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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2011年6月6日月曜日

耕太郎のいない『グラウンド』の風景

私は、耕太郎が少年野球に入ってから、この5年余り、少年野球、そして現在は鹿島中で中学野球を見続けてきました。『試合記録』と称して、大袈裟ないいようですが、できうる限り多くの試合を写真で記録したい、そう思って常にグラウンドの片隅で、スタンドで試合開始から終了まで、シャッターを押し続けてきました。写真枚数にして、約13万枚になります。

一昨日、鹿島中で加古川市立志方中と奈良市立伏見中が来校され練習試合が行われました。第2試合、来校中学同士の試合の最中、鹿島中野球部監督藤原先生と暫し談笑しました。

藤原先生が『子供を持って、わかった事があります。親になって写真やビデオで常に我が子を撮り続けている気持ちがわかりました』そういう内容の話をされました。
私はその時『もし野球に携わる事がなければ、子供の写真と姫路城の写真しか撮っていませんでした』と応えました。
でも、ハタッと気付きました。私がやっていることは、すべて引っくるめて、耕太郎の成長記録であるという事をです。

昨年、新チームをサポートする父母会の役員決めの時、私は、不相応にも会長役に手を挙げました。理由は二つあり、その一つが、2年生11名の野球を常に身近で観たい、写真で記録し、彼らみんなに残したいという思いでした(身勝手で押しつけがましい考えです)。しかしその気持ちには、悪意はなく、本当に息子を含めた11名の応援団長になりたかった、そして、野球を知らず、人付き合いも悪い私が、そういう立場で関わるには会長になるのが手っ取り早いと思いました。全く軽率な行動であったと今になって思っています…。

でも、藤原先生との会話の後、『みんなの試合記録』というのは、私の詭弁であったと気付きました。というか、一番はじめ、写真を撮り始めた5年前の記憶を思い出しました。
耕太郎の成長を写真で撮りたいという思いです。

伏見中戦では、中堅手である耕太郎が真っ直ぐに伸びてくる打球に反応できず三塁打とし、その回2点を先取されました。そして落ち込んだ耕太郎は以後、声もでず、これが原因のすべてではないでしょうが、他の選手まで伝染したのか軽率な失策が続き、結果、6-1で負けました。

そして、昨日、稲美中に遠征しての最初の試合、明石市立朝霧中戦で耕太郎はスタメン落ち、結局その試合、出番はありませんでした。打てない、守れない、泣き言を垂れるでは他の選手の士気に影響します。使えない、そう思います。
また、昨秋で同じ状況なら、耕太郎の不甲斐なさには怒りを感じるものの、試合が始まれば、気持ちは試合に集中出来ていたと思います。

しかし、昨日の朝霧戦では、奥歯を噛み締めながらシャッターを切っていました。中学野球、耕太郎のいる鹿島中野球部の試合は、最後の中体連野球大会と、それまでに予定されている練習試合が8つ(昨日の試合を含めて)です。その大切な1試合に、グラウンドに耕太郎の姿がない。なんとも言えない気持ちが試合中ずっと込み上げてきました。

こういう気持ちで、残り試合を見守っていくことになりそうです。
耕太郎が野球部を引退するとき、私の『耕太郎 成長記録写真』も終わりにします。

p.s.
カメラも随分がたがきました。特にシャッター機構は耐久性能を遥かに超えてしまっているのでそうとうがたついています。また、5月22日、雨中の試合(途中、激しい雨になり中止)で防水でないカメラを雨にさらしたために、電気系統に不具合が生じています。そろそろ過酷な使用から解放してやろうと思います。

でも、最後までカメラが保ってくれるか、カメラの踏ん張りに期待です。

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