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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2011年6月11日土曜日

『みんなで、てるてる坊主を作ろう』プロジェクト発動!

本日の練習試合、中止となりました。

皆さん、明日は試合が出来る様に、『てるてる坊主』を作って、天に願いましょう。

天さん、明日は晴れて下さい、もしくは踏ん張って下さい、o( . .*)o ペコリ,,

『早起きは三文の徳』~プラネットアースで壮大な地球を観ました~

『早起きは三文の徳』、という訳ではないですが、昨夜早くに寝入ってしまったので、3時頃目覚めました。テレビをつけると、NHKプレミアムで『NHKスペシャル プラネットアース 地球と生命の大紀行』が放映されていました。世界中の山脈を空撮していました。

エベレスト山脈も、ヨーロッパ・アルプス山脈も、ロッキー山脈、アンデス山脈も下に望むというもので、そこに映し出された風景は、壮大で、畏怖を感じつつも、それは地球が作り出した至高の芸術でした。

撮影はどの様に行われたのでしょう、エベレストなど八千メートル級の高山であればヘリコプターは無理ですよね…、気球でしょうか。

この空撮では、山脈以外にも、エチオピア・ダナキル砂漠にあるエルタ・アレ火山、そしてハワイの火山も空撮していました。この風景も地球か?と驚きばかりでした。

地球は生きている、そう改めて実感しました。


p.s.
夜半からの酷い雨が、現在(5:50)、少し小雨になり始めています。
今日の鹿島中野球部の練習試合は無理でしょうね。先ほどまで酷い雨でしたからグラウンドは使えないと思います。

明日は是非やらせて欲しい、天に願います。

『みんなで、てるてる坊主を作ろう』プロジェクト発動!

2011年6月10日金曜日

『飛んでいけ どこまでもエイ! どもまでも』

Azby Club『写真俳句クラブ』に、表題の句をを投稿しました。

鹿島中野球部 今チームの最後の大会『中体連』まで、2週間となりました。

先日、練習を暫し見学(但し、見ざる言わざる、耳で練習を聞いていました)した時、監督藤原先生、部長久下先生が大きな声で発破をかけられていました。
特に藤原先生の『打て-!』『その球(投球)やったらホームラン打たなあかんやろ!』の怒声が太鼓のバチの如く、胸を、心を打ちました。

部員達は、毎日その声援を受けて練習に励んでいます。心に届かぬ、響かぬはずがない、そう感じました。

今度は、それぞれの部員が選手が、己に、チームメイトに、チームに発破をかける時です。

打者であれば、対決する投手から投げつけられた白いボールを思いっきりバットで叩き、『どこまでも飛んでいけ!』と打球となった白いボールに檄を飛ばして一塁に全力で駆けて下さい。

投手であれば、対決する打者へのラストボールに渾身の力を込めて力を与え、バットをへし折る、もしくは捕手のミットにずばっと到達させて下さい。

野手であれば、普段の練習通りに、打球に反応して、最善の対処を取って下さい。そして、常に、白球、走者、何よりチームメイトを見守る、冷静なもう一人の私になって、助け合って下さい。

用いる道具は、腹の底からかける『言葉』と信ずる『笑顔』です。

2011年6月9日木曜日

私、富士山に二度登りました。

Azby Club『写真俳句クラブ』のギャラリーで、『静岡県 オカピー』さんという方が投稿された写真俳句『梅雨曇り 挨拶代わり 朝の冨士』に眼が留まりました。

次の様にコメントを投稿しました。
『004.私、富士山大好きです。若かりし頃二度登りました。確か、一度登るのは良いが、二回は戴けない、と言う風な格言?があった様な…』
するとオカピーさんから返信コメントを頂き次の様に書かれていました。
『009.…富士山に二度登るのは〇〇、一度も登らないのは〇〇と云われております。…』

早速Googleで検索しました。
そして面白いページを見つけました。

登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿

以下、引用----------

「登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」というのは富士登山をさしていう。日頃山登りしない人でも一生に一度は富士山に登りたいと思う人は多い。「日本一高い富士山に一度も登らないというのは馬鹿げたことだ。しかし退屈なおもしろくない山だから二度も登るのも馬鹿げたことだ」というほどの意味だ。

