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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2013年1月11日金曜日

北脇のお山、一本松に登りました。


今日は、午前中、北脇のお山、一本松に登りました。
新池から山に入り、まずは亀岩(山頂近くに突き出た大岩です)を目指します。

亀岩の上に囲いが設けてありました。大塩から西浜、大鳥、そして別所町までが一望できます。私が毎日歩く、県道399号(通称大塩別所線)を鳥瞰しました。


そしてお山の頂上にでますと、眼下には北脇、大塩の町並みが広がり、そして東には日笠山の向こうに稲美野の平野が広がって見えます。南には瀬戸内海の内海が広がります。美しい風景でした。

カラスたちが伸びやかに空中を舞っていました。地上で見かけるカラスとは違って、とても悠悠として見えました。カラスは本当は山が似合う動物なんだ、と思いました。

1時間も満たない、散歩、山歩きでしたが、美しい我が町を堪能しました。

さぁ、成人の日が近づいてきました。


おはようございます。今日も播磨の国は良い天気です。

あと数日したら成人の日ですね。長男遼太郎が晴れて成人式を迎えます。年末に背広を新調しました。ネクタイだけは自分で選んだとのことでした。色は秘密です。
今朝の週間天気予報では、14日は曇の予報です。でも、式場で多くの友人と再会し、和やかに成人の日を喜んでくれれば良いと思います。

私の成人の日の思い出ですが、なかなか大変な一日でした。
前日(14日)の午前10時に、同じ寮住まいの応援団に所属する友人の真っ黒なグロリアに乗って金沢を出発しました。グロリアの乗組員は4名です。運転するのは大阪人、そして滋賀湖北人一名と兵庫県人二名(長井くんと私)です。
金沢は連日大雪でした。当日も掃いた先からずんずん積もるという有様で、鉄道は止まっていました。ですから、成人式に出るために大阪に帰省する友人の車に便乗させてもらったのです。車はのろのろと金沢を出発し、北陸自動車道に入りました。北陸道は片側二車線の広い道路ですが、当日は雪を掻き分けてできた狭い一本道と化していました。そこに延々と車が数珠繋ぎとなっていて遅々としか進みません。

そして福井インターチェンジの辺りに差し掛かったとき、車の列はビタリと止まってしまいました。私たちは車を降りて、徒歩で高速道路を下り、トイレで用を足し、食料を買い込んで、また車に戻りました。湖北人は帰省を断念し、私たちと別れ、ひとり福井駅を目指して歩いて行きました。
そして日も暮れかかった頃、ようやく車列は遅々と進むようになりました。敦賀を過ぎた辺りから猛吹雪となりました。数台前のテールランプが見えないのです。窓の外は両側とも雪の壁に手が届くほどになっていました。
そんな雪に閉ざされた時間を過ごした後、米原ジャンクションから名神高速道路に入ったのは夜の11時頃でした。大阪人はこれまでのうっぷんを晴らすが如く、アクセルを全開にしてグロリアを走らせました。時速140㎞は超えていたと思います。黒い弾丸のていでした。でも後方からキラリと光が現れるや否や、我々のグロリアが止まっているのかとみまがうほどに、一瞬に追い抜き彼方へと消えさる車もありました。

そんな極限状態(私たち兵庫県人は、ただただはやしたてていただけですが・・・)から解放されたのは、真夜中でした。大阪人は、私たち兵庫県人を夜中でも開いているサウナの殿堂《大東洋》の前で降ろしてくれました。私は、これが初めてのサウナでした。
風呂に入り、仮眠を取って、大東洋を出たのが5時。大阪駅6時発の下り快速電車に乗りました。ようやく自宅にたどり着き、落ち着く暇も無く、いっちょらい(背広)に着替えて、一本松連中(当時の呼び名は闘鷹一門)の集合場所、イチャサンの家に着いたのが10時でした。イチャサンのおっちゃんにコップ酒を振る舞われ、一杯ぐいっとあおってから、皆で成人式会場、高砂市文化会館に行きました。
式の記憶はだいぶん曖昧なのですが、たしか鶴瓶さんが登壇し、あの伝説のもじゃもじゃ頭と軽妙な話芸を楽しんだ様に思います。
そして式が終わり、連中の車で姫路駅まで送ってもらい、その足で金沢に戻りました。

