見てる。台所で洗い物をしている、そのきれーなうなじを見つめている。針仕事をする白魚のようなきれーな指先を俺はじーっと見惚れる。買物なんかだってついて行っちゃうよ。八百屋で大根を値切っているその美しい声音に思わず聞き惚れる。夜は寝ない。スヤスヤとかわいい寝息をたてるその美しい寝顔をじーっと見つめているな、俺は寝ない。いいんだよ、食わなくたって、あんなきれいな人と一緒に暮らせたら、腹なんか、すかないんだよ」。
寅さんの清らかな想像力である。恋する対象を想像の中で簡単に服を脱がせ抱いてしまうのではなく、恋人への清らかな思いは、思いの対象である恋人によって、寅さん自身が清らかにされる。
~
月見草は日没と共に花を開き夜空の月を見つめ続ける。昔は河原でよく見かけた平凡な月見草は、そっと月を見つめていたら、いつの間にか、静かで優しいお月様のような姿になってしまった。
自己にとって最も価値あるもの、大切なものを愛情込めて見つめていると、取るに足りない自分自身もおのずからその価値あるものに類似してくる。月見草は象徴的にその真実を教えている。

それはまたヒマワリと太陽の関係も同じ真実を語っている。
~
英語のsunflowerやドイツ語のSonnenblumeは「太陽のような容姿」即ち日輪草の側面を表示する。黄色い色は太陽の輝きに、中心を囲む花冠は太陽の放つ光冠に類似するヒマワリの姿、太陽を見つめ続ける向日葵はいつしか太陽の淡い写しとなった。
~
これはまたキリスト教の本質をずばり語っている。キリスト教を一言で言えば、神倣いの宗教である。神に倣うこと、神を見つめることによって、人間が神に似た者となってゆく。
イエスが自らの生きざまや譬え話などを通じて示した神の顔、神の姿、例えば神の寛大さや慈悲深さに人間が倣うことによって、自ら寛大で慈悲深いものとなっていゆく。イエスが当時排除された人々と共に食事をしたように、また最後の晩餐で弟子たちの足を洗ったように、人間もそれに倣って、一人ひとりを互いに大切にしてゆく。神に倣う事により神に似た者となってゆくこと、ちょうどヒマワリが太陽を仰ぎ見続けることによって太陽の淡い写しとなったように。
*****

恋は切なく苦しいものです。でも、以上の様に恋ができれば、きっと心を磨くことができるのだと思います。

でも昨今は、恋をする人が少なくなったのではないかと思います。恋には暇(時間)が必要です。何かの切っ掛けである人を好ましく思い、その人を好ましく思う時間を過ごす中で、心の中に恋心が育ちます。その恋心で心が一杯になった時、人は恋心に気づいてどうしようもなくもがくのだと思います。
そしてその恋が成就すれば素晴らしいですが、でもきっと多くの場合は失恋を味わう事になるでしょう。その失恋が癒えるのにもまた暇(時間)が必要です。

でも昨今は、この様な暇(時間)の使い方を良しとしない風潮が蔓延しています。
出会い系でいえば同じ性的嗜好者の集うSNSにアクセスすれば、すぐに会話を楽しむことが出来ますし、同意する人を見つけて、すぐに性行為を含むプレイを楽しむことも出来る時代です。そこには背徳の後ろめたさなどつゆほどもありません。そして恋が育ついとまもありません。

しかもSNSでは人の本性は見えません。さらに言えばSNSに掲示される身上書など偽りで塗り固めることなどおちゃのこさいさいです。性別のなりすましなども簡単です。
たとえ出会い系でなくとも、たとえば趣味で集うSNSで身上書や投稿される写真などですっかり意気投合し、心を許し、秘密の話をしたりして、後でそれをネタに脅されたり、または実際に会うと別人だったという事もあるでしょう。
それは犯罪に直結します。
昨今の痛ましい事件の数々、ただ肉欲の赴くままに、偽り欺し、性欲と支配欲を満たした末に、さらに被害者を脅したり、あげくに殺害に及ぶ凶悪事件の数々はSNS絡みばかりです。たとえ被害者につけ込まれる隙が無かったとしても、すっかり欺されて犯罪に巻き込まれるという場合も多くあると思います。

SNS反対!いますぐ無くせ!なんて、叫んだとしても、人間の生活に深く関わってしまっている現在において、無くすることは不可能です。
ならば、匿名のSNSには寄りつかない。出会いはSNSには頼らない、現実の世界で時間を掛けて恋をする、そして心を磨く、せめてこれだけは守って欲しいと思います。
親として、また自らを律する意味でも、ここに書き留めて置きます。

2018年8月3日金曜日

絵本「たいせつな きみ」を朗読しました。

絵本「たいせつな きみ」(原題:You Are Special)を朗読しました。

この絵本を初めて読んだのは二十年近くも前ですが、創造主があまりにも絶対的存在で描かれていることに違和感を覚え、その後はあまり読み返すことなく本棚にしまい込んでいました。
でもあらためて読み返すと、勝利至上主義とその結果としての格差社会、ストレス社会に生きなければならなくなった私たちへの、この物語は心の救いになるのではないか、と思えてきました。

ウイミックス(エリという彫刻家が木から作ったこびと)のパンチネロは、他のウイミックスから駄目なこびとと馬鹿にされ、いつも体中に灰色の駄目印シールを貼られていました。
そんなパンチネロの前に、ルシアという金星シールも駄目印シールもくっつかない、誰の賞賛も嘲笑も気にしないこびとが現れます。パンチネロはルシアに憧れ、ルシアにどうすれば君のようになれるかを尋ねます。するとルシアは「毎日、エリに会いに行くのよ、お話しをするの」と答えます。パンチネロはエリに会う決意をします。