退屈でおもしろくない山―というと意外に思われるかも知れない。しかし実際、富士山は5合目以上は森林限界を超えた荒涼とした斜面をジグザグに登るだけだ。近隣に山がないから山岳展望がよいはずがない。独立峰だから風の影響をもろに受け、強風の時は危険だ。4000㍍に近い高峰とあって、8月でも最低気温は一桁になり、9月には初雪が降る。だから数十万人の一般登山者が7~8月に一気に押し寄せ、山小屋は混雑をきわめる。1畳に3人押し込められるということもあるし、小屋からあふれる人も出てくる。くわえて成層火山だから水がないので食事はきわめてお粗末だ。最近は改善されているかもしれないが、僕が8合目の小屋に泊まった時はおかずは缶詰だけだった。しかも圧力釜で炊いたというご飯もまずかった。富士山に二度登ったがいい思い出というのがない。富士山は眺めて楽しむのがいいというのが正直な実感だ。
(続く)

以上、引用----------

以前のブログでも触れましたが、私、二度富士山に登っています、つまり『馬鹿』です。

20歳大学三回生の夏の終わり、そして26歳の初夏だったと思います。

最初の富士山登山については以前のブログで書きましたので省略、26歳、2度目の富士登山についての思い出です。

今回は、山開きした良き時期を選び、会社の先輩、そして後輩の3名で富士登山を計画しました。

第1日目、高砂から車を走らせて、東大阪辺り(地名を思い出さない…)後輩の住むアパートで一泊。その夜、部屋でだいぶんと呑んだのか、翌朝起きると後輩は、少し風邪ぎみになっていました。(今、考えるとこれがいけなかった、反省です…)

昼前にアパートを出発、名神、東名と車を走らせて、三島で下り、その週東京出張だった先輩と合流するため、新幹線三島駅で待ち合わせ。当然ながら、携帯電話もない時代、出口で当てもなく先輩を待ち続けました。そして、19時過ぎだったと思います。重い荷物を抱えて先輩が改札から出てきました。
漸く3名揃いました。どこかのレストランで遅い夕食を食べ、富士山の五合目(どこの登山道だったかも忘れています…)をめざして車を走らせました。

五合目のレストハウス駐車場は満車でした。何とか車を止め、着替えて、登り始めたのが23時でした。

当時は、山登りする体力がありました。リズムが取れるようになると行者の如く登りました。登山者の果てしない列に加わっていました。

七合目辺りからガスが立ちこめ、頭に装着したライトの明かりも白いガスを映すだけになりました。八合目に到着するまでには、列の流れが、上から下に変わりました。下る人々の話では、台風が静岡県に接近していて上は非常に危ない、という内容。

でも、登り続けました。無理をさせた後輩は、普段なら私の倍以上の元気があるのにすっかりまいっていました。
八合目の山小屋に辿り着くと、彼を山小屋に置いて先に進む、という判断を下しました。本当に非情でした。

けれども後輩は、登る事を決意、暫し休憩の後、八合目の山小屋を離れて登り始めました。

水蒸気の中をさ迷うようにして、登り続けました。気が付けば、私たち3名以外はだれも登っていません。途中で一人の青年に出会いました。20歳くらいの青年は友人と二人で登ってきたが、友人は頂上を目指すのを断念し、一人でここまで登ってきたとのこと。
しかし、不安であったのでしょう。共となりました。

後輩は気力を取り戻しましたが、今度はその青年が蒼白になっていました。手を引き、背中を押して登りました。そして、頂上に辿り着きました。ただ、ずっと水蒸気の真っ白な世界でしたので、そこが頂上かどうかさえ、ハッキリとは分かりませんでしたが平であったため頂上と判断したのです。

峰の縁を右回りで歩き進みました。頂上にある神社を探していました。
ありました。でも、そこは風の流れが違っていて、龍の如く、白煙が空高く登っていました。恐ろしくなって、戻りました。そして、登り来た道を探して下山しました。

