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映画『オッペンハイマー』を観ました。

”nearly zero(ほぼゼロ)” 先週、映画『オッペンハイマー』を観てきました。期待に違わぬ、クリストファー・ノーランの映画でした。 ノーランは、オッペンハイマーという人物の上昇と転落の物語を通じて、科学者の、もっといえば人間の、探究欲や嫉妬心にはブレーキが利かないという、...

2013年1月9日水曜日

『人を思う時間』


おはようございます。
今日も良い天気ですね。どこかに行きたい気分です。

昨日は、今年一番の良い天気でした。一日中日光が照り、北風もなく、とても暖かい、陽のあたる一日でした。そんな中、今年最初の長歩きをしました。
海岸線から西を歩き、妻鹿から市川に沿って姫路駅を目指しました(約2時間半のコースです)。
姫路駅前で、始業式で最後の学校生活が始まったさくらと待ち合わせをしました。
待ち合わせの時間は、13時半でした。ですが、丁度姫路バイパスの市川橋側道遊歩道に差し掛かった時、公衆電話から電話が掛かってきました。さくらです。
さくらは、予定した行事がなくなって、11時過ぎに学校を出、電話を掛けてきたのは11時20分でした。そして10円で繋がる時間が終わり、話の途中通話が切れました。
急ぎ足でも後40~50分は掛かります。市街地に入ると交差点には必ず信号機がありまして、前の信号が青であると駈けて渡り、赤であると車の流を読みながら交差点で丁度青に切り替わるように歩きます。足を止めるのが一番しんどいからです。15分ほどしてさくらからまた電話がありました。山電姫路駅の改札前で待っているとの事でした。そしてようやく、さくらの待つ改札前に着きました。
さくらには、昨年秋ようやく携帯電話を買い与えました。でもさくらは、当たり前ですが学校には携帯電話を持っていきません。ですから、細々と公衆電話から電話を掛けてきたのです。最初の電話は途中で切れてしまったために、どこで待っているのか分かりません。とにかく次の電話が掛かってくるのを待ちながら駅を目指しました。そして二度目の電話で目的地を定め、一生懸命歩きました。さくらの顔を見た時、安堵感とともに、愛しさと申し訳なさが沸き上がりました。

携帯電話はとても便利です。いつでも繋がる事ができるからです。ですが、機微が生まれることはありません。

携帯電話への過信で、とても困った状況に陥ったことがありました。昨年夏のことです。
お盆に兄弟で墓参りに行く事にし、神戸から帰ってくる兄と姫路駅で待ち合わせしました。私は先に、妻の実家の墓掃除に出かけ、それから妻とは別に車で姫路駅に向かいました。ですが、姫路駅周辺道路は渋滞の上、大手前通りは工事で通行止めになっていました。兄に電話しようと携帯電話を取り出すと、何故か電源が全く入りません。そしてようやく姫路駅近くに車を止めた時、待ち合わせの時間はとうに過ぎていました。待ち合わせの場所は炎天下です。そして兄は心臓に持病があります。焦りました。焦ると中々見つけることができません。そして何十分が過ぎた後、ようやく兄と会うことができました。普段比較的温厚な兄がカンカンになって怒っています。あらんことにも私が電話を取らなかったと怒っているのです。私も最初は謝りに徹しましたが、理不尽に思える兄の怒りに腹が立ち、その日はもう兄と口をききませんでした。

携帯電話はとても便利です。いつでも連絡が取れるからです。ですが、それに依存していると、壊れたり失った時、思わぬ危機に直面します。

私たち人間は、人と繋がる事で心の安定を得る動物です。ですが、簡単に、そしてだらだらと繋がる事が当たり前になってしまうと、人と出会い、関係を構築して、絆を結ぶという、本来人間が持ち得た力を失ってしまうように思います。
昨年のニューズウィーク誌には何度か、携帯電話やSNSへの依存症(というよりも中毒症)に警報をならす記事がありました。また、今年の読売新聞には『ワカモノタチ』と題する、若者たちの繋がり方への警報をならす連載コラムが始まりました。

人間は、共に過ごした時間の濃さと、そして会えない時間に沸き上がる切なさが、思い合う気持ちを、絆を強くするのだと思います。そういう『人を思う時間』を大切にしたいと思います。






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