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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2015年5月16日土曜日

ノルン ポートレート -雨の日-


ヒロシマというとき

昨日(5月15日)の朝日新聞天声人語に、広島で被爆した詩人、故栗原貞子さんの詩文『ヒロシマというとき』の一節が引用されていました。

広島大学のホームページに全文が掲載されていました。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/database/KURIHARA/hiroshimatoiutoki.html
全文を掲載させて頂きます。

『ヒロシマというとき』

〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉というば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるバリアだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない

そして、天声人語の本文も掲載させて頂きます。
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スウェーデンの首相だった故パルメ氏について、小欄でかつて触れた。
若さと雄弁で〈スウェーデンのケネディ〉といわれた人だ。
1981年に広島を訪れる。原爆資料館に入ると次第に無口になったという。
展示に衝撃を受けて、ひとつの言葉を残した。
「どの国の政府であれ、責任ある地位に就く者には、すべて広島を訪れることを義務づけるべきだ」。核戦争には敗者しかいないとも語っていた。
反核平和のリーダーで知られたその人は、何を思うだろう。国連本部で先日、核軍縮を扱う最終文書の素案から、世界の指導者らに被爆地を訪ねるよう日本が提案した部分が削除された。中国の求めによる。
「日本政府が第2次大戦の加害者でなく被害者として日本を描こうとしていることに同意できない」と言う。しかし、加害の立場から目をそらさずに、「悲劇は自分たちを最後に」と訴えてきたのが被爆地だった。被爆した詩人、故栗原貞子さんの一節を引く
「 ・・・上の詩文〈ヒロシマというとき〉を参照願います・・・ 」
やさしいこたえが返って来るためには、私たちは汚れた手を清めなければならないと詩は続く。
被爆地に限らず多くの人が共有する思いであろう。パルメ氏の言葉も、加害と被害を超えた人道の深みに根ざすものだ。核廃絶の願いまで歴史認識につなげるのは筋が違う。提案を復活させてほしい。
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ヒロシマは、「日本の広島」ではなく、「人類の戦争史において初めて意図的に原爆が投下された被爆地」として世界中の人々に記憶し続けられなければいけないと思います。
そして、世界中の人々、特に責任ある立場に就く人々が、原爆が招く惨劇の記録を学び、そして原爆を使用しないという誓いを立てる聖地となればと思います。

国際的な核軍縮会議の席で、日本を貶めようとするだけの中国の身勝手で場違いな行動に怒りを感じると共に、日本の誠実さに国際社会が疑念を抱いているのではないかという不安も覚えます。
日本は、故パルメ氏の『世界の指導者は被爆地を訪ねるべき』という反核平和への遺志が、正しく成就される様に、殊勝になって国際社会に働きかけ続けなければいけないと思います。
と同時に、私たち日本人の誠実さが紛れもないこと、一人の被爆者の思い『ヒロシマというとき』を共有し、悔恨の情をいつまでも忘れず、そして国際社会の安定と平和の構築、そして維持に力を尽くすこと、言葉でも行動でも示し続けなければならないと思います。

大きな権力に対して、私たちがすべきこと

国政では、安倍内閣が「安全保障法制関連法案」を閣議決定しました。そして、今夏までに新法を発令するための国会審議に入りました。
地方自治では、橋下大阪市長が大阪市を解体して「大阪都構想を実現する」ための住民投票が明日(5月17日)行われます。
「安全保障法制関連法案」も「大阪都構想を実現する」ことも、これからの日本や地方自治を考える上で避けては通れない課題であると思います。こうして公に問題提起されることは、とても意義深いことだと思います。
が、ただ余りにもの性急感が否めません。国のカタチを大きく変える事となる、すべての日本国民の過去、現在、そして未来に影響を与える法令であるのにも関わらず、主権者である国民が、一人の絶大な人気と権力を掌握する首長の熱い思いに揺さぶられ急がされて、十分に吟味できないままに賛否を求められ、或いは受け入れを求められています。