五合目もすっかり雨です。駐車場に止めていた車に戻ると、助手席の窓が全開になっていて降り込んだ雨で、シートはびしょ濡れ、床には水が溜まっていました。
私はもうすっかり、頭に来てしまって、先輩とも後輩とも話をしませんでした。その春に初めて買った新車でした。

東名高速に乗った時には、横殴りの雨でした。海岸線を通る清水辺りでしょうか。おおしけの海と打ちつける波を見ました。

次のSAで後輩に運転を代わって貰いました。そして、私は彼のアパートに着くまでぐっすり寝込んでしまっていました。

彼と別れ、一人で自宅に向かう車の中、自己嫌悪に陥っていました。


今、思い返しても、嫌な思い出です。『二度登る馬鹿』というよりも、たかだか二度目のくせにリーダー風をふかせて、身勝手、思いやりのかけらもない、自分の一面を見ました。

24、25年前の記憶です。でも、こうして記憶は辿れるものですね。それが面白いと思います。

『山は己を知らしめてくれる』、と思います。

田植えの季節ですね。

むかしむかし、私はNEC系列の会社に勤めていました。その為、1-4台目までのパソコンはNEC製品でした。
現在7代目、というか6-7台目はFUJITSU製品です。

というしょうもない前振り終了、本編です…。

富士通のユーザサイト『Azby Club』には、作家森村誠一さん監修『写真俳句サークル』というコーナーがあります。

写真俳句サークル

Azby Clubからのニュースレターで、以前から知ってはいましたが、6月のニュースレターを読み返すと、森村さんが寄稿されている『写俳歳時記』で『雨』が取り上げられており、『雨』といえば先だって『雨』で中止になった練習試合の事を思い出し、訪問し、一句投稿する事にしました。

投稿者名は『兵庫県 そよ風』となっています。

投稿したら、すぐに他の方からコメントを頂きました。楽しい、などと思ってしまいました。

今日、『雨』にまつわる8~12年前に撮影した写真をもとに、写真俳句を3句投稿しました。

投稿した句(全4句)は
『十を切た 試合が流れる 悔しさや』
『初観戦 甲子園デビューも 雨流れ』
『梅雨空に 七色を求む 紫陽花よ』
そして
『豊かさの 希望は植えたる 苗にあり』
です。

そういえば、今は田植えの季節です。
苗の植え付けが終わったばかりの田は、整然と植え付けられた苗、そして田を満たす水、これから成長するものと、それを育むものとを連想させてくれます。美しい日本の風景です。
夏には緑豊かな稲に成長し、風にざわつく景色は、目に涼やかさを与えてくれます。
そして秋、黄金の穂に垂れて、刈り入れを待つ姿には、恵みへの感謝さえ湧いてきます。

田の中で行われる一年の営みが、これからもずっと続くことを、ふと願った次第です。

2011年6月7日火曜日

短編小説3 『鳩と戯れる男』~偽善者が登り詰められる国の怖さ~

ある国の話です。

その国は55年間、独裁者に支配されていましたが、独裁者の世継ぎが凡庸であった事が幸いし、その虚をついて民が立ち上がり独裁者を追放しました。

民達は、国をどの様に治めればよいか話し合い、話し合いの結果、一つの町、村からそれぞれ代表者を一人選んで、共和で国を治める事にしました。

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その国の中で、最も小さな村がありました。村人は10人で、みんな純粋な人々でした。しかし、村は貧しくもありました。

ある日、その村に一人の男が訪れました。その男は清潔な衣服を身につけ、肩には一羽の真っ白な鳩が留まっています。

男は物腰が柔らかく博識でした。村人から相談があると丁寧に応えました。また、村には橋がありましたが、大変傷んでいました。男は沢山の金貨を出して、その橋を立派な橋に架け替えました。
いつか村人達は、男を頼り、崇めるようになりました。

そして、男はその村の代表者になりました。

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それぞれの町、村の代表者が一堂に会して話し合う集会所は、その国で一番大きな町にありました。
1000人の町からも、100人の村からも、それぞれ一人ずつ代表者を出して、集って国のため、民のために働いていました。