そんな急ぎ足の成人の日でしたから、記念写真の一枚もありません。でも、確かに、思い出が一杯詰まった成人の日となりました。
14日は仕事です。朝、息子の晴れ姿を一枚でも写真に収められたらと思います。

2013年1月9日水曜日

『ヨイトマケの唄』は、人が人を育てるという普遍を賛歌する素晴らしい歌でした。


巷で話題になっている歌、美輪明宏さんが紅白歌合戦で披露された『ヨイトマケの唄』を、今日はじめてしっかりと聴きました。
年末年始は仕事のため、テレビの特番はほとんど観ていません。そして夜は明日の仕事のために早く寝ていました。もちろん、紅白歌合戦も観ず終いです。
今日の午後、散歩から帰ってきてテレビをつけると、ミヤネ屋で『ヨイトマケの唄』が大反響となっている美輪明宏さんのインタビューが流れました。

17才で歌手デビューを果たした美輪さんは、その容姿、振る舞いからシスターボーイと評されて絶大な人気を博します。美少年が絹の衣装を纏い美声を披露するのです。今から60年も前の事、それは魅惑的であり妖しい魔力に溢れていたと思います。そんな美輪さんでも、煌びやかなステージだけではなく、貧しい炭坑の町でも歌われました。そしてシミと泥にまみれた貧しい労働者の観客を前にしたとき、自分の身なりが恥ずかしく思えたそうです。そして、彼らのための歌を作ろう、彼らのための歌を歌おうと思い立ち、出来上がった歌が、『ヨイトマケの唄』です。
『ヨイトマケの唄』は、美輪さんの原体験から生まれたそうです。
美輪さんは少年期、長崎は丸山遊郭にあったカフェ(現在でいうキャバレー)の御曹司でした。そんな小学生の頃の友だちに、ヨイトマケの母を持つひとりの少年がいました。
ヨイトマケとは、土木作業で土壌を打ち固める仕事のこと、またその仕事に従事する労働者をさす言葉だそうです。当時はすべて人力です。頑強な男でも、とても辛く厳しい仕事です。少年は学校でいじめられ蔑まれ、泣いて母をたよって仕事場に向かいます。でも、母もまた仕事場で男たちにいじめられ蔑まれる姿を目撃します。でも母は、少年を認めると、笑顔を作り大丈夫だよと話します。そんな母を見て、少年も大丈夫だよと応えて、学校に戻るのです。少年の母は、いつも少年に、身分が偉いを作るんじゃない。お天道様の下で一所懸命に働く者が一番偉いんだ、と話していたそうです。

美輪明宏さんが歌われる、演じられる『ヨイトマケの唄』には、物語が溢れています。母を思う子の物語。子を思う母の物語。一生懸命生きる者を賛歌する物語です。そして気づかされたのは、人が人を育てるという普遍です。

現在、もっとも近しい家族の中でも、陰湿ないじめや度を過ぎた体罰が明るみに出て、世間を騒がします。それは学校の中、会社の中、社会の中でも起こります。そして私たちは、身を委ねたり、また人を預かることに恐れをなして、責任のない場所に逃れます。それが人間関係を一層希薄にします。それでも私たちは、優秀な人を求め、優秀な人になりたいと乞い願います。そして人の評価を、人情や眼力ではなく、テストやシステムに委ねてしまい、人は冷淡に選別され、無表情な愛を持たないマニュアル人間が生み出されてしまうのです。

私たちが、本当に立ち返らなければならないのは、人が人を育てるという普遍です。ですから親は、師は、あくまでも真摯でなければならないし、子は、生徒は、あくまでも素直でなければならないと思います。そしてテストやシステムではなく、人情と眼力で導かれた者は、次代の親、師となるわきまえがきっと備わると思うのです。