でも私たちは、首長を絶対的な指導者として盲信しているわけでも、仰いでいるわけではありません。首長には私たちを納得させる説明責任がありますし、私たちはそれをしっかりと受け止めて、自らの責任で賛否を選ぶ義務があります。
しかし、私たち国民の立場で首長に行動を求めるべき者が機能不全に陥っています。
政治の世界は、体たらくの野党はもやは与党の対立軸としての機能を果たせず、与党を含めた全ての議員は、一握りの権力者に体を張って抑止する矜持も度量もありません。
また国民を啓発する立場であるべきマスコミも、ジャーナリストも、そして教育者も、保身が第一優先で権力者との対決に二の足を踏むばかりです。

50年後、100年後、安倍晋三現首相や橋下徹大阪現市長(兼維新の会現最高顧問)は、偉大な指導者として遇されているかもしれません。逆に日本や世界を暗黒に導いた独裁者として弾じられているかもしれません。しかし、どちらの道に進もうと、私たちが成り行き任せで何ら関与しないという事こそ、本当の悲劇だと思います。

今、私たちがすべきことは、理性的に、自分の疑問や考えを誰かに伝えることだと思います。話すことだと思います。私たちの様な小さき者の声でも、それが伝播すれば、束になれば、耳を傾ける人がいる、勇気を持つ人がいる、決意する人がいる、また翻意する人もいるでしょう。それは私たちの代表であるべき議員の矜持に火を付ける事ができるかもしれないし、二の足を踏むマスコミやジャーナリスト、教育者の対決の決意をもたらす事ができるかもしれません。何より、安倍晋三首相や橋下徹大阪市長を一旦踏み止ませて、より賢明な首長へと変貌させることだって可能かもしれません。

2015年5月13日水曜日

次男の仕事始めに、野球の素晴らしさに出会いました。

国恩祭の間、一本松連中と会食していた時にこんな話題が登りました。
連中が勤めている、役所でも、また大手企業でも、入社したばかりの若い人が数年も経たない内に簡単に辞めてしまうと云う話です。早い者なら、入社して一週間も経たぬ間に出社拒否に陥って辞めてしまいます。
大方の退職理由は、「仕事の不満」と「人間関係の不満」です。相談を受ければ納得できる理由もあるでしょうが、多くの場合は「我慢の無さ」と「身勝手さ」が真因である様に思います。

雇用する側にとって、時間と費用を掛けて採用した金の卵の若者を、さあこれから戦力として育てていこうとする矢先に辞められてしまうという事は、採用するのに掛かった時間や費用ばかりか、これからの事業計画まで台無しになってしまうと云うことです。

そして、だからスポーツ経験者、特に野球などの団体スポーツの経験者を優先して採用する傾向にあるという話が出ました。
スポーツ経験者は、体力があり、辛抱強い。また上手くなろうという向上心と上下関係の分別を備えているなど、OJT(オンザジョブトレーニング)を無事に乗り切り、独り立ちしてくれる期待が高いのだと思います。
それに加えて、団体スポーツの経験者は、自分の置かれている立場や役割を理解して、チームの一員としてチームの為に働いてくれるという期待があるのだと思います。

次男が仕事に就いて一ヶ月が経ちました。家族の前では、御多分に洩れず「しんどい」とかブツブツと不満を漏らしもしますが、それでも毎日仕事に出かけています。
そんな次男が、会社でこんな事があったと嬉しそうに話してくれました。
会社の上の人が、次男を知っていると話しかけてきたと云うのです。
その上司の方は、次男が小学生時代の少年野球大会で対戦したチームの監督をされていたそうで、一生懸命に野球をしていた次男の姿を覚えていると話をされたそうです。
次男は、6年生で主将となった少年野球チームがなかなか勝てなずに、いつもプレッシャーを感じていました。それが最後の大会で、チームは一丸となり次男もプレッシャーを感じさせない活躍を初めて見せてくれました。三試合を一人で投げ抜き自責点0、優勝には届きませんでしたが、次男にとっても家族にとっても晴れ晴れしい思い出となったあの試合が、なんと偶然にも、次男の上司の方にとっても懐かしい思い出となっていたというのです。
次男にとって、なんとも照れくさくもあり、また誇らしくもある出会いであったと思います。次男には、こんな貴重な出会いを大切にし、人の温かいまなざしや期待に応えられるように、仕事に精進して欲しいと思います。

そして、あらためて、野球って、野球繋がりって素晴らしいなぁと思います。

2015年5月11日月曜日

野球を撮る!