その町に、男は清潔な車に乗って、沢山の鳩を伴って現れました。

男は小さな村で行った様に、他の代表者の相談に応え、金貨を与え、すぐに頼られる存在となりました。

国を治めるという事は、大変に責任が重く、時には辛い思いをしても行わなければならない仕事です。

男を頼るようになった他の代表者達は、いつしか、それぞれの町、村の代表という立場、責任を忘れて、男を崇拝するようになりました。

ある日男は代表者達を呼んで言いました。
『あなた方の責任をすべて私が引き受けましょう。』
『ただ、代表者を選んで共和で国を治める今の仕組みでは、あなた方は、今お持ちの地位も優雅な暮らしも失うことになります。』
そして
『あなた方のために仕組みを変えましょう。わたしを王にして下さい。そしてわたしとともに、この国を治めましょう。』

反対する者は一人もいませんでした。そして男は王になりました。

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男は王になって最初に国中に、あるお触れを出しました。
一冊の本を焚書にするというお触れです。

その本には、昔、独裁者を民が団結して追放した事柄が書かれていました。
そして、独裁者が掲げていた紋章も描かれていました。

その紋章には『純白の鳩』が描かれていました。

2011年6月6日月曜日

6月4日に伏見中との間で行われた2年チーム戦観戦記

6月4日(土)は、加古川市立志方中と奈良市立伏見中が来校され、練習試合が行われました。第2試合、来校中学同士の試合の後、続けて、伏見中と鹿島中の2年生部員による5イニング戦が行われました。

写真ギャラリー

伏見中は、昨年11月6日(土)にも来校されています。(私はその日は他用で欠席でした)その日も現2年生(当時は1年生)同士の試合が行われています。
私が鹿島中野球部の現2年生部員の試合を観戦したのは、昨年12月23日(木・天皇誕生日)に大原中で開催された平成22年度大西杯1年生大会以来、2度目でした。

試合開始から、グラウンドには選手達の盛んな声が飛び交い、シュアなバッティング、溌剌としたプレーが随所に見られました。
鹿島中野球部の次代を担う部員達、グラウンドを駆け回る彼らは逞しく成長している、そう実感しました。

7月からいよいよ彼らのチームがスタートします。2年生15名+1年生7名の22名が、藤原監督、久下部長の指導のもとで、新たなる鹿島中野球部、一朶のチームを作っていく、その力強い足音が聞こえてくる試合でした。

p.s.
この1年間、主体で試合をしてきた3年生が、試合の裏方(審判、バッタボックスのならし、ボールボーイ等)をつとめていました。この時期によい体験をしたと思います。

残り試合、選手として主観的になるのはやむなきことですが、もう一人の私(客観的に自分やチームを見守る)の眼を持って、冷静な眼を持って、自分自身をチームメイトをチーム全体を鼓舞し盛りたてて下さい。
失敗した或いはピンチの時こそ、大らかさと大胆さで切り抜けて、最後には勝利の女神を振り向かせ微笑ませる、逞しい君たちの試合を見せて下さい。

耕太郎のいない『グラウンド』の風景

私は、耕太郎が少年野球に入ってから、この5年余り、少年野球、そして現在は鹿島中で中学野球を見続けてきました。『試合記録』と称して、大袈裟ないいようですが、できうる限り多くの試合を写真で記録したい、そう思って常にグラウンドの片隅で、スタンドで試合開始から終了まで、シャッターを押し続けてきました。写真枚数にして、約13万枚になります。

一昨日、鹿島中で加古川市立志方中と奈良市立伏見中が来校され練習試合が行われました。第2試合、来校中学同士の試合の最中、鹿島中野球部監督藤原先生と暫し談笑しました。

藤原先生が『子供を持って、わかった事があります。親になって写真やビデオで常に我が子を撮り続けている気持ちがわかりました』そういう内容の話をされました。
私はその時『もし野球に携わる事がなければ、子供の写真と姫路城の写真しか撮っていませんでした』と応えました。
でも、ハタッと気付きました。私がやっていることは、すべて引っくるめて、耕太郎の成長記録であるという事をです。