エリの仕事場は、荘厳な神殿の様でした。臆病になって逃げ出そうとするパンチネロに、「パンチネロ?君が会いに来てくれるのを待っていたんだ」とエリが声をかけます。

エリは駄目印シールを沢山付けられたパンチネロに
「他のウイミックスがお前のことをなんと思おうと、構いはしないさ」
「お前だって気にすることはない。シールを付けていったのは、みんなお前と同じ様なウイミックスじゃないか。みんながどう思うかなんて大したことじゃないんだ。」
「問題はね、この私がどう思っているかということだよ。そして私はお前のことをとても大切に思っている。」
「それはね、お前が私のものだからさ。だから大切なんだよ」
と語ります。
そして、「どうしてルシアはシールがくっつかないんだろう?」と尋ねるパンチネロに
「それはね、私の思うことの方がもっと大事だとあの子が決めたからなんだよ。みんながどう思うかなんてことよりもね」
「シールがくっつくようにしていたのはお前自身なんだよ」
「どんなシールが貰えるかってことを気にしていると、シールの方もお前にくっついてくるんだ」
「お前が私の事を信じたなら、シールなんてどうでもよくなるんだよ」
と語ります。

エリの言葉を信じ始めたパンチネロの体から、ひとつの駄目印シールが剥がれ落ちます。


パンチネロは、他人からの賞賛や嘲笑を過度に気にする現代の私たちです。
でも作者のマックス・ルケードさんは、それは私たちをお作りなった創造主である神様のルールではない、神様は貴方を作られた、神様の似姿で作られた、だから神様を信じて、もっと自分を信じて生きて欲しい、と私たちに説教されているのだと思いました。

ちなみに作者のマックス・ルケードさんは、有名なキリスト教の著述家であり、テキサス州サンアントニオにあるオークヒル教会の説教者として現在も活動されているそうです。

2018年3月12日月曜日

戦争と平和について考えるのにとても良いテキストの話

先の記事で書いたように

「戦争反対、そして平和憲法を守れ、というのも第二次世界大戦で敗北し、この戦争によって深く傷ついた日本人には、とてもシンプルで受け入れやすい動機付けのお題目です。
反戦主義、平和主義、といったものは議論の余地の無いものです。でも本当に、反戦や平和に議論の余地は無いのでしょうか。

私は、反戦主義、平和主義を、学校などで子供達にお題目としてすり込むのではなく、
何故戦争がおこるのか(何故争いがおこるのか、或いはおこすのか、また争いはよくないのか)、
何故平和を維持することが難しいのか(何故仲良くするのが難しいのか、或いは仲良くしなければいけないのか)、
を身近なことから考えて、話し合って、そして、
戦争を起こさないためにはどうすべきか、
平和を維持するためにはどうすべきか、
そういう考え方が共通認識となっていくこと、
それが今とても大事になんだと思います。」

でもそのためにはテキストが必要です。
ですが最近、戦争や平和について考えるのにとても良いと思うテキスト(絵本)を知りました。今回、それを是非紹介したいと思います。


「せかいでいちばんつよい国」
日本では、2005年になかがわちひろさん訳(発行所:光村教育図書株式会社)で出版されました。オリジナルは2004年に英国の絵本作家ディビッド・マッキーさんの絵本「THE CONQUERORS」(直訳は、征服者、あるいは戦争の最終的な勝利者)です。

マッキーさんが美術学校の生徒であった頃、第二次大戦でイタリアに従軍した同級生がいました。その同級生が言った言葉
「我々はイタリアを征服した。でも、私はイタリアに征服された。」
が、後年までずっど心に残っていて、いつか物語にしたいと考えていたそうです。
同級生の言った言葉の本意は
「我々は戦争でイタリアに勝った。でも私はイタリアで出会った人々や文化に魅了された」だと思います。
また創作の直接的なきっかけは、アメリカのイラク侵攻であったといいます。
この「THE CONQUERORS」には、同級生の言葉のテイストだけではなく、戦争の大義名分が如何に人間を翻弄するかということ、また人間の歴史が征服者達によって綴られてきた側面があること、等々さまざまに考えるきっかけを与えてくれました。
また、大きな国に滅ぼされた国の文化や生き残った小さい国の文化はどうなったのか、
元の国の文化として生き残ったのか
歴史が改ざんされて、大きな国の文化となってしまうのか
それとも、滅ぼされたのか
等々考えさせられもしました。

また翻訳絵本の場合、タイトルや内容に違訳がないか注意する必要も感じました。私はオリジナルタイトル「THE CONQUERORS」から「せかいでいちばんつよい国」がどうしても連想できませんでした。それで、「THE CONQUERORS」をGoogleブックで購入し、テキストをGoogle翻訳して、そして日本語訳絵本の物語と読み比べしました。
そして、絵本にとどまらず、オリジナルを学ぶこと、作者の履歴や作品の年譜を時代背景と照らし合わせて読み解くことに意義を感じた次第です。


「六にんの男たち -なぜ戦争をするのか?-」
この絵本もディビッド・マッキーさんの作品で、1972年にマッキーさんが児童絵本作家としてデビューを飾った絵本です。日本では1975年に中村浩三さん訳(偕成社)で出版されました。オリジナルタイトルは「Six Men」です。

物語はいたってシンプルです。
六人の男が、財産をもったことで、
幻の敵に狙われる恐怖と、もっと裕福になりたいという欲望が動機付けとなり
戦争を始めます。
しかし戦争は六人の男から、国も財産も家族も仲間もすべてを奪います。
生き残った六人の男は、荒野を彷徨って、いつかどこかに根付いて暮らしを始めます。
そして再び財産を築いていく。

戦争と破滅と再生を繰り返す人間の愚かさが、短い物語に端的に描かれていました。


「なぜ あらそうの?」
ロシアの画家ニコライ・ポポフさんの作品です。1990年半ばの作品で、テキストが無い絵本です。オリジナルタイトルは「Why?」です。

YouTubeに動画がありました。
動画タイトル「Why? By Nikolai Popov」
https://www.youtube.com/watch?v=6sVJb4SSoWA


一輪の花を巡って、一匹のカエルと一匹のネズミが争いを始めて、それがやがてカエルの国とネズミの国の全面戦争に発展し、お花畑どころかすべてが戦争で焼き尽くされ破壊されてしまう様が描かれます。


「なぜ戦争はよくないか」

2007年にアメリカの人権活動家で作家であるアレン・ウォーカーさんの文とステファーノ・ヴィタールさんの絵で描かれた作品です。日本語訳は、2008年の長田弘さん訳(偕成社)で出版されました。オリジナルタイトルは「Why War Is Never a Good Idea」です。じんと心に沁みる詩と絵でした。