スポーツをするのにもまた観戦するのにも、とても良い季節がやって来ました。
私はもっぱら観戦です。長らく学生野球の追っ掛けです。
頼まれもしないのに、一試合丸丸写真に撮って、その写真をもとにスコア(写真による試合経過)を起こします。そしてブログで公開する。
私は自分が感動した体験を、咀嚼して一つの物語に仕立て上げ、それを多くの人に読んでもらう、見てもらうことに喜びがあるのだと思います。

私の写真を撮る腕前は、決して上手ではありません。これまで何度も失敗してきました。
思い出す一番古い大失敗は、20歳半ばの出来事です。夏に地元の友だち四人で出雲に海水浴に出かけました。当時はフィルムカメラです。車で出発する直前に36枚撮りフィルムをカメラに装填しました。
夜中に出発し、播但道から中国道に入り、落合インターから一般道に入って、湯原、蒜山、そして大山を巡りながら、朝方米子に到着です。それから松江市内と出雲大社をプチ観光してから出雲近郊の海水浴場に到着しました。砂浜にテントを張って、海水浴、バーベキュー、そして話の尽きない夜を過ごし・・・そして朝を迎えます。
帰り支度を整えて、最後の記念撮影をとカメラを構えシャッターを押しました。でも、フィルムの巻き戻しが始まりません。36枚を超えてもまだ写真が撮れるのです。
「超ラッキー!」と思って、それからも何枚もシャッターを切りました。気付くと目盛りは40枚を超えました。さすがにド阿呆な私でも気付きました。カメラの裏を開きますと、フィルムの先頭が巻き棒に掛かっておらず、空回りしていたのです。写真は一枚も撮れていませんでした。旅の道すがらに皆でポーズを取った記念の写真はすべて幻となりました。
これほどの大失敗は、後にも先にも1回だけですが(1回で十分です!)、撮影時のミスは今も続きます。

よくある失敗の一つは、ホワイトバランスの設定ミスです。
デジタルカメラには、様々な光源の下でも白を白く写す機能(ホワイトバランス)があります。でも光源の設定を間違うと悲惨な写真になってしまいます。前回に室内で写真を撮影し、後日に太陽光の下で野球の試合を撮影したことがありました。ホワイトバランスを白色蛍光灯のままにしていたために、野球の写真はすべて青みがかった暗い写真となりました。

もう一つは、絞り値の設定ミスです。
絞り値(F値)は小さくすると、シャッターの絞りが開きレンズを通過する光量が多くなって画像が明るく見えます。と同時に被写界深度が浅くなってピントが合って見える範囲が狭くなります。
反対に、絞り値を大きくすると、シャッターの絞りが狭くなって光量が少なくなり画像は暗く見え、同時に被写界深度は深くなりピントが合って見える範囲が広くなります。
野球の試合を一日中撮影していると、夕方近くになると太陽光は弱くなり絞り値を小さくして撮影することが多くなります。そして、試合の後で集合写真を撮るような場合、絞り値をそのままにしてズームを広角にして撮影してしまい、集合写真がピンぼけ写真となることが何度かありました。

失敗は、常に気持ちに余裕が無い時にしでかします。たとえば試合開始ぎりぎりに到着して慌てて撮影をした時や、また撮影する時間が限られていてバタバタと撮影をした時にしでかします。
その他には、知人と会話しながら写真を撮ろうなどと器用ぶった時などです。そう言う時は、試合の流れを頭に刻むことも出来ず、途中で諦めて撮影を断念します。

悪いことばかり書いてしまいました。最後に、上手く撮影できた時の事を書いて締めたいと思います。

試合写真を撮影する時は、できれば試合前の守備練習までには球場に入ります。試合が二試合目ならば一試合目に球場入りし(スタンドに陣取って)、余裕を持ってカメラを構える場所を吟味し、そしてカメラの撮影機能をしっかり確認して、当日の撮影状況にあった撮影設定を行います。
そして試合が始まる直前には、出場選手の背番号と打順と守備位置を確認します。
試合が始まれば、まず投手の投球フォームを撮影します。そして打者にカメラを向けて、シャッターを切るタイミングを計り、撮影を開始します。