昨年、新チームをサポートする父母会の役員決めの時、私は、不相応にも会長役に手を挙げました。理由は二つあり、その一つが、2年生11名の野球を常に身近で観たい、写真で記録し、彼らみんなに残したいという思いでした(身勝手で押しつけがましい考えです)。しかしその気持ちには、悪意はなく、本当に息子を含めた11名の応援団長になりたかった、そして、野球を知らず、人付き合いも悪い私が、そういう立場で関わるには会長になるのが手っ取り早いと思いました。全く軽率な行動であったと今になって思っています…。

でも、藤原先生との会話の後、『みんなの試合記録』というのは、私の詭弁であったと気付きました。というか、一番はじめ、写真を撮り始めた5年前の記憶を思い出しました。
耕太郎の成長を写真で撮りたいという思いです。

伏見中戦では、中堅手である耕太郎が真っ直ぐに伸びてくる打球に反応できず三塁打とし、その回2点を先取されました。そして落ち込んだ耕太郎は以後、声もでず、これが原因のすべてではないでしょうが、他の選手まで伝染したのか軽率な失策が続き、結果、6-1で負けました。

そして、昨日、稲美中に遠征しての最初の試合、明石市立朝霧中戦で耕太郎はスタメン落ち、結局その試合、出番はありませんでした。打てない、守れない、泣き言を垂れるでは他の選手の士気に影響します。使えない、そう思います。
また、昨秋で同じ状況なら、耕太郎の不甲斐なさには怒りを感じるものの、試合が始まれば、気持ちは試合に集中出来ていたと思います。

しかし、昨日の朝霧戦では、奥歯を噛み締めながらシャッターを切っていました。中学野球、耕太郎のいる鹿島中野球部の試合は、最後の中体連野球大会と、それまでに予定されている練習試合が8つ(昨日の試合を含めて)です。その大切な1試合に、グラウンドに耕太郎の姿がない。なんとも言えない気持ちが試合中ずっと込み上げてきました。

こういう気持ちで、残り試合を見守っていくことになりそうです。
耕太郎が野球部を引退するとき、私の『耕太郎 成長記録写真』も終わりにします。

p.s.
カメラも随分がたがきました。特にシャッター機構は耐久性能を遥かに超えてしまっているのでそうとうがたついています。また、5月22日、雨中の試合(途中、激しい雨になり中止)で防水でないカメラを雨にさらしたために、電気系統に不具合が生じています。そろそろ過酷な使用から解放してやろうと思います。

でも、最後までカメラが保ってくれるか、カメラの踏ん張りに期待です。

連中の息子『啄人』が、北信越学生10番目の剣士として、第59回全日本学生剣道選手権大会に出場!

友人であり、一本松連中である谷川の息子『啄人』が、北信越学生10番目の剣士として第59回全日本学生剣道選手権大会に出場します。

(毎日jp)剣道:北信越学生選手権

昨日の鹿島中PTA除草作業を終えて、野球部が稲美中へ練習試合に向かう準備をしていた時に、谷川の奥方が駆け寄ってこられ、吉報を知らせて下さいました。

啄人は、私の長男と同い年で、彼が生まれたときから知っています。
親父(博也)は中学から剣道を始め、現在も剣の道にいます。

啄人は、小学から剣道を始め、鹿島中では剣道部の主将を務め、以後、滝川第二、そしてこの春から、福井工業大学に進みました。(実のところ、啄人は体育系に進み、私の息子遼太郎は?という状態で、高校に進んでからの啄人の活躍はほとんど知りませんでした)

息子同士には、共通点があります。後頭部の側面(左右が違います)が絶壁である事です。
幼子の時は、それがおかしくもあり、嬉しかった。

啄人には、こうして応援するしかできないですが、心から啄人の全日本学生剣道選手権大会出場を祝い、また喜びたいです。

啄人には、7月2-3日、大阪府立体育館で開催される全国大会で、溌剌と己の剣に向き合って欲しいと思います。