朗読動画を作成しました。
絵は、Internet Archiveというサイトで公開されていた電子ブックを利用させて頂きました。
https://archive.org/
そしてBGMは、映画「シンドラーズリスト」のサウンドトラックを使わせていただきました。


2017年12月4日月曜日

赤ひげ診療譚、電車の中で読み終えました。

この秋、NHKの金曜時代劇で始まった「赤ひげ」、重厚な筋立てに、毎回一時間ドラマとは思えないほど感慨を覚えます。特に第三話「最後の告白」では、衝撃的な結末にしばらく言葉が出ませんでした。

山本周五郎といえば時代劇には切り離せない作家です。そして、これまで山本周五郎原作の時代劇は星の数ほど見てきました。でも原作本は一冊も読んだことありませんでした。私にとっては時代劇=山本周五郎であり、きっと近松門左衛門と同じく江戸時代の人の様に思っていました。そんな話を妻としていると、妻は学生時代にゼミの先生が山本周五郎のファンで、それがきっかけで何冊か読んだことがある。そして赤ひげの原作小説も持っていると話します。それで年季の入った「赤ひげ診療譚」を手にすることになりました。
「赤ひげ診療譚」は、山本周五郎55才、昭和33年の作品でした。今から60年前です。当時から見ても江戸の時代は90年も昔です。でも、お祖父さんたちは江戸時代を生きた人もまだいたんでしょうね。ですから、山本周五郎にとって江戸時代は、素描できるほどに身近な時代であった様に想像します。

そして最終章「氷の下の芽」に、この連続小説の骨子であろう文を見つけました。
赤ひげこと新出去定のもとで医者の本分を学ぶ保本登が心の中で聞いた声です。

罪を知らぬ者だけが人を裁く
罪を知った者は決して人を裁かない

罪を憎んで人を憎まず、そして人を許し助けることは、とても難しく、その行為はほとんど徒労に終わってしまう。それでも仁に尽くすことで、世界が少しでもよくなると信じよう。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に通じる感慨を覚えました。

2017年3月19日日曜日

「騎士団長殺し」は、村上春樹版「不思議の国のアリス」かな

村上春樹「記事団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編」読み終えました。

印象的なフレーズが二つありました
「いろんな事がどんどん結びついていく」
まさに、この小説を読み続ける原動力となりました。ちりばめられた幾つもの伏線というべき、摩訶不思議な出来事のさわり、隠された歴史のさわり、登場人物のさわり、等々に悶悶としたものを観じながら読み進められたのは、最後には結びつく、スッキリできる、という期待があったからでしょうね。そして読み終え、一応スッキリしました。

そしてもう一つのフレーズは
「そうだよ。遠くでほんとうに起こっていることだ。でもほんとうに起こっていることをみんな、きみが見なくてはならないというわけじゃないんだ。」
現実世界においても、ネットを使えば幼い子供でも、世の中の相当に歪んだ現実を赤裸々に目にすることができるし、残酷な人殺しやおぞましい性犯罪さえ目にすることができる。
子供にはこの世界は美しいと思って育って欲しい。そして美しい心を育みながら成長して欲しい。成長過程で、歪んだもの、残酷なもの、おぞましいもので、心に闇を植え付けて欲しくない。まさに、このフレーズは、私達の、私の心からの願いを端的に表現したものでした。

物語は、充分に満足しましたが、一点だけ気になったのは
エピローグで、東日本大震災の日の出来事が描かれていたことです。シュールレアリズムの世界は、シュールレアリズムのまま綴じて欲しかったと思います。

あとひとつ、読んでいて、これは「不思議の国のアリス」ではないか?と思いました。
言い得て妙だと思っています。

2017年3月2日木曜日

村上春樹の最新作「騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編」を読み終えました。

村上春樹のマジックの様な文体、
文章による緻密な描写が、頭の中での具現化を容易し、
一節の文章に付け加えられた喩えが、文章に深みを与え、
章の終わりに添えられた次章の予告が、否が応でも先への期待を募らせる
これによって、物語世界に一気に引きずり込まれ、読書のスピードも加速し続けました。

読書の過程で、
ポルノグラフィとみまがうほどの性的描写にドキドキし、
おどろおどろしい怪異の出現にドキドキし、
様々な愛情模様、恋愛模様にドキドキし、
そして唐突とも思われた寓話の挿入や、歴史上の事件の挿入が、この先いかに符合するのかにドキドキし、
と沢山のドキドキが溜まりに溜まったまま、第1部顕れるイデア編を読み終えました。
この沢山のドキドキを解消すべく、第2部 遷ろうメタファー編に進みたいと思います。

2017年2月13日月曜日

沈黙-Silence- の感想

映画comで、マーティン・スコセッシ監督作品「沈黙-Silence-」の公開を知ってから、それからは毎日「観たいっ!」という衝動でうずうずしていました。
でも、つい物語のあらましをウィキペディアで確認してしまって、観ることに躊躇を覚えてしまいました。それは、遠藤周作の原作に触れなければ、本質には辿り着けないだろうという思いです。

主人公ロドリコ神父が棄教を前にして、はじめて聞いたキリストの声の真意は?(遠藤周作の真意は?)
そして
物語の重要人物と思われるキチジローは何者?

