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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2019年8月6日火曜日

「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」

8時15分、町に鳴り響いたサイレンを合図に、広島で原爆によって殺された被害者に黙祷を捧げました。

74年前の1945年(昭和20年)8月6日、広島市は快晴でした。
1944年(昭和19年)の秋からアメリカ軍による日本の都市部への無差別絨毯爆撃が始まりました。広島市上空にも何度も米軍の飛行機が飛来しますが、どういうわけか空襲の被害を被ることはありませんでした。ですから市民は、米軍機が飛来の度に町に轟く空襲警報のサイレンと解除のサイレンを何度も耳にしました。
そして原爆が投下されたその日も、エノラゲイより先に飛来した米軍機を警戒するサイレンが町に轟きました。そして解除のサイレンが轟いた後、市民が日常生活を始めようとした矢先に、エノラゲイが高い空に姿を現し、原爆を落としました。
まだ年端も行かぬ幼子は家の中にいるか通りで遊んでいました。
小学生の低学年生は学校に登校し、高学年生は建物疎開に駆り出され、中学生以上の生徒は学徒動員で軍需工場に駆り出されました。若い母親たちも様々な動員に駆り出されました。年老いた家族は家で家事に勤しんでいました。家族がバラバラに活動し始めた矢先の事でした。
原子爆弾は、相生橋付近の上空四五百メートル辺りで爆発し、半径一キロメートル内では多くの人が熱線で一瞬に焼き殺され、半径二キロメートル内では致命的な火傷を負わされました。また半径四キロメートル内では爆風によって多くの建物が吹き飛ばされて人々は致命的な傷を負わされました。また、後に起こった猛火によって下敷きになった多くの人々が焼き殺されました。
一次災害で生き残った人々は、家族の安否を尋ねるために地獄に変貌してしまった広島の町をさまよい歩き、多くの悲惨な光景を目にしました。そして、昨日まで生きていた人が朝になると死んでいるという現実に直面しました。それは自分にも訪れるかも知れない原爆症の恐怖の始まりでした。そしておよそ28万人の市民が原子爆弾によって命を奪われました。

夏の初めに手に取った手記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」は、読み進めるほどに、私の中に74年前の出来事をまざまざとした記憶として心に刻みます。それはまるで自分があの日に、あの時間に、あの場所に、いる感覚をもたらします。
それは、苦しむ人々を見殺しにせざる得ない無力感、敗北感です。そして、明日、自分が死ぬかも知れないという恐怖感です。そういう感覚に胸が締め付けられます。

「原爆の子」の編者は、自らも広島市内の自宅で原爆の罹災に遭い、死線を彷徨う経験をされた教育学者長田新さんです。長田さんは、復興が進み始めた1951年(昭和26年)に、広島の少年少女たちが、あの原爆で何を感じ何を考えたかを知ることに平和教育への意義を見出され、原稿用紙を持って手記集めに奔走され、貴重なる1175名の手記を集められました。そして代表的な105編(小学生手記42,中学生手記25,高校生手記18,大学生手記20)を選び、出版されたのが「原爆の子 -広島の少年少女のうったえ-」です。

現在の私たちが、戦争を考えるための、平和を考えるための、第一級の読み物だと思います。

《広島市 1945当時アメリカ作成地図》


《広島市 現在Google地図》



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