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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年9月27日日曜日

「ヒロシマ 想像力が語り継ぐ」を読んで・・・

先日の朝日新聞読者投稿欄(声Voice)で、「ヒロシマ 想像力が語り継ぐ」という80歳代女性の投稿を読みました。
女性は、以前にこの投稿欄で読んだ二十歳女性の投稿に感心し、エールとして、今投稿をされたのだと思います。
二十歳女性は、十代の頃から広島で被爆証言を集める活動を行い、二十歳になった現在も、広島で平和を願う活動を行っていると書いていました(と思われます)。
女性は、このヒロシマに向き合う活動をする二十歳の女性に、
どうかあの日のヒロシマで、被害に遭ったひとり一人の身体の痛みを想像できる人になって下さいと希望し、
そうすればきっと、貴女はヒロシマの被爆者、被爆死者の心に寄り添える人になるでしょうと期待し、
そんな貴女は、ヒロシマを語り継ぐに相応しい人ですと結ばれていました。

また女性は想像する力こそ大事と語り、自ら行動し、調べて学んで、そして得た知識を、あなたの想像する力で、血肉の通う経験に近づいて欲しいと願われていました。

二十歳女性が取り組んでいる活動は、昨今のインターネットによる情報収集やSNSを駆使して・・・なんてやり方は通用しません。自分の足で証言者を訪ね歩き、自分の耳と心で証言者の言葉や心情を汲み取る。そして想像力で血肉の通う経験に近づける。血肉の通う経験とは、被害者ひとり一人の痛み、苦しみ、悲しみです。
それは、現代の私たちが反射的に嫌悪感を覚える戦争や原爆というテクニカルな事柄からは、決して想像する事はできないものです。テクニカルな事柄は、インターネットによる情報収集やSNSを駆使すれば、簡単に手にすることができますが、それは論理的思考の産物でしかありません。またテクニカルな事柄は、権力者が教育や指導の名目で、想像力を挟む余地無く論理的に学習させられたり意図的に誘導されたりする危険を秘めます。

本物の血肉の通う経験というのは、血肉の通う交流からでしか得る事ができないのだと思います。

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