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不寛容にもほどがある!

現在の日本社会を支配する倫理観では不適切として烙印を押されてしまう、昭和ど真ん中の言動や行動で生きている中年の男性教師を主人公にして、現代にタイムスリップした主人公が、誰かが不適切だと呟けば社会全体が盲目的に不適切を糾弾する不寛容な現代の日本社会の有り様に喜劇で一石を投じる、宮藤...

2017年5月26日金曜日

差別の天秤

「愛を読む人」という約10年前公開の映画の、他の方が書いた映画評を読みました。
そこには私が考え及ばなかった、ハンナが隠し通した秘密についての考察が書かれいました。ハンナは文盲でした。そして、その事実を生涯隠し通しました。それは何故かです。

映画か原作小説の序章で、ハンナの出自はオーストリアの田舎とぼかされて書かれていました。そしてハンナの瞳の色がブルーということで、書評を書かれた方は、ハンナはロマ人と他の民族との混血で、出自を知られれば、どちらのコミュニティーからも拒絶されてしまう存在であり、容姿がロマ人でないハンナは、流浪の民で、文盲が多く、他のヨーロッパ民族から忌み嫌われていたロマ人だと決して悟られてはならなかったのだと、考察されていました。

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出自によって酷い差別を受ける、酷く差別される、というのは、今の世でも正されることはありません。いくら人権保護の法律が整備され、法律で人権が守られようと、人心の中の根強い差別意識や、決して悪心がなくても元来差別から生まれた言葉を無意識に使うことまで正すことはできないのです。

そして、その真逆の、決して悪い扱いを受けることの無い、もっと踏み込んで言えば、何をしても法律で裁かれない、裁くことのできない者も存在します。それは出自が良いとされる者、また強力な力を手に入れた者、またその力に守られた者です。

小説や映画、ドラマでも数多く描かれるテーマでもあります。
その一つに、財力や地位、または暴力という力を得た者が、その力で際限の無い欲望を満たそうというものがあります。また、
権力の象徴となる組織を守るために、またその組織を守る事が、大きく言えば国を守るという宗義となって、組織を堅持するために、組織の不正や、組織の構成員が行う不正や犯罪行為を、決して明るみにせず、不問に付すというものもあります。
小説や映画、ドラマで描かれることは、決して誇張なのではなく、氷山の一角でしかないのかもしれません。私が知らないことが世の中にもっともっとあるのだと思います。

この様に差別を見てみると、世の中は、二極の差別の釣り合いで成り立っている様に思えてきます。また、差別が人の世を形作り成長を促してきたとも思えます。

私はこれまで、酷い差別を受ける側に立って、様々な物語を見聞きし、酷い差別を無くすにはどうすればよいか考えていました。でも、それでは決して酷い差別を無くすること、もしくは減少させることは出来ないのではないかと思えてきました。それよりも、事態はさらに悪くなる様に思えてきます。
世の中が、今よりももっと、財力や権力、そして暴力という力を信奉すればするほど、その重みが増すほど、世の中は均衡を保つ為に、釣り合うおもりとして、さらに酷い差別を生み出すのではないかという想像です。

でも、差別の全くない世界も、想像すると恐ろしいです。
あらゆる事柄が平等に分かち合われる世界、争いのおこらない世界です。想像すると二つの事柄を連想します。
一つは共産主義の理想郷です。そしてもう一つが、家畜小屋です。絶対的な指導者、もしくは搾取者により支配された世界です。