そして一週間前に、大阪に出かけた時に、天神橋筋の本屋で「沈黙」を買い求め、読み始めました。
そして、物語の中盤、ロドリコ神父がキチジローに欺かれ警吏の手に落ち、長崎近くの牢所に収監されたところで、もう堪らなくなり映画を観ることにしました。
小説は、映画鑑賞の翌日、読み終えました。


映画「沈黙-Silence-」は、この中盤辺りまでの描き方に戸惑いを覚えました。小説の文字が醸し出す吐き気をもよおすほどの汚さ、貧しさ、惨めさが、映像からは迫ってこないのです。ある意味、仕方がないことです。これは映画です。小説の中の、色の無い乾いた風景が、彩色された美しい風景として描かれます。恐ろしい海も、恐ろしい山も、恐ろしい夜も、息をのむほどに美しく描かれます。そして、これはアメリカ映画です。貧しく惨めなキリシタンの農民や漁民が、流ちょうな英語でロドリコ神父と会話をします。そこには、言葉もろくに通じずに孤独に追い詰められる神父の苦悩を観ることができません。
しかし、度重なるキチジローの欺きによってロドリコ神父が追い詰められる様子や、キリシタンが水の刑に処せられる場面には、言葉もでないほど苦しみが迫ってきました。背景の風景があまりにも美しく、残酷さがさらに際だって心に迫ってきました。

ロドリコ神父は、その後もキリシタンの残酷な最後を幾度と見せつけられ、ともに日本に密航した友、ガルペ神父のあまりにも惨めな殉教を眺め、そして棄教して日本人となった元フィレイラ神父と面会します。
そして遂には、目の前で殺され掛けている信徒の命を救うために、フィレイラ神父同様に棄教に至ることになります。
小説では、このシーンがクライマックスでした。ですが、映画ではさらにロドリコ神父が日本人となって、江戸の町の片隅で、年老い、唯一の家族となる日本人の妻に看取られて亡くなり、棺桶の中で、火を掛けられて焼かれるところで終わります。彼の手には、キリシタンから託された粗末な十字架が握りしめられていました。

そして、疑問であった
主人公ロドリコ神父が棄教を前にして、目の前の踏み絵に描かれたキリストが彼に掛けた言葉の真意ですが、
これはロドリコ神父が、ずっと気に掛けていた疑問の答えでもありました。
キリストは、欺いて警吏の手に引き渡した弟子の一人ユダに対して、「去って、なすことをせよ」という言葉を告げました。
これは、キリストがユダを切り捨てた言葉ではなく、ユダの苦しみをいつも共にし、充分に苦しんだユダに対して、後は私が頸木を負い続けるから、あなたは頸木を下ろしなさい。もう楽になって良いのだから、が真意でありました。
キリストがロドリコ神父に語りかけた言葉です。
「(踏み絵を)踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう十分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」
キリストの慈悲に、心が震える思いがします。

そして、キチジローは何者?ですが
文庫本121頁に、キチジローへの想いに悩むロドリコ神父の告解が綴られていました。
「キチジローの言う様に人間はすべて聖職者や英雄とは限らない。もしこんな迫害の時代に生まれ合わさなければ、どんなに多くの信徒が転んだり命を投げ出したりする必要もなく、そのまま恵まれた信仰を守り続けることができたでしょう。彼等はただ平凡な信徒だったから、肉体の恐怖に負けてしまったのだ。」
「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏み絵を踏んだかもしれぬ。」
映画では、さらにキチジローは、荒野で瞑想するキリストの前に現れて誘惑するサタンの様に振る舞います。
キチジローは、自分は弱い人間だと叫んでは、ロドリコ神父に告解を求めます。苦しみの中でロドリコ神父は、司祭の務めとしてキチジローの告解を受け入れ、キリスト者として祝福を授けますが、毎回、裏切られ、司祭としての自らの無力さに打たれます。
でも私は、キチジローもある意味、強いキリスト者であるように思えます。
キチジローは、どんなに裏切りものと蔑まれても、生き抜く方を選びます。そして、彼の信仰の火は、陽炎の如くかもしれないけれど、決して消えることがない。そして、棄教したロドリコ神父を、いつまでも司祭として頼り寄り添います。


そして、この「沈黙」は、神父の苦悩に留まらず、あらゆる人々に共通する苦しみだと思います。それは過度な労働、過度な責務に苦しむ人々すべてです。
それぞれがロドリコ神父となって、この物語を通じて、頸木を下ろす事の罪悪感から解放される事ができればと願います。

2016年11月27日日曜日

「ハリー・ポッターと呪いの子」を読みました。


最新刊「ハリー・ポッターと呪いの子」を読みました。
ハリーらダンブルドア軍団が、最終決戦となったホグワーツの戦いでヴォルデモートを滅ぼしてから19年後の物語です。
死の秘宝の最終章に、9と3/4番線に停車するホグワーツ特急の前で、新一年生としてホグワーツ魔法学校に入学する
ハリーとジニーの次男アルバス・セブルス・ポッター
ロンとハーマイオニーの長女ローズ・グレンジャー・ウィーズリー
そして
ドラコとアストリアの一人子スコーピウス・マルフォイ
を家族が見送るシーンが描かれていましたが、新たな物語はここから始まりました。

そして読み終わって・・・
J.K.ローリングさんは、この物語をドラコ・マルフォイへの贖罪として描いたのかなと想像しています。
ハリー・ポッターの物語は、11歳のハリーとロン、ハーマイオニー、そしてグリフィンドールの同級生らの成長物語でしたね。友情物語といってもいいかもしれません。しかし、スリザリンに組み分けされたドラコは友情とは無縁で、ひとり孤独に成長していたように思います。ドラコは生意気で不遜な子供でした。しかし、成長するに従って、そして、ドラコの手筈でホグワーツがヴォルデモートの手に落ちる辺りから、心の内の葛藤に非常に苦しんでいたように思います。
第二幕第15場の中で、ドラコはハリーとジニーの前で告白しています。
「君たち三人は、輝いていたんだ。分かるか?君たちはお互いが好きだったし、楽しんでいた。私は君たちの友情が何よりも羨ましかった。」と
ハリー・ポッターの成長物語では、結局ドラコは救われませんでした。ホグワーツの戦いでダンブルドア軍団が勝利した時、ドラコと両親の三人は、死食い人とも袂を分かち、孤独に生き延びることを選択しました。
物語としては描かれていませんが、ドラコは純血の、でもとても心根の穏やかな女性アストリアと結婚した様子です。
第四幕第4場で告白は続きます。
「アストリアは虚弱だった・・・
私は彼女の体を危険にさらしたくなかった。マルフォイ家の血筋が絶えても、私は構わないと思った・・・
しかし、アストリアは、マルフォイ家の家名とか、純血とか、栄光のために子供が欲しかったのではない。我々夫婦のために欲しかった。
我々の子供、スコーピウスが生まれた。我々夫婦にとって人生最良の日だった」
ドラコの長年の希望は、その一人子スコーピウスの手によって叶えられました。
スコーピオスは、ハーマイオニーを男の子にした様な性質です。勉強ができて、ちょっとシニカルではあるけれどユーモアもあり、そして何より友情を積極的に求めていました。
そして、初めてのホグワーツ特急の中で、アルバスと出会い、二人が本当の友だちになるための冒険が始まります。
そして、呪いの子の冒険物語は、バック・トゥ・ザ・フューチャーの様相でしたね。過去を修正すると未来が変わる。しかし、望んだ未来は訪れない。そんなジレンマの中で、時間旅行は、やがて修正を取り消す旅へと変わっていきます。それは、ハリーら親にとって辛い体験の既視感であり、アルバスら子にとっては辛さの追体験となりました。
そして時間旅行の旅は終わります。アルバスは、ひがみっぽい性根は薄れ、明るく勇気を示す事ができる少年へと成長しました。そしてスコーピウスは、この旅で賢さと誠実を示したことで、生まれてから付きまとっていた汚名を晴らすことができました。そして何より、父同士、ハリーとドラコの長年の確執を取り除くことができました。