ここからは野球の知識と観戦経験をフル活用します。
投手が投げて打者が打つ。打てば、野手の動きを見て打球の方向にカメラを振ります。
無死走者無しの内野ゴロなら打球の捕球場面を撮影してから、一塁ベースにカメラを向けて打者走者のアウトセーフ場面を撮影します。
外野に飛んだ打球は、野手陣の動きで打球の方向を確認し、カメラで追います。外野手が打球を押さえたところを撮影し、それから先頭の走者に向けてカメラを振ります。走者無しで長打なら二塁ベースに向けてカメラを向け、走者がいたら本塁にカメラを向けるという具合です。そしてクロスプレーや得点場面を撮影します。

試合中は、常にストライク、ボール、アウトカウントを確認し、そして走者が出たら、走者と守備側の守備体系を確認します。ですから一時だって目を離すことが出来ません。
私の一番の自慢は、集中力と持続力かもしれません。見たいものを全て見る、カメラで撮影できるものは全て撮影し、脳裏に刻められるものは全て刻む。太陽の位置、風の向き、雲の流れ、グラウンドの白線と土と芝の変化、そして選手や応援の表情の変化等々等々。光、色、音、音楽、香り、匂い、皮膚感触等々等々、試合終了が告げられるまでカメラに脳裏に刻み続けるのです。
そして、得難い感動という贈り物を頂いて球場を後にします。

2015年5月10日日曜日

戦争についての話をしよう! その二 「何故に、日本は戦後70年間も平和を堅持できたのでしょう?」

集団的自衛権行使の議論が盛んです。反対論者は、集団的自衛権の行使によって日本は再び戦争ができる国になってしまうとの危惧を表明しています。

日本人のほとんどは、戦争など決してしたくないと思っています。しかし
外国の格言「平和を欲さば、戦への備えをせよ」にあるように、人類の歴史において平和と戦争はいつも表裏一体であった様にも思います。
戦後70年間、日本も陸空海の防備の為に兵器や守備隊のスペシャリスト(自衛隊)を常に鍛えてきました。米国と安全保障条約を結び、冷戦期から世界の警察を自認する米国の兵站を支え、その見返りに米軍の傘に守られても来ました。
でもそれだけが日本が戦後70年間も、まがいなりにも平和を堅持できた理由ではないと思います。

昨今の議論は、これからの日本の安全保障の在り方を問う議論で大変に重要な事と思いますが、でも一方で、これまでと同様、過去の検証をせぬままに、礎を築かぬうちに各位が各々の主張に明け暮れているように思います。それでは空論にしかなりません。

さらにいえば「何故に、日本は戦後70年間も平和を堅持できたのか?」、世界史の中でも有数の平和期の長さを維持できた理由を検証する事は、国際貢献の一助になると思います。世界の人々にとっても「平和」を考える一助になると思います。

日本が、戦争放棄をまがいなりに続けてこれたのは、戦後発令された日本国憲法の定めであると同時に、日本国民が先の戦争で被った苛烈さ、悲惨さを二度と繰り返したくないという思いを強く持っていたからだと思います。
そして日本人は、島国特有の閉鎖した考え方を持つ民族でありながら、他民族に類を見ないほどに、宗教や民族の異なりに寛容な一面を持っています。それは、四季に恵まれると同時に、一年中自然災害と隣り合わせで、尚且つ大陸の様に資源が豊富であったり稔りが続くことがなく、生活を良くするために、何者からでも知識や技術、考え方を学ぼうとする意欲があったからだと思います。教えを請うからには相手は先生です。ですから決して不遜な態度を取らないのです。