ヨイトマケの唄
作詞作曲 美輪明宏

”とうちゃんのためなら エンっやこら”
”かあちゃんのためなら エンっやこら”
もひとつおまけに エンっやこら

今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の ひるやすみ
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が

子供の頃に 小学校で
ヨイトマケの子供 汚い子供と
いじめぬかれて はやされて
悔し涙に くれながら
泣いて帰った 道すがら
かあちゃんの働く とこを見た
かあちゃんの働く とこを見た

あねさんかむりで 泥にまみれて
日に灼けながら 汗を流して
男にまじって 綱を引き
天にむかって 声をあげて
力の限りに うたってた
かあちゃんの働く とこを見た
かあちゃんの働く とこを見た

慰めてもらおう 抱いてもらおうと
息をはずませ 帰ってはきたが
かあちゃんの姿 見たときに
泣いた涙も 忘れはて
帰って行ったよ 学校へ
勉強するよと 云いながら
勉強するよと 云いながら

あれから何年 たった事だろ
高校も出たし 大学も出た
今じゃ機械の 世の中で
おまけに僕は エンジニア
苦労 苦労で 死んでった
かあちゃん見てくれ この姿
かあちゃん見てくれ この姿

何度か僕も グレかけたけど
やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな 唄よりも
どんなきれいな 声よりも
僕をはげまし 慰めた
かあちゃんの唄こそ 世界一
かあちゃんの唄こそ 世界一

今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
”とうちゃんのためなら エンっやこら”
”こどものためなら エンっやこら”

『人を思う時間』


おはようございます。
今日も良い天気ですね。どこかに行きたい気分です。

昨日は、今年一番の良い天気でした。一日中日光が照り、北風もなく、とても暖かい、陽のあたる一日でした。そんな中、今年最初の長歩きをしました。
海岸線から西を歩き、妻鹿から市川に沿って姫路駅を目指しました(約2時間半のコースです)。
姫路駅前で、始業式で最後の学校生活が始まったさくらと待ち合わせをしました。
待ち合わせの時間は、13時半でした。ですが、丁度姫路バイパスの市川橋側道遊歩道に差し掛かった時、公衆電話から電話が掛かってきました。さくらです。
さくらは、予定した行事がなくなって、11時過ぎに学校を出、電話を掛けてきたのは11時20分でした。そして10円で繋がる時間が終わり、話の途中通話が切れました。
急ぎ足でも後40~50分は掛かります。市街地に入ると交差点には必ず信号機がありまして、前の信号が青であると駈けて渡り、赤であると車の流を読みながら交差点で丁度青に切り替わるように歩きます。足を止めるのが一番しんどいからです。15分ほどしてさくらからまた電話がありました。山電姫路駅の改札前で待っているとの事でした。そしてようやく、さくらの待つ改札前に着きました。
さくらには、昨年秋ようやく携帯電話を買い与えました。でもさくらは、当たり前ですが学校には携帯電話を持っていきません。ですから、細々と公衆電話から電話を掛けてきたのです。最初の電話は途中で切れてしまったために、どこで待っているのか分かりません。とにかく次の電話が掛かってくるのを待ちながら駅を目指しました。そして二度目の電話で目的地を定め、一生懸命歩きました。さくらの顔を見た時、安堵感とともに、愛しさと申し訳なさが沸き上がりました。