最後に・・・
この呪いの子には、一点疑問を覚えます。ヴォルデモートに一人子がいたということです。うら若き娘の姿をした闇の魔女デルフィーです。
ヴォルデモートは、闇の帝王、悪の中の悪の存在です。そして何者も服従させ、決して信じない。自らの魂さえ七つに裂くほどの、もはや人間の感情など一欠片も持ち合わせていない化け物です。そんな化け物のヴォルデモートが、何故に忠実な最強の闇の魔女ベラトリックス・レストレンジに一粒種を与えたのか?万一、ヴィルデモートよりも優れた闇の魔法使いが誕生したらどうするのでしょうか?それこそヴィルデモートが一番に恐れることではないかと思うのです。
そこでまた疑問です。ヴォルデモートほどの希代の魔法使いであれば、賢者の石を精錬して不死の力を得ることも可能であっただろうし、究極の逆転時計を作り出し、時を超えて恐怖で世界を支配することも可能であっただろうと思います。それなのに何故に、魂を引き裂いてまで自衛を計ろうとしたのでしょうか?一体、ヴォルデモートは何に恐れを感じていたのか?
そんな風にしてヴォルデモートを眺めると、彼が、トム・リドルが、とても孤独に苛まれた弱々しい人間に思えてきます。もしかしたら、彼の残虐性は、愛情への悲痛な渇望の裏返しであったのかもしれない、そう思えて仕方がありません。

2016年11月11日金曜日

平和を問う寓話「カエルの楽園」は、救いのない物語でした。

百田尚樹さんの寓話「カエルの楽園」を読みました。
日本を彷彿させる平和なツチカエルの国ナバージュが、ある日突然、沼地の凶暴なウシガエルに国土を侵犯されてから、徐々に国土を侵略され、ついには占領されジェノサイドによって滅ぼされるまでの物語が描かれていました。

滅亡を招いた原因は幾つもありますが、
直接の原因は、ナバージュの岩山に棲んでいたオオワシのスチームボートが、何処へと去ってしまったことでした。
昔、オオワシがこの地にやって来たとき、カエルはオオワシを追い出そうと楯突きました。それに怒ったオオワシは何百というカエルを虐殺しました。
カエルは降伏し、岩山をオオワシに提供し、そしてオオワシが住みやすいように様々に便宜を図りました。またオオワシの命令により、再びオオワシに楯突かないように三戒の法を作りました。
ツチガエルが作った三戒は、「スチームボート様を信じろ。スチームボート様と争うな。争うための力を持つな」という法でした。ツチガエルは三戒とあわせて「我々は生まれながらに罪深きカエル。すべての罪は、我らにあり。さあ、今こそみんなで謝ろう」という謝りソングも作り、オオワシに向かって歌いました。
オオワシは、この見返りにナバージュを外敵から守ってやることにしました。

しかし月日は流れ、三戒は「カエルを信じろ。カエルと争うな。争うための力を持つな」に変化し、ツチガエルはナバージュの平和は三戒で守られていると信じるようになりました。オオワシへの謝りソングは、ツチガエルが昔に他のカエルに非道を行ったと云う風に曲げられて歌われるようになりました。そしてウシガエルの国土侵犯が発覚した時、多くのツチガエルは三戒でウシガエルと和睦できると信じました。
それでも、少数のカエルは三戒ではナバージュは守れない事を知っていて、オオワシにウシガエルを追っ払ってくれるよう頼みました。しかし、オオワシは年老いて以前ほどの力はなく、ツチガエルが共に戦うなら力を貸すと伝えます。しかし、ツチガエルの評議会は、カエルと戦うことは三戒に反するとこの提案を否決し、それを聞いたオオワシは、この地を去ってしまいます。
ウシガエルが恐れたオオワシはナバージュからいなくなりました。そしてウシガエルのナバージュ侵略が始まったのです。

しかし、もっとも忌まわしい原因は、三戒に異を唱えたり、ウシガエルと戦って国を守ろうとした者達を、ナバージュのリーダー達が三戒の法を犯したとして死刑にしてしまったことです。それによって、三戒に異を唱えたり、戦おうとするものは一人もいなくなりました。
ウシガエルの侵略は、ツチガエルの無抵抗の中で粛粛と行われました。そして占領が完了すると、ナバージュのリーダーは、ウシガエルの支配の為に働く者となりました。そして、ツチガエル同士の密告により、三戒に異論を持つ者と烙印を押された者から虐殺が始まりました。

「カエルの楽園」は、この様な救いのない物語で、読み終えたとき、なんともやるせない気持ちになりました。
けれども、この寓話は予言などとは思いません。
日本は、言論の自由が保障され、また人権、人命が保障された国であるからです。憲法に背いたからと無闇に国民を死刑にする国ではないからです。

