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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2024年4月15日月曜日

不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤官九郎作のドラマ『不適切にもほどがある!』は、多くの日本人の共感と支持を得たと思います。私もその一人です。

ですが、最終回で不寛容な日本社会の倫理観に囚われる人々を解放するように、フィナーレで『寛容になろう!』と登場人物皆で歌い上げるシーンには、ちょっとだけ違和感を覚えました。


この違和感が何なのか、以下に考えたいと思います。


18世紀中頃に活躍したフランスの著述家ヴォルテールの著書『寛容論(原題:”Traité sur la Tolérance” 英語訳”Treaty on Tolerance”)』には、日本に言及した箇所がありました。ヴォルテールは文明の地ヨーロッパから遠く離れた当時の日本を評して、世界で一番寛容な国であると記していました。当時の徳川幕府が支配する日本はキリスト教を禁教とし、島原で起こったキリスト教徒の反乱を武力で根絶やしにするほど苛烈に弾圧をしていましたから、当然ヨーロッパのキリスト教徒は日本を野蛮な国と断じていただろうと思っていましたので、ちょっと驚きを覚えました。

しかし、ヴォルテールの補足説明で、合点がいきました。

当時のヨーロッパではキリスト教はカトリック派、プロテスタント派、教皇派等に分かれ、それぞれもまた枝葉が分かれる様に分派し、それぞれの宗派のキリスト教徒は他の宗派のキリスト教徒を殺しても足りないほどに憎しみあっていました。これでは文明国家として進歩てきないと憂えた進歩的な知識人が立ち上がり、王を説き、法律を作って、宗派対立の憎しみを耐えて抑制し、文明国家へと進歩できるように国民を啓蒙しました。ヴォルテールもその一人として活躍しました。

この『他宗派への憎しみを耐える』が”Tolerance”の原意であり、”Tolerance”は明治期に『寛容』という日本語に翻訳されて、日本にもたらされました。

徳川幕府以前の日本の支配者も、徳川幕府以後の支配者も統治に悪い影響を与えない限りにおいで信仰の自由を国民に保証しました。ヴォルテールはこの日本の統治の有り様を知っていたのです。

ヨーロッパには明治期以後に『寛容』と日本語翻訳されたもう一つの語があります。『カエサルの寛容』の意として用いられる”Clementia”です。原意は『寛大、或いは慈悲』です。古代ローマ帝国の皇帝は、支配地の統治に悪い影響が無い限りにおいてローマとは異なる土着の文化や信仰を許すという寛大さや慈悲を示したのです。

このような歴史的背景から、ヴォルテールは18世紀において日本が最も寛容な国であると評したのだと思います。

また日本のキリスト教の禁教と弾圧は、16世紀から日本への布教活動を進めた教皇派の分派であるイエズス会の政治的思惑(布教を足掛かりに日本でのスペイン帝国の影響力を強める)を日本の統治者が察し危険視したことから起こった出来事であるとの理解が示されていました。


『寛容』という語を、現在の私たち日本人は『心が広く、他人の過ちや欠点を厳しく咎め立てしないこと、他人の言動・意見を受け容れること』の意として使います。

反対語としての『不寛容』は『心が狭く、他人の過ちや欠点を厳しく咎めること、他人の言動・意見を受け入れないこと。』の意です。


『不寛容』は簡単に行えます。自由の名の下に、身勝手に心の赴くままに振る舞えばいいのです。抑制するとか、耐えるとか、思慮深くとかいう心身の負担は一切ありません。責任の重みを感じなければ『不寛容』は、歌を口ずさむような、軽口を吐くような程度の事で、きっと罪悪感というものも一切記憶に残る事はないでしょう。しかし、やられた方は、きっと殺したいほど憎しみを募らせる事になるでしょう。


『寛容』は違います。寛容には、抑制するとか、耐えるとか、思慮深くとかいう心身の負担が強いられます。重い義務と責任が伴います。その為に、誰でも彼でも『寛容』を実践することは簡単ではないのが実際だと思います。

『寛容』ある態度で振る舞う事は、しっかりと『寛容』についての義務と責任を学び、実践を積む事でしか表現できないと思います。『寛容』は、仏教で表現されるところの徳を積む行為です。誰も彼もが生半可に行える行為ではありません。


そう、そこが私の違和感の所以です。

ドラマでは生半可では出来ない『寛容』を、さも誰でもよっといで『寛容になろう!』と呼びかけている様で、そこに違和感を覚えたのです。


現在の日本社会を支配する不寛容な倫理観は、やはり正さなければならないと思います。

しかし、それは安易なる『寛容になろう!』を説くのではなく、まさにこの数百年で、人類が人権に授かれる範囲を少しずつ獲得し広げていった様に、不寛容な事柄に一つ一つ向き合って、正す様に社会の合意を取りながら、不寛容な事柄を無くする様に一歩一歩着実に進めていかなければならないのだと思います。

そして、『社会の合意を取る』とは、社会を構成する一つ一つのセクションで役割を担う人々に、責任と義務を行使する為の実権を委ねることです。今の社会は、実権もなく責任と義務を負わされてしまうから、役割を担わされる人々は疲労困憊するのだと思います。


実権が与えられてこそ、遣り甲斐が沸き立ち、責任ある行動を自らを律して行えるのだと思います。そのためには、子どもの頃から自治の精神を育まねばなりません。そうでなければ、『耐える』『抑制する』ことも、『寛大』『慈悲』という徳を積む行為を行うことも、不可能だと思います。 

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