携帯電話はとても便利です。いつでも繋がる事ができるからです。ですが、機微が生まれることはありません。

携帯電話への過信で、とても困った状況に陥ったことがありました。昨年夏のことです。
お盆に兄弟で墓参りに行く事にし、神戸から帰ってくる兄と姫路駅で待ち合わせしました。私は先に、妻の実家の墓掃除に出かけ、それから妻とは別に車で姫路駅に向かいました。ですが、姫路駅周辺道路は渋滞の上、大手前通りは工事で通行止めになっていました。兄に電話しようと携帯電話を取り出すと、何故か電源が全く入りません。そしてようやく姫路駅近くに車を止めた時、待ち合わせの時間はとうに過ぎていました。待ち合わせの場所は炎天下です。そして兄は心臓に持病があります。焦りました。焦ると中々見つけることができません。そして何十分が過ぎた後、ようやく兄と会うことができました。普段比較的温厚な兄がカンカンになって怒っています。あらんことにも私が電話を取らなかったと怒っているのです。私も最初は謝りに徹しましたが、理不尽に思える兄の怒りに腹が立ち、その日はもう兄と口をききませんでした。

携帯電話はとても便利です。いつでも連絡が取れるからです。ですが、それに依存していると、壊れたり失った時、思わぬ危機に直面します。

私たち人間は、人と繋がる事で心の安定を得る動物です。ですが、簡単に、そしてだらだらと繋がる事が当たり前になってしまうと、人と出会い、関係を構築して、絆を結ぶという、本来人間が持ち得た力を失ってしまうように思います。
昨年のニューズウィーク誌には何度か、携帯電話やSNSへの依存症(というよりも中毒症)に警報をならす記事がありました。また、今年の読売新聞には『ワカモノタチ』と題する、若者たちの繋がり方への警報をならす連載コラムが始まりました。

人間は、共に過ごした時間の濃さと、そして会えない時間に沸き上がる切なさが、思い合う気持ちを、絆を強くするのだと思います。そういう『人を思う時間』を大切にしたいと思います。






2013年1月6日日曜日

大河ドラマ『八重の桜』初回を観ました。


2013年の大河ドラマ『八重の桜』初回を観ました。
ドラマは、なんとアメリカ、南北戦争のシーンで始まりました。そしてリンカーンが登壇し、史上最も有名な演説の一つ、ゲティスバーグ演説を唱えます。
「人民の人民による人民のための政治」、恥ずかしながら私はこれまでこのフレーズしか知りませんでした。そして初めて知りました、偉大な演説の趣旨をです。
「ここで戦った人々が気高くもここで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、
-それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命をささげた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国の下で自由の新しい誕生を迎えるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれはここで固く決意することである。」
リンカーンは、この戦争の正義はわれわれにあり、我々は必ず勝利しなければならないと宣言しているのです。そしてリンカーンは勝利し、自由の国アメリカの礎となりました。そして、このゲティスバーグの演説が、『八重の桜』の物語にどの様に絡んでくるのか(もしくは暗示となるのか)、とても興味をひかれました。

今回の大河ドラマの主人公、山本八重(後の新島八重)さんについてはほとんど知識がありません。ですが、竜馬が生きた時代の物語ということ(そして、可愛い女優さん綾瀬はるかさんが八重を演じるということ)で、放送が始まるのを楽しみにしていました。
第1回の放送は、八重の少女時代が描かれていましたね。八重はただのおてんばなのではなく、とても利発で、気丈な女の子でした。そしてなにより忠義の篤さの片鱗がうかがえました。
でも第1回の放送で、何より驚いたのが,幕末の主役たちが、幕末の狼煙をあげた佐久間象山の私塾に集まっていたことです。そして、ペリーの二度目の来航と時を同じくして八重の兄覚馬が藩命を受けて象山の門をたたいた時、居合わせたのが勝麟太郎(勝海舟)と吉田寅次郞(吉田松陰)でした。私はこの風景を見て、ぐわっと熱いものがこみあげてきました。そして、覚馬が私塾で友となった川崎尚之助とともに横浜にペリーの軍艦を視察するシーンでは、竜馬がいないか画面の隅々を探してしまいました。恥ずかしい限りです。

この会津が舞台となるドラマの基調となるのが什の掟『ならぬことはならぬ』です。
この言葉には頑迷さとともに、凛とした潔さを覚えます。そして八重が、会津藩の人々がこの先に訪れる悲劇をどの様に受け止めて、そして生き抜いていくのか、ドラマの行き着く先を追っていきたいと思いました。