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野球が好きだから

夏の高校野球大会地方予選がたけなわです。 終われない夏のガチンコ勝負、勝者は甲子園を目指して戦い続け、そして敗者はグラウンドに別れを告げる。そして彼らが戦ったゲームは、私たちの心に貴いドラマそして切ないドラマとして刻まれます。 野球が好きだから 『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』...

2025年2月2日日曜日

映画「正体」を観て、自由と人権について考えました。

信じたかったんです、この世界を。

正しいってことを、正しいって主張すれば、信じてくれる人がいるって。

外に出てから、生まれて初めて仕事をして、生まれて初めて、お酒を飲んで、友だちができて、人を好きになりました。生きてて良かったって思いました。

そして、もっと生きたいって思いました。


最近の多くの、市井の人が突然に人権を奪われる、踏みにじられる、という出来事を観る度に、私たち一人ひとりに保証されているという自由と人権を根幹とするデモクラシーが、根底から揺らいできているという実感を覚えます。と同時に、根幹である自由と人権とはいったい何かを、私たち一人ひとりが自らの事として真剣に考え直さなければいけないと考えるようになりました。

昨日観た映画「正体」は、自由と人権について考える、とても素晴らしい映像作品でありました。

映画「正体」には本当に心が揺さぶられました。感動しました。その中でも、私が特に救われ、感動したのが冒頭の言葉です。この言葉は、18歳で死刑囚の身に落とされ、三年後に脱獄し、三年間逃亡生活を送った後、再び逮捕され、刑務所に戻された主人公の青年が、最初から青年を犯人と決めつけて執拗に追い詰めてきた刑事の面会に応じ、刑事の「どうして逃げたんだ?」という問い掛けに対して答えた、青年の信条でありました。

https://movies.shochiku.co.jp/shotai-movie/

日本において、そして多くのデモクラシー、民主制を憲法で定める国では、国民一人ひとりに自由と人権が保証されることになっています。

ただ自由ひとつとっても、言論の自由を盾にとり、確証もなにもないのに、誰かを傷つける言動や、誰かに憎しみを植え付ける言動、そしてたとえ確証があったとしても過度に傷つけない配慮やおもいやり、同情心というものが欠ける言動が、今のこの世界には充満して、とても住み辛いものにしています。

そして人権ですら、権力を持つ側が、人権を理由に、盾にして、真実を隠蔽し、本当に人権侵害を受けている人の人権を守らず、その声さえ封じてしまうという疑いの事件を、私たちは何度も目にしてきたのに、真実には決して辿り着けずに、疑いのまま忘れ去れていく様に慣れすぎて、自分自身、人権意識が希薄になってきている様で恐ろしくなります。


私たちの自由と人権は何が問題であるのか?それは「誰の」という対象が曖昧であることだと思います。

当然に、私たちは「私の」自由、「私の」人権と考えます。国という概念のものが、その国民一人ひとりに保証しているのだから、私が「私の」権利として主張することに何ら不都合はないものと考えます。が、その保証されている自由や人権が、他の人と対立した場合には不都合なことが起こります。対立する者同士が、不毛な主張に終始することになれば、やがてそこには亀裂や分断が生じ、対立する者への憎悪が掻き立てられる事になります。

近代デモクラシーが形成されるまでに、この対立や憎しみが、人々を殺し合いに向かわせました。その最たるものが戦争です。それを避けるために、歴史上の賢者は、「寛容になること」を争う人々に説き、また「利己ではなく利他」に尽くす事で、人々の間に平安がもたらされる事を説いてきました。

この「寛容」や「利他」を前提として自由と人権を考えれば、その対象は「私の」ではなく「他者の」ということになる筈です。全ての人が「他者の」自由と人権を尊重するという考えに立てば、それは翻って、「私」以外の全ての人が「私の」自由と人権を尊重してくれるということになります。つまり、私が「他者」を尊重することは、巡り巡って、他者が「私」を尊重してくれることに繋がるのです。こんな世界なら私たちは安心して暮らす事が出来るでしょう。


この様な「寛容」や「利他」の精神は、幼子の時から精神が育まれる年齢を通じて、あらゆる教育の現場で、いつ如何なるところでも、時間を要して、時には厳しく教育する、諭すことが必要でしょう。そして、大人となってからも常に再考する、学び直すこともこれからは必要とすべきでしょう。

「寛容」と「利他」の精神が、少しでも疎かになれば、それがほころびとなって、いつでも私たちの世界が、他者の自由と人権を蔑ろにする、延いては私の自由と人権が蔑ろにされる世界に陥ってしまうことを、私たちは一生肝に銘じておかなければいけないのだと思います。


正しいってことを、正しいって主張すれば、信じてくれる人がいる。

そんな世界に、私たちはこの世界を作り直す必要があるのだと思います。


P.S.

この映画には光と闇が描かれます。光は、風前のともしびであったり、理不尽な逆風に晒されていたり、まだ灯ったばかりの弱々しい光でありました。しかし、光は決して消える事なく、暖かく、心を解かし、人々に希望を気付かせてくれました。

しかし闇には救いがありませんでした。人違いで痴漢の罪を着せられた人を、正義を盾にして悪口雑言の限りを尽くす市井の人、少年法改正で18歳から極刑に処せることになったことを国民に知らしめるための生け贄として主人公の青年に白羽の歯を立てた警察官僚、そして官僚の指示に絶対服従で青年をターミネーターの如く追い詰める刑事、そして公共事業を食い物にして立場の弱い労働者の労働力を搾取し続ける現場監督、見ていて吐き気を催しました。彼ら闇に巣くう者たちは、裁かれる事はありません。それは翻って云えば、彼らの心が救われる事が無いということです。

素晴らしい俳優たちが、そしてこの映画作りに関わった人々全員が、映像の妙、光と影の妙、立ち位置の妙、そして会話劇の妙、全身全霊で演じられる妙で、堪能させてくれました。

どうぞ、多くの人々に、小学生や中学生ならば家族とともに、中学生以上なら、家族や大事な友だちとでも又ひとりでも、絶対に見てほしい映画作品だと思います。

そして、自由と人権について、自らのこととして考えてみてほしいと思います。