そして、「何故に、日本は戦後70年間も平和を堅持できたのか?」の理由は、それこそ千差万別にあると思います。この、理由が千差万別にあったことがまた、平和を堅持できた理由とも思えます。八方美人、余り喩えは宜しくないかもしれませんが、日本人は米国のみに偏重するのではなく、日本人それぞれが自分自身の大義を持って、ロシアと、中国と、韓国と、友好を築こうと働いてきました。また、その他のアジア諸国や、遠く中東やアフリカ、南米にも出向き、その国の人々と協力して、新たな産業振興や資源開発に励んできました。すべてが尊敬できる行動ではなかったかもしれませんが、でも決して武力で他国民を支配しようとはしなかった。それが、この70年間で日本に対する新たな敵意を生まなかった理由だと思います。

ただこれからの安全保障を考える上で、「日本だけの平和」などもうありません。これからはもっともっと友好国と連携して、様々な分野で協力し合って、友好国全体の発展と安全を保障し合わなければなりません。それには武力も必要となるでしょう。
ですから、これから大切なのは「使い方」です。
本当に差し迫った時に、すぐに武力が必要なのか、やはり日本独自で見極めなければなりません。
これまでの紛争を見ると、表の大義は、テロ国家の撲滅であったとしても、裏には資源争奪が隠れていたこともありました。誤った紛争への介入は、意図しない怨みを買うことに繋がる事を、決して忘れてはなりません。
武力行使は、人命に関わる事案のみに限定する、など一定の制限が必要と思います。
そして武力を後ろ盾にして、和平交渉に尽力する、それこそが日本が目指す道でなければいけないと思います。

戦争についての話をしよう! その一 「戦争のやり方が、どうやら変わり始めた様子です。」

兵士は国内の基地から兵器型ドローン(遠隔操作の無人爆撃機やミサイル)を操作して、GPSやムービーカメラで捕捉できるターゲットを破壊、もしくは殺害しに行くのです。オペレーターは、アーケードゲーム場にあるゲーム機のコックピットと変わらぬブースに入って、モニターを見ながらジョイスティックを操作して、作戦を遂行するのです。

私は、戦争がどんどんとバーチャル化すれば、兵士は命がけで戦っているという緊迫感や、そして人を殺すという嫌悪感や罪悪感を持たなくなるのでは?という恐れを抱いていました。でも兵器型ドローンのオペレーターとなった兵士を待ち受けていたのは、もっと悲劇的な現実でした。

あるオペレーターは、朝自宅を出て、子どもを学校に送ってから職場(基地)に出勤します。そして本日の作戦指示を受け、無人爆撃機のコックピットに座ります。
本日の作戦は、地球の裏側にいるターゲットとなった人物の殺害です。オペレーターは、無人爆撃機にターゲットの捕捉をプログラミングし、基地からドローンを離陸させます。目的地まではオートパイロットです。オペレーターは数時間のフライトをモニターで監視します。やがてターゲットがモニターに映し出されます。爆撃の開始です。追跡装置付きのミサイルを発射します。ミサイルからの映像がモニターに映ります。ターゲットがぐんぐんと近づいて、そしてタッチダウン、ターゲットが木っ端微塵になる瞬間がモニターに映し出されます。作戦成功です。そして、無人爆撃機を基地まで帰還させ、本日の作戦は終了です。オペレーターは職場(基地)を退出し、子どもを学校に迎えに行って、そして自宅に帰ります。

戦場体験をした兵士のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が、まだまだ控えめですが社会の問題として取り上げられてきました。人道復興支援活動でイラクに派遣された日本の自衛隊員も、帰還後にPTSDを発症し、日常生活に戻ることが出来ずに自殺をされた方が少なからずおられると云います。米国では元兵士の自殺者が日に20名もいるという報告もありました。このことからも、戦場は人間の精神や肉体を蝕んでしまう苛烈な場所だということが分かります。
しかし、兵器型ドローンのオペレーターは、日常生活の中に戦場があるのです。毎日、日常の中の人を殺す戦場と平和な家庭を行き来するのです。それが新たなPTSDを引き起こしているというのです。当たり前です、人間は殺人マシーンではないからです。作戦の中で子どもを巻き沿いにすることもあるでしょう。その後で、我が子に平静に接することなど出来るはずがありません。

戦争は、どんなにやり方が変わろうと、人間の精神や肉体をボロボロにすることを、私たちは肝に銘じ続けなければいけないと思います。