しかし、カエルの国では三戒として描かれた、日本の憲法第九条は見直さなければいけないと思います。
・戦争の放棄
・戦力の不保持
・交戦権の否認
の三戒を自らに課している主権国は世界中で日本しかありません。日本が憲法第九条を掲げたのは、敗戦で国が占領されていたときです。占領国は、この法律で日本から戦う意志と力を削いだのです。三戒は崇高な理念です。しかし、世界中の国が三戒に従わなければ、一国の三戒は平和を守る力にはなりません。
祖国を守るためには、国民の人命と財産を守るためには、何をすべきか。何が必要か。主権国として、しっかりと法律(主権者が守る法)を見直す必要があると思います。

2016年10月30日日曜日

最近のマイブームは寅さんです。

最近、マイブームは寅さんです。何の気なしにテレビ放映された寅さん映画を観て、ジンときてしまって・・・、それからテレビで寅さん映画があると録画して観ています。
寅さんこと渥美清さんが、俳句を嗜まれていたことも最近知りました。図書館で「風天 渥美清のうた」を読みました。

蟹悪さしたように生き
自殺したひととあそんでるへんな夢
お遍路が一列に行く虹の中
特にこの三編におもしろさを感じました。

蟹・・・、渥美さんのお顔を思い出しプッと笑みがこぼれます。ご本人か寅さんの生き様を読まれたのでしょうか
自殺・・・、なんとも出だしが衝撃的ですが、でもこの句からは悲しみも苦みを浮かんでこない。ただ淡々とした風景を想像し心が癒やされる思いがします。
お遍路・・・、こちらは渥美さんが晩年、病に冒されていた時に読まれた句だそうです。お遍路にご自分を重ねられていたのかなと、しみじみ感じ入りました。

蟹の句は、十七音の原則にとらわれない自由律俳句というものだそうです。渥美さんは、この自由律俳句の第一人者緒方放哉に傾倒されていた様子です。

そしてもう一冊、興味を引いた本がありました。こちらは借りて読みました。
精神科医名越康文さんが書かれた「『男はつらいよ』の幸福論」です。
中学の時に偶然に映画館で寅さん映画を観てから寅さん愛に目覚めて、これまでに全48作品をそらんじられるほどに観られた名越さんの中には、名越寅さんが息づいているように思われます。名越寅さんの人柄がとても愛らしいです。
惚れ症でお節介で、人に迷惑がられることも多々ですが、裏表がないので、寅さんに関わる人は、寅さんが側にいるだけで安心できるんです。それに中学中退で机上の学問はからっきしだめですが、風来人生の中で関わった人を通じて生きた言葉を知っている。それが心に染みるんですね。寅さんは女性に振られ振られの人生だと思っていましたが、それも大きな間違いでした。寅さんは相手女性の一番の幸せは何なのか分かってしまうんですね、だから身を引いてしまうんです。そんな寅さんの寂しさや純情さに私達は心が惹かれるのだと思います。

名越寅さんは輪廻を生きているとも書かれていました。
多くの人は、その人のゴールに向かう一本道を歩いています。出会いと別れは一度きり、だから一期一会を大切にする。でもともに歩む輩や連れ合いに対しては、時にマンネリズムを感じて煩わしく思うこともあるでしょう。そういう苦悩と戦うのも人間なのだと思います。
でも寅さんは出会いと別れを、何度でも新鮮に繰り返すことができるんですね。輩や連れ合いに「あばよ」といって別れ、「よっ」といって帰ってくる。人は「旅の垢を落とす」ものですが、寅さんは「旅で垢を落とす」でしょう。ですから寅さんが持ち帰ってくるのは楽しい話ばかりです。ですから輩や連れ合いは寅さんの帰りを待ちわびることができるのだと思います。


追伸。
あとがきで、名越さんは初めて映画館で観た寅さん映画は「寅次郎ハイビスカスの花」と書かれていました。中学生の時、「戦場のメリークリスマス」を観に行ったら二本立てで、中に入ると寅さん映画の途中だったと書かれていました。おかしい、と思いました。名越さんは私と同じ昭和35年生まれでした。「戦場のメリークリスマス」は、1980年代の映画です。調べてみると「ハイビスカスの花」も1980年の作品です。
この下りは、もしかしたら記憶の錯綜でこんがらがっているのではと思います。
でも「『男はつらいよ』の幸福論」は名著だと思います。読書におすすめの一冊です。

2016年9月9日金曜日

オスカー・ワイルドの「幸せな王子」

新しい朗読動画を作ろうと図書館で本を物色していて、一冊の絵本に目が留まりました。オスカー・ワイルドの「幸せな王子」です。物語の挿絵が切り布と刺繍で印象的に描かれていました。


「幸せの王子」は、以前家にもありました。大判の絵本で、物語の挿絵は写実的に描かれていて、挿絵を眺めるだけで物語を楽しむ事ができました。字の物語も、子供向けにやさしく描かれていたように思います。
『幸福の王子と呼ばれる王子の像が、可哀相な人々に心を痛め、像の装飾物である宝石や金箔をツバメを使いにして、可哀相な人々に施しを続けます。その結果、装飾物をすべて失いみすぼらしい姿になって、壊されてしまいます。
ツバメは、越冬地であるエジプトに旅立つ事をせずに、幸福の王子の翼となって使いをし、また王子が目を失ってからは目となり話相手となっていつまでも側に寄り添い、冬になって死にました。
神様は、この二つの魂を善い行いをした報いとして天国に導きました。』
自分を犠牲にして他に尽くす行いは、とても貴いんだよと描かれていたように思います。

でも、清川あさみさんの挿絵と金原瑞人さんの訳で描かれた「幸せの王子」は、まったく別の物語として読み進めていました。それは一言で言うなら、現代にも通じる『人間社会への痛烈な風刺』です。
タイトルの「幸せな王子」も風刺を感じます。
王子は生きていた頃、人間の王子としてサンスーシー(憂いの無い)の宮殿に住んでいて、美しいものに囲まれて幸せしか知らずに生きていました。そんな王子を家来達は「幸せな王子」と呼びました。その呼び名は、王子の耳には心地よく響いたことと思います。でもきっと家来達は、『本当のことは何も知らない、何も見ようとしない、間抜けな王子』と皮肉や悪口を込めて呼んでいたように思います。
そして王子は、純粋に幸せに満ちたまま死にました。でも王子の魂は、天国には向かわずに、王子の死後に立てられた王子の像の鉛の心臓に留められました。像の中で甦った王子の魂が二つのサファイアの目で見たものは、世の中に蔓延る人間の醜さと貧しい人々の苦しむ姿でした。そして生きていた頃から家来や国民にどの様に見られていたかも知りました。それは王子にとって地獄に落とされたと同じであったと思います。目を背けたくても閉じることもできず、何かしたくても鉛の体は微動だすることもできません。王子は泣くしか他ありませんでした。
オスカー・ワイルドは、幸せの王子を通して、如何に高い地位や黄金が、人間を盲目にするか、またそれに群がる人間を醜悪にするか、この物語を通じて風刺しているのではないか、そのように思えてきました。

