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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2022年12月12日月曜日

保育の現場で、今起きていること

イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度会堂に入られた。民衆は皆、御許に寄って来た。イエスは座って、彼らに教え始めた。

すると、パリサイ派の律法学者が、姦淫の現場を捕らえたひとりの女を連れて来て、会堂の真中に置いてから、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ち(死刑)にするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを試してこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。

しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けて止めなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなた方の内で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、一人ひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者は無かったのですか。」

彼女は言った。「誰もいません。」

そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」


新約聖書、ヨハネの福音書第8章1-11節の御言葉です。

イエスは、神がモーセに授けたイスラエルの民の律法に反する罪を犯した者を裁けるのは、罪を犯したことのない者だけだと語り、そして、神の子として地上に使わされた私(イエス)、神の権威を授かる私(イエス)は、罪人の罪を許し改心に導くと語ります。殺伐な現代においても、心が平安に満たされる御言葉です。

保育園での保育士による園児虐待の報道が、連日テレビのワイドショーでヒートアップしながら取り上げられる様を見ていて、人が死ぬような事態にならなければよいのにという不安を感じ、この思いを妻に話すと、妻は上の御言葉を沿えて同意を示してくれました。


保育士が行ったとされる園児へのあるまじき行為が一つでも事実だとすれば、これは被害者となった子どもとその保護者にとってとても許せない事件です。報道でこの事件を初めて知った時の私でさえ怒り心頭になったほどです。ですが冷静になってみると、私は行為を行ったとされる保育士に向かって石を投げつけることは出来ません。私は彼らが犯したとされる罪に対する量刑を決めることも、刑を執行することも出来ないからです。彼らの人生を左右する責任を負えないからです。

保育士は、事件が報道されてから数日後に逮捕されました。しかし、保育士は、逮捕されるまでに人生が終わるほどの私刑に晒されたのではと想像します。

テレビの報道では、様々なコメンテーターから、一様に厳しい言葉を投げつけられ、逮捕されてからは顔写真と氏名も公表されました。ネット上では、誹謗中傷の餌食となっているかもしれません。それは本人だけで無く、家族にも累を及ぼしているかもしれません。


この事件が、残念でならないことは、事件が通報されてから、役所の担当部署が三ヶ月も放置していたこと、また園長が何をとち狂ったか隠蔽しようとした事です。

もしも、他の保育士から通報があった時点で、すぐに行為の事実関係を明らかにして、保護者を交えて、行為の事実内容と謝罪、そして行為に至った原因を示して、再びこの様な行為が起きないようにするための話し合いがもたれていれば、責任ある者が罪を犯した保育士に対して罪に相当する罰を与え、また利用者、保育士にとって、園の環境や運営を良いものに改善する契機に出来たのではないかと思います。


保育士は、大変な仕事です。

預かる園児の数によって必要な保育士の人数が決まり、その余裕のない人数で、保育業務にあたっています。保育士は、児童心理に精通しなければならず、園児一人ひとりの安全確保から、児童向けの遊びや童謡にも精通し、創意工夫して、園児の良き遊び相手にもならなければなりません。当然に園内の雑務から事務処理も行わなければならず、保護者の応対から、外部の有識者と呼ばれる方の視察にも対応しなければなりません。

平時ならなんとか回せたとしても、この三年にも及ぶコロナ禍の様な非常時では、途端に保育士の人数不足に陥ります。ですから保育士は、自らや家族にも行動制限を課すなりして、非常に過敏な精神状態を強いられます。つまり常に強いストレスに晒されています。

政治がアフターコロナに舵を切った後も、世の中がアフターコロナを謳歌しようという風潮に変わっても、コロナ禍が全く収まる兆しのない現在、保育の現場は何も変わりません。何も変わらないどころか、もはや無防備にコロナ禍に晒されている状況です。

それは医療の現場でも、介護の現場でも同様であると思います。最近のコロナ罹患による高齢者の死亡が増加に転じていることを見ても、そう言えるのではないかと思います。


今回の事件から、他の園からも同様の問題が指摘され始めています。原因は多様でしょう。しかし、保育士が現在晒されている職場環境の悪化から受けるストレスが、大きなウエイトを占めているのではと思います。

子どもにとって、保育園、こども園、児童園は、現在の社会環境においては必要不可欠なシステムです。そして子どもが安全で安心に過ごせるためには、保育士にとっても安全で安心に働ける職場でなければなりません。そして利用者の理解と互いの尊重も必要です。そして労働に見合う報酬に引き揚げること、それが保育士のプライドを高めるために必要です。

その事を、政治だけで無く、政治を動かす力の源泉である民意としなければいけないと思います。

そうしなければ、近い将来にも児童保育システムが崩壊し、さらに日本人の出生率が激減するという事態が起こりかねないこと、想像に難くないと思います。