神様が二つの魂の一つ、二つに裂けた鉛の心臓を祝福した理由も、自己犠牲だけでは無かった様に思います。
王子はこの世の悲惨を見続ける中で、『生きている人たちは、金さえあれば幸せになれると思っている』ことを悟りました。そして純粋に、こんな像の姿でも、装飾の宝石や金箔を使って、不幸な人を幸せにする事ができる、そう願う様になったのだと思います。
そこに使いとなって働いてくれるツバメが現れた。そして王子の願いのために身を犠牲して働いてくれるツバメに、これまで誰にも感じたことが無かった感謝と愛情が芽生えたのだと思います。王子はサファイアの目を失ったことで地獄を眺める苦悩から解放されました。そして同時に心の中が本物の愛で満たされました。それが王子が神様の目に留まった理由ではないかと思います。

こんな風に解釈に時間を要してる間に、返却日となってしまいました。
朗読動画を作るのは、また今度の機会となりそうです。

2016年8月7日日曜日

小説「ワンダー」と素敵な子供たち

ほるぷ出版のワンダーのページに掲載されていた、作者J.R.パラシオさんのインタビュー記事を読みました。
この物語は、実際にパラシオさんが経験したある出来事が、執筆のきっかけであったと語っていました。その出来事は、ジャックの章で、ジャックが初めてオーガストと出会ったエピソードとして描かれていました。
ジャックがまだ五歳くらいの時、弟と一緒にベビーシッターのお姉さんに連れられて近くの公園に出かけベンチでアイスクリームを食べていたときに、横にいたのがオーガストの家族でした。そしてオーガストの顔を見た弟が突然に泣き叫び、次にはジャックと二人して家族を傷つける言葉を発するのではないかと危惧したお姉さんが、一目散でその場を離れたとエピソードには書かれていました。
この時の、ベビーシッターのお姉さんが作者パラシオさんで、泣き叫んだのは二人のお子さんでした。その夜、パラシオさんはその場を逃げるのではなく、普通に話し掛けて、子供たちに別の対応を示すべきではなかったかと反省とともに考えて、この物語の執筆を思い立ったと語られていました。
そして物語は、オーガストの物語だけではなく、オーガストの周りにいて、ほんの少し余分に親切を自分自身に課したジャックやサマーなどの子供たちの物語も丁寧に描かれていました。
ですからこの物語には、とても繊細な問題に対して、さまざまな意見や感性を持つ子供たちや大人たちを当事者の気持ちにさせて引き込む力がありました。
私は修了式で、ジャックにもその親切を賞賛する金メダルを授けて欲しかったです。
そしてもうひとり、お姉ちゃんの友だちのミランダには、オーガストに他人でも信じられる気持ちを育んだ、ミランダの優しさと無二の愛に対して金メダルを授けたいと思います。

2016年8月6日土曜日

小説「ワンダー」と素敵な魔法の言葉

先日、おはよう朝日です!のトレンドエクスプレスのコーナーで、この夏の絵本ブームといち押しの絵本についての紹介がありました。
紹介された絵本のタイトルは
Wonder ワンダー 、驚愕
です。

なんでも、生まれつき顔に言葉にできない程の障害を持った少年の物語と云うことでした。
頭に浮かんだのは
エレファントマンとオペラ座の怪人のファントムです。そして昨年夏に偶然出会った男の人の事でした。
昨年の夏は兄の病院に通う道すがら、よく三ノ宮の街を歩きました。そんなある日の昼下がりの事です。大勢が行き交うフラワーロードの交差点で向かってくるひとりの男の人に何気に目が留まりました。私は癖で人の目や視線に目が行きます。しかしその時は一瞬で視点をぼやかしました。見たくないという気持ちと私の顔に嫌悪感を浮かばせない為でした。その男の人は両目の位置が離れていました。高さが数センチ違っていました。
すぐその後、身勝手ですがその男の人の勇気を想い、そして自分を恥じました。

家族に頼んで本を買ってきて貰いました。ワンダーは絵本ではなく400頁に渡って描かれた、少年と家族とまわりの子供たちの物語でした。今朝、読み終えました。
10歳まで家族の中で愛情豊かに守られてきた少年オーガストが、一歩踏み出すために初めて学校に通い出し、五年生の終了式を迎えるまでの物語が綴られます。

終了式での、トゥシュマン先生の言葉が強く残ります。
「必要だと思うより、少しだけ余分に親切に」
そして先生は「親切」がもたらす価値について話された後、
「ここにいる一人ひとりが、いつどこにいようとも、必要とされる以上に親切にしようということを規則にしていれば、世界はもっとすばらしい場所になることでしょう。」
と述べられました。
必要だと思うより、少しだけ余分に親切に
「親切」の他にも
「勇気」「笑顔」「我慢」「努力」を当てはめてもいいですね。
一人ひとりが今必要だと思うこと、少しだけ余分に実行すれば、目の前の世界は、もっとすばらしい世界に変わる
すてきな魔法の言葉です。

追記
オーガストが通った学校も素晴らしいですね。終了式で学業で優秀な成績を収めた生徒だけを表彰するだけではなく、音楽で活躍した生徒、スポーツで活躍した生徒、素晴らしい作文を書いた生徒、そして勇気を示し生徒皆に影響力を与えた生徒(オーガストです!)に金メダルが授与されました。
それぞれの個性を認め、見守り、評価する、賞賛できるというのはこの上なく素敵な教育環境だと思います。

2016年7月30日土曜日

アーネスト・クライン著「ゲームウォーズ」 非常に面白かったです !

映画COMで知った、スピルバーグが監督として映画制作を進めているという
READY  PLAYER ONE 2018年公開予定
の原作小説を 読みたいから買って来てと頼むと、翌日に遼太郎が買って来てくれました。そして、今朝読み終えました。
ギークで引きこもりな少年ウェイドが、OASISという広大な仮想現実世界を持つインターネットゲームの中で、パーシヴァルというアバターとなって、成長し、友を得、恋をし、やがて仮想現実世界と現実世界でギークやナード、オタクの、そしてすべての弱者の勇者に救済者になるまでの一種のスペースオペラが描かれていました。
この映画の事を知って、本を得る前に読んだ書評の一つに
日本ライトSFである″サマーウォーズ″の様
と書かれたものがありました。
小説の訳者あとがきに、
作者が「チョコレート工場の秘密」の工場主ウィリー・ワンカが(壮大な)ゲームデザイナーだったら?
が着想であった云々と書かれていました。
このどちらについても納得できる物語でした。
前半は、1970年代80年代のコアでレアなポップカルチャー満載のSFハイスクール物という猥雑で軽妙で軽快な話でしたが、中盤辺りから、いはば自由で何の束縛を受けないOASISという世界を金儲けの道具にするために、そしてネットでしか夢を見ることができないリアル世界のギーク達を奴隷にするために、強引で尊大で卑劣極まりない手段でOASISを乗っ取ろうとする悪の帝国、リアル世界でも全てのインターネットサービスを支配して帝国と成らんとするインターネットプロバイダーIOIに対して、並外れた知力とスキルと勇気を兼ね備えたアバターの5人の勇者が立ち向かうという指輪物語を彷彿する壮大な叙事詩へとスケールアップしました。
仮想現実世界で繰り広げられる宇宙戦争では、日本発世界初の巨大異星人ヒーローウルトラマンとマジンガーZ等のジャイアントロボ群が大活躍するシーンもあって、昭和四十年代を夢みる少年として過ごした者として、大変胸が躍りました。
最後に、上巻240頁の一文を引用させて頂きます。かつてOASISをクリエートした天才ゲームデザイナー、ジェームズ・ハリデーのハイスクール時代からの親友で共にゲームクリエイト会社を大成功させたもうひとりの偉人オグデン・モローが、後年ハリデーと袂を分かった後、唯一残したメッセージです。
「OASISは牢獄となり人類は自分たちをそこに閉じ込めた。誰からも顧みられなくなった人類文明がじりじりと崩壊にむかっているあいだ、世界はかずかずの問題から目をそらして、そこに隠れている」
現代にも通じる警句であり、この物語の真の指輪は何であるかを指し示すメッセージであると思いました。
映画化、非常に楽しみになりました。

2016年5月30日月曜日

やったことリストの効果

ニューズウィーク誌に、「やったことリストの効果」という記事がありました。記者の実践リポートです。

記者はこれまでToDoリスト(やることリスト)を付けていましたが、やってもやっても積み残される仕事が増えていくリストを見るのは嫌でした。
ある時、上司から仕事の成果物(記事、コラムなど)の量を上げることを求められ、ToDoリストとは別に、仕事の成果が一目で把握できるDoneリスト(やったことリスト)を付ける事を始めました。
そしてそのDoneリストに、一日の終わりにその日やり遂げた仕事や自分を誇れる行動を書き記す事にしたのです。

効果は直ぐに現れました。
以前はやってもやっても積み残されていく仕事の多さに目が留まり、自分にはこの仕事が本当は合っていないのではという有害な思い込みに支配されることがありました。しかし、Doneリストによって仕事の成果と自分の成長を一目で把握できるようになり、
①有害な思い込みや自己評価の低さを克服
②やり遂げた仕事の記録が励みとなり、生産性が向上
を実感したのです。
そして最後に、「なにより気分良い」という感想を述べて締めていました。

一日の仕事を気分良く終える、終えられるという事は、翌日の仕事を新たな気持ちで始めるための秘訣であり、また充実したアフターファイブを過ごすための秘訣でもありますね。
ToDoリストは備忘録として、Doneリストは成果記録として、うまく活用して「なにより気分良い」を体感したいと思いました。

2016年1月30日土曜日

小説「母と暮らせば」、読みました

良い物語に、また一つ出会いました。
小説「母と暮らせば」です。昨年末に公開された山田洋次監督作品の小説版です。
著者は山田洋次監督と井上麻矢さん。映画公開にあわせたニュース番組で、この物語は麻矢さんの父である井上ひさしさんの「戦後命の三部作」の意志を継いだものであり、ヒロシマを舞台とした戯曲「父と暮らせば」と対になる物語であると話していました。
映画は、8月9日の原子爆弾の炸裂により一瞬にしてこの世から消え失せた青年が、亡霊となって母のもとをたずねるというところから始まるという話で、その青年を二宮和也、その母を吉永小百合、そして青年の許嫁を黒木華が演じているということで、是非に映画館で観たいと思っていました。でもロングランすると思って油断していたら、先週上映が終わってしまい、観ず終いとなりました。

三日前、ふらっと近くの書店をたずねたところ、新刊の棚にこの小説を見つけました。ぺらぺらと目次と最初の数頁を立ち読みしましたところ、音読に相応しい物語ではないかと直感し、購入して音読しました。
小説は、青年が亡くなって三年後の命日から始まります。そして青年が母のもとに姿を現してからの半年間を、青年と母そして許嫁それぞれが語り部となって、心情と会話によって物語を紡いでいました。青年が亡霊であることを除けば仲むつまじい母子の会話劇であり、また一番大切な人を失った二人の女性、その母とその許嫁の心の通い合いが描かれた、温かくて切なさ一杯の物語でした。
百数頁の物語は、何気なくも愛情の詰まった長崎弁での会話が綴られていました。長崎弁は不得意ですが、想像しながら長崎弁で朗読しますと、戦後直後の長崎の地に降り立った様な気持ちになりました。そして朗読するほどに、青年と母と許嫁の悲しみが私の心の中に流れ込んできました。